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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (20)

20.意味 Meaning
 人間が「意味」を問うことについて考察する。
 往古より、人は「私は何者」「人生でなにをやるべき」「人生の意味はなに」との問いをしてきた。つまり①自分がやるべきことの明示と、②個人の領域を超えたより広い範囲での自分の位置づけ、すなわち自分自身のアイデンティティの確認、を求めているのである。
 そもそも人間にとって世の中のすべての概念は、長い歴史を通じて蓄積されたフィクションでできている。そのフィクションを誰もが幼いころ、未熟なころから自然に教え込まれ、知性がそれを疑うよりも合理化しようとする。さらにわれわれ個々のアイデンティティが、そのフィクションの上に形成されてゆく。そして私たちが生活する社会そのものもそれらのフィクションを集めて組み立てられているのである。こうして形成された社会という構造物は、その基礎はフィクションだから本来きわめて脆弱なのだが、その上に載っているものが国の法律、社会規範、経済機構などなどきわめて重いがために、基礎の脆弱さにかかわらず屋根の重みで維持されているような事情になっている。
 このような社会を形成している物語(フィクション)を疑うには、とてつもなく強靭な神経が必要である。もしその物語が誤りだとすると、我々が知る世界は直ちに崩壊してしまうからである。
 こうして我々はすべてフィクション(物語)に囲まれ守られて生きているので、我々が「意味」を問うと、答えも当然フィクション(物語)でできている。しかし我々はそれを信じるのである。
 フィクションを人間に信じ込ませるのに大きく貢献しているものに儀式・儀礼がある。儀式や儀礼は、抽象を具象に、フィクションをリアルに変換する役割を果たしている。
 人々は、物語を信じているが、その物語は多くの場合唯一とは限らない。自分の嗜好でいくつかの物語をリザーブして、適宜信ずるものを切り替えて問題に対処する、という柔軟さをもっている。いわばアイデンティティのポートフォリオを組んでいるのだ。この反例としてたとえばファシズムは、複数でなく唯一の、国家の利益になるという価値基準で唯一の物語を選択し、真実か否かは全く問わないのである。このような極端な単純化は、ひとびとにとって大きな魅力となり得て、ある種の条件下で猛烈な人気となり、夥しいひとびとから支持されたりする。ファシズムは醜い、間違っていると非難するだけではファシズムの再発を防止できない所以である。
 ファシズムでない普通の人々は、複数のフィクションを必要に応じて信じてきたが、心底ではどのフィクションも真実とは確信していなかった。その不確実さは、宗教をゆるがした。それでもかつては、証拠なしに信じることが良いこと、疑うことは罪で忠誠こそが大切と考えようとした。それをひっくり返したのが、近代の科学と文化であった。忠誠は心理的奴隷に過ぎず、疑うことこそが自由への糸口と思えてきた。17世紀のシェークスピアによる「ハムレット」のto be or not to beが近代へのパラダイムシフトのヒーローであった。
 しかし近代は過去から引き継いだ数多の物語(フィクション)を拒否はしなかった。その結果、スーパーマーケットの棚に載せられたさまざまな商品のように、さまざまな物語が、ひとびとの求める物語の選択肢として提供されることになった。
 ファシストは、その選択肢の自由度の大きさに耐えられず、唯一の物語を絶対的なものとして取ったのであった。多くの人は、自分の嗜好によって物語を吟味し受け入れた。こうした事情から、我々が意味を問うたときに得た解答は、すべてフィクションであった。
 聖書、コーラン、ヴェーダ、などすべては人間が書いたものだ。フィクションと人間とは互いに依存しているので、人間の心がフィクションに力を与えている。
 人間には、欲求することを自分の意志で実行する自由がある。しかし自分の心は受け入れた物語で構成されているので、なにを欲求するかの自由は人間にはない。欲求は物語によっていて、したがって文化や宗教、さらには生物学的個性によって決められる。すなわち「自我」とはつまるところフィクションであり、こみ入ったわれわれの心の機能が、常に更新したり書き直したりしている結果である。
 人間は、フィクションをつくり、伝え、共有し、信じることで地球を制覇するほどに成功し発展した。それがために人間は、フィクションと真実とを判別することを苦手とする。この人間にとって難しい判断を、できるだけ正しく行うためのキーポイントは、つまり対象とする物語が真実か否かを判定するキーポイントは、その物語の主人公が苦しむか、苦しむことができるか、という問いかけである。1831年のロシア侵攻において、ミツキェヴィッチは「ポーランドは死なず」と鼓舞した。しかし「ポーランド」とは人の心に抽象概念として存在する国家であり、したがってそれが苦しむことはない。一方でロシア兵に蹂躙されるポーランド女性は生身で苦しまねばならない。ポーランド女性の苦痛はリアルであり、真実である。一般に政治家が「犠牲、永遠、純粋、救済」などの言葉を発するときは、その対象がリアルな実態のことなのか否か、じゅうぶん注意すべきである。

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