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2019年10月

「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (5)

セザンヌとゴッホ
Photo_20191031063701  ポール・セザンヌは、印象派の画家としての活動の後、独自の境地の活動を展開して発展させ、ポスト印象派の代表的画家として高名である。セザンヌは、後に若手の画家たちの主要な活動拠点となった南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、富裕な銀行家の子として1839年生まれた。中等学校では、下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い銀行家を目指していたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあって、1861年画家を志してパリに出た。  パリでは、後の印象派を形成するピサロ、モネ、ルノワールらと親交を持った。しかしこの時期のセザンヌの作品は、ロマン主義的な暗い色調で、印象派らしいものではなかった。このころ彼は、サロンに応募しては落選を続ける日々であった。やがてピサロとともに戸外での絵画活動をすることで、印象主義の技法を身につけ、明るい画風に変わった。第1回と第3回の印象派展に出展したが、芳しい評価はなかった。1879年から、故郷のエクス=アン=プロヴァンスに移転し、印象派を離れ、独自のコンセプトの絵画を追求するようになった。1882年に1回サロンに入選したものの、広く認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。1895年にパリで開いた個展がようやく成功し、パリでも知られるようになった。晩年までエクス=アン=プロヴァンスで制作を続け、その間若い画家たちが次々に彼を求めて訪れた。そのころ発した「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも大きな影響を与えた。
 ここでは「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む」(1877-79年)がある。この作品で興味深いのは、海にかんしては印象派的な表現が取り入れられているのに対して、陸地にかんしてはセザンヌらしい構築的な筆触が感じられることである。印象派から独自の構成的表現への移行期の作品のひとつと考えられる。Photo_20191031063702
 フィンセント・ファン・ゴッホについては、短い画業の前期に属する絵である「雪原で薪を運ぶ人々」(1884年)が展示されている。まだオランダで絵を描いていたころの作品で、受注して制作したものであったという。このころのゴッホは、ミレーを憧憬していて、構図や表現にその影響が認められる。しっかり丁寧に、古典的な画風で描いている。画面左手には、すでに後の作品で重要なモチーフとなる太陽が描き込まれている。人物の描写には、彼らそれぞれの心理が現れているようだ。
 以上の他にも、ルオー、マティス、ブラマンク、ルソー、ミロ、ピカソ、カンディンスキー、ユトリロ、ローランサン、キスリング、シャガールなど、実に多彩な作品が展示されている。吉野石膏コレクションの充実が私にもわかる。
 全体で72点と、私の鑑賞できるキャパシティに対して適当な規模の展覧会であった。それでも鑑賞には2時間半を要して、鑑賞を終えるといつものようにぐったりしてしまった。予想以上に充実した良い展覧会であった。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (4)

印象派のひとびと ドガ・ピサロ
Photo_20191029085501  エドガー・ドガの「踊り子たち(ピンクと緑)」(1894年)がある。ドガ特有の、一瞬の画像を写真の画像のように鮮やかに切り出したもので、舞台に出ていく寸前の、待機する踊り子たちの緊張と息遣いまでがひしひしと伝わってくる。光の効果も素晴らしい。説明に、写真が一瞬を切り取る機能を普及させたがその先駆けだとあるが、写真ではここまで緊迫感のある画面を得るのは容易ではないだろう。ドガが、場面から瞬間を鮮明に切り出して正確に記憶する能力に優れていたことは、その通りだろう。改めてながめると、画面のトリミングも大胆である。二人目の踊り子を、頭と身体の一部を画面から切り離すことで、二人どころではない大勢の踊り子の存在と、その混雑、多数の踊り子が発散する熱気など、観る者の想像力を掻き立てて、一層魅力ある絵となっている。Photo_20191029085601
 カミーユ・ピサロの「ポントワーズの橋」(1878年)がある。左手奥には工場が連なり、煙を噴き上げていて、この地が経済発展の最中にあることがわかる。それでも空は明るく青く、きれいな雲が漂っている。この日は休日なのかかなりの人々が道に出て橋に差し掛かっている。明るい新興都市の生活をしっとりと描いている。この都市は、ちょうどこの絵が描かれたころに鉄道が敷設され、賑わいが進んだという。
 ピサロは、8回開催された印象派展のすべてに出展した唯一の画家であった。正確で精緻な描写力だけでなく、人格的にも穏やかであったらしく、印象派の画家たちから信頼され慕われたらしい。作家のエミール・ゾラも、彼の絵を愛し、絶賛する文章を残している。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (3)

印象派のひとびと シスレー・ルノワール
Photo_20191027062301  アルフレッド・シスレーは、イギリス人の両親のもとに誕生したが、生まれたのもほとんどの人生を過ごしたのもフランスであった。18歳のときロンドンに帰り、ビジネスを試みたが美術への憧れを断ち切れず、4年後にはパリに戻って本格的に絵画に専念した。サロンに出展した絵は、入選することもあったが売れなかった。30歳前に普仏戦争で家財を失い、さらに富裕な商人であった父の死により経済的に困窮するようになった。
 「モレ=シュル=ロワン、朝の光」(1888年)がある。水辺に建つ家のベージュ色の壁が朝日に輝いている。鮮烈なまでの光の表現は、たしかに印象派のものだろう。「モレのポプラ並木」(1888年)がある。この絵の樹木も、光に輝いている。
 シスレーは、900点もの油彩画を残したが、その大部分はパリ周辺の風景を題材にした風景画で、人物、室内画、静物などの他の題材は合わせても20点に満たないという。印象派の画家の多くが、後に印象派の技法から離れていったなかで、シスレーは終始一貫して印象派の画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家とされている。印象派最古参の画家として知られるカミーユ・ピサロは、アンリ・マティスから「典型的な印象派の画家は誰か?」と尋ねられたとき直ちに、「それはシスレーだ」と答えたという。
Photo_20191027062401  ピエール=オーギュスト・ルノワールの「庭で犬を膝にのせて読書する少女」(1874年)がある。それまでの油彩画は、筆跡を残すような描き方はしなかったが、ルノワールは堂々とその習慣を破り、そのふんわりした質感を生かして樹木やその葉の生命力と、光の暖かさをみごとに表現した。ルノワールは、磁器の絵付け職人や扇子の装飾職人などを経験して、画家としてもアルチザン的なこだわりで、徹底して独自の丁寧な画法を磨いた。Photo_20191027062501
 「シュザンヌ・アダン嬢の肖像」(1887年)がある。このころから少しずつルノアールの絵は評価されはじめたようで、この絵のモデルは高名な銀行家の10歳の令嬢である。これは油彩画ではなく、紙の上へのパステル画である。幼い少女だが、パッチリした眼は、大人になろうと意識し始めた幼いエロスを発散している。今回の展覧会のポスターに採用された作品で、ふと見たときはさほどの印象もなかったが、ゆっくり観ると顔の描写もなかなか凝っていて、長い間長めても飽きない内容の濃い作品である。長い髪の毛の描写に用いられた色彩だけでも、実に多彩な色が用いられている。
 この少しあとの作品として「幼年期(ジャック・ガリマールの肖像)」(1891年)がある。幼い男の子の肖像だが、興味深いのは、子供の歯並みの上にごく小さな黒い点を描き込むだけで、幼い子供の歯がまだきれいに生え揃っていないのをみごとに表現している。ルノアールの絵は、どれも安心して楽しめるという感覚は、まったく変わらない。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (2)

印象派のひとびと マネ・モネ
Photo_20191025061401  エドゥアール・マネ「イザベル・ルモニエ嬢の肖像」(1879年)は、とても魅力的な作品である。当時のパリは、詩人ボードレールが現代性「モデルニテ」を主張し、都市生活を題材とした作品が流行した。ボードレールが愛した画家のひとりが、このモネであった。この絵の描写は、顔を丹念に描く一方で、身体や衣装は平面的に速筆で描き、その対比がかえってルモニエ嬢の清楚さを引き立てている。顔の描写も、類型的な美人の描写からはほど遠く、生身の生命感がより鮮明に表れている。マネは、保守的で写実主義的絵画を通したが類型的な表現を嫌い、独自な表現を磨き、サロン・ド・パリへの出展を続けた。若手画家であったモネやルノアールに慕われ、多くの影響を与えたとされるが、結局一度も印象派としては展覧会に参加しなかったという。Photo_20191025061402
 クロード・モネ「サン=ジェルマンの森の中で」(1882年)がある。森の中の樹木のトンネルを、もっぱら光のニュアンスのみでみごとに描いている。普通はこのような題材は、絵画の対象としても、それ以前にとくに美として注目されることすらない対象のように思える、ごくなんでもない題材だが、こうして柔らかな光の陰影を強調して取り出してみごとに表現されると、とても印象的な美となっている。この作品はかなり後のものだが、彼は18歳のとき少年時代を過ごしたノルマンディー地方のアーヴルで、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられたという。
Photo_20191025061501  1898年ころからは、モネは睡蓮を頻繁に描くようになった。そのひとつが「睡蓮」(1906年)である。1900年ころから彼は睡蓮の絵を縦長の正方形に近い画面に、より上からの角度で描くことが増えたという。上方から眺めた水面に漂う睡蓮と、水面と、水面に映る空をそこはかとなく描いている。描かれる対象は、どれひとつとしてとどまるものがない。描かれた画面は静止していても、眺める我々は、描かれた睡蓮も水も、そこに映る空も、みんな浮遊していることを知っている。光が時間とともに過ぎていく。美しさというより、なにかとても豊かな、贅沢なものが表現されている。

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「印象派からその先へ」兵庫県立美術館 (1)

 吉野石膏コレクションから、印象派とその後の作品群を公開する展覧会である。 Photo_20191023062901
 吉野石膏株式会社(本社東京都)は、山形県吉野村(現南陽市)にある吉野鉱山で石膏原石の採掘を1901年から開始して、主に石膏ボードを中心とした建材をわが国の老舗として製造販売してきた、長い伝統を誇る会社である。1970年代から日本近代絵画、さらに80年代後半からはフランス近代絵画の蒐集を蓄積してきた。1991年以降は、地元の山形美術館に多くのコレクション作品を寄託している。印象派の中心をなす画家の作品を中心に、バルビゾン派から20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスム、さらにエコール・ド・パリまでを網羅する国内屈指のコレクションである。

印象派のひとびと コロー・クールベ
 展示の冒頭に、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの「牧場の休息地、農夫と三頭の雌牛」(1870-74年)がある。描かれた風景は、ごく普通の生活感あふれた農村である。連なる喬木の並木が画面を薄暗くする一方で、空からの光の明るさがコントラストから際立つ。農民の厳しい労働のなかのひといきの休息の空気感が漂う。
Photo_20191023062701  ギュスターブ・クールベの「ジョーの肖像、美しいアイルランド女性」(1872年)がある。写実派として知られたクールベが、美しいと思った人物をそのまま描いたという自然な感じがある。
 この他、ジャン=フランソワ・ミレーの「バター作りの女」(1870年)がある。バルビゾン派の代表的な画家のひとりであったミレーが、晩年に描いたもので、彼がサロンに出展した最後の作品だそうだ。はたらく女性を多数描いてきたが、晩年に至って、描かれた女性たちは徐々に逞しさを増していったという。たしかにこの絵の女性は、貧しくつらそうに働く女性ではなく、堂々と逞しく働いている。画面に登場するニワトリや猫が、働く女性にすっかり調和している。説明によると、だまし絵の技法を取り入れたサインが記されているそうである。

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映画「Long Shot」

ハリウッドらしい風刺喜劇
 アメリカではじめての女性大統領の誕生を題材にしたコメディである。
 体を張って取材を続ける冴ない風貌のジャーナリストであるフレッドは、子供のころ近所に住む利発な年上の女の子シャーロットにベビーシッターをしてもらっていた。そのシャーロットは、傑出した教育と経歴を積み重ねて、なんと次期大統領候補になっていた。
 勤務していた会社が悪辣なメディア経営者に買収されたことに憤慨して失業したフレッドは、求職機会をもとめて政治家が参加するあるチャリティー・パーティに参加したとき、偶然にシャーロットと再会する。幼いころ実は互いに気になっていた二人は、内心はおおいに喜ぶが、大統領候補になろうとするシャーロットは、会うべきハイランクの人たちが多すぎ、無職のみすぼらしいフレッドとは、住む世界が違い過ぎた。
 しかし、後日フレッドが書いたコラムを読んだシャーロットは、彼の才能を認めスピーチ・ライターに抜擢して採用する。政界で頂上にのし上がろうと懸命に努力するシャーロットと、頑固な社会派ジャーナリストであるフレッドは、さまざまに行違うが、同時に共感するところもあり、やがて密かに愛し合う関係にまで発展する。
 大統領候補として選挙に勝利するためには、身辺にあやしい人物、品格を汚す人物は禁物と彼女を支援する現職大統領からアドバイスをうけ、シャーロットはフレッドの存在を公表することを躊躇う。フレッドもそれは理解する。しかし、自分の意思に忠実であれ、とアドバイスするフレッドに共感したシャーロットは、率直なスピーチを断行して、結果として大成功し、ついに大統領になる。その「ファースト・ミスター」は、チビでお腹の出たフレッドであった。
 ストーリーは他愛のないファンタジーだが、ハリウッドの政治的主張も込められ、軽いけれどもビリリと風刺もある作品となっている。どうしてもハリウッドは、リベラル、民主党が大好きらしい。まあ、それなりに楽しめる映画である。

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映画「Rocket Man」

偉大な才能と並外れた不幸の融合
 イギリスの偉大なミュージシャンであるエルトン・ジョンの伝記的作品である。ミュージカルのように多くの音楽が流れるが、印象としては通常の伝記映画に近い。
 卓越した才能をもった人物が、きわめて理不尽ともいえるような厳しい不幸に遭遇したとき、そのすぐれた天分がさらに飛躍的に発展することがあるのだろうか。父親には愛されず、母の不倫を幼少期から見て、先天的になのか境遇からくる後天的になのか、ゲイであった。この映画では、彼がゲイになったことの原因が、父の愛情喪失と母の不倫による女性不信であったかもしれないと主張しているようにも見える。きわだって成功したミュージシャンには間違いないが、きわだって不幸であったことも間違いない。
 この映画を観る限りでは、自分のことだと考えたらとてもやりきれないけれど、やはり彼のたぐいまれな才能は、彼のたぐいまれな不幸によって培養・錬磨されたように思える。
 大成功の明るさはないが、全体として暗すぎるような映画でもない。登場する俳優の良さのお陰もあって、結果としてとても良い映画作品となっている。

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矢崎源九郎『日本の外来語』岩波新書

日本語の豊かさを育てる意識と努力の必要性
 1964年刊行の新書である。言語学者が、日本語のなかの外来語について、日本人と日本語のために丁寧かつ気さくに書いてくれたエッセーという感じの新書である。
 日本語には、1960年代にすでに1万以上の外来語があり、その半数くらいは知っておかないと知的生活には多少とも支障があるという。外来語の大部分は英語由来であり、その英語も、そのもとはフランス語をはじめとする英語以外のことばからの借用となっている。イギリスは1066年のノルマン朝発足から300年くらいの間に猛烈な勢いでフランス語を取り入れた。日本は戦国時代ころから、ポルトガル、スペイン、中国から多くの語彙を得た。そして明治維新以降には英語、フランス語、ドイツ語を大量に取り入れた。歴史的な経緯は、いずれの国でも外来語に大きな影響を与えている。
 現在私たちの周辺に定着している耳慣れた外来語も、そのもとを遡ってたどれば、興味ある事実に行き当たることが書かれている。たとえば、テニスのボレーと、バレーボールのバレーとが、実は同じ言葉のイギリス式とアメリカ式の発音から由来していることなどはおもしろい。
 著者がいうとおり、日本にない発音を持つ原語を日本語として取り入れる場合も多く、その場合日本語に馴染みやすい発音に変形されてしまうのも当然の成り行きであり、どこまでもとの外国語に近いものとできるか、日本語として馴染みやすいものとなり得るか、は簡単な問題ではないだろう。著者が説明してくれる具体例は、それぞれ興味深いものばかりだが、外来語の「不自然さ」には、それぞれにもっともらしい要因があって、簡単に割り切れない難しいものばかりである。
 この書が記された時代から半世紀以上が経ち、近年ではやはり英語が圧倒的に多いのは変わらないが、コンピューターや情報工学にかんする簡略語、たとえばリゾ=resolutionやAI=人工知能など、ごく短い略語が大量に溢れてきている。外来語はこれからも一層大きな勢いで入ってくるのは間違いないだろう。著者のいうとおり、流行に乗っていったん普及するものの、すぐに廃るようなものでなく、日本語を豊かにするものを育てるように、私たち一般人が意識して、継続して努力することが大切であろう。

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広尾克子『カニという道楽─ズワイガニと日本人の物語』西日本出版社

 「かに」を求めてかにの産地に宿泊までして出かけ、その美味に満喫して帰ってくる。これは、たしかに他の食材に普遍的にみられるようなことではない。著者はこれを「カニのグルメツーリズム」、略して「カニツーリズム」と名付けて調査・検討し、この本を記した。
 著者は、長年旅行会社で活躍したキャリアウーマンであり、勇退後このカニツーリズムを探求しようと大学院博士課程に入学して、数年間学問的に研究してきた。
 海洋生物、漁業などを研究対象とする民俗生物学・生態人類学の学者である秋道智彌が「カニと日本人の関係をこれほど掘り下げた本はかつてない。」と推薦文を記しているが、それは著者のそういう背景による。
 ジャーナリスティックな、カニとそれにかかわる人々の動きの観点からの解説は当然として、旅行の専門家としてカニツーリズムのこれまでの経緯について詳しい調査と考察があるだけでなく、生物学的観点から、食物学的観点からなど実に多面的かつ長期的視野から論考している。カニに関わる人々の経営学的観点からの考察も、いわゆるジャーナリストでは到底到達できない水準のもので、民間企業の幹部経験者ならではのものといえる。また、ジャーナリストではない学者の視点として「なぜそうなるのか」を詳しく論考し、かつ議論の分かれるところは慎重に両論併記するなど、片寄の回避・公平性の担保も配慮されている。
 なにより、カニという食材と食文化が、たんにブランドや流行に左右されることなく、純粋にカニの美味を愛する多くの人々の欲求を、愚直に満たす方向で普及・発展してきたことが、よくわかる。
 旅行の元専門家でありかつ社会学者であるだけでなく、なにより心からカニを愛するグルメで酒好きたる著者の、パッションとエネルギーの迸りが伝わってきて、高度で内容豊富なだけでなく、とてもおもしろい本である。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (4)

伝統と文明開化と
Photo_20191013061501  暁斎は、幕末の若い時代から明治中期の晩年まで、一貫して日本の伝統的なテーマの作品を制作していた。晩年には、毎日『日課観音図』と日記のように、観音様の絵を一枚ずつ描き、一定数が貯まると、上野護国院、浅草寺、知恩院などに奉納したという。その作品の一部も展示されている。
 「閻魔・奪衣婆図」(明治12-22年)がある。人間の死期の世界を仕切る閻魔と奪衣婆という妖怪なのだが、その怖さもわきまえずに、閻魔の背中に乗っかって一心に恋文か御籤かを木の枝に結び付けている、あるいは奪衣婆の髪の毛を搔き分けて虱を除いてやっている、いずれも無心に熱中している美しい若い女を描いている。死期の世界では大きな存在である閻魔と奪衣婆も、死とは縁遠い若くて美しい女性にはかなわないな、という自嘲ぎみの表情である。伝統的な画材を丁寧に描く一方で、軽妙なユーモアがある。
Photo_20191013061601  「文昌星之図」(明治20年1887)がある。文昌星は、北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第一星のことで、魁星(かいせい)ともいう。中国では科挙受験の守り神とされ、日本では文学の神となった。本作では右手に筆、左手に斗(ます)を持った鬼として描かれる。「魁」の字を絵解きしたものだという。
 明治の文明開化にかんして「東京名所之内 上野山内一覧之図」(明治14年1881)がある。画面の上方には、誇らしく近代的建築たる上野博物館が描かれている。この博物館こそ、彼の弟子であったジョサイア・コンドルが設計したものであった。ここではさまざまな新しい風物が描かれている。
 河鍋暁斎は、若いころは師から「画鬼」と才能を認められ、弟子のジョサイア・コンドルからも驚異の眼をもって尊敬され、じっさい誰が見ても卓越した技能を持っていた。その基本の上に、日本の伝統的芸術としての絵画を、伝統から連続的に発展させ、自分の意志で新たな西欧文化に対峙しつつ取り入れるべきは取り入れ、独自の世界を自力で構築した。Photo_20191013061701

 河鍋暁斎が生きた幕末から維新の時期は、日本が大きく変動する時代であり、世相にはかなりの困惑や混乱があり、人々の価値観にも大きな動揺があったはずである。そのなかで暁斎は、政治・社会に対して十分関心を注ぎ、批判的、風刺的な作品を多数残した。明治3年に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主でもあった。しかし、彼の思考は古い日本文化ばかりを攻撃したり、あるいは新たに入ってきた西洋文化を排撃したりするものではなく、彼なりの「江戸時代から連続性をもって変遷しつつある日本」という確かな意識と意志があった。地に足が着いた、自信あふれる批評であった。こうした激動の時代にあって、決して自分を見失うことなく、また広く多くの知己を得て、自分の才能を遺憾なく発揮しつつ大いに活動した。このような逞しい優れた人材が当時のわが国に存在したことは、わが国の誇りとして良いだろうと思う。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (3)

河鍋暁斎の画業
 河鍋暁斎は、幕末維新という比較的新しい時期に活動した画家であったこともあって、作品そのものだけでなく、その準備過程で制作した習作や下絵などを多数残していて、われわれ鑑賞者に多くのヒントを与えてくれる。Photo_20191011062601
 東京大学に、その前身の工部大学校のときから外国人教授として招聘された、ジョサイア・コンドルというイギリス人建築家がいた。彼は、明治10年(1877)来日し、大正9年(1920)日本で死ぬまで43年間を日本で過ごした。辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた、また民間の建築設計事務所を自ら開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。鹿鳴館を設計した人物でもある。日本女性と結婚し、日本にとても深い愛着をもっていた人物だが、彼はさらに明治14年(1881)から、絵師河鍋暁斎に弟子入りしたのであった。そのコンドルが残した言葉として、「暁斎先生は、弟子に動物の写生の習得を厳しく教えた。写生は、見たものをそのまま忠実に描くのでは足りず、その自然の形態を深くしっかり心の中に留めること。そうすれば、実際に直接見なくても、対象のさまざまな姿勢・動きが頭の中に鮮明に浮かんで、自由に生き生きとした動物を描くことができる。」と。しかも暁斎先生は、それを実行していた、と。
Photo_20191011062501  多数の下絵が展示されているが、たとえば「蛙の軽業 下絵」(明治初年~10年ころ)がある。カエルとヘビが描かれていて、一見何でもないようだが、じっくり眺めると、ひとつひとつの生き物がそれぞれに個性的で、実に生き生きしていることに気づく。
 「大森彦七鬼女と争う図」(明治13年1880)がある。大森彦七(大森盛永)は、南北朝の戦いで北朝側の勇将として楠木正成を敗死させた人物として伝えられている。彦七は、正成殺害の後、正成の怨霊に悩まされたが、この絵は、あるときふと背中を貸した老婆が、突然鬼女に変身し、髪の毛を捕まれ殺されそうになった場面である。彦七と鬼女のダイナミックな描写、顔の表情や手足の力強い描写、画面に扇型に広がる迫力ある構図が印象的である。
 習作のなかには、動く人物を描くに際して、まず裸体の人体を描き、その上に着衣を描き込んで仕上げる、さらには骸骨から描き始める、などの例が展示されている。そういう手続きを踏むことで、どのくらい写実や表現が向上したのか、素人の私には判然としない面もあるものの、そのような考察と試行を真剣に実行するという暁斎の探求心と向上心と執着心には、深く敬意を禁じ得ない。Photo_20191011062701
 陶器の絵入れもしている。「百鬼夜行筆洗」(明治4-22年)は、親交があった陶工井上良斎の作品に暁斎が絵を描いたものである。内側は三つ分かれ、暁斎百鬼画談に登場する妖怪と、それを見て驚く蛙が描かれている。側面は、付喪神など妖怪の行列が流れるように空間を埋めている。自由で楽しいとも言えるが、筆洗いという器具にこのような奇抜な絵柄を導入するというのには、いささか驚かされる。
 暁斎は、その画業において、この井上良斎の他にも、実に多方面の人々とのネットワークを築き、多彩に広範囲に活動したことも特筆される。東京大学医学部に教授として招聘されたエルヴィン・フォン・ベルツとも親交があり、ベルツが持ち帰った暁斎の作品がドイツのビーティヒハイム・ビッシンゲン市立博物館に所蔵されていて、今回の展覧会でも6点が展示されている。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (2)

河鍋暁斎が見た幕末維新
 その翌年文久3年に描いた「海上安全万代寿」がある。ときの将軍家茂は、条約勅許を天皇から得るために陸路上洛し、果たせぬまま江戸に帰ったが、その帰路は軍艦順道丸での海路であった。京で天皇から石清水八幡宮参拝への供奉を打診されたが、健康上の事情を理由に断ったのに対して、尊王派から命を狙われたため、安全上の配慮で海路に変更したという。河鍋暁斎は、命の危険を避けて逃げ帰ったこと、その警備と帯同者の物々しかったこと、を風刺しているようである。
Photo_20191009061401  明治維新になっても、暁斎の世情への関心と鋭い批評は続く。「九尾の狐図屏風」(明治3年1870以前)がある。九尾の狐(九尾狐九尾狐狸)とは、中国神話上の生物で、9本の尻尾をもつ狐の霊獣または妖怪である。 中国の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることそのものが、泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされている。しかしこの絵では、画面上半分に大きく描かれた九尾の狐に対して、左手下には中国の、右手下にはインドの、それぞれいささかみすぼらしい裸体の神が、富士山を囮にして、粗末な罠で捕らえようとしている。西欧列強に圧倒されて無駄な抵抗を試みる中国とインド、それら弱小連合にさえ勝手に利用されかねない日本、という構図か。Photo_20191009061501 
 「三味線を弾く女と踊る外国人」という絵がある。色香漂う芸者の三味線に魅せられた外国人の男ふたりが、酔っ払ってもいるのか、すっかり我を忘れて踊り狂っている。暁斎は、日本や日本人に対して厳しい批評の眼を向けるとともに、外国や外国人に対しても違う側面での厳しい批評を浴びせている。
Photo_20191009061601  河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』から「パリス劇場表掛りの場」を描いた絵(明治12年1879)がある。明治12年に新富座で上演された有名な歌舞伎である。漁師三保蔵は、難船によって父と生き別れになり、アメリカの蒸気船に救助されてサンフランシスコに渡る。領事秋津の義妹若葉とともに大陸横断鉄道でニューヨークに向おうとするが、「米国砂漠原野」でアメリカ原住民の一団に襲われ、若葉は酋長に誘拐される。このような危難に遭遇しながらも終幕、パリのオペラ座で秋津や若葉と再会した主人公父子の幕切れの台詞は、「外国のお方ほど親しみの深いものはない」であった。ジャーナリスト福地桜痴、およびプロデューサー守田勘弥の意見を勘案して河竹黙阿弥作が設定した、このいささか荒唐無稽な外国に対する認識の設定も、当時のアメリカ原住民とヨーロッパ系アメリカ人の関係、日本と西欧諸国の関係、それに対応する日本国内の政治的状況、などが反映しているのだろう。

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河鍋暁斎展 兵庫県立美術館 (1)

河鍋暁斎とは
 ぜひ観たいと思っていた「河鍋暁斎」を、会期最終日前日にようやく観ることができた。
 河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)は、天保2年(1831)下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)に、下級武士の次男として生まれた。父は古河の米穀商亀屋の次男として生まれたが、古河藩士河鍋喜太夫信正の養嗣子に入り、母は浜田藩松平家の藩士三田氏の娘であった。天保3年(1832)に一家は揃って江戸に出た。父は幕臣の定火消同心の株を買い、本郷御茶の水の火消し屋敷に住み、甲斐の姓を名乗った。河鍋暁斎の幼名は周三郎といい、直次郎という兄がいて、周三郎は河鍋氏を継いだ。天保4年(1833)周三郎は母に連れられて館林の親類、田口家へ移った。このころ、周三郎わずか2歳のとき、初めて蛙の写生をしたと伝える。
Photo_20191007060001   天保8年(1837)かぞえ7歳とき暁斎は、浮世絵師歌川国芳に入門した。国芳は門弟に、人間のさまざまな姿勢・形態を注意深く観察すべきだと厳しく教えていた。若き暁斎はこの師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を携え貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いた。天保10年(1839)5月、梅雨の長雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、「生首の写生」の奇怪な伝説を残した。これらのエピソードは、後の暁斎の行動に繋がっているようだ。
 天保11年(1840年)、画師国芳の素行を心配した父により、国芳のもとを去って狩野派の絵師前村洞和に入門した。洞和は暁斎の画才を愛し、「画鬼」と呼んだという。しかし洞和が病に倒れたため、駿河台狩野家当主の狩野洞白に預けられた。この狩野派門弟時代の逸話に、鯉の写生の話がある。修行に熱中し過ぎた疲れを癒そうと、暁斎は塾生たちと川遊びに出かけ、そこで3尺近い大きな鯉を生け捕った。暁斎は遊び仲間を置いて急いで画塾に戻り、この鯉のあらゆる部分を忠実に写生し、鱗の数までも正確に数え上げた。写生を終えると仲間たちは鯉を殺して食べようとしたが、暁斎は鯉に恩義を感じて殺すことに反対した。しかし兄弟子たちは聞く耳持たず料理を始めようとしたところ、鯉は突然激しく飛び上がり、結局暁斎の意見が通って近くの池に放たれた。後年暁斎は、自分の鯉を描く技倆が優れているとすれば、それはこの事件によるものだ、とよく語ったという。卓越した才能とも、かなりの変人とも思えるエピソードではある。
 嘉永2年(1849)暁斎はわずか17歳にして、洞白より洞郁陳之(とういく のりゆき)の画号を与えられた。やはり狩野派から出た橋本雅邦によると、狩野派の修業は通常入門から卒業まで11、2年かかると記していて、9年で卒業した暁斎は非常に優秀であるといえる。嘉永3年(1850)館林藩の絵師坪山洞山の養子になり、坪山洞郁と称した。
 Photo_20191007060301 暁斎は、事情あって坪山家を離縁されたが、その後は土佐派、琳派、四条派、浮世絵など日本古来の諸画流を広く学んだ。そして23歳の安政2年(1855)10月に起こった安政江戸大地震の時に、同年代の戯作家仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」によって本格的に世に出た。
 安政4年(1857)25歳のとき、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに、父の希望で河鍋姓を継承した。
安政5年(1858)、狩野派を離れて「惺々狂斎」と号し、浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を得た。万延元年(1860)からは、周麿と称して錦絵を描き始めている。幕末期は、『狂斎画譜』『狂斎百図』などを出版したほか、漢画、狂画、浮世絵などを多作した。
 暁斎31歳のときの「鐘呂伝道図」(文久2年1862)がある。中国五代の高名な仙人鐘離権が、その弟子呂洞賓に東華帝君の教えを記した書を伝えたという伝説を表現する絵である。この題材には、山城西源院に伝狩野正信筆があり、狩野派のひとつの定番の題材だったのだろう。素人の私が見ても、その筆力が卓越していることは一目瞭然である。

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ブルクハルト『世界史的諸考察』(7)

世界史における幸不幸について
 ここでは、歴史の結果にたいする人々の評価についての論考である。歴史に対する人々の評価の妥当性は判断しにくいが、いくらか大きな時代の継続を見渡せば、判断の妥当性はわかる。
 歴史への私たちがする評価には、いくつかの性癖がある。興味あるように思われるものを幸福としてそれに味方し、倦怠を感じるものは不幸として反対する。すなわち私たちは遠い時代の望ましいもの(そんなものがあったとして)を私たちの想像力の楽しみとすりかえる。人は自分の趣味で判断することもある。あたかも誰にとってもまさに貴重なものであるような要素があれば、それが強力であったような時代や民族を幸福とする。また、人は安全性で幸福を判断しがちでもある。しかし安全性こそは、他の点では永遠の輝きで周囲を照らし人類の歴史において終末の日まで高い地位を占めるであろうと思われる多くの時代でさえ、実は気遣わしいまでに欠落していたものである。
 そして最後に共通する傾向として、人々の「利己主義」による判断をあげるのである。私たちの本質となんらかの類似性をもつ時代をとりあえず幸福と考え、私たちの現在の生存と比較的快適な状態であることの要因のように思える過去の力や人間を賞賛すべきものとする傾向がある。自分の現在の時代をこれまでの歴史的経過の充実した結実とみて、実際の過去の歴史がただ多くの過ぎゆく波のひとつだとは考えない。しかしすべてのものはひとつひとつ私たちをもふくめて、ただ自分自身のためばかりでなく全過去と全未来のために存在するのであり、そのような偉大な全体に対しては、民族や時代や個人が抱く幸福や快適に対する要求は、きわめて従属的な意味にすぎなくなるのである。そして幸福な状態があったとして、その状態にとどまることができると考えるのは、実は大いなる過ちである。留まることは停滞であり死への道である。さらに積極的な感覚としての幸福の表象が偽りで、幸福とは苦痛のないことに過ぎず、せいぜい成長の微かな感情と結びついているに過ぎない。外から見る印象として、長い間同じ姿を保ち、可もなく不可もなくその運命に満足しているような民族も存在するが、それはたいてい専制政治の結果である。専制下の最初の世代はきわめて不幸を自覚するが、後の世代はすでにその前提の下に成長し、ついには変えられないことを変えることを欲しないまま体制を神聖化し、おそらくは最高の幸福としてそれを讃えるようになる。
 すべての成功した暴力行為も悪であり、不幸であり、少なくとも危険な実例である。しかしたとえ暴力が権力を築いたとしても、やがて時とともに人類は不屈の努力で単なる力を秩序と法制に変えるべく前進するのである。人類は暴力状態を治癒する能力を持ち、癒すのである。私たちが認識できる歴史的展望を直ちに世界史の摂理と理解することには、十分心しなければならない。また、暴力によって時ならずして奪い去られた真実の個人の生活は、どれもただ取り返しがつかぬものと断じて差し支えない。
 貴重な芸術については、不幸にも歴史から姿を消してしまった、つまり失ってしまった作品が、その事態が、後の新しい優れた芸術作品を誕生させるチャンスを与えたのかも知れない。[完]

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ブルクハルト『世界史的諸考察』(6)

個人と普遍(歴史的な偉大さ)
 歴史の進展は、偉大な人物に負う側面と範囲が厳然としてある。ブルクハルトは、「世界史的運動が単なる死滅した生の形式や反省的な饒舌から周期的に断続的に自由になるために、偉人達の存在が私たちの生活には必要だ」(261ページ)という。そして「思索する人間にとっては、これまで過ぎた全世界史を前にして、どのような偉大さに対しても精神を開いておくことが、高度の精神的幸福の数少ない確かな条件のひとつだ」とする。
 まず美術家、詩人、哲学者についてである。これらの存在価値は、①時代や世界の内的実質に直観をもたらすこと、②それを不朽の叡智として後世に伝承すること、にある。美術や詩の偉大さには、3つの階層がある。第一級の真の偉大さの外周に、第二級の偉大さとして第一級を伝承し様式化として固定することで第一級を指し示す。さらにその外周に第三級として外面化を行い偉人が何にどのように偉大であったかを表現するのである。
 神話の創始者や宗教の創始者も、名前を知り得ないものも多いが、かけがえのない偉人である。
 そしてようやく、歴史上の偉人たちについて述べられる。チンギス・ハン、カエサル、クロムウエル、アレクサンドロス大王、カール大帝、ピョートル大帝、フリードリヒ大王、法王グレゴリウス1世などが取りあげられ、それぞれに解説がある。
 偉大さの本質として、まず「何が解決すべき問題か」を的確に把握し、「どうすれば解決できるか」を知り、「いつまでにできるのか」を見積もれることが必要である。そして課題を達成するために、情勢をわがものとする強靭な意志力、心の強さが求められる。さらに「心の偉大さ」ともいうべき資質がある。例としてナポレオンの言葉が引用されている。「私はここ(ルイ16世の椅子)に座りながら、人の薦めることのできる善いことは、すべてやるというようなことはしないように、十分気をつける必要があることを、まもなく悟るようになった。そんなことをすれば、世間の人々の考えはさらに私を上回ってしまうだろうからである。」そして、今やナポレオンは、フランスを、後見を要するもの、または病めるものとしてではなく、手に入れた獲物として取り扱うのである。
 偉大な人物は、多くの場合戦争と、その結果として後に残る影響の内容に大きく関与する。例として、古代ギリシアの二人の人物、ペルシアとの戦いに勝ったがギリシア・アテナイからも距離を置き、アテナイから陶片追放されてペルシアに自死したテミストクレス、そしてアテナイのデマゴーグでスパルタに寝返りペロポネソス戦争でのアテナイの敗北をもたらしたアルキビアデスである。
 個人の偉大さは、①その全生活の最高の表現として現れるか、あるいは②在来の状態を変革する死を賭した戦いとして現れるかのいずれかである、とする。偉大さの使命は、それが個人的なものを超えた意志、つまりその出発点に応じて神の意志とか、国民または全体の意志とか、一時代の意志とかに名付けられるひとつの意志を実行することにある。そのとき、無限に多数の人々の力と力量とが集中しているひとりの人間が必要となる。つまりその偉大な個人は、国家が本来欲したに違いなかったものを知りそれを実行する。しかし国家がこれを正しくもあり偉大でもあると認めるのは後の事である(253ページ)。

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ブルクハルト『世界史的諸考察』(5)

歴史的危機
 歴史を進める基本的な力たる国家・宗教・文化が、相互に関連をもって歴史を動かすのは、漸進的・永続的な運動であり、ある種の平衡点の近辺を前後してゆらぐような性質のものであるが、現実の歴史はこれらの諸力の他に、突然加速度的に急激かつ甚大な変化をもたらす要素、敢えて危機と呼ぶようなものがある。
 危機の典型が戦争である。ヘラクレイトス「戦いは万物の父」というが、国民の力は戦争をして勝敗を決したときのみ知ることができる。ただ戦争の暴力行為は、たとえ成功したものであっても少なくとも醜聞(スキャンダル)に過ぎず、高く評価すべきではない。戦争はできうる限り正しい名誉ある戦争であるべきで、防衛の戦争であるべきである。
 古代ローマ帝国は、さまざまな反乱が起こったが、いずれも帝国そのものを崩壊させるだけの力にはならず、強権を持つ者が交代はしたが、帝国は存続した。これが崩壊させられたのは異民族たるゲルマン人の移動による侵略が発生したときであった。ここで新しい物質的力の流入と融合が余儀なくされた。イスラム教の侵略も、聖戦の戦死者に天国を、勝利者に世界支配を約束する狂信に対抗するには、ササン朝やビザンティン帝国は根本的な変革なしには抗し得なかった。
 宗教改革の場合は、僧侶階級の改革と教会財産の適度な縮小で回避できたかもしれない。はじめは新しい教会などという積極的な理想や理念はなかったのである。
 1789年のフランス革命は、暴力行為を回避することははるかに困難であった。知識階級にはめざす具体的な夢としての目標があり、大衆には積年の憎悪と復讐心があった。
 人間のなかには、周期的に大きな変化への衝動があり、危機の前提条件はごく短時間に大衆に感染して爆発するのである。第一次十字軍(1095年)やドイツ農民戦争(1524年)が挙げられる。このような危機には、一定の相貌がある。最初に抗議に亢奮した群衆の発生があり、ついでそれに加えて直接は関係しない原因を含む強大な追い風がある。そして従来となにかちがったものを得たいと願うすべてのひとびとの合流がある。この盲目的な結集、予期しない同盟者こそが大変革の実力となるのである。
 危機のはじまりの理念的側面については、貧窮している人ではなく、向上に努める人が貢献する。彼らが始まろうとする危機に理念的な輝きを与えるのである。そうしてできた絢爛たる希望の茶番劇が、つぎに国民の全階層に伝わる。希望に満ちた幻想の時期がくる。
 このような危機のはじまりに対して、その最初の段階で評価するのは非常にむずかしい。事を決するのは、計画ではなく燃料の大きさなのである。そして物的反対によって燃え上がる。本物でないかまたは不十分な危機は、最初の喧騒が大きくとも、たちまち衰える。
 ブルクハルトは、ペロポネソス戦争、フランス革命を例にとりあげ、革命の進む中で、情熱の冷却、反動、恐怖政治、俗悪者の台頭、政治的専制への移行、など予期せぬ者の出現や予期せぬ方向の発生などが述べられる。たとえば、フランス革命では、自由があまりに悪しき人の手にあるのを見た人々が、自由を欲しなくなって専制を望んだ。しかし専制は本来無保証で恣意的であり、既存の大きな力の相続者として外部への武断的政策をとらずにはいられなかったのである。

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