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2019年9月

ブルクハルト『世界史的諸考察』(4)

国家・宗教・文化の相互間の6つの規制関係(下)
⑷文化によって規制される国家
 多くの場合、国家はその草創期には宗教と密接に関わり、文化に対しては規制した。わずかな例外として、古代フェニキアがある。この都市国家では、国王とならんで古い世襲の統治能力ある氏族が支配し、神権からも階級制度からも自由な政治が行われた。ここでは文化は商売の取引のように大衆の機嫌を取り利益や仕事を与えることで成立し繁栄した。穏やかな統治手段しかないのに高度な愛国心が現れ、享楽への欲望は大きかったが文弱に陥らず、文化に大きな功績を残した。
 古代ギリシアでは、とくに植民地において当初から商工業や自由な哲学が盛んな文化による支配であり、それが民主制を生んだ。新たに流入した住民と幸福な混合隊をなして圧政なく生活は豊かに発展した。ブルクハルトは、古代ギリシアを高く評価する。しかし民主主義は扇動政治家の支配を招き堕落し、僭主制に陥りがちである。その点では、貴族制の方が優れる、とする。
 ローマ帝国は、都市国家として完成を達成し、民と文化を救った。これを継いだゲルマン・ロマン国家は、粗雑な素人細工の国家であり、野蛮な間に合わせに過ぎず、侵略の衝撃と興奮が去るとただちに没落した。その喪失した要素を教会が全体として相続し、権力は分断され荒廃した権力の断片となった。この混乱の中からピピンはフランク王国を救い出し、やがてそれはカール大帝とともに世界帝国となったが、強力な蛮族があまりにも多数存在して、弱い統治は権力を教会と分かたねばならなかった。封建制のはじまりである。
 このようななかでは、国家の優越でなく、むしろ国家の弱体化が文化の阻害と停滞をもたらした。分断された権力のそれぞれの断片は、それぞれの部分の文化の強い影響下にあり、その部分文化が規定的役割を担った。そんななかで個人の人格は、自由に意志を発現させ得た。
 やがて次第に中央集権国家が成長し、それは本質的に文化を支配し規制した。しかし18世紀になると、哲人たちが社会契約説(ルソー)を説き、主権在民の理想が現れ、一方では営利と交易の世代がはじまり、重商主義が行われた。イギリスは、産業革命で大規模工業を起こし、信用制度を構築し、インド・ポリネシアに進出した。産業は、国内的には国家が援助しても活動を制限せず、外国に対してはできるだけ強力であることを望んだ。
フランスでは革命が起こった。フランス革命の理念は、政治的にも社会的にも大きな影響を与えた。下層からみると国家のどんな特権も認められないと思え、国家形式の絶えざる変化を求めるようになった。しかし同時に国家には崇高なプログラムの遂行のためにより大きな強制力をも求める。個人として奔放な自由を求めつつも、普遍の下に強力に拘束されることを願うのである。結局、国家権力の統一と国家の版図拡大が崇拝されるようになった。

⑸国家によって規制される宗教
 国家によって規制される宗教としては、まず両古典宗教があげられる。
 ギリシア・ローマにおいては、僧侶も神学者も存在せず、人々はすべて俗世界にいた。宗教を国家に奉仕させようとはしても、宗教をあてにはしなかった。
 古代のキリスト教徒は、ローマという統一国家の民であり、なんとしても新しい社会を築き、唯一の教説を正統派のものとして、信仰共同体を階級組織として形成した。そのすべてのことが地上的行動であった。すでに迫害を受けつつも国家的宗教の性格をもっていたのである。その結果、コンスタンティヌス帝の下に事情が一変するや、急速に国家を吸収した。しかし地上的な権力との接触は、宗教に強い反作用として国家主義の感染をもたらした。教会は、権力と財力の権化となり、力を蓄えたが、その力こそがそれ自体悪であった。
 近代の民主主義的産業的精神は、キリスト教会に対して敵対的となり、対抗して教会は組織化と対策を必要とした。教会は俗世の支配権を喪失することを予見し、ピウス9世の『誤謬表』を発表した。国家の側では、教会の完全な分離はむしろ心配の種になりかねず、望まなかった。結局、ヨーロッパの大国家はいずれも許容している宗教に関しては、そのすべてに間接的な支援と保証を与えた。これは新宗教の発生を困難にした。
 ロシアでは、ギリシア正教を国家機関化して政治手段にした。

⑹文化によって規制される宗教
 宗教は、国民や時代が持つ文化の影響を受けて変化する。文化から宗教批判も発生する。キリスト教は、ギリシア人、ローマ人、ゲルマン人、ケルト人など、新しい国民を受け入れるにしたがって、時代時代にまったく別の宗教となった。キリスト教初期の使徒の時代は文化との接触は少なく、主の再来の期待が軸となり信徒は団結し、清貧に甘んじた。異教の皇帝の時代には、彼岸と最後の審判がキーワードとなり、その一方でギリシアや近東の文化が入り込み、そのままでは崩壊の可能性すらあったものの、むしろ異教徒皇帝による迫害こそがキリスト教の存続をもたらした。キリスト教皇帝時代には、教会自身が権力者となり、近東的教義観である三位一体が主流となった。布教において、教義そのものに関心が薄い民衆のために、儀式はより重視されるようになり、複雑化した。ビザンティン帝国では、国民を屈服させ、破門は教説や外的規制だけで断行され、道徳は軽視された。さらにスラヴの迷信や吸血鬼の信仰などが入ってきて異教徒的内容と協調的にすら陥った。
 宗教改革の後は、キリスト教は文化と新しい関係を築いていく。文化は、研究と哲学という形態でキリスト教に対して、その人間的な発生と制限を指摘する。道徳は、できる限り宗教から離れようとして、良き行いのためのキリスト教は失敗した。人々の関心はもっぱら現世に向かうようになり、キリスト教の教義よりも自分の生活を大切にしようとする。
 美術や文芸は宗教の強力な支援者であるが、宗教は芸術によって制約を受ける側面もある。文芸の言葉や美術表現による可視化は、強力なインパクトをもたらす半面でなにがしか神聖さを損なうものである。そして芸術は宗教がなくても、それ自体として自立して存続できるものであることを忘れてはならない。

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ブルクハルト『世界史的諸考察』(3)

国家・宗教・文化の相互間の6つの規制関係(上)
 歴史は決して体系的ではなく、もっとも非科学的であるけれども、多くの知るに値するものを提供する。まず国家・宗教・文化の相互間の6つの規制関係を考察する。
⑴国家によって規制される文化
 国家は、その力を介して文化にさまざまな規制を加えてきた。古代エジプトは、沿海の交通を遮断して階層間の交流を絶ち、上流階級の文化の独占を達成して専制政治を確保した。古代フェニキアでは、都市国家として通商を重視し、職業は生まれに依らず、農耕や商業にも敬意をはらう一方で、国家は民が市民であることを求め、市民として都市国家に奉仕することを要請した。
 ギリシアでは名誉と教養を輝かせ、芸術と科学が栄えた。これはローマに受け継がれ、世界帝国が完成した。ローマ帝国は、納税のみは厳しく要請したが、文化に対しては放任主義であり、世界文化としてヘレニズムを愛好した。
 中世の封建制度は、国家の分割と小国化をもたらしたが、その結果それぞれの国の文化が国家以上に浮上するという明るい側面もあった。逆にルイ14世のフランスでは、国家があらゆる文化に対して強制力を発動し、西欧的というよりモンゴル的な悪しき体制となった。
 国家は、基本的には文化にも宗教にも対立的な方向に向かう傾向があり、教養ある人々を迫害すると迫害されていない人々まで自由を厭いだして、国民の精神は自由を喪失し政治的権力を好意的に迎え入れるようにさえなってしまう。こうして自発的なものは死滅するおそれがある。反対に、強制がいっさいない自由に発展する文化は望ましいように見えるが、実は国民はなによりも強い権力、大きなものに属したいという性向があり、本質的に悪である国家権力の手中に陥り勝ちであるという面もある。強力な中央集権には、自発的な権力の制限は期待できず、強い国家権力は継続しやすいという事実がある。

⑵宗教によって規制される文化
 宗教は形而上学的要求の表現であり、文化は精神的物質的要求に応ずる存在だが、宗教は文化の母としての自負を持っている。そして宗教は、基本的には国家も文化もまったく自分に奉仕させようとするものである。その極みが神権国家で、そこでは宗教が国家と一体化して文化を完全に飲み込んでしまう。古代エジプトやイスラム教国が実例である。ブルクハルトは、イスラム教を悪魔的な宗教専制として批難する。
 ギリシア・ローマ帝国は、多神教の寛容さで文化の発展をもたらした。芸術も当時は青春時代ともいうべき溌溂さをもって宗教に奉仕し、宗教は礼拝などの儀式でも芸術を高めた。しかしビザンティンは、やがて文化を抑圧するようになった。カルヴァン派やピューリタン派も同様な傾向があった。
 芸術のなかでも詩は早くから宗教と距離を置くようになり、中立的で抒情的な美を磨いた。造形芸術は、引き続き長期にわたって宗教に奉仕しながら発展をつづけた。

⑶宗教によって規制される国家
 宗教は社会を共同させる主要な紐帯として、また道徳的状態の監視者として、国家に貢献した。国家と宗教との絡み合いは僧侶の政治権力参加をもたらし、権力の二重化だけでなく、一切の個人的なものが抑圧され、神聖冒涜の名のもとに残忍な刑罰をもたらし、それ以上の発展が不可能となるような聖の化石化も生じた。しかし反面では、個人的なものが束縛されるほどに強力な権力は、真に偉大なものを起こし目的を達成し、多くの知恵を獲得することがあり、国民も誇りを見出すことができたこともあった。古代エジプトがその例だが、それでも専制政治のために宗教が悪用されていること、その結果は過酷な抑圧であることは露呈してくる。
 イスラム教国家の場合は、国家様式も法形式も完全にイスラム教が決めるため、国家はすべて似通ったものとなり、国家は天上にも地上にもなんら保証を持たない過酷なものとなる。ブルクハルトは、イスラム教とその国家を評価しない。
 ギリシア・ローマ世界では、国家と文化が宗教を規定し、国家宗教と文化宗教があり、神々は国家の神々、文化の神々だが、国家がただちに神の国ではなかった。したがってキリスト教が入ってきたときすべては一変した。しかしそれを継いだビザンティン帝国では、キリスト教が文化も国家をも規制し、あらゆる政治や戦争に宗教が混入するようになった。ビザンティン帝国では、イスラム教のように宗教は政治と一体化し国家を支えながら、宗教としての精神的原動力は衰退していった。1453年オスマン帝国に陥落したのちもギリシア正教は存続したが、それは宗教の生命力の証明か、あるいは宗教としてはすでに死滅していたという証拠か。
 ローマ皇帝権力は、カール大帝(カロリング朝皇帝)・オットー大帝(ザクセン王、神聖ローマ皇帝)・ハインリヒ3世(神聖ローマ皇帝)など世俗権力の救済を得つつも、結果としては世俗権力を従えてより強力となっていった。世俗権力の諸国家が内部事情で分裂しても、ローマ教会は統一とカソリック精神を保持し続け、強大な現世の王国となった。
 ドイツ、スイス、スウェーデンでは、宗教改革において、政府が当初から改宗し組織化したことで、プロテスタント諸教会は最初から国家教会となった。のちにオランダ、イギリスでもキリスト教国教会となった。しかし、すべての人が平等な権利をもつという説が次第に成長した結果、それ以来は国家と宗教の分離が大きな問題となった。ドイツやスイスでは、すでに新教と旧教を同権としなければならないようになった。時代の変化が国家に変化を求める一方、宗教概念は同一のままでありたいから、これからは宗教の側からもよろこんで国家と距離をおくようになるであろう。

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ブルクハルト『世界史的諸考察』二玄社 (2)

歴史の3つの力
 歴史を動かすのは、国家・宗教・文化の3つの力である。
⑴国家
 国家とは「政治的要求の表現」であって、その成立には2つの要因がある。
①力の体系化こそが国家のはじまりであり、暴力(ちから)の存在がそもそものはじまりである。
②国家に組み込まれるものに対する混成過程(融合)が必要で、必然的に極度の強制過程をともなう。
 したがって契約(ルソー)、国民、国民性などは、すべてあとから生成される要素であり、本質ではない。暴力が「支配力」に変ずるときこそが国民の政治的統合のはじまりであり、国家のはじまりなのである。この国家生成のときは、征服欲よりも必然性が主要なものであり、王朝も国民もまったく同じ方向を向いて動くのである。
 こうして国家権力が生成すると、国家権力において個人には否定される利己主義が堂々と肯定される。国家権力は、本質的に「悪」であることを忘れてはならない。国家権力は、弱小国は他国が簒奪する前に獲るべき、などと悪の行為に言い訳を与える。ヘーゲルが説くような、世界史的目的を推進する、などというのは事実でない。実際に、大多数の人々は先進国が未開国を征服することを、文化の主権として容認してしまうのである。
 国家は、その国民の個人に対しては利己を排除する。代わりに国家が国民にもたらす最高のものは、愛国心であり、国民としての義務感である。
 本質的に国家に倫理を求めるべきではなく、国家は正義そのものではあり得ない。しかし国家は正義の盾であるべきである。
⑵宗教
 宗教は、人間性の永遠にして不滅の形而上学的要求の表現である。人間の欠陥を超感性的な力によって補足する試みのすべてであり、人間が自分自身では与えることができないものを全体として代表する。
 宗教の起点は怖れと依拠であり、正常な人間の創作である。怖れは、もとは無限に広がっていたが、宗教は恐れの無限性に限定を与え、縮小し、定義を与えることで、人間に大きな貢献をした。宗教は、まず少数の瞑想できる民に受け入れられて教養となり、そののち労働に忙しくじゅうぶん瞑想できない民にそれぞれの受取り方で伝搬した。いつの時代でも人間は形而上学的要求をもつから、いったん所持した宗教は固守しようとした。ラゾォは宗教を3つに分類している。
①東洋の汎神論(インドなど)と西洋の多神論(ギリシア・ローマ)
②ユダヤの一神教とその後継たるイスラム教(ペルシャの二神教も)
③初めから世界宗教として成立した三位一体のキリスト教
 国民宗教と世界宗教という分け方もできる。国民宗教は、国語の聖典を持ち国家の文化・歴史に密着し、改宗を認めない。しかし他の宗教から要素を適宜導入することはある。世界宗教は、イスラム教とその他に分かれる。イスラム教は、まず戦争がありその勝利によって拡大したのが基本であった。イスラム教以外の世界宗教は、聖典を各国語に翻訳して社会的な普及手段を備え、階級の廃止や貧困・奴隷の廃止など社会的困難に対抗することで広がった。世界宗教は、国家の枠を超えて拡大したので、世界に危機をもたらす要因でもあった。
 宗教は、国家など大きな暴力には屈服し没落し消滅することもあった。バラモン教を支持するインドでは、仏教が滅ぼされたし、キリスト教を支持するに至ったコンスタンティヌス帝のローマ帝国では、ギリシア・ローマの多神教が滅ぼされた。それを防ぐために、宗教は国家にすり寄ることも多々あった。
⑶文化
 文化は、狭義の物質的精神的要求に応ずる人間の活動であり、自発的に起こり、一般の承認や強制的な承認を要求しない精神の総体である。固定しがちな国家と宗教に対して、絶えず変形や分解を促す重要な要因である。文化は形態としては広義の社会として現れ、成長しまた衰退する。そして国民や個人の中に、文化の成果は無意識に蓄積されるのである。
 文化の構成要素としては、まず言語がある。言語を学ぶことは文化を理解する王道である。
 もっとも非凡な文化として芸術がある。芸術は科学より一層謎に満ち、断片のみとして残ったとしても生き続けるのみならず、人間の強い復元欲求によって後代に大きな影響を与える。建築、絵画・彫刻などの造形芸術、音楽、詩などの多様な様式がある。ブルクハルトは、ヨーロッパ以外の文化に対しては、アメリカをも含めて軽蔑する傾向があるようだ。
 シヨーペンハウアとアリストテレスがいうごとく、詩は、人間の本質を認識するにおいて歴史に勝る。詩は、人間の本質の認識や時代的・国民的なものの開示において、歴史になにより純粋で美しい確実な源泉を与えている。詩は最古の歴史であり、神話の原形式であり、倫理の器である。詩は、賛美歌などで宗教を荘厳し、抒情詩として人間を直接表現する。

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ブルクハルト『世界史的諸考察』(1)

「主要現象」としての国家、宗教、文化
 26年も前のこと、私はある先輩から奨められてヤーコブ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』を読んだ。このたびは歴史論で高名な著作として、ふたたびブルクハルトを、つまりこの本をよむことになった。
 ブルクハルトは、この本の冒頭で当時歴史学会に多大な影響力をもっていたヘーゲルの歴史哲学、すなわち歴史が自由の概念を自己実現させることを究極の目標として整然と歩む、とする考え方に真っ向から反対し、歴史はその起源も究極の到達点もともに明らかにはし得ず、注目するある時点での事象を情念論をもふくめて真摯に先入観なく分析することこそが歴史の探求である、と主張した。ヘーゲルの通時的、時間的縦断面からの考察を否定して、共時的、時間的横断面の多面的考察を説くのである。過去は、現在を結果するためのものではなく、現在への精神的連続体であり、現在の精神的地平を再構成するための貴重な財産である、とする。
 そして考察の軸として、歴史を形成する「主要現象」として3つの力、すなわち①国家、②宗教、③文化を取りあげる。このうち国家と宗教は、その成立条件たる国家権力や教義に対する一般的承認を人々に要求するため、固定的、権力的存在であるのに対して、文化は人々が自発的に心に響いてくるものを納得することで成り立ち、流動的かつ自由な存在であり、まさに自由であることこそを条件として成り立ち発展するものである。ブルクハルトは、この3つの主要現象にそれぞれ重要性を認めつつも、自由を前提とする文化が歴史にどのように関わっていくかをもっとも注視している。私はこれを読んで、政治のとくに権謀術数ともいわれるきわめてドロドロしたマッキァベリの思考と行動を追った、いわゆる「文化論」とはまったく違う印象の『イタリア・ルネサンスの文化』という著作に、ブルクハルトが何故「文化」という名詞を敢えて挿入したのかが、はじめて理解できた。
 ブルクハルトは「歴史における三つの力について」で3つの主要現象について個別に定義して考察したあと、「六つの規制関係の考察」で3つの主要現象の相互間の歴史における緊張関係を分析し、さらにそれだけでない別の歴史推進要因として、革命や戦争を意味する「歴史的危機」を論ずる。さらに「個人と普遍」で、歴史を実際に推し進めるに大きな寄与をする歴史的な偉人について述べる。最後に「世界史における幸不幸について」と題して、歴史に対する私たち後世の人間がおこなう評価について論じる。ここでは人間が虚心に真実を求めて客観的に歴史を冷徹に観察することの難しさが説かれている。ここでのブルクハルトの指摘は、現代の「民主主義」における困難を予言している要素が多々あると思う。複数個所で、ブルクハルトは民主主義の欠点として、弛緩と腐敗から国家が弱体化しやすいことを指摘しており、これは時代が違うとの言い訳だけでは捨て置けない警句だと思う。
 約150年前の、わが国の明治維新ころの論考であり、当然時代背景も大きく異なるなかでの論考で、取り上げられる史実も私には知識がないことも多く、さらにブルクハルト流の含みの多い、ときに婉曲的な表現の難しさもあって、すべて理解できたとは言いかねる内容であるが、歴史を見つめるにおいて一切の先入観を排除して、真摯に歴史事象に向き合おうとした真の教養人の貴重な論考として、私たちが学ぶべきことは多い。
 いつものように、以下に私が理解した範囲でダイジェストを記す。

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村上重良『国家神道』岩波新書

著者の信条による片寄りが気になる
 1970年に発刊され、のちに何度も再版されたかなり有名な新書だというので、半世紀も前の本だが、読んでみることにした。
 日本の宗教のひとつである神道について、古代以来の歴史的変遷を追った解説がされている。アニミズムにはじまり、古墳時代ころ神社が建設されるようになって原始神道ができ、仏教・儒教・陰陽道の渡来によって習合して神社神道の原形ができ、奈良時代ころから宮中祭祀が入ってきて皇室神道ができ、中世には神仏習合の教義が整った。南北朝ころに神道を中心とした習合神道として伊勢神道が現れ、中世末には吉田神道が成立し以後近世を通じて神社の大半を支配するに至った。近世期には、神儒習合神道ができ、民間神道が普及して都市にも農村にも神社が民衆に融け込んだ。幕末には、国学が出て習合神道系のさまざまな教派神道が発生した。明治維新に入ると、新政府は皇室神道と神社神道を結合して「国家神道」を成立させたとする。
 神道のはじまりから幕末、さらには明治初期までの流れについてはわかり易い優れた解説だと思ったが、明治憲法施行以降、明治期後半以降の流れについては、急にわかりにくくなる。「祭祀と宗教の分離」、「政府の神道への肩入れによるひとびとの宗教への無関心傾向の発生」、などの説明がよくわからない。
 著者は、明治政府が天皇崇拝普及のための手段として「国家神道」を無理やりつくりあげ、そのために国民が宗教に無関心になったとする。近世には仏教が広く普及していたが、徳川幕府崩壊で仏教が衰退したともいう。しかしわが国の場合、それよりはるか以前の織田信長の時代に一向一揆や叡山焼き討ちなどを通じて、かなりの水準で仏教の宗教勢力はダメージを受けており、近世期にはすでに寺院は政権の末端支配機構の一部として掌握・組織され、多くの場合民衆は自らの選択ではなく政権の都合で宗門人別帳に檀家登録されるなど、宗教的な主体性はなくなり、宗教的関心は大きく削がれていた。半面では宮座や農耕祈願などで、現世利益の側面では神社への信仰は広く浸透・普及していた。幕末に急激に仏教の勢力が相対的に衰退したのでも、明治以降に急激に神社信仰が普及したわけでもない。
 明治時代以降政府は、天皇の権威向上と維持のために神道を利用しようとしたのは事実だが、浄土真宗の島地黙雷などの活躍もあり、結果的には著者がいうほどキリスト教や仏教などの他宗教に対する差別や圧力が大きかったわけではないし、神道の強制などの事実もないと理解している。
 著者は、神道の教義の「孤立性・脆弱性」、神道の宗教としての「未熟さ」などをなんども主張するが、その内容や理由はよくわからない。その一方で、外来のキリスト教などの「発達した成熟さ、高度さ」などを繰り返し主張する。著者が記述するとおり、神道も時代を経るにつれて他の宗教の影響も受け、内部の宗教者の努力もあって、それなりに教義の内容なども充実してきた側面があったように思う。そもそも宗教の「孤立性・脆弱性」、「未熟さ」などの水準を、異なる宗教の間で比較する、あるいは評価することが、説得性をもって容易にできそうには思えないし、この書で議論する必要もないと思う。
 著者の信念・信条によるためか、「国家神道」をひたすら批難し攻撃するが、神道という宗教活動そのものが、ひたすら攻撃を受けるべき排斥されるべきものとの理由は、あまり説得性がない。

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ヴァイオリニスト大谷康子さんの言葉

 ラジオ番組で、偶然ヴァイオリニスト大谷康子さんのインタビューを聴いた。
 大谷さんは、幼少期からヴァイオリンを学び、高い演奏技術を身に着けた。高校時代のはじめまで、コンテストに出場するたびに、確かで丁寧な演奏技術に対しては、いつも褒めてもらった。しかし優等生として認めてもらっていることはわかったが、なにか足りないような気が自分にもあった。それが高校時代のあるコンテストで日本一になったとき、演奏技術ではなく、温かみと拡がりと余裕のある大きな表現力を褒められた。自分ではなにが変わったのか、しばらくは理解できずにいたが、しばらく後に、ふと思い出して気づいたことがあった。そのコンテストの少し前の時期、友人の薦めでそれまでめったに観なかった映画を観たことを思い出したのであった。映画「風と共に去りぬ」は、とても感動してすっかり感情移入してしまった。自分がスカーレット・オハラになり切ってしまったような気分になり、スカーレットの気持ちの浮き沈み、愛の感情、後悔などが、自分のことのようにわかり、自分のことのように悩み、落ち込み、葛藤した。そのときは、いつも打ち込んでいたヴァイオリンの練習さえ、集中できないほどであったという。あのときの疑似恋愛の苦悩のような経験が、自分に新しい表現の力を与えてくれたのだと、確信したのだそうだ。
 もちろんしっかりした技術の基盤があってこそだが、芸術たる映画が、ヴァイオリニストに大きな決定的なインスピレーションを与えたのであった。
 凡人の私には、そんな雷鳴のようなインスピレーションの経験はないし、理解もできないのかも知れないが、優れた芸術の力というものは、私なりにわかるような気がする。そして、芸術を、インスピレーションを獲得する源とするためには、受け手側にその条件として、意識的か無意識的かを問わず、なんらかの強い問題意識と欲求が必要であり、そういう条件を満たした受け手に対してのみ、芸術は啓示を与えのだろう。
 これから何年生きられるのかわからないが、せっかくの貴重な時間に、できるだけよい芸術に出会いたいと、あらためて思った。

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山村コレクション展 兵庫県立美術館 (3)

村上三郎と田中敦子
 村上三郎「作品〈空〉」(1956/85)がある。ロケットの形状をしたテントのような造形で、以前の展覧会では来場者が布をめくって中に入り、上部に開いた孔から空を見上げることができたようだ。今回は作品の維持管理の事情から、作品に触れることはできなかった。同じ対象でも、見る方法や角度、視野を変えてみると違った感覚で見ることができる、というものだ。Photo_20190905061401
 田中敦子「作品」(1958)は、ずいぶん前にかつて大阪万国博覧会会場跡にあった国立現代美術館でなんどか見たものだ。そのときは、同じ田中敦子の作になる「電気服」が展示されていた。この絵は、「電気服」を絵にしたものと言える。今回は、同じモチーフをモノクロームで描いた絵もあわせて展示されていた。
 田中敦子は、昭和7年(1932)大阪府に生まれ、京都市立美術大学を中退して、白髪一雄・村上三郎などと「0会」を結成して抽象造形の創作を続け、昭和30年(1955)から仲間たちと一緒に吉原治良が主宰する具体美術協会に参加した。「芸術に対する既成概念」に徹底して反抗した芸術家であったという。
 全部で140点近くの多数の作品が展示されていた。あらためて驚いたのは、私でさえそのかなりの範囲の作品に、すでに出会っていたことである。これらの作品が、未だ評価されていない時期に、積極的に評価して購入した山村徳太郎の眼力に、あらためて感銘を受けた。
Photo_20190905061501  なぜ抽象画・抽象芸術が存在して、われわれ見る者に感動を与えることができるのか。最近読んだユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」で述べられていた「人間だけが認知革命によって『抽象』概念を獲得した」という指摘が示唆的である。人間は「抽象能力」を持つがゆえに、ものを考えるとき自然に思考対象を「抽象化」するので、頭の中で「抽象化」された思考を作り上げ、反芻し、練り上げるであろう。その過程で頭の中になんらかの「イメージ」をともなうこともあるだろう。その頭の中の「イメージ」が、こうして眺める抽象画や抽象芸術に対して反応するのだと思う。たとえばマルセル・デュシャンは「レディメイド」を唱えて、既存の造形から抽象造形を「発見」する。その類推でいうと、白髪一雄などの「オートマティズム」、すなわち作者の意思に関わらない造形から自分が「反応できる」抽象的造形をみつけることもあり得るだろう。
 ただ私の個人的な嗜好としては、やはり偶然に頼ることなく、作者の意思と思考とを意図的に表現した抽象芸術、作者が自分の頭で懸命に考え抜いて創作した作品を好む。抽象芸術の鑑賞は、作品と自分の内面とのなんらかの相互作用・反応効果だから、きわめて個人的な体験であり、私にとって感銘を感じる作品が、他の人にとってはなんの興味もないこと、あるいはその正反対のこと、も当然あり得る。抽象芸術の鑑賞は、すぐれて個人的・個性的であって当然であると思う。
 140点近くもの展示作品は、鑑賞にはかなりきつく、またまた疲労したが、猛暑のなかのオアシスのような美術館のエアコンのなかで、ひとときの貴重な、大きな気分転換のひとときであった。

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山村コレクション展 兵庫県立美術館 (2)

斉藤義重・篠原有司男・杉山知子
Photo_20190903062201  斉藤義重「ペンチ」がある。これは今回の展覧会のポスターの表紙に選ばれた絵である。斉藤義重は、明治37年(1904)青森に軍人の子として生まれ、父の転勤に従い栃木、東京などの地で成長した。幼少期から美術や映画に興味を示していたという。青年期には、美術以上に文学・社会主義、演劇などに傾倒した時期もあった。そして20歳代後半から独学で絵画の創作に専念するようになった。彼の場合は、早期から抽象表現をめざしていたという。戦争中は軍需工場で働いて難を逃れ、戦後美術創作に戻ったが、絵画で新人賞を受賞したときにはすでに50歳を越えていた。1960年代には作品が売れだし、さまざまな受賞も得て生活も安定し、1963年からは多摩美術大学教授にもなった。斉藤義重は、正規の美術教育を受けたことが無いことが、むしろ自由な表現に専念できたと発言している。
 この「ペンチ」は、なんということもないが、得も言えぬユーモアや隠喩が感じられて、おもしろく魅力ある作品である。
 高松次郎「影 #394」(1974)は、白いカンバスのうえに、ごく薄いグレーの影を描いただけの絵だが、近接して眺めると不思議に影はごく薄いのに、遠くから眺めると影は鮮明に見える。

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 篠原有司男「女の祭」(1966)も、なかなかインパクトのある作品だ。蛍光塗料を採用しているためか、色彩はどぎついくらいに主張があり、そこはかとないエロスを醸している。篠原有司男の作品としては、この他にもダンボールで構成した有名な「モーターサイクルママ」(1971)も展示されている。これらの作品を、まだ世に出ていないときに購入する山村徳太郎の眼力と自信に感服する。Photo_20190903062301
 杉山知子「THE START a man and mamorigami」(1984)も、篠原有司男「女の祭」と多少類似したある意味ケハケバしいとも言えるインパクトの強い作品である。杉山知子は、現在神戸の廃墟ビルを活用してオープンなアトリエを運営し、アーティストたち、さらには一般の芸術愛好家たちが自由に出入りできる場所と機会を提供している。C.A.P.(芸術と計画プロジェクト)というらしい。現代アートと社会のつながりにもどかしさを感じて、芸術の創作の現場で人々が出会って、もっと自由にみんなで創造しよう、と主張している。

山村コレクション展 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館に「山村コレクション展」を家人と鑑賞した。Photo_20190901075501
 山村徳太郎は、兵庫県に発祥したガラス瓶製造会社の老舗の経営者であり、かつ美術品蒐集家として高名な人物である。山村徳太郎は、28歳で父から社長を引き継ぎ、50歳代半ばで引退して、以後は美術活動に専念したという。60歳に満たずに早世したが、20歳代から美術、とくにまだ評価を獲得していない日本の抽象美術を、自分の見識で大量に購入することで多くのアーティストたちを積極的に経済的にサポートした。

津高和一と元永定正
   とくに1970年代に一世を風靡した「具体」運動には当初から関り、貴重かつ優れた支援者であった。
 冒頭に展示されるのが、津高和一「母子像」である。山村は、20歳代のまだ若いころ、偶然津高和一のこの作品を見て深く感動して、なんとかこれを購入したいと思ったという。作者の津高にコンタクトしてみたが、津高は手放すのを躊躇っていたという。ともかく山村にとって、この作品こそがコレクションの第一号であった。以後、津高和一とは終生の親交を維持したという。
 そういう経緯もあってか、津高和一の作品はこの他にも8点ほど展示されているが、私も、この「母子像」がいちばん心に響くものがある。
Photo_20190901075601  元永定正「ヘランヘラン」は、おもしろい作品だ。元永定正は、大正11年(1922)三重県伊賀上野に生まれ、地元の商業高校を経て、さまざまに転職を重ねつつ美術活動を継続した異色の芸術家である。吉原治良に抽象画を絶賛され、具体美術協会にも参画した。今ではわが国の抽象画家として地位を確立しているが、吉原治良や山村徳太郎は、ずっと早い時期から彼を認めていた。元永は、長らく職業を持ちながら画業を続け、さらに絵本作家としての活動もしたという。その絵本作家としても、彼はいち早く抽象画を取り入れ、一部の児童父兄たちから、抽象画は子供には適さない、と強く批判を受けたこともあったという。
 絵本作家としての顔も持つと聞くと、たしかに優しく夢見るようなほんわかした絵は、子供にもなじめそうに思える。それでも、しばらくじっくり見つめると、画面構成は、形も色彩もタッチも、考え抜かれてつくられていることが感じられる。

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