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2019年5月

Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (9)

8.宗教 Religion
 宗教は、3つの側面から考えなければならない。
 まず、科学技術との関係である。宗教に乏しく科学が有する長所・優れた点は、自らの誤りを率直に認め、違う方向を試すことである。実際に役立つことは、どんな人間も認めて取り入れざるを得ない。これこそが世界が唯一の文明に収束する方向に向かう大きな要因のひとつである。この点にかんしては、宗教は謙虚でなければならない。
 2つめは、政策・政治の問題である。たとえば経済活動に対しては、科学ですら簡単に対応できない。宗教は、これまで聖典の文言にこじつけて論じることがあったが、実際は無力であることを認めねばならない。
 3つめは、アイデンティティの問題である。人間の力の根源は集合して協力することにあり、その実現はフィクション(物語)に依存している。そのフィクションは、科学や経済が必要とするのではない。ここでは科学は無力であり、ナチズムも共産主義も失敗した。21世紀になっても、ユダヤ教、ムスリム、キリスト教などの宗教的物語(myth)は、ひとびとの結集に重要で決定的な役割を果たすだろう。
 さまざまな宗教の聖典は、明らかに人間が創作した文章であり、つくり話であり、多くの「事実」でないものを含むであろう。しかしだからと言って聖典が意味のないものとは断じ得ない。宗教の聖典には、人間の長期間にわたる経験にもとづく歴史的な貴重な叡智がある。これを軽視するのは、愚かなことである。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (8)

7.ナショナリズム Nationalism
 現在ナショナリズムは、3つの大きな課題に試されている。
 まず核の問題である。皮肉にも1945年の核兵器の出現以来、戦争や侵略による国境の変更や戦争による死者数は激減した。しかしながら核がなかった時代にはナショナリズムに従い国家が人間の文明をとことん破壊することなくナショナリスト・ゲームを実行できたが、核が出てからはそうはいかなくなった。核の問題は、いずれの国家にとっても、他の国との真剣な協力なしには自国のみすら護れないということを理解しなければならない。国際的な平和構造を、アメリカに依存し過ぎず、ヨーロッパ以外のたとえば中国、インドなどをも組み込んだ枠組みで構築していく必要がある。ところが、最近ロシアやアメリカは、核開発に再注力している。イギリスのEU離脱は、平和より経済と難民問題を重視する結果である。これらは重大な懸念である。
 2つめは、環境変動の問題である。食糧、台風などの自然災害リスクなど、地球環境の変動は世界的な脅威である。これまでに科学技術の進展が世界的危機を作ってしまったので、もはやナショナリズムによって行動を判断することには限界がある。
 3つめは、科学技術の進歩そのものが持つ脅威である。核もその一例だが、人間の従来の道徳・倫理を超えてしまう新規の科学技術に対しては、ナショナリズムは正しい対応が不分明となる。しかし現実はナショナリズムのために、他国が実現した科学技術は、自国も負けずにやらざるを得ないことになり勝ちだ。
 国家が国民に対して教育・防衛・信用・安全・治安維持など国家としての義務を円滑に遂行するためには、人生のうちに出会い知り合うことがない多数のひとびとが相互に、十分な強度で結束し相互に信用できなければならず、そのためにはひとびとの紐帯を実現する愛国心やナショナリズムが有効で必要である。事実、ソマリア、アフガン、コンゴなどのように、国民の結合の薄弱な国家では、国家としてあるべき種々のサービスが到底ままならない状況となっている。
 解決の方向としては、人間にとって必要なさまざまな物語、すなわち家族・地域・職場から国家にいたるまでのすべての段階への忠誠を排他的にならずに包含的・相互尊重的に認めること、さらに国家の枠を超えて、地球規模でそれを実現することが必要である。21世紀には、国家と愛国心の枠組みでは解決できない多くの問題がある。決して「世界政府」を作ろうというのではない。政治のダイナミクスにおいて、重層的な対応が必要なのだ。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (7)

6.文明 civilization
 ヨーロッパの人々は、民主主義と人権をムスリムに押しつけたことがイスラム暴動を引き起こしたと考えている。さらにその結果、ムスリム移民がISテロリストグループとともにヨーロッパに殺到したために地域の外国人嫌いが高揚して、イギリスのEU離脱を誘発した、と考えている。このような考え方は、相互に相いれない固定的な(変化しない)文明があって、それらが互いに抗争する、という文明観である。しかしISなどイスラム過激派は、実はすぐれて近現代的で、ムハンマド以上にマルクスやフーコーから深く影響を受けていて、ウマイヤ朝やアッバース朝よりも19世紀ヨーロッパのアナキストにはるかに近いのである。ISは神秘的な異端児というより、われわれと同じ近代文化のなかのひとつの誤った分枝のひとつと見るべきである。
 生物学から考えると生物種は、分裂はしても融合することはない。しかし人種は逆に、歴史的に長期的に融合が進行していて人種の数は減少しているのである。戦争は短時間に国・人・文化を接近させる。ヨーロッパとアメリカは、第一次世界大戦によって接近し、戦間期に少し離れ、第二次世界大戦とそのあとの冷戦で密接になった。もし11世紀にオリンピックを開催しようとしたら、国家・統治・支配領域などに国際的な認識の共有が著しく欠けていたがために、開催は到底不可能であったろう。それが今では200近くにもおよぶ世界の国々がひとまず対等に国家・統治・支配領域を相互に認め合い、オリンピックが開催できるまでになっている。
 現在では、アメリカの通貨たる米ドルは、思想・宗教・信条を問わず世界共通に信用され、普及している。ひとびとの生活において、医療知識、診断治療も世界共通の意識になりつつある。国家、民族、文明、そして人間は、長らく変わらない面を持っているが、長い歴史を見ると明確に変化している。文明は、歴史的なアイデンティティであり、永久不変なものではない。むしろ歴史的現実を考えると、さまざまな内部対立はあれども、われわれはいやおうなしに単一の文明に向かっていると理解すべきである。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (6)

5.共同体 Community
 人間の歴史は、過去200年間の短い期間に、親密な共同体を世界中で破壊してきた。人類は地球上に登場して以来ずっと身近な共同体に属して、それに依存して生きてきたので、この共同体の崩壊は人間にとって苦痛や不都合をともなう。現在では、150人以上の親しいひとを持つ人は、ほとんどいなくなっている。
 このような現状において、ザッカーバーグが2017年2月16日に行ったスピーチはタイムリーであった。彼は20億人以上の加入者をもつFacebookを通じて、意義ある共同体を生成し、我々の社会構造を強化し世界をより親密にする、と宣言した。これはAIを社会工学において世界規模で利用する、最初の挑戦であった。
 人間は、宗教や民族を得るはるかに以前から長い間、ずっと相互に身体的接触を介して共同体を形成し維持してきた。身体を介した交流を欠くことはFacebookの大きな欠点である。ネット上では、人間が全人的につきあうことは不可能なのである。歴史によれば人間は、全人的なつきあいに立脚した共同体をもとに、党、宗教、会議を作ってきた。人間には身体がある、という特質を再認識することが必要である。Facebookが革命に成功するためには、オンラインとオフラインの間を補う工夫がどうしても必要である。生体センサーを導入してこれを補おうとする技術が試みられているが、これは個人が外部から身体を操られる危険性をともなう。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (5)

4.平等 equality
 不平等は、財産の増加を必要条件とする。人間は、農業革命以来財産を増やし、長い間不平等すなわち階層差は、混沌を免れ秩序を得る条件であった。近現代になって初めて共産主義と自由主義により、平等が重視されるようになった。とくに、産業革命で大量の労働者と消費者、さらに兵員を必要とするようになり、それを供給する大衆がかつてなく重要視されるようになった。衛生・教育・福祉が、独裁・民主主義の如何を問わず注力されるようになり、平等が、より正しくは不平等の減少が進んだ。
 産業革命以降のグローバリゼーションは、富の拡散が期待され、実際に一部にはインドやエジプトのGDPの上昇などがあった。しかし並行してグローバル化の果実を少数が独占する傾向が加速し、多数が置き去りになった。
 今後の懸念として、①AIがモノの経済的価値を減少させ、大部分の人々の政治的パワーを消滅させる、②生物工学が経済的価値を人間のゲノムなど生物的不平等のなかに読み取ることで、人間が「生物的カースト」に分断され、新たな厳しい不平等社会が招来される、ということがあげられる。この傾向は、低開発国や、あるいは先進国であってもトランプのアメリカのように民の福利を尊重しない国家において顕著となり、それは災害や不況のときに露呈することになろう。グローバリゼーションは世界を、水平的に統合した一方で、民の状態を垂直的に分断することになろう。
 今後は情報・データがモノにとって代わって重要となるので、富と権力の集中を防ぐためには、情報・データの所有権を適正に規制することが重要となる。かつては土地、続いて工場の所有が、そしてこれからはデータの所有が重要となる。しかし現実問題としてデータの規制は容易ではない。商業広告のふりをして、GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)は大衆の意識をデータとして集め、把握している。それは「大衆の心」の貴重なデータとして、大衆の心理操作に利用される。このような状況が野放しになると、これまで信頼されてきた自由主義の信頼が失われることになろう。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (4)

3.自由 Liberty
 自由主義Liberalismは、人間の自由を最高の価値とする物語であり、①政治的には「投票者は最良のものを知っている」ことを前提として民主主義を求め、②経済的には「顧客が常に正しい」ことを前提として自由市場を求め、③個人的には「自分の心の声を聴いてそれに従う」ことを尊重して人権を求める。
 自由主義Liberalismは、レーガンやサッチャーのように、経済的自由のみならず、個々人の自由と責任を求めること、すなわち日本の自称リベラルたちが忌み嫌う「自己責任」を当然の論理的結果から求められることが見逃されてはならない。しかしこの「個人の自由」にもとづく選択をもとめることは、人類史において実はほんの数世紀前からに過ぎず、意外に新しいのである。人類は発生以来何千年も、神の権威を信じ依存してきたのであって、その「神」の権威・意志を「人間」の心に置き換えたのは、最近の数世紀のみである。そして現在進行しているのは、人間の心からAI(ビッグデータとアルゴリズム)にさらに置き換えようとしているのである。最近の研究成果によると、感覚feelingは直感・直観でもなく、インスピレーションでもなく、計算にもとづいていることが判明している。
 さらに人間の個人は、自分の感覚に確信がもてない、自分自身のことがよくわからないのが通常である。一方ITと生物工学は、確実な客観的データをもとに、自分自身をよくわからない人間の感覚を正確に把握してしまうのである。つまり、人間は自分の心をアルゴリズムに依存して、他者にデータとして把握され支配される可能性がある、ということになる。
 人間の重要な決断には倫理ethicsが関わるので、AIには無理と考えられてきた。しかしこれも、最近の研究成果によると、たとえば生死にかかわるような追い込まれた状況下の車の運転手は、哲学的・倫理的に判断するのでなく、専ら情動的emotionalに判断・行動していることが判明している。これは、数万年前の狩猟時代の人間の本性なのである。
 これまでは、人間の行動に必要な情報を集めて処理することにおいて、自由主義がもっとも適合した物語であった。20世紀には、あまりに大量の情報が一カ所に集中することも不可能だったし、もし仮にできても処理できなかった。ところが21世紀には膨大な情報を一カ所に集中し迅速に処理することが可能となる。これは、21世紀には新しい独裁権力が発生する可能性を意味する。そこでは、独裁者がすべての民の考えや感情を知り尽くし、意のままに民の意志や情動を制御できてしまうのである。そのような状況下では、もはや民主主義は生き残れなくなり、ディジタル独裁体制に支配されることになる。すなわち、ルイ16世ともヒットラーとも違う新しい強力な独裁が実現してしまう。政治は、AIが計算して出した知恵をもとに実施することになる。
 AIが人間に対して反乱を起こし、人間を直接襲うという懸念は、SF作品によく出てくる。しかし少なくともあと数十年は、AIが「意識consciousness」を獲得することはないだろう。したがって当面はAIの自発的反抗という問題はない。ただ、AIにできない「人間の意識」について、もっと研究投資をすべきである。AIを有効に駆使するため、人間のほんとうの能力とその可能性をよく知らないまま目先の経済や政治のみにとらわれているのは、人間の愚かさと認識すべきである。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (3)

2.仕事 Job
 最近の科学的研究では、従来「人間の直感」と思われてきたことの大部分が実は「パターン認識」であることが確認されている。ITと生物工学で、車の運転手、銀行家、法律家などはAIが代行可能であり、むしろAIにできて人間にできないこととして、データの結合(複数のAIが共有のデータで同時並行で作動など)や更新(新薬データの継続的即時導入など)がある。1997年にチェスにおいて、人間が開発した膨大な「手のパターン」をインプットしたAIがはじめて人間に勝ったが、今ではAlpha Zeroというはるかに小規模なAIが、わずか4時間で無知からマシンラーニング機能により、人間のチェス世界一に勝つようになっている。
 このような革命が意味するもっとも身近な問題は、人間の失業である。これまで人間は経済活動のエリートが人間の労働を搾取することに反発したが、今後は人間の労働を不要とする機械とその体制に反発せざるを得なくなる。この「搾取から不要へ」のパラダイム変化にいかに対応すべきか。問題は①仕事をいかにまもるか、②どのようにして新しい仕事を創生するか、③それでも仕事が大幅に減ってしまったら何をすべきか、ということになるが、いずれも容易ではない。最終的に③の事態に対して失業者を政府がサポートする方法として、⑴資本主義的なUniversal basic incomeと、⑵共産主義的なUniversal basic serviceとが考えられる。このようなユニバーサル経済セーフティネットは、強力な共同体と意味ある目標(典型的には宗教など)とをうまく組み合わせることができたなら、たとえばイスラエルのユダヤ教原理主義者に対するベーシックインカムの場合のように、一定程度は成功する可能性はある。しかしながら一般的には、人間(サピエンス)は現状に満足するようにはできていない(それだからこそこれだけ発展した)ので、受給者の主観的評価はいつまでも満足せず、失敗する可能性が高い。そのとき大量の失業者の存在が自由主義の破綻を招き、独裁体制が招来される脅威もある。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (2)

1.幻滅 Disillusionment
 『サピエンス』で詳しく議論があったように、人間は「事実」ではなく「物語」(=Story,フィクション)で思考する。19世紀半ばに帝国主義が世界を席巻し、20世紀初めの第一次世界大戦でその大部分が消滅した。そのあと20世紀には①ファシズム、②共産主義、③資本主義(自由主義)の3つの物語が存在した。1910年代にロシア革命で共産主義が立ち上がり、1930年代にヒットラーが登場してファシズムが急速に台頭した。1945年ドイツとイタリアのファシズムは消滅、1950~70年ころまでチェ・ゲバラが出たりして開発途上国を含めて共産主義は勢いがあったが、1989年ソ連の崩壊とともに力を失った。結局、タイムリーに福祉政策をも取り入れるなど、もっともしなやかでダイナミックであった資本主義(自由主義)だけが主要な物語として生き残った。この書でいう自由主義(liberalism)とは「判断と意思決定と行動の自由を尊重する思想」を意味し、日本のメディアや「識者」たちが謳う安っぽいサヨクを意味する「リベラル」とは大きな距離がある。
 しかし第二次世界大戦の後、科学技術の進歩により、ITと生物工学Biotechnologyが革命的に発展してきた。工業化時代にはうまく作動した資本主義にもとづく自由主義的政治経済体制は、ITと生物工学にもとづく時代にはもはや適合しないことが露呈しつつある。その典型的事件が2000年代初頭のサブプライム・ローン危機である。仮想通貨は、情報に課税できない政治体制には手に負えない。中国は内向きには共産主義を、外向きには自由主義を主張する帝国主義的な体制となり、ロシアはロシア民族主義とロシア正教に忠誠を誓うポーズをとりながらメディアを抑圧する独裁体制となっている。20世紀には、民族主義は主導的な重要な物語だったが、将来へのビジョンを欠いて民族主義国家同士の関係が放置されたまま、現在の不安定な国際情勢に至っている。
 ここで大切なことは、核戦争・自由主義・共産主義などの古い物語に固執してパニックに陥ることを戒め、謙虚にいまなにが起こっているのか冷静に理解することである。そのために、現在進行中のITと生物工学(Information Technology, Biotechnology)による「革命」を、身近な「仕事Job」の視角から考える。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (1)

 Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century", Spiegel & Grau,2018/9/4(以下『21レッスン』と略記)を読んだ。
 Yuval Noah Harari, "Sapiens: A Brief History of Humankind”, Harper Publishing,2015(以下『サピエンス』と略記)を読んだときは、翻訳版がすでにあったものの、大学図書館でも市民図書館でも貸し出されていて、さらに長い待ち行列があり、借り出すのに数か月かかるかも知れないとのことだったこともあって英文をkindle版で読んだのだったが、今回の  『21レッスン』はまだ翻訳版が無く、英語原文を読む以外に選択肢はなかった。
 今回の『21レッスン』も、わかり易い英語、短い簡明な文章という点では『サピエンス』と同様だが、内容が歴史より抽象度の高い哲学あるいは文化人類学あるいは心理学に近いものが中心であったためか、使用される語彙が難しいものが多かったように思う。ページ数は『サピエンス』の7割くらいだが、読むためにメモしたノートは2倍弱とずっと長くなった。それだけ私にとっては難しい内容だったということだろう。
 この『21レッスン』で著者が主張していることの主軸は、『サピエンス』でも繰り返し述べていた「人間=サピエンスは、つくり話=フィクションを介して抽象的な概念を表現し、伝達し、共有することで地球を制覇するほどに成功し繁栄した」ということである。そしてそのフィクションの有効性の問題である。『サピエンス』で、西暦1500年からの科学革命がこの問題を持ち出して、いまも「フィクション」の有効性と科学の「事実」との相克が続いている、としている。
 そのような状況のなかで、ごく大雑把に言ってこの書で彼が説くのは下記である。
 人間は「フィクション」を頼りに生きているため、21世紀のAIと生物工学の時代には、外部から意図的なフィクションを刷り込まれることで、人間の心が外から操られる可能性が大幅に増加する。そして人間は自分自身の心が、果たして自分が意図したような心なのか、それとも外部から洗脳された心なのか、なかなか判断しがたい。人間はフィクションを頼りに長らく生きてきたがため、「フィクション」と「真実」の区別をつける能力が薄弱である。科学の成果によると、人間は自分が思うほど理知的・倫理的ではなく、かなり情動的で誤りを犯しやすい。また、人間だけが持っていると思っていた道徳や倫理も、実は社会的行動の能力をもつ多くの他の動物たちがすでに持っていて、人間だけのものでないことも明らかになった。人間の社会は、時代が下るにつれてますます複雑になり、しかもそれが膨大なフィクションから構成されているので、個人が全容を把握し理解することも困難となっている。そのため、「正義」の判定は容易ではない。
 そのような危うい状況下で、しかも人間は地球上でもっとも影響力のおおきい存在なのである。そういう事実と状況を、人間はしっかり自覚したうえで、謙虚に自省的に生きなければならない。いまや個人の知識は全知識のごくごく一部に過ぎず、自分が考えたこと、自分が知っていると思っていることの大部分が、自分個人ではなく自分が属する集団の考えや知識に過ぎないのである。
 宗教も引き続き重要な要素だが、宗教を奉ずる側は世俗主義をも尊重し、科学をはじめとする「事実」や理論に対しては敬意をもって受け入れなければならない。世俗主義の側も、宗教の知恵を尊重し宗教者の信仰を尊重しなければならない。文化についても同様で、自分の文化を誇り尊重はしても、他の文化をできるだけ認める努力が必要である。それは、思考としてだけでなく、行動として示すことに意味がある。そしていまのところ自分自身を知る唯一の方法は、瞑想である。
 著者の思考は、時間的にも空間的にも広大な範囲におよび、視角もじつに多面的である。しかし、思考の核は「フィクションに立つ人間」という簡明かつ確固たるもので、細かくはわかりにくい部分はあってもすっきりしている。
 もちろん以上に書いたことは、この書のごくごく一部で、しかも私にとって印象が強かった部分のみである。以下に、この書についての私のダイジェストを記す。

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真下信一『思想の現代的条件』岩波新書

共有の地盤を持ちがたい哲学と戦争に対する思考と
 10年以上も前の勤務生活の最後のころ、これからは神田古書街に出かける機会も減るだろうと、適当に買い集めておいた本のひとつで、10年ほども積ンドク状態のままだったものである。
 1972年の発刊で、当時の時代環境はまだマルクス主義が幅を利かせていて、著者も唯物論の哲学者であり、そのもとに「一哲学者の体験と省察」との副題がついている。
 ちいさな本だが、内容的には「思想者とファシズム」、「思想の現代的状況」、「現代思想とヒューマニズム」の3部構成となっている。
 「思想の現代的状況」では、「哲学的思惟においては、われわれは今日いかなる共有の地盤をももたない」との、1950年ハイデルベルクでのヤスパースの発言を緒言として、ネオ・トミズム、実存主義、ネオ・ポジティヴィズム、分析哲学、弁証法的唯物論の相互間の批判の応酬の実情と、その非生産性を述べている。
 それに続く「現代思想とヒューマニズム」では、1963年のメキシコでの国際哲学大会での議論をいとぐちにして、哲学という学問分野が他の人文科学や社会科学と違って、共有できる土台のうえでの建設的な議論を実行することが難しいこと、そして現代はその傾向が一層強まっていること、を述べる。哲学の思惟・思考には、一義的にそれを検証できるような、だれにも異議のないような真偽判定の共通の場がなく、そのため相互に論争しあっても建設的な前進が期待しにくいという。著者は、日本哲学会での討論についても、悲観的な見通しを述べている。「コミュニケーションものものの不可能、まともな論争ものものの不可能」とまでいうのである。そのうえで著者は、哲学が時代から影響を受け、またそれだけに時代に影響を与えうるものであることを理解すること、独断的な一方的説得の構えも真実を共に求める学問的精神にそむくのであり、行動においても生活においても、共同の人間的課題に共に対処する心構えと姿勢が必要だ、と主張する。著者が力点を置いて主張する唯物論の有効性はさておき、この考えそのものは妥当であろう。
 問題は、本の半分を占める冒頭の長い「思想者とファシズム」である。著者は、さきの大戦で官憲から厳しい追跡・追求を受けた上に留置されたこと、自分の思想を貫くために大変苦労したこと、を体験談として述べる。そして、戦争を遂行したファシストに対して抵抗しなかった人々を批難するのである。とくに、思想として戦争に反対を言っておきながら、実際に戦争がはじまると、やむを得ず戦争の遂行に参加した学者を厳しく責める。しかし私は、この著者の主張に対して、いくつか疑問と反論がある。先ず著者は戦争に反対なのか、「ファシズム」に反対なのか。さきの戦争がファシズムゆえに反対とするなら、あの戦争が「ファシズム」だけで行われたとする理解は正しいのだろうか。私は、さきの戦争はいわゆる日本的ファシズムだけの要因ではない、他の国際情勢の要因や政治的要因がより大きいと考える。戦争そのもの、戦争全般に反対とするなら、日清戦争や日露戦争についても議論に取り上げるべきだろう。著者は、思考する対象を自分の外において考えるのではなく、自分の「課題」して考えなければならない、という。これは思想家として正しい姿勢である。しかしそれならば、戦争を自らの課題とする限り、その戦争の総体を対象に取り上げて考え、論じなければならない。戦争の「ファシズム」的要素だけで議論しても、当然かみあわない反論が多々残るだろう。「課題」の要素として戦争の政治的側面も考察対象にとりいれなければ、説得性のある議論にはならない。戦争はもちろん望ましいものではありえないが、単純な歴史事件ではない。著者が興味を持つ戦争の部分要素のみを一方的に取りあげて他人を批判しても、批判された側には響かないことも多々あろう。著者は「独占資本主義」を熱心に糾弾したがっているが、現代の字義とおりの「独占資本主義」は、著者が支持する中華人民共和国のものであるのは、歴史の皮肉である。他には、「南京事件」や「百人斬り競争」など、事実関係が疑われているものを軽々に本田勝一や朝日新聞から引用したりするのも、本の内容の信頼性を大きく損ねる要素である。
 ただ著者は、ともかくも自分の身をもって抵抗した点において、思想・言動に誠意があるとは言えよう。昨今のヤスモノのメディアでは、問題を自分の「課題」にする気など毛頭なく、「ジャーナリストは政治の問題点を指摘することが仕事であり、解決案を考える立場ではない」と、無責任な思いつきを公言して、メディアに登場して放言を繰り返す自称ジャーナリスト、評論家たちに比較すれば、ずいぶんまともに見えるのかも知れない。

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2019年度の高槻ジャズストリート (2)

高槻ジャズストリート 2日目
 京都にでかけての帰途、阪急高槻市駅の高架下の会場で、2つのセッションだけ聴いた。Photo_48
 まずはヴァイオリニスト牧山純子の演奏である。キーボードとドラムが適宜参加しての演奏であった。この人の演奏は、昨年の高槻ジャズストリートでも聴いたが、そのときはビッグバンドとの共演で、野外会場で風が強く、衣装や髪のみでなく、楽譜が飛び去るハプニングもあったが、なかなか充実した演奏であったことを思い出す。
 平原綾香の「ジュピター」、牧山純子自身のヒット作「ミストラル」、数年来彼女が力を入れているスロベニア共和国との音楽交流から生まれた「スロベニア組曲」から「風」、そして昨年6月の高槻直下型地震をスロバキア滞在中に知り、その直後に作曲したという「心の光」を演奏した。思い入れを非常に強く感じさせる情熱的なパフォーマンスで、ヴァイオリンの特性を生かして熱烈に歌い上げるような、とても魅力的な演奏であった。牧山純子は、クラシックをベースにして、ジャズには珍しいヴァイオリンを用いてジャズとクラシックを融合して、新しい音楽を創ることをめざしているらしい。この人はルックスにも恵まれ、品性も良さそうで、音楽も容貌が優れるとやはり有利だと率直に感じる。最後は「サニーサイドアップ」という、ヴァイオリンなのに手拍子が似合うように意図して作曲した、というオリジナル曲で快活に締めくくった。
Super  続くセッションは、風間三姉妹SUPER!という名のグループで、よくはわからないが、かつて劇画コミックとテレビで一世を風靡した「スケバン刑事」の風間三姉妹からとった命名のようだ。ヴォ―カル宮藤晃妃、テナーサックス西村有香里、キーボード大野綾子である。これにドラム三夜陽一郎、ベース西川サトシが加わっている。関西弁でよくしゃべる宮藤のヴォ―カルが軸だが、歌いだすと音域も声量も豊かで、エネルギッシュで迫力たっぷりの演奏を聴かせてくれる。女性には重すぎるのではと心配させるテナーサックスを抱えて、迫力ある演奏をする西村有香里も素晴らしい。私もよく知っているようなポピュラーな曲目も交えて、重量感溢れる充実したセッションであった。
 今年は、他の事情のため聴いたセッションは少なかったが、全体としてアタリに恵まれて、私の個人的には、少数精鋭の印象で終えることができて幸いであった。

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2019年度の高槻ジャズストリート (1)

  高槻ジャズストリート 1日目
 今年は21回目となる高槻ジャズストリートである。時間的制約から、ごく一部のみ楽しむこととした。Photo_47
 初日は、4つのセッションを聴いた。まずJR高槻駅西側のレンタル音楽スタジオWoooで加納星子クインテットの演奏を聴いた。いつもは加納星子のサキソフォンを軸にカルテットで活動しているそうだが、この日はピアノ、コントラバス、ドラム、パーカッションが加わってクインテットでの演奏であった。加納星子のサックスの演奏は、メリハリがありキリっと引き締まって、なかなか魅力がある。そしてきびきびしてエネルギッシュな高尾飛のピアノが良かった。演奏された演目は、いずれも私にははじめてのものであったが、心地よいリズムに乗せられて、身体を循環する血液が気持ちよく流れていくような感触で、きわめて気持ちの良いひとときであった。またこの会場は、音楽専門のレンタルスペースということで、決して広くはないが、音響機器の整備や調整が行き届いて、演奏者もやり易かったようだ。こういう場所が高槻にもあることを、私ははじめて知った。
Westtree   2つめは、JR高槻駅東側のジャズバーMarinnaである。ここでは、音楽専門学校で同期であったという2人、ギターの木曽義明とピアノの西口英生によるジャズである。2人がそれぞれ自作のナンバーを持ち、いずれも2人で共演した。ギターは主にアクセントを与え、ピアノは主に優しく全体を包み込むような演奏で、たった2人だが十分楽しめる美しい演奏であった。10年以上も一緒に活動しているというが、気心の知れた仲の良さそうな2人で、終始なごやかで気持ちの良い時間であった。Nhorhm
 3番目は、少し歩いて市役所まで行き、生涯学習センターのホールのセッションを聴こうとしたが、すでに満員ということで、代替案として人数制限がない野外会場である高槻市立桃園小学校グランドに移動した。ここでは西山瞳NHORHMという名のトリオを聴いた。このグループは、主にヘビーメタルのナンバーをジャズとして演奏するのが特徴らしい。西山瞳のピアノはもちろん、織原良次のベースも橋本学のドラムも完成度の高いプロらしい演奏で、安心感がある。野外ステージだが音量は十分大きく、運動場をぎっしり埋め尽くす大勢の聴衆も聴き入っていた。
91trio1  この日の最後は、高槻駅への帰り道、城北通り商店街にあるJKカフェである。これまで高槻ジャズストリートで、何度かこの会場に入ろうとして、いつも満員で果たせなかった。この日もなかば期待できずに覗いてみると、一つだけ椅子が残っていた。ここで聴いたのは、91Trio+1というおもしろい名のポップス・グループの演奏である。このグループのメンバーは、1991年生まれの器楽3人と、1997年生まれのボーカル1人の構成で、互いによく知り合ってはいるが、この4人の構成で演奏するのは初めてで、高槻ジャズストリートに対応した特別のものであるという。若いグループで、元気でエネルギーがあり、活気が漲るのが特長と言える。私もよく知っているナンバーがいくつか含まれていて、それなりに楽しめた。

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2019年の京都花見

Photo_41   今年は3月下旬から暖かくなって、開花は例年より早かった。ところが開花の半ばで急に寒の戻りがあって、桜花があたかもフリーズドライのように凍結されて、満開までにかなり時間がかかった。結果として桜を愛でる期間は2週間ほどにおよび、ゆっくり桜を楽しめる春であったとも言える。
平野神社と京都の桜
   京都に平野神社を訪れた。阪急電車京都線の大宮駅で降りたち、京福電鉄に乗り換えて帷子ノ辻駅からさらに北野線に乗り換える。終着の北野白梅町駅までの間に、有名な桜のトンネルをくぐることになる。しかし、桜のシーズンの最中には、車中の桜のトンネル鑑賞に好都合な場所は、早くから大勢の乗客に占領されてしまって、事情を知らずにのんびり座席にすわった私たちは、大勢の人々の頭ばかりを鑑賞することになった。
Photo_42  北野白梅町からは、10分あまり歩いて、ようやく平野神社に着いた。
 平野神社は、由緒によると創建は平安京のはじめに遡る。もとは奈良の平城京に、桓武天皇生母の高野新笠の祖神、つまり桓武天皇外戚神として祀られた神祠があった。それが平安京遷都にともない大内裏近くに移し祀られたのがこの御社だという。平安時代には例祭として「平野祭」が執り行われ、皇太子自ら奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から、氏神として崇敬された。
 現在の本殿は4殿2棟からなる「平野造」と称される独特の形式の造りで、国の重要文化財に指定されている。現在は、江戸時代前期寛永年間(1624-1644)に西洞院時慶によって再建された建物が残っている。1_3
 境内に着くと、さっそく多数の満開の桜に囲まれた。この神社は、ソメイヨシノ以外の品種もバランスよく植樹されていて、1か月弱ほどの長い期間にわたって桜花が楽しめるのが特長だという。でも今回は、ソメイヨシノの満開時に訪れたので、普通の花見と同様に、専ら満開のソメイヨシノを楽しむことになった。
 境内のなかに、花見専用に特別の区域が仕切られ、料金を支払って入場するようになっている場所がある。せっかく来たので、迷わず入場したが、たしかに立派な桜花があるのだが、この場所以外も負けず劣らず立派な桜花が並んでいる、というのが率直な感想である。
Photo_46   桜木は樹木の中では、比較的寿命が短いという。とくに日本の桜の代表であるソメイヨシノは、寿命が40年くらいで、だいたい30~50年ごとに植え替えるのだそうだ。こうして見つめている桜も、私が若いころに植樹されたものだということになる。思えば、こうして眼前に愛でている桜は、私と同じ時代を生きてきた桜木なのである。私も喜寿を超えて、死期を考えるようになった。自分と同じ時代をともに生きた桜木と思うと、親近感を感じて愛しさも一入である。おたがいこれまで生きてこられたんだね、と語りかけたい気がするのである。
 この日は、平野神社のあと隣接する北野天満宮を訪れ、そこには桜はなかったが、帰り道で阪急電車河原町駅近くの、高瀬川沿いを少し散策したところ、満開を少し過ぎて散り際の美しい桜花をゆっくり見ることができた。
 こうして今年も桜を存分に楽しむことができたことを、天に感謝したい気持ちである。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (10)

第二次世界大戦後の世界
 1945年以後の世界の変化は、とりわけ著しい。
 1500年以後の500年間、世界は速い速度でグローバル化が進行し、ひとつの世界へと収斂しつつある。
⑴ 平和の時代
 ごくマクロにみると、核の脅威、さまざまな小戦争、テロの頻発などの危機を孕みながらも実績数として、第二次世界大戦後の世界は、戦争による死者は多くはない。統計上の死者数は、自殺者が最大で、事故・犯罪がそれに続き、戦争による死者はもっとも少ないのである。人類史上で、国家間の暴力は、1945年以降は最小になったといえる。国家権力が確立することで、個人レベル・部族(グループ)レベルの抗争による死が減少することも、実績として確認されている。
⑵ 帝国の撤退
 1945年以降の顕著な傾向のひとつは、世界的な帝国の撤退である。これまでながらく世界を支配してきた帝国は、その領域の統治・管理に要するコストに比べて、支配することによるメリットが期待できなくなり、相次いで多くの場合平和的に撤退した。これにより、帝国間の戦争は大幅に減少した。
 帝国の撤退の最大かつ典型的なのは、イギリスである。イギリスは1945年時点で世界全体の四分の一を占める人類史上最大版図の帝国を形成していた。しかしその30年後には、ヨーロッパ北部のひとつの島のみを支配する、領地面積的には小さな国家となった。この間、ごく平和的・友好的にかつての領地から、その秩序を維持しつつ去ったのであった。フランスは1962年にアルジェリアから、ソヴィエト連邦は1989年にかつての連邦諸国から、それぞれ多少の民族紛争を発生させつつも大幅に撤退を実行した。
⑶ 幸福を探求する新しい思想
 経済成長で豊かになった人々は「幸福とはなにか」を真剣に考えるようになった。
 生物学者は、幸福の本質は「幸福の感覚」であり、それはセラトニンなどの人体内の化学物質の分泌量で科学的に決まる、と説いた。
 心理学を取り入れた経済学者ダニエル・カールマンは、生物学的説明に反論し「人生・生活に意味がある、との自覚が幸福をもたらす」と説き、幸福の本質は「本人の妄想による」とした。
 仏教は、ずっと以前の発生時より、「人間の幸福感は(生物学者の説と同じく)快感」とするが、それは決して長続きせず、それを追求すると無益な緊張とストレスを生じて幸福を失うので、そのような快楽を求めないこと自体が心の安定を得る、とする。
 人道主義は、個々人のこころの内面からの欲求にしたがうことを重視する。
 これら「幸福」の問題は、これまで歴史で正面から取り上げられることがなかった。著者ハラリは、これを「歴史の理解の最大の欠落点」とする。
(4)「神」の領域への挑戦
 科学技術の著しい発展は、生物や人間のDNA操作、さらにはまったく新規な生命の生成にまでおよび、従来「神の領域」とされていた生物や人間の「改造」までが実現可能性の視野に入ってきている。これらをどのように理解して、どのように判断するかは、今後の重い課題である。[完]

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (9)

産業革命による社会的変革
 産業革命がはじまって以来の200年間で、世界はそれまでになく急激に変化した。
 産業革命は、人間の生産性を著しく向上したが、そのためにエネルギーと原料に莫大な需要をもたらした。豊富で安価なエネルギーと原料が常に強く求められた。エネルギーと原料に対する需要は常に増大しているが、実は並行してエネルギーと原料も、科学の発展により多様化することで総供給量は増加し続けている。
⑴ 農業の変化
 産業革命は、農業をも大きく変化させた。農耕には殺虫剤、耕耘・刈取りの機械化が投入されるようになり、農産物の保管には冷凍器・冷蔵庫が導入され、農産物の輸送には各種の交通手段が利用されるようになった。現代ではアメリカの人口のわずか2%が農業に従事するが、その農業生産はアメリカ全土を満たすのみならず世界各国への大量の輸出を可能にしている。食糧の絶対供給量が需要を上まわったのは最近のことである。しかし並行して地球上の生物種を以前にも増して猛烈な勢いで滅亡させている。ただ、今やそれは農業以外の分野を含めて「自然破壊」という以上に「自然変革change nature」というべきものである。
⑵ 社会秩序の変革
 産業革命以後の200年は、人類史上もっとも速いラディカルな変化が、社会秩序social orderに対してももたらされた。
・消費主義
産業革命は、資本主義と結合して豊かな社会をもたらした。その結果、消費主義というべき倫理構造ができた。消費主義では、富裕者は投資が、貧者は消費が道徳にかなうものとなった。
・時間・時刻の普及
産業革命以前は、農耕にかかわる年間の気候の変化、日の出・日没など、ごく大雑把な時刻・時間の把握で十分であったが、産業革命はひとびとに詳細な時刻・時間という新たな基準を押し付けた。
・社会構造の変革
産業革命以前は、帝国─地域共同体─家族 という社会構成が堅持され、行政運用において有効に機能していた。生産の全体レベルが小さいため大きな税収が期待できず、帝国は行政官吏を多数養うことができないため、また交通・通信の手段が未熟なため、徴税・治安・福祉など行政のかなりの範囲を、共同体や家族に依存していた。それが産業革命以後の200年間に、国が多数の官吏・教師・警察官、その他のソーシャルワーカーを扶養することができるようになり、広範囲の行政を受け持つようになった。その結果、従来の家族や共同体の役割・存在価値は縮小する傾向となった。
・個人の独立
国家と市場は、ひとびとに「個人の独立individual」を吹き込むようになった。人々の食糧・住居・教育・健康・福祉に対して、年金・保険・教育・治安維持などを保障することで、個人の独立を可能にした。しかし、人々は太古以来永らく家族と共同体のなかに生きることに慣れてきたので、わずか200年で完全に個人が独立するには、抵抗やストレスが生じた。家族も、共同体でさえ、未だ消滅してはいない。
・国民の生成
大部分の「国民」は、産業革命以後に生成された。中東の諸国は、まさにその典型である。「国民」は、想像上の統合概念を共有することで成り立つ。実は資本主義のなかで、消費者も同じ嗜好を共有する「想像上の共同体」を作っている(例: マドンナ・ファン)。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (8)

株式会社・金融・自由市場・信用
 無知の克服と成長をもとめて大胆に征服を進めるためには、莫大な投資が必要であり、また成功の保障はなく、投資は大きなリスクをともなった。このリスクの問題に対処する工夫として、株式会社が登場した。16世紀末に、オランダはアジアに進出する船団の費用を得るために合資会社を設立し、続いてオランダ東インド会社を株式会社として設立した。この新しい金融システムを活用して、オランダは世界的に拡大する帝国を実現した。世界に発展するのに先んじたスペインが、アメリカのミシシッピー開発株式会をずさんな経営で失敗している隙間を縫って、オランダは「信用」の獲得と維持を最重視することで飛躍した。①出資金は期限を厳守して全額返済する、②経済的係争に対して、中立・公正な裁判所を設立する、ことを実行して、アムステルダムはヨーロッパで最重要の港であるのみならず、世界の金融センターとなり、世界中から巨額の資金を集めた。新しい金融大国の出現であった。これを追って、イギリスはロンドン株式市場で世界中から金を集めることができた。こうして、国家の経済にとっては、その国家が有する自然資源の大きさよりも、国家としての信用レベル(country credit rating)の方がはるかに重要となった。国家と資本、政治と資本の関係は緊密化した。
 資本家の立場からは、資本が政治に影響を与えることは許容できても、政治が資本に制約を加えることは嫌った。資本主義は経済行為の自由と自由市場を求めた。しかし、市場そのものには詐欺行為や不正から市場の信用を護る機能は持たない。市場を監視してその健全性を維持する役割は、政府に期待せざるを得ない。実際、自由市場の初期には、1719年のミシシッピー・バブル事件(ごく最近では、2007年のサブプライム・ローン事件も)など、適切な法的規制など政府の監視を欠いた状態では、市場に問題が発生して経済が混乱した。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (7)

資本主義と成長
 科学と帝国の結合の背景には「資本主義」というもうひとつの大きな要因がある。これは帝国を建設し科学を推進するきわめて重要な原動力であった。そこでは「成長growth」がキーワードとなった。1500年ころの全世界総生産は$250B、一人当たり$550であった。それがわずか500年後の現代では全世界総生産$60T、一人当たり$8,800となり、全世界総生産が240倍、一人当たり生産で16倍に大きく成長している。
 資本主義の進歩は、貨幣moneyの意味を著しく拡大した。近代以前は、貨幣とは実際に存在するモノに対してその価値を決め、その価値を代替するだけのものであった。それが近代的資本主義では現存しないもの、すなわち「未来への信用」を代替し保障の裏付けとなる役割を果たすようになったのである。「未来への信用」は、未来が現在より良くなる、成長するという前提がなければ成り立たない。「未来への信用」とは「パイの拡大分」なのであり、「成長」そのものなのである。それ以前の社会では、パイの大きさは決まっていて、それをどう分けるか・奪い合うのかの思想にとどまっていたので、長らく経済は停滞していた。ところが科学革命は「進歩」の概念をもたらし、「無知の自覚」から「将来の探求」が発生し、さらに資本主義と結合して事態が変化したのである。1500年ころから。将来への信用がクレジットを生み、それが経済の成長を生じ、その成長が信用をさらに増強する、という拡大的スパイラルが発生した。自分の利益を求める行為が次の生産への投資を生み、その結果生産がさらに増えてパイが拡大するという、まさにアダム・スミスが指摘したとおりのことが起こった。思想的には、アダム・スミスは富裕と道徳の矛盾を否定したことが画期的なのである。ここで、利益はさらにつぎの生産のために投資されなければならない、ということが重要である。経済成長こそが中産階級の増加をもたらし、中間階層の増加こそが民主主義の基盤である、という考えが発想され、実際に実現された。この「成長」を基礎とする社会の富裕化・自由拡大の思想は、まさに新しい宗教に匹敵した。これを持たなかったがために、アジアの帝国はヨーロッパの帝国に敗北したのであった。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (6)

産業革命の発生と科学・帝国の協調
 18世紀後半になると、産業革命がヨーロッパで起こった。産業革命の本質は、「エネルギーの変換」、実用的には物質のエネルギーへの変換である。それまで火は木材を燃やしてのみ可能であった。唯一火薬は、700年ころに中国でかなり早く発明されていたが、それを武力に応用するのは600年ほど後であり、しかも産業への応用にはつながらなかった。ヨーロッパで、石炭による火力で蒸気機関を発明して人工的な動力を実現し、それを産業に応用したのが、産業革命のはじまりであった。やがて内燃機関が発明され、生産のみならず運輸、さらに軍事力へと応用を拡大し、科学技術がまさに直接的な実力・暴力に大きく寄与するに至った。
 科学技術の開発には多額の投資を必要とするが、このように産業のみならず帝国の軍事力に貢献するようになると、帝国が国家として科学技術を積極的に支援するようになり、科学を基礎とする軍事力が帝国と緊密に結合するようになった。これはヨーロッパ特有の現象で、これが主要な要因となってヨーロッパの帝国がアジアの帝国をつぎつぎに征服する結果となった。「近代的帝国主義」の出現である。
 1775年ころは、アジアの中国とインドの2か国だけで世界経済の80%を占めていた。それが1750~1850年の100年間にアジアが急速にヨーロッパ帝国に侵略され、1950年には、世界経済の半分以上がヨーロッパとアメリカによって占められるようになった。
 ヨーロッパの近代的帝国主義が、科学的合理性に密着していたことのひとつの現象は、新しい領地について、あらゆることを調べつくすことに現れている。イギリスは、インドのおびただしい人口にわたって、人種構成、多数の言語、宗教、風俗、習慣、生活の内容と水準、さらにインド人が知らなかった歴史まで詳細に調査した。古代の世界的遺跡となったモヘンジョダロは、イギリス人が発見したのである。
 ヨーロッパの帝国は、科学に莫大な投資をすることが文化として定着し、また科学あるいは「科学の名のもとに」帝国の支配をイデオロギー的に正当化する手段を担わせた。その典型が人種差別racismである。科学は、帝国に対して①「技術の手段・道具gadget」を与えるのみならず、②支配のイデオロギー的正当化の手段を与えたのであった。
 一方で帝国は、科学を世界中に普及させることに莫大な貢献をした。ヨーロッパの帝国に征服されたひとびとは、帝国のお陰で科学の利益に浴したことも事実である。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (5)

科学革命
 AD1500年ころから、ヨーロッパで科学革命が始まった。科学革命の本質は、①人間の無知を認めて既得知識の不足を埋めるため、従来の生活圏を超えて新しい知識を求め続けること、②知識の理論構築のみに満足せず、新しい知識をより大きな力に還元すること、の2点にまとめることができる。
 科学革命以前のひとびとの考え方は、人間が知るべき知識は、宗教の経典がその典型であるように、人間が知るべきこと、必要なことはすでに分かっている、というものであった。ひとびとが新しい知識を得ようと行動すると、厳しく咎められることさえあった。歴史観も、過去に「黄金の時代」があり、今後は衰退・滅亡に向かう、という悲観的な見通しが多かった。歴史の「進歩」という概念は存在しなかったのである。しかし、人々にとって必要なこと、重要な基準は、誰にとっても安定で不変であるとする共通認識は、社会の安定には大きく貢献していた。
 科学革命は、ひとびとの心理や行動の方向を大きく変換した。人間にはもっと知るべき未知の事実・真理・世界があり、それをつぎつぎに明らかにして、より大きな力を獲得しなければならない、という考え方が起こり、定着したのである。
 科学革命がポルトガル、スペインなどをはじめとするヨーロッパの帝国を駆り立て、新世界への探検をもたらして、その結果いわゆる大航海時代、その結果としてのアメリカ大陸など新世界の発見など、大きな変革をもたらした。これらの事業においては、当時最先端の軍事力だけでなく、科学の力への信頼のもと、技術・医療・植物学・動物学・人類学・地理学・天文学・気象学など、あらゆる「科学的知識」が動員され、また実際に大いに「役に立った」。アメリカのみならず、南太平洋の新天地として、オーストラリア、ニュージーランド、タスマニア、多くの諸島などがヨーロッパ人によって発見された。
 その一方で、科学革命はそれまで普遍かつ不変と認識されていた宗教に基づく基準が、かならずしも絶対的なものでなく一時的なもので今後変わるものかもしれない、という認識を招き、社会の不安定性を招来しかねない危機に瀕した。しかしひとびとは結局、科学による新しい知識を、非科学的な基準・方法に依存して安定を維持する、という矛盾をはらむ解決法で対処せざるを得なかった。これは、現在にいたるまで続いている。たとえばナチズムは、「優越人種」という非科学的な存在を最終的・絶対的なものと強弁し、人道主義(Liberal Humanism)は、人間の個人の内面からの欲求という非科学的なものを至上と主張した。
 ヨーロッパでは、貨幣経済の進展にともなう資本主義が成長し、科学革命の成果とあわせて、ヨーロッパ帝国の強みを支えた。大航海時代のころは、まだ世界全体で科学技術の格差はさほど大きくなく、ヨーロッパもアジアもそれぞれの帝国が独自に展開していたが、ヨーロッパでは資本主義と科学が帝国に積極的に評価され取り入れられたことが、18世紀後半の産業革命以後、帝国の科学技術が軍事力と結びついて、圧倒的な強みを確立する素地となった。
 アジアでは、アジアの領域のなかですでに成長していた明、オスマントルコ、ムガール、ペルシア、サファビー朝イランなどの帝国が、それぞれ版図を拡張しようとした。しかし、アジアの帝国は、既存の版図の延長・近隣への征服は試みたが、ヨーロッパの帝国のように遠く長い航海を経てまでの征服事業は考えなかった。
 アジアでは、帝国が資本主義と科学を積極的に取り入れることが遅れたのである。そのもっとも大きな要因こそが「無知の自覚」であり、その不足を補おうとして遠く世界の果てまで征服を進めようとする意欲であった。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (4)

歴史を推進する3つの仕組み
 紀元前1,000年から紀元元年頃までの1,000年間に、ホモサピエンスの社会に3つの大きな画期的な概念・世界観(Potentially Universal Order)が発生した。①貨幣とそれを用いた商業、それを担う商人、②帝国とそれを推進する征服者、③宗教とそれを推進する宗教者、であり、いずれも相互にかかわりがなかった多数のひとびとが結合・統合するための強力な紐帯として機能した。
⑴ 貨幣
 取引は、当初は物々交換で行われた。これは取引当時者がともに双方の物品の相対価値を取引のたびに見積もり交渉することが必要であり、物をいちいち運搬することも必要である。交換価値を公平に査定し説得することが容易でない場合もある。蓄える場所と建物もかさ張り、不便である。これに対して貨幣は、商品の価値(価格)を一定の尺度で決めてそのまま誰にでも提示でき、持ち運びが容易で、貯蓄にも簡便である。貨幣の登場で、商業は飛躍的に拡大した。
 しかし貨幣の有効性は、貨幣そのものだけでなく、貨幣の後ろに存在する人間同士あるいは取引当事者の双方を監視・管理する権力の信用が担保する。当事者が、信用という抽象的な価値を共有することが必要であり、「認知革命」で登場した「抽象的なものの表現・伝達・共有」を基盤とするのである。
⑵ 帝国
 帝国は、唯一の征服者のもとに人民を服属させることが、人民にとってより幸福になる、という共通認識(myth)があってはじめて機能する。紀元前18世紀バビロニアのハンムラビ法典も、18世紀のアメリカ独立宣言も、実証可能性という意味で通常の「真理」ではない。作り話、言い伝え、神話に属するもので、同時に統合に必須な共通認識(myth)である。
 帝国の実態としての特徴は、①多様な民族とその文化を包含すること、②征服者の意志としては拡大に限度がなく、境界がないこと、の2点があげられる。帝国のもとで、ここに服属する人間は文化・思想・物・技術のすべてにわたって、征服者の意図の方向に統合する方向の力を受けた。
 ここでは帝国という形態と概念は、一般に認識されているよりはるかに広いものであり、また帝国の規模は、巨大な帝国からごく小さな帝国までさまざまであり、紀元前200年頃までには、世界中のほとんどの人々が、いずれかの帝国に属していたのである。帝国に属することとなったそれぞれの部族の人々は、元来もっていた文化などの属性・個性が、帝国によりそれぞれに強く影響を受けた。後に帝国から独立した部族・民族が、ずっと固有で純正・独自の文化を維持したというケースはない。それぞれの被支配者にとって、抑圧された・収奪されたという意識が残るとしても、マクロにみれば帝国から得たものも多くある。たとえばインド亜大陸は、ムガール帝国、続いて大英帝国の支配を経て、固有の言語・文化・宗教に加えてイスラム教、英語、さらには民主主義が浸透した。帝国支配・被支配について、良いとか悪いとか一義的に評価することはできない、とする。
⑶ 宗教
 宗教は、人類史の早い時期から存在し、貨幣・帝国にならんでひとびとの統合の強力な紐帯であった。社会が拡大・成長するとその大きさに反比例して社会の結合は弱くなりがちだが、これを結集する強力な力が宗教から与えられた。宗教により、社会は安定を得たのである。
 宗教は、①超人的な存在からの命令が与えられ、②それが普遍的で伝搬を要請される基準となって機能する。おおむね紀元前1,000年ころから発生し、人々の統合に決定的な役割を果たしてきたようである。
 農業革命以前の狩猟民にも、認知革命以来の抽象概念として「神」は存在した。しかしひとびと自身と、身のまわりの動植物とは同じ水準におかれ、神に対して人を含む動植物が対置するという概念構造であった。これが「アミニズム」の特徴である。農業革命は、家畜と種まきを経て、人と動植物との間に明確な一線を引いた。「神」は「人」とのみ向き合うようになった。これが多神教を含む宗教とアミニズムとの決定的な相違点である。
 一神教に比べると、多神教は神の数だけでなく、もっと多様な側面がある。たとえば仏教は「神」を前提とはしない。人間たるゴウタマ・シッダールタが悟りを開いて得たその教えを信徒は信仰する。あわせて仏教は、敢えて「神」の存在を積極的に否定はしない。
 マルクス主義は、宗教ではなくイデオロギーだとされているが、本質的な性格は宗教と同じである。神を置かずに、マルクスの教えを奉じるのは、仏教が神を置かずゴウタマの教えを奉じるのとなんら変わらない。
 リベラル・ヒューマニズムが、個人の尊厳を重視するのに対して、社会主義ヒューマニズムは人間集団の尊厳を重視し、人間間の平等を重視する。これらはともに「神の前の平等」を説く一神教の教義を淵源としている。社会主義ヒューマニズムに類似しながら、ナチズムは「進化する人間」を全面に打ち立てて、「優等人種」を主張することが著しい特徴であり相違点である。

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