2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
フォト
無料ブログはココログ

« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »

2019年12月

伊藤詩織さんの裁判に対するメディアの態度への違和感

社説 伊藤詩織さんの裁判 性被害者を守れる社会に
              毎日新聞2019年12月27日 東京朝刊
  ジャーナリストの伊藤詩織さんが性暴力を受けたとして、元TBS記者の山口敬之氏を訴えた民事裁判で東京地裁は山口氏に賠償を命じた。 
 判決は、深酔い状態で意識のない伊藤さんに対し、山口氏が合意のないまま性行為に及んだと認定した。
 伊藤さんは準強姦(ごうかん)容疑で警視庁に告訴したが、東京地検は不起訴にした。検察審査会も不起訴を相当としたため、民事裁判を起こしていた。
 厳密な立証を求める刑事事件と異なり、民事裁判は当事者双方の主張を聞き、より信用性が高い方を採用する。判決は、伊藤さんの主張の方が信用できると判断した。山口氏は控訴の意向を示した。
 伊藤さんは山口氏に就職の相談をしていた。地位や関係性を利用した性行為は人権を踏みにじるものだ。
 2017年に伊藤さんは記者会見して被害を訴え、著書を出版した。性暴力を巡る社会の認識や司法の問題について見解を発信してきた。
 同時期、米国から広まった性被害告発の「#MeToo運動」は、日本にも波及した。性暴力に抗議する「フラワーデモ」も拡大している。
 伊藤さんの行動は、こうした動きを勇気づけた。判決も、伊藤さんの会見や著書を「性被害者を取り巻く法的、社会的状況を改善しようと公表した」と公益に資すると認めた。
 一方で、伊藤さんは被害を訴えた後、インターネット上や右派系雑誌で数々の中傷を浴びてきた。
 日本では性暴力について、被害者にも落ち度があるとの偏見が根強くある。社会の目や人間関係を気にして声を上げられず、心に深い傷を抱え込んで生きる被害者は多い。
 内閣府の調査では、女性の13人に1人は無理やり性交された経験があり、6割は誰にも相談しなかった。
 山口氏は判決後の会見で、別の性被害者が「本当の被害者は会見で笑ったりしない」と話していると述べた。被害者に沈黙を強いる発想だ。
 性被害者が守られる社会を築くには、相談しやすい環境の整備が欠かせない。何より社会の無理解をなくしていく必要がある。
 今回の件で山口氏には逮捕状が出たが、執行されなかった。伊藤さんはこの点を問題視している。山口氏は安倍政権と近い関係にあったとされる。経緯の検証も求められる。

 一見、人権尊重の立場からのもっともらしそうな記事に見えるが、冷静に眺めると、かなり強い偏見あるいは独りよがりに満ちた記事である。
 第一点目は、この新聞社のわが国の刑事訴訟に対する偏見あるいは軽視がある。この記事でもいう通り、東京地検に加えて検察審査会も立件しなかった案件である。日本が法治国家であるなら、本件の山口氏は無罪と認定が確定された人物である。それを、後日民事訴訟で「損害賠償」の判決が出たということだけで、しかも控訴があり確定していない案件なのに、まるで山口氏の準強姦が有罪であるかのような記述は、正当なメディアのものとしては、きわめて危うい、むしろ予断と偏見に満ちたものと判断せざるを得ない。わが国が中国や韓国などのように、法律を蔑ろにする国家だと言いたいのだろうか。もしそうなら、中国や韓国などの現実を、わが国の現実と公平に比較して、どのように評価しているのだろうか。
 第二点は、このメディアの予断と偏見がそれだけにとどまらず、「山口氏は安倍政権と近い関係にあったとされる。経緯の検証も求められる。」と、強引にこのメディアが一方的に忌み嫌う安倍政権への攻撃にこじつけていることである。「検証も求められる」根拠が、「あったとされる」という未確認で無責任なひとごとに過ぎないのである。なんでもかんでも安倍批判と、まるで一向に国民の支持を得ない一部の野党や、ヤスモノのテレビ・コメンテーターの疑惑捏造のような報道姿勢は、到底まともな報道機関とは考えられない。
 毎日新聞も、ここまで落ちぶれたか、とおもってしまうような記事である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (19)

バーハーバー-4 市街地
 ロブスター・ボートから下船したあと、この町や近辺の歴史を知りたいと、マップにBar Harbor Historical Societyという名のある建物を訪ねてみることにした。名前から推測して、町の歴史博物館あるいはそれに準じた展示などがある施設だろうと思ったのである。船の着いた桟橋にいちばん近い東西に走る通りであるウエストストリートが、この町のメインストリートであり、桟橋から1キロメートルほど西に歩いたところである。La-rochelle
 その場所についてみると、立て札の説明板がありLa Rochelle(英語でThe Little Rocks)という建物で、1903年にJ.P.Morganのパートナーであったジョージ・サリバン・ボードウィンという人によって建てられたものである。
 35の部屋、15のバスルーム、11の暖炉をもつ広大な屋敷で、後には濃縮石鹸の製造法を発明してキャンプベル・ソープ社の社長であったジョン・ドーランス博士の夏の別荘に使われた。その孫は1972年に建物をメイン州に寄付し、現在はバーハーバー歴史協会Bar Harbor Historical Societyに所属している。しかし、中に入って係員に聞いてみると、今では歴史展示ではなく、デザイナー・ショーハウスとして、商用のデザイン展示に使用されているとのことであった。
West-street  La Rochelleから、きた道を戻ると、道の両側はいずれも大きな別荘用の邸宅が並び、現在その大部分がホテルや土産物店として使用されている。町全体がアカディア国立公園の出入り口としての観光地なのである。
 ウエストストリートを東に向かって進む途中に、直角にブリッジストリートという海に向かう道がある。このブリッジストリートを北に少し行くと、バー島Bar Islandというちいさな島があり、本島ともいうべきこのマウント・デザート島と砂洲でつながっていて、干潮のときだけ歩いて渡ることができるらしい。これまでに何度か砂洲の上に橋を架けるというプランがあったが、未だ実現していないらしい。日本の類似の場所として、神奈川県の江の島を思いだす。そういえば江の島は砂洲の上にすでに橋が架かっている。The-bar-harbor-club
 ブリッジストリートを過ぎて少し東にウエストストリートを進むと、バーハーバー・クラブThe Bar Harbor Clubという名の大きな建物があり、一般公開されている。
 これは19~20世紀の富裕者がとくに夏に、この地に大勢集まってきた、バーハーバーの黄金時代の象徴であるとされる。たとえばヘンリー・モーゲンソー(外交官)、ジェイムス・ブレイン(国務長官)、ジョージ・ヴァンダービルト(鉄道王の大富豪家直系)、ポッター・パルマー(実業家)、アモリー・ソーンダイク(実業家)、エドワード・ストッテスベリー、J.P.モルガン(モルガン財閥創業者)、ジョン・S・ケネディ(銀行家)、アトウォーター・ケント(発明家・実業家)、メアリー・ロバーツ・ラインハルト(小説家)などなどの錚々たる名前がならぶ。20世紀後半には、そのような時代は過ぎ去り、建物は衰退して1990年に閉鎖されたが、2005年に改装されて公開されている。
Town-pier  ウエストストリートの東の端がTown Pierで私たちがクルーズ船に乗り込むためのテンダーボートが発着するが、その近くの高台が公園になっている。海に面して、とても見晴らしよく快適な憩いの場となっている。私たちも、ここからわれわれのクルーズ船を背景に写真を撮影した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (18)

バーハーバー-3 ロブスター捕獲の仕掛けと捕獲
Photo_20191226062201  航行時間の後半になって、いよいよロブスターの捕獲が始まった。このロブススター・ボートでの捕獲は、商用目的ではなく学術調査の一環としての免許を得ているそうだ。
 まず、ロブススターの捕獲に用いる仕掛けの籠の説明があった。私たちがネズミやタコの罠として知っているのと同様、後戻りできない円錐状の孔の内側に囮の餌をぶら下げて、ブイの目印の下の海中に沈めておき、定期的に引き上げて捉まえるのである。
イケメン船長の青年が、ひとつのブイに近づき、ブイから海中に下がっていたロープに引き上げ用のロープをロックして滑車で引き揚げた。たしかに籠のなかには、なにか獲物らしいものが見える。
 青年は、籠を開いて、なかからロブススターを取り出した。ロブススターの鋏は、閉じる力は強いので、手で摑まえるにはそれなりの注意とコツが必要だと言う。Photo_20191226062202
 ロブスターの尻尾のように見える下半身の裏側を見ると、雄雌の区別ができると、解説者が教えてくれた。産卵期のメスの尻尾の裏側には、ぎっしり卵が貼りついていて、そんな雌ロブススターは、資源保存のために捕獲してもすぐに海に放すのがルールだという。そのほかまだ十分成長していないロブスターも放たれる。
 ロブスターの鋏は、危険なので鋏の外側からプラスチックの輪をはめて、鋏を開けないようにする。鰐などと同様に、閉じるときの力は強いが開く時の力は弱い、と。
Photo_20191226062302   このボートは商業捕獲ではないので、間もなくすべての捕獲したロブスターは海に返された。一つずつ海に放すとき、解説員の音頭で、英語、フランス語、イタリア語、そして日本語で、「さよなら」を全員で叫んで、放流が行われた。
 この日の停泊で仕込んだのだろう、翌日のクルーズ船内でのディナーで、私たちはロブスター料理を満喫した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (17)

バーハーバー-2 ロブスター・ボート
 バーハーバーのストリートは15~18℃の快適な気温であっても、ロブススター・ボートで海上にでると常に風にさらされるので、ダウンコートが必須である。
幸いロブススター・ボートの乗り場は、すぐに見つかった。Photo_20191224061601
 30人程度の乗客を乗せて、ロブスター・ボートは出航した。船には、60歳近いと思われる説明員の男性と、アシスタントの奥さん、そして船を操縦し、かつロブスターの捕獲を担当する若いイケメン船長の3人が乗務員として乗っている。
 最初に、乗船した客は全員自己紹介をさせられる。自己紹介と言っても、順番にどこから来たのかを言うだけだが、アメリカの広範囲の地域から、そしてフランス、イギリス、ドイツ、イタリアなど海外からも来ていることがわかる。ここでも日本から来たのは、私達の6人だけであった。

バーハーバー沖の灯台と海鳥
 ロブススター・ボートは、桟橋の近くではリゾートホテルとして有名だというバーハーバー・インを海上からながめ、フレンチ湾を進む。途中スクーナー船という縦型の帆をもつ伝統的な船にも出会った。桟橋から離れて停泊する私たちのクルーズ船アンセム・オブ・ザ・シーズ号を海上から眺めた。
Photo_20191224061602  マイクをもった説明員が、いくつかの島や山を、アカディア国立公園のポイントとして紹介してくれたが、予備知識のない私には記憶に残らなかった。
 船は岩礁のような小さな島の上に立つ灯台の傍を通り過ぎる。この灯台は、一般船の航海のためのみでなく、軍用の重要施設だそうで、無人だがソーラーパネル、無線通信装置などハイテクを装備した最新鋭なのだそうだ。
 ロプスター・ボートはさらに進み、いくつかの岩礁の上に海鳥が留まっているのが見える。しかしこのボートのうたい文句のアザラシは、とうとう最後まで確認できなかった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (16)

バーハーバー-1
 翌朝の寄港地は、メイン州北部の景勝地バーハーバーであった。港は大型クルーズ船が着岸できず、テンダーボートで上陸した。ここでのテンダーボートは、船に搭載している非常時避難用ボートを兼ねたものではなく、港が用意しているかなり大型のもので、効率よく手早くクルーズ客が上陸できた。Photo_20191222063201
 上陸したらまずは、ロブスター・ボートに乘ることであった。約2時間で近海を周航して、アザラシの観察とロブスターの漁の実演を見ることができるというのが、このロブススター・ボートの売り物である。
 バーハーバーは、ポートランドから海岸沿いに100キロメートル余り北東にあるマウント・デザート島という島の北東端にある。この島には、アカディア国立公園があり、バーハーバーはその拠点になっている。国立公園を見に行くクルーズ客もいるが、時間もあまりないので、私たちは海の見物を選んだ。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (15)

ポートランド-3 ワッズワース・ロングフェロー・ハウス
W-longfefellow-house  ヴィクトリア・マンションの東側のハイストリートを北西に上る坂を登り、コングレスストリートを東に10分近く歩くと、ワッズワース・ロングフェロー・ハウスがある。ここは、19世紀のアメリカを代表する詩人であり、政治的にも文化的にも大きな貢献をしたヘンリー・ワッズワース・ロングフェローHenry Wadsworth Longfellow(1807-1882)が生まれ、家族と一緒に子供~青年時代を過ごした家である。
 アメリカ独立後の間もない時期1785年に、ヘンリーの祖父ペレグ将軍が建て、ヘンリーの父ステファンとヘンリーの3代にわたって住んだ家である。W-longfefellow-house_20191220062201
 ヘンリーは、ハーバード大学に勤務するようになった1837年以降は、大学のあるケンブリッジに移ったが、ヘンリーの妹アンが1901年に91歳で死ぬまでこの家に住み続けた。
 祖父のペレグはジョージ・ワシントンの側近として独立戦争などで活躍した将軍であり、父ステファンは弁護士として成功したのち、当時はまだマサチューセッツ州の一部であったこの地の州議会議員を長年勤めた地元の名士であった。
W-longfefellow-house_20191220062202  ヘンリーは、幼少期からきわだって優秀で、3歳から私塾に学び、6歳にして早くもポートランド・アカデミーに入学し、14歳でブランズウィックのボウデン大学に入学した。このボウデン大学で、彼は生涯の友となるナサニエル・ホーソーンと出会った。
 彼はきわめて優秀なことは自明であったが、言語学や詩に深く傾倒したので、実利的・現実的な父は深く心配し、そのためヘンリーは詩人に専念することを許されず、ハーバード大学の教授職に就いたという。
 20歳代の初めにして出身大学のボウデン大学で、初代の言語学の教授となり、フランス語、イタリア語、スペイン語で教本を書き、また旅行記「海を越えて ─海を渡ったピルグリム─」を著した。20歳代の終わりには、ハーバード大学の教授となり、ケンブリッジに移転した。そして詩集を刊行した。W-longfefellow-house_20191220062301
 ここポートランドにまだ滞在していた終わりのころ、ヘンリーは、1820年にマサチューセッツ州から分離独立したメイン州の州議会議員も勤めた。周囲から、同じ家にマサチューセッツ州議会議員とメイン州議会議員とが同居している、と話題になったと、学芸員の女性は説明してくれた。
 ヘンリーの妹アンは、結婚したが、未だ子供もない25歳にして夫に死なれた。彼女は、以後再婚せず、兄を含む多くの兄弟・姉妹(父は8人の子持ちであった)とその子供たちの世話をしつつ、ずっとこの家に暮らして屋敷をまもった。
 富豪の別荘のような豪華さや派手さはなく、実質的である意味質素だが、新興国アメリカの知性と政治を担ったエリート一家が住んだ旧家としての、風格と品性を感じた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (14)

ポートランド-2 ヴィクトリア・マンション
 ポートランド灯台からふたたびタクシーで旧市街に戻り、ヴィクトリア・マンションを訪ねた。Victoria-mansion
 この大きな屋敷は、ここメイン州出身でニューオリンズでホテル経営で成功した実業家ラグレス・シルベスター・モースが、夏の別荘として1858-1860年に建てたものである。高名であった建築家ヘンリー・オースチンがイタリア別荘様式に設計した。内装は、アメリカで当時トップレベルのデザイナーとされていたグスタフ・ヘルターが担当した。壁と天井の塗装は、ジュゼッペ・ギィディチーニが行った。建築も内装も超一流を採用して、建設当時からアメリカ内外の高い関心を惹いたという。
 ラグレスとその妻は、ここに死ぬまでの30年余りを過ごし、その後所有が何人かの手に移り、1941年に博物館として公開された。1970年には、国家登録の歴史的建造物となっている。
 当時の最新の技術として、ガス灯、水道、温水セントラル暖房、水洗トイレ、全面絨毯敷の床、さらに別室の召使を呼ぶ呼鈴装置まで装備されている。
Victoria-mansion_20191218061801  3階建ての屋敷の階段にかこまれた回廊の天井と一部の部屋の窓には、ステンドグラスが導入されている。これは、アメリカで私宅にステンドグラスが用いられた最も早い例とされる。
 フランス製の照明器具、ヘルター工房による家具、スコットランド製のカーペット、などがふんだんに用いられている。
ダイニング・ルームの壁面は、アメリカン・チェスナット(栗)の木材を用いてヘルター工房で加工し、レリーフを施した壁材で覆われている。天井にはフランス風のだまし絵が描かれ、イギリス製のガス灯シャンデリアが吊るされている。テーブル上の磁器食器はフランス製、カットグラスはニューイングランド・ガラス会社のものであるという。Victoria-mansion_20191218061901
 召使の部屋には呼鈴があり、主人の部屋から必要時に鳴らすことができるような設えとなっている。
 この建物が建てられた当時のアメリカは、南北戦争やそれにつづくアメリカ産業革命の少し前であり、まだイギリスなどに比べると文化程度も経済力も劣るとみられていたが、このように新興経済人は目覚ましく興隆しつつあり、大いにその勢いを主張したのであろう。決して下品ではないが、成金趣味的な印象と、新しく成長しつつあるエネルギッシュさと、ヨーロッパへのあこがれと対抗心が、入り混じって感じられる。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (13)

ポートランド-1 ポートランド灯台
 前日ボストンを午後7時に出航したわれわれの船は、翌朝8時にメイン州のポートランドに着いた。アメリカのポートランドというと、アメリカ西海岸オレゴン州ポートランドがより有名だが、今回訪れたのは、東海岸メイン州では人口最大の都市ポートランドである。Photo_20191216063601
 メイン州は、アメリカでは紅葉の美しいことで有名らしいが、今回はまだ時期が少し早かったようで、風は強かったが気温は20℃以上あった。
 港からすぐタクシーでサウスポートランドのカスコ湾に突き出たエリザベス岬にあるポートランド灯台を訪ねた。灯台のある地は、フォート・ウィリアムズ公園になっていて、周囲も含めて風光明媚な景観である。絵や写真のモチーフとしてよく使用されるという。 ジョージ・ワシントンの命令により、イギリス軍の海からの侵入を防ぐ目的で、1787年に着工、1791年完成して明かりが灯された。当時は明かりの燃料として鯨油が使用されていた。約80年後の日本の浦和港へのペリー来航のときも、彼らは日本近海での鯨油を目的とした捕鯨を目的に挙げていたから、まだ鯨油による明かりは続いていたのかも知れない。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (12)

イザベラ・ステュワート・ガードナー美術館
 フリーダムトレイルの後は、チャールズ橋南詰近くの地下鉄グリーンラインのノース駅から、ボストン美術館に隣接するイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館を訪れることとした。すでに午後2時近くになり、船に戻る時間を考えると、ボストン美術館は大きすぎてほとんど鑑賞不足となると判断して、相対的にちいさなイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の方にしたのである。Photo_20191214061801
 地下鉄ノース駅で、駅員さんにボストン美術館駅に行くにはどの路線に乘るべきかを聴いた。グリーンラインは終着駅が異なる4つの路線がありE線で行かねばならないことと、そのプラットホームの場所とを教えてもらった。
 地下鉄線はボストン市街の中心部を出ると地上に出て、ボストン美術館駅は路面電車の駅のようになっていて、下車時点での切符の回収がなかった。電車を降り立ったものの、見知らぬ建物に囲まれて、目的地のイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館に行く道が直ちには分からない。通り合わせた学生風の男性に聴くと、ちょうど自分はボストン美術館に行くが、途中まで同じ道程となるので一緒に行こうと親切に言ってくれた。彼はボストン美術館に附属する研修機関か学校かで学びに来ているという。道がボストン美術館に行く道とイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館に行く道とに分岐するところまできて、さらにイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の建物が見える場所まで一緒について案内してくれた。
 そういう親切なひとのお陰でイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館の建物まではたどり着いたが、さてどこから中に入るのかがわからない。建物のまわりを少しぐずぐずしていると、やはり入り口を探している女子大生のようなひとに出会った。彼女も外来者でよくわからないという。折悪しく途中から雨が降ってきた。早く入りたいが、まだ入り口がわからない。結局、美術館の建物の外部を1周近く歩いて、ようやく入り口が判明し、入場することができた。
 65歳以上のシニア料金を支払い、衣服の外から貼り付ける紙のバッジ形式の入場券をもらって、それを貼り付けて入場する。
Photo_20191214061901  この美術館は、イザベラ・スチュワート・ガードナー(1840-1924)が1903年に開設したものである。イザベラは1891年、富豪であった父の死によって莫大な遺産を相続し、美術品の収集をはじめた。
夫であったジョン・L・ガードナーとは、将来自分たちの美術品コレクションのために美術館をつくることを語り合っていたという。夫が1898年に死去すると、イザベラは美術館をつくることを実行に移し、ボストンの湿地帯フェンウェイに土地を購入した。そこにイザベラがかねてギャラリーの雰囲気に相応しいと考えていた15世紀ヴェネツィアのルネサンス風邸宅をモデルとした美術館を建てることとし、その設計を建築家ウィラード・T・シアーズ に依頼した。3階建ての美術館は中庭を囲むようにデザインされ、中庭には四季折々の草花が植えられている。Photo_20191214061902
 イザベラが収集した美術品は、絵画、彫刻、調度品、織物、ドローイング、銀製品、陶磁器、装飾写本、稀覯本、写真、古代ローマ時代の書簡など、2,500点以上にのぼる。時代や国も、中世ヨーロッパ、ルネサンス期イタリア、アジア、イスラム諸国、19世紀フランス、そしてアメリカ合衆国と、きわめて多岐にわたっている。収蔵品の著名な芸術家として、ティツィアーノ、レンブラント、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ、マネ、ドガ、ホイッスラー、サージェント等があげられる。マティスの作品を最初に収蔵したアメリカの美術館は、このイザベラ・ステュワート・ガードナー美術館であったという。
 雨の中入場に手間取り、余裕がなかったので建物の外観を撮影できなかった。中庭は、特別広大なものではないが、丁寧に造園された美しいものである。
 美術品と建物の保護もあってか、展示室内の照明は抑制されており、また邸宅の作品掲示のイメージをそこなわないための配慮なのか、作品の説明は一切つけられず、館内に置かれた数点の案内マニュアルが作品の位置と作者とタイトルを目録のように記述している。そのため、われわれ入場者にとってわかり易い展示とはなっていないが、邸宅そのものとの全体としての開示なので、やむを得ないのかも知れない。
 私たちには、やはりなじみの深いラファエロ、ファン・ダイク、レンブラント、ルーベンス、マネ、マティス、などが目について、印象に残った。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

京都南座顔見世興行 (下)

昼の部
 昼の部は、すべて一幕ものであったが、それぞれの舞台上演時間は長く、全体で途中休憩時間を含めてのべ5時間半の長丁場であった。
 最初の演目は、近松門左衛門作「輝虎配膳」である。越後の長尾輝虎は、仇敵甲斐武田家に仕える軍師山本勘助をなんとかして引き抜きたいと一策を案じ、勘助の妹唐衣が輝虎の家老直江山城守の妻となっているのを利用して、唐衣から勘助の母越路を呼び出し、手厚くもてなして息子勘助を自分の部下にしようと企てる。嫁たる勘助の妻お勝とともに来訪した老女越路は、輝虎の計略を察して、直江山城守が差し出す由緒ある衣も、主君長尾輝虎自らが給仕する配膳も冷たく拒否する。激怒した輝虎が越路に切りかかるのを、勘助の妻お勝が琴を奏でて諫め、ついに輝虎は越路を斬殺することを諦める、というお話しである。Photo_20191212065101
 実在の長尾景虎を輝虎に、直江兼続を直江山城守に、とそれぞれ名前を少しずつ変えてある。事件は、もちろん架空の作り話である。越路のきっぱりとした武士の女の立ち居振る舞い、激怒した輝虎が何枚もの白衣を脱いで片肌になる仕草、刀を振りかざす輝虎の前に琴を奏でつつ立ふさぐお勝の動作、などが見ものとなっている。輝虎を愛之助が、越路を秀太郎が、直江山城守を隼人が、それぞれ演じる。愛之助もいよいよ歌舞伎の中心的俳優になってきたという感じがする。
 二つめは、常磐津連中による「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」である。江戸時代の天明期に作られた作品で、豊臣秀吉を真柴久吉、石川五右衛門を浪速の次郎作と、それぞれ名前を変えて登場させている。お互いの素性を知らない同志の駕籠かき二人が、禿芸妓を駕籠に載せ、街道端でひと休みの間にそれぞれの体験を披露しあう、という舞踊劇である。舞台のはじめの方で、このたび中村梅丸から初代中村莟玉(かんぎょく)となった披露の挨拶があった。満7歳のとき中村梅玉に弟子入りし、師匠に認められて10歳から梅丸を名乗り、このたび23歳にして梅玉の養子となり初代中村莟玉を名乗ることになったのである。「莟」とは、未だ花びらを含み込んでいるつぼみの状態を表わす名詞で、つぼみ、あるいは花蕊(はなしべ)のことを意味する。女形として、若さもあって可憐で美しい有望株である。
 三つめは、「金閣寺」である。江戸時代中期の歌舞伎・浄瑠璃作者中邑阿契らが合作して、宝暦7年(1757)大阪・豊竹座で人形浄瑠璃として初演され、翌年歌舞伎化された伝統的な作品である。本名題は「祇園祭礼信仰記」という全5段の義太夫狂言で、「金閣寺」はその4段目である。文字通り金色に輝く豪華な装置が、大ゼリに乗って上下する仕掛けがひとつの特徴で、この大ゼリは江戸時代にも装置を工夫して実現していたらしい。時代は戦国時代末期、足利将軍家に対して謀反を企てた松永大膳は、将軍の生母慶寿院尼を誘拐して、金閣寺の上階に幽閉していた。松永大膳は、金閣寺の天井に龍の絵を描いてほしいという理由付けを用いて、画聖雪舟の孫娘たる美貌の画家雪姫をおびき出し、関係を迫った。しかし許嫁狩野之介直信をもつ雪姫ははっきりと断り、そのため桜の木に縛り付けられる。時は桜の散る花吹雪のなか、祖父の故事を思いだした雪姫が、涙と花びらで足でネズミを描くと、絵から飛び出したネズミが縄を食いちぎり、雪姫は脱出する。大膳のまわりには、他に真柴久吉(羽柴秀吉より)、佐藤正清(加藤清正より)などが入り込み、それらが結託して大膳の陰謀を滅ぼすというお話し。大膳を演じる鴈次郎は、このたびの顔見世でも大活躍で、悪役の首魁、慈悲深い殿様、そして滑稽な醜女まで、多彩な役柄を安心感ある充実した演技でこなしている。座ったきりでセリフもわずかだが、87歳の藤十郎が慶寿院尼として登場している。
Photo_20191212065201  最後は、仮名手本忠臣蔵から「祇園一力茶屋の場」である。前にも、同じ仁左衛門の大星由良助で観たが、今回は隼人(二代目中村錦之助の子、26歳)・橋之助(芝翫の子、23歳)・千之助(孝太郎の子、19歳)など、若手が多数出ている。
 私は、歌舞伎の鑑賞をしばしばするようになって未だ日が浅いので、あまり偉そうなことは言えないが、この歌舞伎の世界も徐々に世代交代が着実に進んでいることを感じる。
 昼の部の客席には、花街総覧として京の舞妓さんたちが花を添える。今回は、残念ながら人数は多くなかったけれど、それでも京都らしさと年末の季節感を感じることができた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

 

京都南座顔見世興行 (上)

 今年も顔見世の時期になった。ほんとうに時の経つのは速い。南座が改修工事で長らく閉館し、ようやく再開したのが昨年の11月であった。それから早くも1年以上が経過したのである。せっかくの機会なので、夜と昼と、両方を2日にわたって観劇することとした。

2019


夜の部
 最初の演目は近松門左衛門の浄瑠璃作品から「堀川波の鼓」である。宝永4年(1707)の初演である。その前年に起きた、鳥取藩士が妻敵を討った実在の事件を脚色したものと伝えられている。『大経師昔暦』『鑓の権三重帷子』とともに、近松三大姦通物といわれる。Photo_20191210061501
 長らく江戸に勤務しなければならなかった武士小倉彦九郎は、久しぶりに帰ってみると、妻の不義密通のうわさが立っていた。彦九郎の妹までが不義者の係累として嫁ぎ先から離縁されるにおよび、妻おたねは進退窮まって夫の刀で果てる。実は酒乱のおたねは、鼓の師匠宮地源右衛門と深酒の過ちから密通していたのであった。
 彦九郎を片岡仁左衛門が、おたねを時蔵が、そして源右衛門を中村梅玉が、それぞれ演じる。いつの時代も酒は災いの元であった。しかし、おたねの心理と行動は、私たち現代人には少し理解しがたい面がある。
 二つめは、河竹黙阿弥の常磐津連中から「釣女」である。能狂言の「釣女」からとった舞踊劇で、明治34年(1901)初世市川猿之助(太郎冠者)、市川寿美蔵らにより初演された。大名と太郎冠者との男二人が、よい妻を得ようと恵比寿神社に参詣し、そのお告げによって両人は神がかりの釣竿でそれぞれ女を釣ることになる。大名には美しい上﨟が釣れたが、太郎冠者の糸には醜女がかかって閉口する、という単純なお話し。太郎冠者を愛之助が、大名を中村隼人が、そして美しい上臈を中村梅丸からこのたびと改名した中村莟玉(かんぎょく)が、それぞれ演じる。滑稽な風情と軽快で巧みな踊りがポイントで、愛之助の技巧が見事である。若々しく美しい莟玉も見ものである。これからの活躍が期待される。
 三つめは、やはり河竹黙阿弥の世話物歌舞伎「新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)」から「魚屋宗五郎」である。明治16年(1883)東京市村座で初演された。魚屋宗五郎は、妹を磯部主計之介に妾奉公に出して、その縁で主計之介からもらった資金で家計を立て直すことができた。ところがふとした事件からその妹が主人に殺されてしまう。宗五郎は酒乱ゆえに断っていた酒を飲み、酔いの勢いに任せて磯部の屋敷へ乗り込むが、家老浦戸十左衛門と主人磯部主計之介に説得されて、最後はまるく収まるというお話し。宗五郎を芝翫が、磯部主計之介を中村鴈次郎が、それぞれ演じる。この演目は、かつて松本白鸚が松本幸四郎時代に演じたのを観たことがある。芝翫の宗五郎は、白鸚の宗五郎よりも、良くも悪くも軽妙に見える。
 最後は、若手俳優4人、中村隼人・橋之助・千之助・莟玉による長唄囃子連中「越後獅子」である。隼人は独特の華があるし、莟玉は若々しく美しい。いずれもこれからの歌舞伎を担う有望な若手であろう。今後の精進と活躍を期待したい。

Photo_20191210061401

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

第二回藝展・京都(後期)

 京都清水寺の圓通殿で、第二回藝展(後期)が開催された。出展者の友人から招待状を得て、家人と一緒に鑑賞した。
Photo_20191208130301  バス停清水道から、15分ほど細い道を登る。道は狭く、両側にはぎっしり御土産物店や飲食店がならび、大勢の人並みのなかを周囲と同じペースでゆっくり登っていくことになる。京都らしい漬物、呉服関係の日用品や竹細工のお店もある。これだけのたくさんのお店があるのだが、それ以上に大勢の観光客がこうして押し寄せるのが京都だ。Photo_20191208130401
 仁王門に着いて、すこしだけ紅葉の様子をうかがった。今年は暖かい秋がながく続いて、ごく最近急に寒くなったが、暖かい時期が長すぎたのか紅葉は遅く、しかもさほど鮮やかではないようだ。桜も紅葉も、毎年気候のちがいで異なる様相をみせる。すべては一期一会ということか。
Photo_20191208130402  仁王門から左に少し下ったところに、会場である圓通殿がある。
これまで藝展実行委員会は、25年間にわたって書芸術を中心に展覧してきた。令和を迎えた本年は、京都の姉妹都市チェコ・プラハと2020年で交流100年を迎えることになるので、プラハと清水寺において「第二回 藝展」を「日本・チェコ交流100周年」記念として開催した。京都と姉妹都市提携を結んでいるチェコの首都プラハは、全市がユネスコの世界文化遺産に登録されている唯一の街であり、千年の歴史を誇るという点において京都と共通する。Photo_20191208130403
 まず友人の高見沢道子さんの作品を観る。長年にわたって「馬」だけを徹底的に描いてこられた画家である。かねてよりこの人の描く馬は、造形としても、かつ絵の全体的な雰囲気から伝わる内面的な印象としても、中身の充実をしっかり感じるのが特徴であり魅力だが、今回の新作では、画面構成からなのか、あるいは筆のタッチからなのか、全体にこれまでよりすっきりしたお洒落な印象が追加されたと思う。
 他には、絵の上に花びらを貼り付けてつくる押花アートや、箱のなかに粘土や紙で造形を作り込むコラージュなども興味深かった。京の冬のひととき、こぢんまりとした心地よいアート空間を楽しめた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (11)

ボストン-10 バンカーヒル記念塔
 コップスヒル墓地の高台から北西にコマーシャルストリートに下り、チャールズ川を渡るチャールズ橋に至る。チャールズ橋はかなり大きな橋で、渡り切るのに数分を要するが、橋の上から美しいヨットハーバーを見下ろすことができる。
 チャールズ橋を渡り切ると、チャールズタウンである。道はすぐシティスクエアパークに入る。ここでは休日のひとときを憩う市民たちが、芝生に寛いでいる。私たちもひと休みして、ベンチでパンとお菓子をいただいた。Photo_20191207065501
 ふたたび歩き出して、ゆるやかな上り道のウィンスロップストリートを経て、ウィンスロップスクェアの戦没者慰霊塔を過ぎたころから、北側に高い塔が聳えているのが近づいてくる。これがバンカーヒル記念塔である。
 独立戦争初期の1775年6月13日、大陸軍(ワシントン将軍に率いられたアメリカ連合植民地軍は、当時こう呼ばれていた)は、多くの陸地で民兵中心にイギリス軍を取り囲んでいたが、イギリスから増援を受けて1万人以上の軍勢になっていたイギリス正規軍を率いるゲージ将軍は、「ばかげた行列でイギリス軍を包囲しているつもりの、のぼせあがった群衆ども」に対して、ジョン・ハンコックとサミュエル・アダムズを除いてすべての投降者に恩赦を与える、と宣言した。そして大陸軍の民兵組織が、ボストンの要衝のひとつバンガーヒルに陣地を築いたことを察知したイギリス軍は、16日夜から攻略に取りかかった。これは未熟な植民地の民兵隊と百戦錬磨のイギリス正規軍との、最初の本格的な激突であった。
 この結果、イギリス軍は丘を奪ったけれど、2,200人の兵のうち1,500人以上の死傷者を出した一方、民兵側は推定3,200人の兵のうち440人の死傷者にとどまったのである。ゲージ将軍は「あの連中は、フランス人に対して見せたことのない勇気と行動を、われわれに対して見せおった。」「もう一度こんなことがあったら、われわれは破滅しただろう。」と怒りを込めてイギリス本国に書き送っている。こうして、バンカーヒルは、戦術上はイギリスの勝利だったが、戦略上および士気の上からはアメリカ側の大勝利となった。
 この塔の建設を最初に提唱したのはボストンの弁護士ウィリアム・ティックノアであった。やがて1823年5月この提案に関する公的な会議が行われ、参加者それぞれが5ドルずつを寄付し、同年6月7日にはバンカーヒル記念塔協会が設立され、本格的な資金調達が始まった。1825年の春、協会は隣接するブリーズヒルの中腹に約61,000m²の土地を購入したが、その時点では塔のデザインはまだ決まっていなかった。デザイン委員会が設置され、賞金100ドルで公募が行われて、最後に選ばれたのは、ソロモン・ウィラードがデザインしたオベリスクであった。1825年6月17日、塔は着工となったが、建設は資金難でたびたび中断された。1838年、建設資金を調達するため、協会は戦場跡の土地約46,000m²を売却しなければならなくなった。そのため、バンカーヒル記念塔を建てるための土地はブリーズヒルの頂上しか残らなくなってしまったのである。1842年7月23日、着工から17年の歳月を費やして塔はついに完成した。
 私はかつて、仕事でなんどかボストンを訪れたが、こうしてボストンのフリーダムトレイルをゆっくりたどったお陰で、はじめてボストンの旧市街をじっくり散策することができた。アメリカの植民地時代から、独立を試行する動きが生まれ、独立戦争が起こり、独立国として政府ができ、新たな発展に向かっていく草創期のアメリカ合衆国の、最初の中核となったボストンを、歴史をたどりながら歩くのは、わたしにとってもとても興味深いひとときであった。ボストンの旧市街は、道幅はあまり広くなく起伏もあり、建物も煉瓦づくりなど古いものをよく保存していて、アメリカというよりもイギリスなどヨーロッパの古い街の面影を残していて、私には新鮮であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

 

北米東海岸クルーズ (10)

ボストン-9 オールドノース教会
Photo_20191205062901  ポール・リビアの騎馬像からさらに進むと、高い白色の尖塔が特長であるレンガ造りのオールドノース教会がある。英国国教会の由来をもつ米国聖公会の教会で、創設は1723年でボストン最古の教会である。ロンドンの教会の建築家として有名なクリストファー・レン Christopher Wrenの影響を受けたウィリアム・プライス William Priceが設計を担当した。教会が建設されて以来、尖塔は嵐などの被害を受け、何度も修復されており、現在の塔は1954年に再建されたものである。
 創設から約50年後の1775年4月18日の夜、当時のボストンで一番高い建物だったオールドノース教会の尖塔に、ふたつのランタンがシグナルとして掲げられた。この明かりを見たポール・リビアが、イギリス軍の奇襲を知らせるために、植民地軍の武器弾薬庫のあるコンコード、その中継点であるレキシントンに馬を走らせた。このできごとが、後世にまで伝えられている「真夜中の騎行」であった。リビアは、この教会の熱心な信者でもあった。

コップスヒル墓場
 オールドノース教会正面に真っすぐ延びるフルストリートを上がっていくと、丘と呼ぶにはいささか低くて狭い高台に出る。ここにコップスヒル墓地がある。靴職人ウィリアム・コップス William Coppsが、この付近の土地を所有していたことから名づけられた。Photo_20191205062801
 コップスヒル墓地は、1659年から1819年の長期間に4つの墓地が統合されてできたものである。墓地の敷地内には、ポール・リビアにイギリス軍の襲撃を知らせるため、オールドノース教会にランタンを掲げたロバート・ニューマン、ピューリタンたちの指導者であったマザー家の一族、ボストンで最大のプライベートワーフ(埠頭)をもっていたウィリアム・クラークなど、有名なボストニアンたちが眠っている。チャーターストリートに近いマザー家の墓地には、牧師であったインクリーズ 1639~1723)、牧師兼作家のコットン(1663~1728)、そしてコットンの息子サミュエル Samuel(1706~1785)の3人の墓がある。
 コップスヒル墓地から北側に下りたコップスヒル・テラスからは、チャールズ川対岸のチャールズタウンを見渡すことができる。コップスヒル墓地の場所には、独立戦争時にはイギリス軍の砲兵隊基地があって、バンカーヒルの戦いのとき、この丘からイギリス軍の大砲が、チャールズ川対岸のチャールズタウンに向かって火を噴いたのであった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (9)

ボストン-8 ポール・リビアの像
 ファニュエルホールから、ノースストリートを10分弱ほど北に向かって歩くと、セントステファン教会の大きな建物があり、そこを左に曲がると遠景にオールドノース教会が聳えるが、その前にポール・リビアの騎馬像が見える。
 ポール・リビアは、もともと軍人ではなく、銀細工の職人が本職であったが、版画をよくする芸術家でもあり、熱心なアメリカ愛国者であり、アメリカ独立後は軍人として中佐にまで進み、さらに銅などの金属鋳造事業で成功した実業家でもあった。Photo_20191203061401
 30歳代ころからアメリカ愛国者団体の指導者であった医師ジョセフ・ウォーレンと親交をもち、多くの政治的版画を制作した。1770年3月に起こったボストン虐殺事件については、戦列をしいたイギリス兵士たちが20人の市民に向けて一斉射撃している「血なまぐさき虐殺」を描いた版画を公表した。1773年のボストン茶会事件では、ボストン安全委員会の伝令役を勤め、馬に乗ってニューヨークやフィラデルフィアまで行き、各町の政治的な動向についての情報を伝えた。
 彼が有名となったのは、レキシントン・コンコードの戦いでの「真夜中の騎行」と呼ばれる命がけの戦争情報の伝達行動であった。レキシントン・コンコードの戦いの前夜、ジョセフ・ウォーレンの指示で、ポール・リビアとウィリアム・ドーズが馬に乗ってボストンから10キロほど西のレキシントンに走り、イギリス軍が迫っているのを「正規兵がやってくる」といち早くジョン・ハンコックとサミュエル・アダムズに警告した。さらに民兵の武器弾薬を隠していたコンコードに走り、イギリス軍の爆破作戦を伝えて未然に防いだ。
 ポール・リビアのこの行動は、彼の存命中は話題にされることもなかったが、死期40年以上も経過してから詩人のヘンリー・ワッズワース・ロングフェローが「ポール・リビアの騎行」という詩を作ったことで、アメリカ史の中でも最もよく知られるものとなり、学校に通う世代から記憶されることになった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

北米東海岸クルーズ (8)

ボストン-7 サミュエル・アダムズ立像
 ボストン虐殺地跡から数分ほど北に歩くと、サミュエル・アダムズ立像の銅像があり、その後ろには改修工事の養生幕を被ったファニュエルホールが見える。Photo_20191201080801
 サミュエル・アダムズは、1722年ボストンに生まれ、ボストン・ラテン学校を経てハーバード大学を卒業した生粋のボストニアンであった。大学を卒業して最初は実業家を目指したが、やがて政治に転向して、厳格で妥協を知らない影響力の大きな反イギリス派の論客となった。アダムズは植民地人がその権利と自由を守ることを要求し、町の集会を開催して、1765年のイギリス政府の印紙税法など、植民地に対する課税政策について抗議文書の草案を書き上げた。アダムズは代表的な急進派の指導者としてカンタベリー大司教のアメリカ植民地への介入を拒否して「民衆の心の中の革命」を導き、アメリカ革命としての独立戦争を準備した。
 歴史家サミュエル・モリソンは、サミュエル・アダムズについて「彼は革命というオーケストラの西洋における最初の指導者であった。彼は、投票者は論理よりむしろ感情によって動かされるものであることを知悉していた。」と評している。
 イギリスに対する抗議行動、たとえば1773年のボストン茶会事件を組織化し、大陸会議に出席し指導した。アダムズは第二次大陸会議で独立宣言の採択を主導した。
 1775年にアメリカ独立戦争が始まり、1776年に独立を宣言すると、アダムズはジェイムズ・ボーディンや又従兄弟のジョン・アダムズ(後のアメリカ第2代大統領)とともにマサチューセッツ憲法の作成を助けた。独立の後、1789年にマサチューセッツ州副知事となり、1793年にジョン・ハンコックが死去すると知事になり、1797年6月までその地位にあった。その後アダムズは政界を引退し、6年後の1803年10月2日に死去した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »