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2019年8月

Yuval N Harari,”Homo Deus"(20)

意味のある思想は現実的
 人間中心主義が「人間が神をつくった」と説くのは、現実的だから重く、普及した。すべての真に重要な革命は、現実的practicalなのである。同様に、Dataistが「生物はアルゴリズムだ」と説くのも、日々の現実的結果から導かれるので重いのだ。下記がテーゼとなる。
 『私たちの行動を変革するときのみ、思想ideaは世界を変革する』
 機械的アルゴリズムの端緒は人間がつくるが、セルフ・ラーニングでアルゴリズムは成長して、やがてInternet-of-All-Thingsとなり、世界を覆う。
 Dataistは、実際的なガイドラインを常に提示する。たとえば、自分の心が読みにくいときは、美術館に行ったり日記を書いたりするよりも、DNAを解読するのがよい、と。

人間とData Religion
 どうしても残る素朴な疑問がある。データフローは意識を生成できるのか、人生の最重要事は決断だけか、データに還元できない何か大切なもの(決断とデータ処理以外の大切なもの)は何か、など。
 しかし意識なしのアルゴリズムが、意識ある知性を凌駕してしまったら、意識ある知性が、意識なしのより優れた知性にとって代わることのできる(あるいは意識ある知性が、意識なしの知性によってとって代わることのできない)余地が果たしてあるといえるのだろうか。
 これまでの歴史で、宗教は事実レベルでの間違いを持ちながらも世界を指導してきた。したがってたとえData Religionが間違いを含み、また生物がアルゴリズムだけではないとしても、Data Religionが世界を征服することは避けられないかも知れないのである。これまでの歴史を見ても、科学が結合した(科学と協力しあった)パラダイムは、難攻不落のドグマに容易に上昇する。
 もしData Religion(Dataism)が世界を征服したら、人間はどうなるのだろうか。高度な能力を有するアルゴリズムは、人間の希求する不老不死・幸福・神性の獲得の実現に近づくのを後押ししてくれるので、少なくとも最初しばらくは人間にとってありがたい面が現れるだろう。ところが、人間からアルゴリズムに基本的な「権能authority」が移行したとたんに、人間中心主義humanismのあらゆるプロジェクトは無意味・無関係になってしまう。すなわち、認知革命・農業革命を経て人間が他の動物たちにしてきたように、サピエンスが扱われる可能性がある。Data Religionが人間にとって脅威であることは免れない。
 これまでこの本で述べてきたことはあくまで可能性であり、予言ではない。技術の進歩は決定論的ではなく確率論的であり、我々は未来を断定的に予測することはできない。できるだけ大きくかつ長期の視角で考えるなら、以下の3つのプロセスが想定される。
⑴科学は、「生物はアルゴリズム」「生命はデータ処理」というドグマに収斂していく。
⑵知性Intelligenceは意識Consciousnessから乖離していく。
⑶意識を欠いた、しかし高度な知性をもつアルゴリズムが、我々のことを我々自身以上にますますよく知るようになるだろう。
 この3つのプロセスは、以下の3つのキー・クエスチョンを発するであろう。
⑴生物はアルゴリズムにすぎないのか。生命はデータ処理にすぎないのか。
⑵知性と意識とは、どちらがより価値が大きいのか。
⑶意識を欠いた知性をもつアルゴリズムが、我々が我々自身を知るよりもっとよく知るようになったとき、人間の社会や政治はどうなるのだろうか。[完]

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(19)

情報は自由を欲す Information wants to be free
 Dataismの最高の価値は「情報のフロー」である。コスミックなデータ処理システムは、神のような存在と位置づけられる。
 ⇒どこにでも存在し、すべてをコントロールし、人間もそのなかに組み入れられる。
 このコンセプトは実は古くから、ヒンドゥー教のアートマンやキリスト教の聖人などにみられる。
 人間より処理能力の高いデータ処理システムを実現したら、それは人間より賢くなる。
 ⇒ホモサピエンスは、もはや時代遅れのアルゴリズムに過ぎなくなる。
 Dataistは、データフローの最大化を目指し、さらに人間もモノもあらゆるものすべてをシステムに結合することを目指す  ⇒Internet-of-All-Thingsを実現したい。
 ⇒「情報の自由」こそが至上の要求であり、データフローを止めることが最大の罪となる。
 18世紀には、フランス革命とともに人間中心主義(humanist)革命が起こった。そこでは①人間の自由freedom、②人間の(権利の)平等liberty、③人間の同志愛fraternity(日本での通念である「博愛」ではない)の3つの基本価値を掲げた。人間は歴史上で、めったに新しい価値を主張しないが、これは例外的に斬新なものであった。
 それ以来の画期的な価値の提案がDataistによって「情報の自由Freedom of Information」として出されたのだ。ここで注意すべきは、情報の自由Freedom of Informationは情報に対して与えられるもので、人間に対して与えられる表現の自由Freedom of Expressionと混同してはならないということだ。
 情報の自由にかんして、2013年1月11日天才的ハッカーAaron Swartzの自殺事件は衝撃的であった。彼は「情報は自由を求めている。アイデアは特定の人に独占されてはならず、共有すべきだ。」と主張して、厳しい情報管理下にあった機密情報をハッキングして公開し、それを罪に問われた。Dataistの思想を、時代に先駆けて実践した例であった。
 Dataistは、見えざる手によるデータフローの効用を信じる。そして「人間は自分より大きい存在のなかに組み込まれることを欲する」とする。これは宗教と同じである。Humanismは「経験は自分の内にある」とするが、Dataistは「経験は他人とシェアされなければ無価値で意味がない」「記録しアップロードし、シェアしてこそ意味がある」とする。人間の経験は、詩やブログに書いてシェアするからこそ、人間はオオカミとは異なる経験の水準を達成するのだとする。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(18)

Data Religionから見た歴史とは
 人間を、ひとつのプロセッサとみなしてその数量と相互間のやり取りから歴史を考える。
人間の進化を4つの方法でとらえることができる。
①プロセッサの数量の拡大: 村・都市・国家の人口拡大
②プロセッサの種類の拡大: 百姓・宗教家・医師など職種の拡大
③プロセッサ相互間の結合: 政治経済・社会の進歩によるハード的な結合の拡大
④プロセッサ間のデータ流通の自由度の拡大: データ交流のソフト的な結合の拡大
 このアナロジーでサピエンスの歴史を概観してみる。
①認知革命(70,000年前)
フィクションを介して多数のプロセッサを1つのプロセッサに結合することが可能になった。
②農業革命(12,000年前)
食糧の増加による人口増加でプロセッサ総数の飛躍的拡大が起こった。人口密度も高くなり、データの交換も増加した。しかし都市や王国は未だなく、小集団で生活していた。
③文字と貨幣の発明(5,000年前)
文字と記録の発明は、大人口の統合と中央集権化を可能にして、都市・王国が誕生した。
貨幣の発明も加わって都市・王国内の商業的・政治的交流が発展した。
3,000年前(BC1000年)ころ、普遍的宗教が出現し、帝国ができるようになった。
→全世界を包含するネットワークをはじめて準備した。
④AD1500ころ、科学革命とともに大航海時代がはじまり、世界を細い糸ながら結合した。
それにより、情報が一層大切になった。
 民主主義と自由市場は、その仕組み自体が優れていたから勝ち残ったのではなく、大規模なデータを扱える情報処理システムを達成したから勝ったのである。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(17)

未来の宗教その2 Data Religion
  Humanismは「自分のfeelingを聞け(自分のfeelingに従え)」という。感覚feelingは太古からの人間の経験・知恵の蓄積の塊だという考えが背景にある。これに対して、Dataismは「アルゴリズムを聞け(アルゴリズムに従え)」という。宇宙はデータフローで形成されていて、すべての存在・現象・価値は、それらデータフローがいかにデータ処理(=生命)に貢献するかで決まる、というのである。
 Dataismは、生化学のアルゴリズムとしての生物・生命を説く「ダーウィンの進化論」と、計算機の原理を説く「アラン・チューリングのチューリング・マシン」の2つの合流を淵源とする。したがってDataismは、コンピューター科学と生物学の子である。Dataismは、生物と機械の境界を破壊し、電子的アルゴリズムがついに生物的アルゴリズムを凌ぐことを想定している。
 政治システムをコンピューター処理システムで類型化すると、独裁制は中央集中型処理システム、民主主義は分散処理システムに比定できる。20世紀には分散処理システムが勝った。技術の進歩速度より、政治の方が迅速に動くことができたのであった。しかし未来には、必要なデータが莫大となって、データ処理能力の不足から、分散処理システム(=民主主義制)が時代遅れになる可能性はあるだろう。
 20世紀の独裁者は、レーニン、ヒットラー、毛沢東などが、いずれもともかくヴィジョンを提示することができた。現代の政治家は、技術進歩の速さと大きすぎるデータに圧倒されて、ごく小さなスケールに縮こまっているのかも知れない。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(16)

未来の宗教その1 Techno-humanism
 これから発生する新しい宗教は、アフガンの洞窟や、中東のムスリム学校からでなく、高度な研究機関からアルゴリズムと遺伝子を引っ提げて出現することになるだろう。
その有力候補は2つある。
①Techno-humanism: 人間は最上の被創造物であり、これからホモデウスになる。
②Data Religion : 人間はやるべきことを終え、つぎの存在へバトンタッチする。
 まずTechno-humanismを考える。
 7万年前にサピエンスは、認知革命でアフリカ大陸のサルから、地球を支配する生物となった。しかしこの間、DNAの構造は驚くほどわずかしか変わってはいない。これをほんの少し改良すれば、第二の認知革命を起こせるであろう。それが目指すのはホモデウスであり、今度は宇宙を支配する。このような考えがTechno-humanismである。
 同じようなことをアドルフ・ヒットラーも考えたが、Techno-humanismははるかに平和的に、遺伝子操作、ナノテクノロジー、brain-computer interfaceなどを駆使してその実現をめざすのである。具体的には、human mindのアップグレードの実現をめざす。それには、ひとつの有力手段として、20世紀に精神病の治療に貢献した心理学を利用する。
 人間が、自らの内なる声を聴こうとすると、さまざまなノイズに悩まされるのが通常(正常)である。アメリカ軍の軍事研究による兵士の戦闘能力改善ヘルメットは、この悩める頭脳を、電気刺激の工夫で戦闘に役立たない内なる「声」を殺して、戦闘に好都合な「声」のみを残すことで、怖れを知らない勇猛な兵士にする。これはすでに部分的には完成している。
 しかしこの人間の頭脳の働きを一部殺して目的に適合する働きのみを抽出するというアプローチは、人間を幸福にする保証がなく、人間性を破壊して危険でさえある。このような方法は、人間の内なる声の権能を犯し喪失させるもので、人間中心主義に著しく反する。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(15)

人間中心主義が指向する人間の存在を科学技術が否定する
 21世紀には、科学技術の進歩によって、下記の3つの脅威が人間中心主義を時代遅れにしてしまうかも知れない。
⑴経済・軍事活動において、人間が役立たずになり、経済や軍事のシステムが人間に価値を置かなくなる。現代は、仕事が専門家し特化することでAIにとってはよりやりやすくなるので、この傾向はますます進展するだろう。
⑵人間の集合にはまだ価値が認められたとしても、個々人にはもはや価値が認められなくなるかも知れない。
⑶一部のユニークな個人はまだ価値が認められるかも知れないが、それは新しいエリート層の創出にはなっても、一般大衆のひとびとの状況が良くなるわけではない。
 ⑴の懸念は、技術の進歩が哲学的水準において人間中心主義を無意味に貶めるというわけではないが、実際問題として、経済にも軍事にも政治にも芸術にも人間が役立たなくなったとき、人間中心主義にもとづく民主主義、自由市場、その他の人間中心主義的な仕組みが果たして現在と同じように生き残ることができるだろうか、という懼れである。
 ⑵の懸念は、人間中心主義が前提としている「個人individual」の存在の危機にかんする。
 個人主義individualismの条件は下記である。
①私はin-dividual、すなわち不可分で唯一の実体である。
②私の本源的な自己は、完全に自由である。
③したがって、私は私自身のことを他の誰よりもよく理解する。唯一私のみが私の内面の最深に在る自由な自己に触れることができる。
 これらこそが選挙の投票者はもっとも正しい、市場で顧客がもっとも正しい、美を感じる眼の所有者は自己である、など人間中心主義の中心的な価値を裏付ける必要条件である。しかし、生命科学life scienceはこれらすべてを否定しようとしている。
①生物はアルゴリズムであり、人間は分割可能なそれぞれ相異なる複数のアルゴリズムの集合である。
②人間を構成するアルゴリズムは、自由ではない。それは遺伝子と環境で形成され、なんらかの規則にしたがって決定論的に、あるいはランダムに決断する。しかしそれは、自由ではない。
③私が私自身のことを知る以上に、外部のアルゴリズムが私自身のことをより詳しく知るという事態が起こり得る。これは一見突拍子もないように聞こえるが、すでに医療の分野では、外部から高度なセンサーによる測定を通じて、はるかに早く確実に私自身に自覚症状のない病気が発見されるようなことが起こっている。これはすでに50年ほど前に、ミシェル・フーコーが指摘した人間の危機のひとつである。病気にかんして、すでに主導権は個人(当事者)から乖離しつつあるのだ。
 20世紀までは、人間中心主義は幸福に存在し得た。21世紀になって、外部アルゴリズムが人間を内部までin-dividualを分解して把握するようになり、知り判断する権能が人間からアルゴリズムにシフトしようとしているのである。
 たとえば、Googleが行った大量のメール内の語句分析から、インフルエンザ流行発生のタイミングが、医師を中心とする専門家グループよりも10日以上早く検出された。現在Googleは、Perfect Human Projectと名付けられたビッグデータを、人間の健康増進のために構築中だという。
 こうして人間の個人の内面が、AIによって本人以前に、本人以上に知られるようになってしまうと「投票者がいちばんよく知っていて、正しい」ことを前提条件として成り立つ民主政治の選挙制は成り立たなくなってしまう。
 自分自身より自分のことをよく知るアルゴリズを、人間はあくまでアシスタントとして利用し、最終判断は人間がする、という方法を人間が目指すのは当然である。しかしアルゴリズムの助言が常により正しいことになると、受け手たる人間の側は、ついに常にアルゴリズムに頼り、依存し、ついには実質的に追従するまま、つまり支配されることになる。
 ⑶の懸念は、新しい厳しい格差の発生である。
多くの人間の能力がアルゴリズムの能力に敗退して尊重されなくなり、個人としては価値を認められなくなり、ただの「ある生物種のひとつ」に成り下がるのかも知れない。しかしそれでも依然一部の人間が、不可欠のサピエンスとして残る場合、どのような人間が残り、どのような状況になるのだろうか。
 20世紀の医学は、人間の病気を治すことが目的で発展してきた。21世紀以後の医学は、人間の健康を、さらには能力をアップグレードすることを目的とした研究開発が行われることになろう。そのような研究開発には巨額の投資が必要だろうから、結局豊かな強者がますます強くなって、人間の階層格差はさらに著しく拡大する。
 リベラリズム=自由主義的人間中心主義は、平等より自由を重んずるから、不平等とは共存できるが、それでも人間を本来的には平等の価値と権能を有するものと前提しているので、著しく拡大した階層格差はリベラル・イデオロギーの基盤を壊すことになるだろう。
 また、研究開発によって拡大する格差の存在は、経済的格差が生物学的格差を生成することを意味する。20世紀は産業革命が成熟するなか、大量の健康な経済活動従事者を必要としたから、医学の目的と人間中心主義とが良い協力関係であり得た。21世紀には、経済・政治・軍事・芸術などさまざまな活動領域で人間の能力への期待が減少し、少数の超人super humanの生成が注力されることになるかもしれない。このような傾向を、人間中心主義つまりリベラリズムは、どう考えるのだろうか。不老不死・幸福・神化を求める21世紀に、全人類を救うことに、実際的にいかほどのインセンティブがあるのだろうか。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(14)

科学の3つの結論
 下記の3つが科学的成果として明らかになっている。
⑴ 生物は、アルゴリズムである。動物は人間を含めてすべて生物的アルゴリズムorganic algorithmが何百万年の自然淘汰を経て形成された集合体である。
⑵ アルゴリズムによる計算結果は、計算機(計算する主体)を構成する物質あるいは材料によって変わることはない。つまり血と肉をもつ人間の頭脳の計算結果も、半導体の中を流れる電気の動きが導く計算結果も、ともに同じ価値だというのである。
⑶ したがって非生物のアルゴリズムが、生物のアルゴリズムのできることを達成できない、あるいはさらに上回ることを達成できないとは言えない。
 すでに顔の認証、自動車の自動運転などは、非生物のアルゴリズム=コンピューター制御が人間の能力を超えて実現できることが実証された。芸術の分野でも、1990年代にデヴィッド・コープはEMI: Experiment in Music Intelligenceというコンピューターによる自動作曲アルゴリズムを開発し、コンピューターがバッハ風あるいはヴィヴァルディ風の作曲ができて、多くの人間の聴衆が自動作曲だと気づかないどころか感動することを実証した。
 政治(政策のシミュレーション)、経済(株式投資)、軍事(戦闘)などでは、すでに多くの研究と実験があり、業務によってはコンピューター・アルゴリズムが人間の思考・行動をはるかに凌ぐケースが実証され、株式投資など一部は実用化されている。
 ここで「意識」の問題が浮かび上がる。AIは、顔の認証、自動車の自動運転、さらにチェスなどのゲーム、そして音楽の作曲など、人間を上まわるほどの達成度を示すことから、AIが「知性」としては人間に匹敵、あるいは上回ることがすでに実証されている。しかしAIに「意識」がないことは自明である。しかるにAIが人間を上まわる結果を出すことができるということは、「意識」がなくとも役に立つ、できることは多々あるということである。逆に、「意識」がなければできないことで重要なものとして、どんなことがあるのか、ということになる。政治、経済、芸術などは、少なくとも大きな比率で意識なしにできる範囲は大きそうだ。
 「知性」が「意識」から乖離したこと、あるいは乖離が明らかになったことから、世界にとって必要な能力として、「知性intelligence」は必須mandatoryだが、「意識consciousness」はオプションなのだろうか。どうやら、医師、薬剤師、株式投資、軍隊、芸術などなど、大部分の人間にとっての重要な活動から、「意識」を削除しても、十分多くの部分は支障なさそうである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(13)

科学技術が人間中心主義の必要条件を否定する
 これまでは科学技術とうまく協力してきた人間中心主義だが、いま発展しようとしている科学技術、具体的にはAIと生物工学は、人間中心主義にとって困難な新しい問題を突き付けている。自由主義的人間中心主義liberal humanismのよって立つ基盤、前提条件を根底から揺るがしているのである。
 自由主義的人間中心主義liberal humanismは、人間が「自由な意志」を持つことを前提としている。「人間の自由な意志」の概念は、ルソー、ロック、ジェファーソンなども思想の前提条件としており、humanismも当然のように前提とするのだが、これが最新の科学で否定されたのである。人間の心の動きや行動は、ほかの自然界の現象と同じく、あくまで電気化学的連鎖反応であって「意志」など存在せず「自由」は無い、ということが実験的事実として証明された。「自由」は、ただ人間が考えた空想の中にのみ存在する虚構fictionの概念なのである。
 さらにもうひとつ、「自己individual」も科学的に否定されるという。自己individualも人間中心主義にとって重要な要素である。これがないと「自分の内なる声」が存在しないことになるので、人間中心主義は成り立たない。
 最近の科学的実験にもとづく研究成果によると、人間の実際の「決断」は、内明の対立・葛藤する複数の「声」の格闘の結果として成り立つ。平たく言えば「悩み」があり、その悩みの葛藤の末に心が決まるのである。人間中心主義にもとづいて自分の心の扉を開いてみると、そこには「唯一不可分の自己が静かに持つ唯一の感覚」などは存在せず、「複数の騒がしい感覚(意見)がひしめきあって競合し格闘している」のを発見したというのである。
 人間中心主義は、人間の個々人はそれぞれが独自に自己として価値があり、その各自が持つ自由な意志には決断する権能がある、ということを措定するから、経済における自由市場も、政治における選挙も信頼できた。市場に参加する顧客は常に正しく、投票する人間は常に正しい判断をする、と信じるからである。
 しかし最新の科学の成果によれば、人間中心主義が基盤としてきた「自由な意志」と「唯一不可分の自己individual」が実はともに存在しない、したがって人間中心主義は実は成り立たない、というのである。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(12)

人間中心主義と科学と宗教
 2016年の時点で、個人主義・人権・民主主義・自由市場のパッケージたる人間中心主義=自由主義的人間中心主義liberal humanismにとって代われるような基本的枠組みは、未だ存在していない。この人間中心主義と、科学技術および宗教との関係が問題である。
 科学技術は、その進歩の過程において深刻な選択を迫られたとき、宗教の助けを受けてきた。科学技術は、19世紀には蒸気機関・ラジオ・内燃機関など人間の力を増強する成果をもたらした。しかし20世紀には、ファシスト・共産主義・独裁政治、そして民主制をももたらした。ただ、科学が発明した技術シーズを何に向けて開発していくべきかについては、科学技術自身が知らないため、強力な宗教的信念がなかったら蒸気機関などは、どこへ向かっていくべきか決断できなかったであろう。
 その反面で、科学技術はしばしば宗教的ヴィジョンの範囲・限界に大きく影響を与えた。農業革命はそれ以前の狩猟人の神を葬り、新しい神をもたらした。新しい技術は、古い神を葬り新しい神を誕生させたのである。19世紀にはピウス9世の誤謬表、洪秀全の太平天国の乱、スーダンのムハンマド・アフマドによるマフディーの乱など、強烈な衝撃を与える宗教が発生したが、いずれもマルクス主義の全世界への影響の大きさとは比べるべくもない。それは、マルクス主義が単なる懐古趣味でなく、新しい科学技術が現実の社会にどのように関わっているのかを正しく理解していたからである。しかしマルクス主義の末裔の社会主義は、あとから出てきた新しい科学技術の進歩・発展・変化について行けなかった。現代では、人間中心主義、より正確には自由主義的人間中心主義liberal humanismが、もっともうまく最新の科学技術とつきあっている。たとえば、イスラム過激派は、現代を正しく把握するどころか、未だに中世段階に固執し産業革命時代にすら追いつけていないので、彼らに明るい未来は見込めない。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(11)

進化論的人間中心主義evolutionary humanism(ナチズムNazism)
 人間中心主義humanismは、さまざまに多様で変化しやすい人間の心に依存するため、常に葛藤を生じる。それでも20世紀はじめまでは自由主義的人間中心主義liberal humanismは、自信をもって個々人が自由でさえあればうまく行くと主張し、現実にかつてない平和と繁栄を享受できた時代があった。しかし第一次世界大戦がはじまった1914年に、そのなかの左右両派から激しい攻撃を受けることになった。
⑵進化論的人間中心主義evolutionary humanism
 まず右派から派生した進化論的人間中心主義evolutionary humanismを説く。
 進化論的人間中心主義は、自由が重要で、かつ自由の中で生存競争に勝ち残る人間こそが尊重されるべきだとする。生存競争を否定したり抑制したりすることは、人類の弱体化を招き破滅を招来すると考える。「飢える自由」すら認めるべきで、個人の孤立化もやむを得ず、不平等の固定化さえも受け入れる。それは人種主義とファシズムに行きつく。こうして発生し勢力を得たナチズムは、1914~1939年の間、ヨーロッパをかき回した。

社会主義的人間中心主義socialist humanism, communist humanism
 進化論的人間中心主義とほとんど同じタイミングで、社会主義的人間中心主義socialist humanismが台頭した。
⑶社会主義的人間中心主義socialist humanism
 マルクスは、自由主義的人間中心主義liberal humanismが人種差別と資本主義の利益優先主義にともなう弊害を免れないと指摘した。それまでの政治論が政治そのものの課題や問題を取り上げたのに対して、マルクスは経済の構造と動作機構を重視し、経済こそがすべてを決定するとした。そして経済に密接な科学技術に対しても真っ向から考察を加えた。

 20世紀の主要部分を占める1914年から1989年の間、これら3つの人間中心主義の間に血生臭い戦いが繰り広げられた。
 まず1939年に、米欧のリベラル連合がナチズムに勝利した。一方で1949年、東欧の全体がソ連の衛星国になってしまった。しかも中国で中国共産党が内戦に勝利し、ソ連・中国の共産主義陣営と、狂信的な反共国となったアメリカを盟主とする自由主義国陣営との間に冷戦がはじまり、1989年まで続いた。最終的には、自由主義国陣営の核戦力が勝利した。共産主義陣営は、古い宗教とはちがって科学技術を重視したに関わらず、軍事のみならず経済においても、自由主義陣営に勝てなかった。科学技術の進展について行けないことが原因だった。自由主義的人間中心主義liberal humanismが3つのうち唯一勝ち残ったのである。
 この長い冷戦は、間違いであり浪費も損失も大きかったが、この間に人間は抗生物質、核エネルギー、コンピューター、そしてフェニズム、反植民地主義、フリーセックスなどの新しい成果を得た。人間中心主義も自惚れを脱して謙虚になり、敗者たるナチズムや共産主義から多くのアイデアと仕組みを学んだ。それでも、政治の選挙では投票者が常に正しいことを自明の前提とし、経済の市場では顧客がもっとも賢明であることを前提としていて、コアの部分は驚くほど変わっていない。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(10)

人間中心主義のセクトあるいはその鬼子
 人間中心主義は、発生した当初から、それまで成功してきたいくつかの宗教からそれぞれの価値観を引き継ぎ、あるいは影響を残して普及したので、もともと分派があった。いずれも「人間の経験」を意味・権能の最高の源泉とするが、その意味づけを軸に相互に対立し、3つのセクトを生じた。
⑴自由主義的人間中心主義 liberal humanism, orthodox humanism
 「正統的人間中心主義orthodox humanism」とも呼ばれる。個々人はそれぞれ異なる考え方・見方をするのであり、最大限の個人の自由を認めるべきとする。人間中心主義のもっとも初期から存在した。
 [人間中心主義と民族主義]
 人間中心主義は、個人個人に区々で刻々変動する感覚で構成される内面を基本にするので、本来的に不安定さを内包している。
 人間中心主義を基盤とする「民主主義」は、宗教・物語などの共通の紐帯で結ばれ、価値や意味を共有する共属意識をもつ集団のなかでの不一致を、多数決で決めるときには正常に機能する。しかしその前提がないと機能不全に陥る。たとえばこれからドイツが大量の移民を受け入れてドイツ国内有権者の多数派を占めることになったとしたら、その多数決の議決結果は現時点のドイツ人(ドイツ民族主義に共属する)にとっては受け入れがたいものとなる可能性はきわめて高い。
 共属意識の代表的なものが近代的民族主義であり、民主主義は人間中心主義とともに民族主義と親和性が高い。人間中心主義のもとで、それまで別々であったアイデンティティ、共属意識、価値観などが緩やかに融合し、新しい民族主義が生成されることは、歴史的にも実現してきたことであり、望ましいことであるが、長時間の努力とコストが必要であってなかなか容易ではない。
 最近は、民族主義nationalismは反リベラルanti-liberalismであるかのように認識されている傾向があるが、少なくとも19世紀末までは民族主義とリベラルliberal humanismとは親密であった。たとえばイタリアの統一独立革命運動家Giuseppe Mazziniは、さまざまな国民の特異性を尊重したうえで、人々の多様な経験は共有に向かうことができるcommunalとし、「寛容な民族主義」を主張した。これは現在のEU憲章にも取り入れられている。
 しかし19~20世紀に人間中心主義が認められ普及が進むにつれて、1914年すなわち第一次世界大戦を契機に、2つの強力な分派ができた。進化派evolutionary humanismと社会主義派socialist humanismである。

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人間中心主義革命 The Humanist Revolution
 近代以後の、神の法も意味もない世界にとっての解毒剤は、人間中心主義humanismから与えられる。人間中心主義は、人間の能力を崇拝し、人間こそがキリスト教やイスラム教の神の役割を果たすと考える。かつては偉大な宇宙像great cosmic planが生命や人間に意味を与えてきたが、人間中心主義は役割を逆に置き、人間が宇宙に意味を与えるとする。ここでは、人間は自らの内面的体験から自分の生の意味を引き出し、それのみならず全宇宙の意味までを引き出さなければならない。意味のない世界に、人間が意味を与えるのである。
 中世では、意味の源泉は人間の外=神にある、とされたが、人間中心主義では意味の源泉は人間の内=感覚feelingにある、とする。権威(権能)が天空から地上に、神から人間に降りたのである。ニーチェが「神は死んだ」といった意味は、このことを指している。

人間中心主義の覇権
 現代では、神を信ずることも人間の自由な意志による。神の有無、信仰そのものでさえ人間の内面の感覚feelingに依っている。
 人間中心主義以前の時代には、結婚や親と子の関係ができる根拠も、神の意志であった。不倫は神に対する反逆で、死に値する罪であった。人間中心主義では、人間相互の感情にもとづく愛情で結婚し、愛情が変われば離婚や不倫もあり得る。いまでは、宗教がひとびとに対して訴えかけるときに、人間中心主義にすり寄ることがある。たとえば、ユダヤ教やイスラム教でさえ、LGBTに対して、教義に反するから許容できないとは言わず、「だって気持ちわるいでしょう」となる。あらゆる芸術artは神から降りるのではなく、人間から、感情から生じる。経済では、顧客こそが神であり常に正しいとの前提で動く。
 「知識knowledge」の意味も変遷した。
・中世ヨーロッパでは、 知識knowledge=聖典scripture×論理logic
・科学革命では、  知識knowledge=実験結果experimental data×数学mathematics
 しかしこれでは価値valueや意味meaningがわからないので、道徳的問題は中世以来の方法で対処した。
・人間中心主義では、 知識knowledge=経験experience×感受性sensitivity
 ここで経験experienceとは、主観的現象たる①感情sensation、②情動emotion、③思考thoughtを指す。人間中心主義は、人生の歩みを無視・無頓着からさまざまな経験を経て啓発されていく内面の穏やかな変化過程とみる。
 人間中心主義は、人々の戦争に対する受容の仕方をも変えた。人間中心主義以前には、戦争の意味・良否について神に聞くことはあっても、兵士や市民に聞くことはなかった。ここ200年間の人間中心主義の時代になって初めて戦争を描く絵は、王や騎士よりも兵士や民衆を主題にするようになったのである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(8)

現代の契約 ─科学革命による無知の自覚と無限の知識追求─
 前近代においては、全能の神あるいは無窮の自然法が与えた(決めた)偉大な宇宙像great cosmic planのなかで、人間は力を制限される代わりに、演じるべき役割を与えられ、涙から行動まですべてに意味を与えられ、なんら恐れることなく誇り高く戦い、仕え、生き抜いて平穏に過ごすことができた。
 現代では、人間は自分の力を信じることができるようになったが、その代り役割も奉仕する主も、存在し行動する意味をも与えてもらうことができなくなった。力のみを頼りとする恐怖と不安に満ちた生き方となった。その力は、科学の進歩と経済の成長で支えられている。
 中世までは、科学に対する期待も投資もなく、進歩が乏しい停滞した社会であった。しかし近代では、人間は未来を信じるようになり、信用と金融が飛躍的に拡大した。投資の拡大が金融を拡大させ、利息を下げ、起業家はより借りやすくなり、経済が成長するという拡大スパイラルを実現し、科学と経済が加速度的に成長・拡大するようになった。
 パイが一定で成長がなかった中世までと異なり、現代は成長こそが主なエネルギーとなった。この経済成長によってのみ、飢饉・疫病・戦争は大きく解決に漸近したのである。現代の宗教・イデオロギー・運動の諸問題のすべてが、経済成長に解決を求めるようになった。
 科学革命は、人間は無知であり、さらに知るべきことが無限にある、と教えた。こうして人間が関わる資源は、それまでの原料+エネルギーにさらに知識を加えた。前2者の資源は有限だが、知識は無限に拡大できるので、資源は無限になった。
 これからのつぎの壁は、eco-systemをどうやって維持するかという環境破壊問題である。この対策にともなう経済成長の鈍化の被害は、低所得層からはじまるという問題もある。
 さらに環境問題をクリアーし経済成長を持続できたとしても、そのための競争はどんどん激化するので、個人レベルの緊張とストレスは増加する。昨日の贅沢は今日の必要となる。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(7)

宗教と科学の関係
 AD1500年ころに科学革命が起こって以来の500年間、宗教と科学はほんとうには互に理解できていない奇妙な夫婦のような関係であった。
 宗教は、なによりも社会秩序の維持を目指してきた。宗教は、①道徳的基準(ex.人の生命は尊い)、②事実の基準(ex.人の生命は懐胎にはじまる)、③道徳と事実の合成(ex.たとえ懐胎後1日でもすでに堕胎は殺人の罪となる)、の3つの要素を持つ。しかし現実には道徳的判断を事実的判断から切り離すことはむずかしい。事実的判断を道徳的判断の都合で変えてしまう傾向がある(ex.人の生命は誕生の後名づけが終わるまでは始まらないから、堕胎しても殺人にはあたらず罪ではない)。道徳的判断が内に事実的判断を隠すこともある(ex.人命は神聖だから、人の霊魂は不滅である)。
 科学は、なによりも力の追求を目指してきた。その成果として、病気を克服して人の寿命を著しく伸ばし、戦争を有利に遂行し、技術の進歩で生産を飛躍的に高め経済を成長させた。
 科学も宗教も、個々人としては真実を強く重視してきたが、集団や組織としては真実よりも秩序や力をより重視してきた。それがまた科学と宗教の良好な関係を可能にしてきた。
 科学は、宗教の道徳的判断を否定したり裏付けたりすることはできず、むしろ宗教が科学に道徳的正当性を与える。そしてほんとうは、宗教は科学の成果を正当に受け入れるべきである。
 科学が定着してからは、ある種の宗教としての人間中心主義humanismと科学との協力関係ができた。近代社会は、人間中心主義を信仰し、科学を人間中心主義の教義を疑うためにではなく、人間中心主義の教義を実現するために利用してきた。21世紀になっても、humanismの教義が純粋な科学理論に置き換えられることはなさそうだが、humanismと科学の盟約関係は大きく変わり、科学と新しいpost-humanismとの取引関係となるだろう。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(6)

紙に書かれた物語
 紙の上に文字で書きとめられたstoryは、より信じられやすくなり、より強力になる。
 1950年代末の毛沢東指導下の共産党中国の「大躍進政策」は、虚偽の農業生産報告書が存在しない豊かな農産物を提示した結果、極端な飢餓輸出を導き、2000万~5000万人の餓死者を出した。1978年タンザニアのニエレレは迂闊にも中国共産党の「大成功」に共感し、大規模で性急な集団農場を導入して、多くの国民を餓死させた。
 別のケースでは、ポルトガルのソウサ・メンデス(日本の杉原千畝も同様)は、さきの大戦時にビザという紙切れを独自の判断で発行することで大勢のユダヤ人の生命を救った。
 紙に書いたことが事実を押しやって現実を造ってしまうことさえある。アフリカ大陸の各国の国境線は、アフリカの現地に一度も行ったことが無いヨーロッパ人が書いた地図で、以後の国境を確定してしまった。独立したアフリカ諸国も、異議を唱えたら発生必至の泥沼戦争の勃発・継続を回避するためには、なんの根拠もない国境線を受け入れるほかなかった。
 こうして人間がstoryをつくり、紙に書いて人間を動かしコントロールする段階が、今後はコンピューター・アルゴリズムと生物工学によってstoryがつくられ、人間を動かしコントロールする段階になることが予測されるのである。そうなると、フィクションと現実factとの判別、宗教と科学の関係は、人間にとって現在よりはるかに困難で複雑になるだろう。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(5)

フィクションとヒトの統合と意味のウエブ
 1989年12月、ルーマニアでチャウシェスクを殺して政府を倒した民衆は、そのあとどうやったら国民が協力して新政府を構築できるかを知らなかった。そのため元共産党員のイリエスクが共産党員を組織して、急激な民営化の旗印のもと、大規模な払い下げを実行し、結局元共産党員だけが大金持ちになり、大多数の一般民衆は捨て置かれた。2011年のエジプトムバラク政権崩壊時も、デモ参加の民衆は、政権の空白を埋める方法を知らず、軍隊とムスリム同胞団のみが生成され、それにうまく合流できた者のみが政権を掌握した。
 このいずれの実例も、人間を率いるとき決定的に必要なことが、多数の人間をまとめるフィクションであることを実証している。人間の数が多くなると、少人数の時に成立した合理的秩序や法則は成り立たず、多くの民が信ずるフィクションを提案した者が中心となって統合・結合と、それにともなう力が実現する。
 サピエンスは生物の中で唯一、具体的でない抽象的なもの、概念を表現・伝達し、想像を共有shared imaginationできる。金(貨幣)、法律、神、帝国など、人間にとって重要な仲介物の大部分は、この「想像の共有shared imagination」である。
 このヒトにとって決定的に重要な「想像上の秩序」は、理解されにくい。主観的現実でも客観的現実でもなく、「主観的現実の相互間の現実感 intersubjective reality」であり、個々人が信じ感じるだけでなく、その成立は人々のコミュニケーションに依存するものである。
 歴史とは、この相互間の現実感 intersubjective realityのウエブがいかに発生し、壊れていくのか、後の人々にとって意味が変わってしまうのか、を吟味する営為である。言い換えれば、歴史学はサピエンスがつくりかつ従ったstoryを調べ分析することが主たる仕事であり、これが生物学と違うところである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(4)

生物はアルゴリズムだという教義
 最新科学からもたらされた現代の教義dogmaは「生物はアルゴリズムであり、そのアルゴリズムは数式で表すことができる」という驚くべきものである。ただ、現時点では、その数式は明らかにはなっていない。
 アルゴリズムは、完成に近づいた全自動運転の自動車のように、かつて人間(すくなくとも生物)にしかできなかったことを実際にやり遂げることを示しているが、感情も欲望も持たず、したがって意識が欠けている。「意識」は、生化学的には不必要な脳のプロセスの副産物なのだろうか。
意識にもとづく主観的経験を前提としなくとも脳の働きを科学的に説明できるとする科学者もいる。しかし現代政治や倫理のジレンマは、主観的経験を欠いては解けない。たとえば、拷問や強姦がなぜ悪いのか、主観的経験を否定しては説明できないであろう。
 現代でも、科学者や医師は個人的には神を信じつつも、学術誌では論じない。おそらく心mindは霊魂soulに繋がるが、心(=多くの部分から構成されかつ変化し統合の必要がない)と霊魂(=唯一不変の不可分統合体)の違いは大きい。さらに、心(痛み、喜び、怒り、愛などの経験の流れ)を科学的に否定することは不可能である。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(3)

意識と人間と科学
ヒトの優位を正当化するもうひとつのstoryが意識consciousnessである。
 心mindとは、経験(痛み、喜び、怒り、愛などの情動からなる)の流れflowである。経験は情動の集合だから、すぐに消えてしまうものである。そして心mindの集合が意識の流れを形成する。したがって意識は、霊魂(不変の唯一不可分の統合体)と違って多くの部分から構成されかつ変化する。しかし「意識」こそ、人間が有する特性として人間の誰もが疑うことができない存在である。
 欲望desireと感情sensationの2つが、意識たる心mindの集合のフローを形成する。ロボットは機能が豊かで高度であっても、感情も欲望も持たないため意識がない。意識こそ生命を持つ人間の本質だと思える。しかし最新科学は情動を、生化学的反応に過ぎず、人間だけでなく動物も共有するものだとする。さらにヒトでさえ、多くの情動的反応・行動を実は無意識に実行していることが、さまざまな実験的事実として判明している。人間の脳の各部分の電気的反応は観測できるが、脳のすべての領域の反応が統合される意味や仕組みは不分明であり、意識の説明までは不可能なのが科学の現段階である。これは、交通渋滞や証券取引の危機などの現象の説明と同じ水準の難しさといえる。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(2)

人間と動物の分離と「神の宗教」の創生
 12,000年前の農業革命は、それまでのアミニズム(ヒトと動物が同じ立場で神に対峙する)と異なり、ヒトを動物から分離し、ヒトだけを神と対峙させた。「神の宗教」の発生である。そして神とヒトとの取引(黙契)として、神のヒトに対する恵の返礼として動物を犠牲として捧げることをはじめた。動物を家畜化domesticationして人間に好都合・高効率に利用できるようにしたことで、他の動物よりヒトが力のみならず道徳的にも優位にあるとしたいがため、神の前にヒトのみを据えて、人間が不滅かつ不変の霊魂を持つとした。そしてヒトは動物を殺すことを正当化した。戦いで負かした他のヒトを奴隷として自分たちの下に置くことも、この延長線上にある。
 農業革命は、こうして動植物を黙らせて、神の前にヒトだけを特別な存在として対峙させたが、AD1500年ころから起こった科学革命は、神を黙らせて(神を言及しなくなって)人間中心主義Humanismをもたらし、以後は人間のワンマンショーの時代となった。これはやがて神の代わりに人間を崇拝する人間中心主義的な宗教(宗教のようなもの)をもたらし、リベラリズム・共産主義・ナチズムの3つを発生させた。いずれも善悪を人間にとっての良し悪しから判断することが特徴である。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(1)

 ユヴァル・ノア・ハラリの3部作のひとつである。最初の『サピエンス全史』がマクロな歴史学として人類の発生から現代に続く人間の性質とその社会の変遷を説き、とくに7万年前の「認知革命」によるフィクションの重要性を主張した。2冊目のこの『ホモデウス』は、産業革命以来の人間中心主義で宗教を脅かし、科学技術の進歩で遺伝子操作まで手掛けるようになって、かつては神のみの領域であったはずのところにまで突き進むに至った人間という存在が、これからどうなっていくのかを考察するエッセイである。3冊目の『21世紀のための21のレッスン』は、前2冊で考察したフィクションと科学と人間との関係について、近未来たる21世紀に問題となりそうなことを21個にまとめて箇条的に具体的に論じたものである。
 私は、最初に『サピエンス全史』を読み、つぎは『21世紀のための21のレッスン』を読んで、最後にこの『ホモデウス』を読んだ。『ホモデウス』は、歴史を離れた独自の思想の展開であり、それだけにハラリの思考の独自性がもっとも現れているとは言えるが、3冊の中では私にはもっともわかりにくいところが多く、かつ首肯できかねるところも多かった。
 『ホモデウス』は、サピエンスが、7万年前の認知革命でフィクションという決定的な武器を得て、大規模な人間集団に秩序と生きる意味を与える宗教という仕組みをつくり、500年前の科学革命以来の科学技術を駆使して、地球全体を支配するまでに繁栄した。しかし強力な武器であった科学技術が、フィクションの機能や宗教に対して大きく立ちはだかり、私たち人間がよって立つ基盤を根本から揺るがし、これからはサピエンスにとっての大きな脅威になるかも知れない、という論考である。
 最新の科学技術のために、人間が頼りとしてきた意識や自己などの概念が根底から覆されようとしている。論考の全体のトーンは、どうしても暗い面がある。
述べていることのかなりの範囲が、すでに先行する思想家や学者が言っていたことであったとしても、ハラリは卓越した広い興味と関心と博覧強記を駆使して、いちいち具体例を引きながら丁寧に論説するので、迫力があり説得性に優れるのは事実である。
 他の2冊と同様に、非常に刺激的で興味深い読書であったことは間違いない。
 いつものように、私なりのダイジェストを以下に記す。

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福田恆存『日本を思ふ』文春文庫

対抗し否定すべき神を欠いた日本の近代とその自覚の欠如
 1969年の初刊本から抜粋して、文庫版として1995年に発行されたものである。さきの大戦での敗戦ののち、わが国の文壇・論壇がほぼ全面的に進歩主義あるいはマルクス主義に彩られたなかで、希少な保守の立場から発言を続けた著者による論集である。
 最初に書かれた論考が昭和22年(1947)「近代の宿命」であり、この本全体の思想的背景をなす重要な文章となっている。著者は国粋主義一色ともいうべき戦中に、独自の思考をヨーロッパ中世・近代史を基盤あるいは参照として、地に足の着いた思考を練り上げ、戦後の論壇の混乱期に対して批判的に提言したのがこの論考であった。「近代の超克」でも「西欧の没落」でもない、正しいヨーロッパ思想の中世・近代史を参照したうえで、戦後日本思想の見通しを立てようとしたのである。
 ヨーロッパ近代の始点であるとされる宗教改革とルネサンスを取りあげ、主要なインパクトは宗教改革にあり、宗教改革がルネサンスを利用して近代を発展させたとする。
 中世にトマス・アクィナスは、神の理性によって法則づけられた自然の合法則性を説き、その自然法は、自然のみならず自然の一部たる人間の社会をも貫く合理性を持つとし、神の理性の分有を許された人間は、神の意図する調和に向けてひたすら秩序づけを進めるとした。つまり神の自然法により人間と自然との対立は解消されるというのであった。そこでは、人間の内なる自然である肉体と同じく内なる理性である精神の対立、法則と自由、社会と個人、地上国家と教会、などすべての対立関係が神の下に止揚されるとするのである。「神に従属する自己」と、「人間社会において支配し支配される自己」とが存在するが、この二つの自己は神の意志によって一致し融合する、とする。しかしここに、ギリシア的合理主義が侵入しているとして反対したのが、やはり中世のエラスムスであった。彼は神に従属する自己と、人間社会において支配し支配される自己とを、相互に無関係・並立に置いたうえで受入れた。
 そもそもイエスは、個人の純粋性を体現する神に従属する自己を意識の中心に据えて神と二人きりの世界に生き、人間の社会的・集団的な側面に対応する支配し支配される自己は、ひとりのなかに併存するもののなんらイエスの行動に影響を与えないという、まさに超人的な扱いと生き方をした。しかしイエスの弟子たちは、そのままでは一般のひとびとに伝道することが不可能であることを悟り、この二つの自己の関係を政治的に調和させる工夫を強いられたのである。
 トマス・アクィナスの神学は、支配し支配される自己の処理のために、神の意志のもとに作動する、政治的に強固な教会組織による世俗的な権力をもたらしたが、ルターはこれに反対して支配し支配される自己を否定し、神に従属する自己のみを認めた。ルターは、神とともにいる自己のみで、人間の相互関係の問題をもすべて解決できると信じたが、現実はドイツ農民戦争で領主と農民の間で身動きが取れなくなって挫折し、妥協できない要素すべてを悪として否定した。ルターは戦闘的ではあったが、支配し支配される自己を否定した彼の言動は、まさに支配=被支配の領域から一歩も出ないものとなった。
 もうひとりの宗教改革の旗手であったカルヴィンは、最初から支配し支配される自己を前提に政治組織の構築に進み、ジュネーヴで神聖国家を創設した。カルヴィンは、教会内部にカトリックの政治的教階制度を追放したが、代わりに魂の階級制度をつくった。
 結局、ルターもカルヴィンもエラスムスも、人間に深く巣食う支配し支配される自己(本能)を絶滅できず、中世カトリシズムに反逆したものの、トマス・アクィナスが解決を図った主題をそのまま引き継いだ。こうして宗教改革は、実は中世を受け継いだ連続的で緩慢な変化となり、その課題は「神に直属する自己の抽象」という問題であった。ルネサンスは、神の絶対性の否定を通じて、たとえばルターの職業的聖召観(自分に与えられた職業に励むことが神の教えに叶う)を招来し、新しい社会的エネルギーを導きルネサンスを推進し、近代化をもたらした。
 神からの離脱も、神の巨大な権威あってこそのことであったが、日本の近代には、このヨーロッパにおける神の存在がない、ということを自覚・確認する必要がある。権威のないところには、良心すら存在しがたい。日本の明治政府はそれを自覚していたからこそ、天皇制を導入した。天皇制が成功したか否かは別としても、そのような経緯と理由があった。
 昭和26年(1951)の「日本人の思想的態度」では、日本での絶対者の欠如という背景からもたらされたさまざまな思想の概念や用語の混乱が指摘される。思想概念あるいは思想の言葉は、その意味が波及する外延が拡大するほど内容は希薄となり、逆に内容が充実するほど外延は縮小するという、本質的で重要な性格があることが指摘される。
 昭和29年(1954)の「日本および日本人」では、日本の伝統的美意識を軸とする日本の精神的伝統を取りあげ、それを安易に破棄しようとする当時の「進歩的」風潮を痛烈に批判している。
 昭和35年(1960)の「進歩主義の自己欺瞞」では、現実の社会科学の多くが、政治の行き詰まりから生じていて、進歩主義的気分の醸成のみの存在となっていること、社会科学はほんらい人間の全体としての生き方を示し、文化感覚の意識を促すものであるべき、と指摘する。
 昭和37年(1962)の「自由と平和」では、複雑な変遷を経つつも長期にわたってさまざまな「平和活動」を行ったイギリスの学者バートランド・ラッセルの経緯を追いつつ、「自由」という概念について論考する。人間は、生物学的にも社会条件的にも、完全に自由ではありえず、自由には必ず両義性があり、それを把握しないままの自由や平和にかんする議論は危ういことを述べている。
 この他のものを含めた11件におよぶ著者の論考は、いずれも内容の濃いものであり、かなり時間を経た現在でも大いに示唆的である。

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