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2020年1月

北米東海岸クルーズ (34)

ニューヨークちょっとだけ-3 セントラルパーク

Photo_20200131061901

 トランプ・タワーからセントラルパークの南端までの間にも、それぞれに世界的ブランドの店舗が軒を連ねている。
Jeanmarie-appriou  セントラルパークにさしかかると、公園の一角の野外に、期間限定で造形アートの展示がある。Jean-Marie Appriouという芸術家の作品らしい。灰色のボール紙細工のように見える大きな造形で、具象的なのか抽象的なのか、そんな区別を超越するような、いささかユニークなアートである。紙のように見えて、実は金属だったりするのかも知れない。彼は、フランスの若手アーティストの一人だそうだ。このような、誰でもが触れることができる場所に展示する、ということ自体がかなりアナーキーな表現活動だ。
 土曜日ということで、公園に集まる人の数はかなり多い。カップル、家族連れ、観光客らしい人たち、ひとりでぶらつく人、など。ベンチに座っているだけで、興味深いマン・ウオッチングができる。

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北米東海岸クルーズ (33)

ニューヨークちょっとだけ-2 トランプ・タワー
Photo_20200129063001  5番街の大通りを北に歩く。ニューヨークのもっとも中心の商店街というだけあって、有名店がひしめいている。今回は、ときの話題もあってトランプ・タワーを覗いてみることにした。
 入り口には、銃を構えた警官が2人両側に立っている。歩き始めて街に警官が多いことに気づいていたので、ちょうど良い機会と、なぜここで警戒しているのかと聴いてみ た。すると、国連総会が明日から始まるのだという。会 期中の 2 週間は、この厳重な警戒が続くのだろう。
 館内に入ってみると、入ってすぐのところで手荷物検査があった。
 館内の1~2階には、「トランプ」のタイトルを冠にした雑貨店、カフェ、グリル、バー、そしてスターバックス珈琲店がある。その上の階は、オフィスなり住宅なりになっているようだ。
 大統領のトランプ氏を嫌いな人も多いらしく、5番通りの道路の反対側だけれども「アンチ・トランプ・バッジ」を売っている男もいた。
 話題の多い人だから、私たちみたいな物見遊山の来場者も多いことだろう。なにより「トランプ」という名前自体が、平凡でなくインパクトがあって、それはそれでおもしろい。Photo_20200129063101

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北米東海岸クルーズ (32)

ニューヨークちょっとだけ-1
Photo_20200127061301  クルーズ旅行の日程が完了して、ニューアーク港に早朝に帰着したので、わずかな時間だがニューヨークの市街を散策した。
 当日泊はニューヨークのレキシントン50丁目という都心のホテルだったので、とりあえず散策は徒歩のみとして、ミッドタウンだけをのんびり歩き回ることにした。


聖パトリック大聖堂
 51番通りを西に少し歩くと、5番街アベニューと交わるところに聖パトリック教会がある。こんな大都市のまんなかにこんなに大きな大聖堂があることに驚く。
Photo_20200127061201  1850年にニューヨーク司教区が大司教区に格上げになったことを記念して、ここに大聖堂を建立することが決定され、1858年8月に礎石が据えられ、ゴシック様式の建築が着工した。しかし折からの南北戦争のため工事は長らく中断し、完成したのは1878年であった。
 私たちが訪れたときは、2人の赤い僧服の僧侶が壇に上り、礼拝を執り行っている最中であった。都心にあるだけに、身廊は大勢の信者でほぼ埋まっている。
 身廊をゆっくり1周したが、さすがに大聖堂だけあって、屋内とは言え時間がかかった。ステンドグラスも壮大で美しかった。

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北米東海岸クルーズ (31)

セント・ジョン-5 ニューブランズウィック博物館
セント・ジョンの造船業
Photo_20200125061601  セント・ジョンの産業で、特筆されるべきは木造帆船である。1799年から1805年までヨーロッパを席巻したナポレオン戦争は、ここニューブランズウィックに大きな影響を与えた。ナポレオンのフランスが、軍事力でヨーロッパ全体に侵略をはじめ、イギリスは対応を迫られた。島国イギリスにとって、海軍は軍事力の要であったが、当時の戦艦は木造帆船であり、それを製造するための木材の不足が大問題であった。
 そこでイギリスが眼をつけたのが、ノヴァスコシアやニューブランズウィックなどのアメリカ大陸東北部の植民地であった。莫大な森林資源に恵まれ、しかも陸地の周囲は天然の良港に恵まれていたのである。
 イギリス政府は、さっそくニューブランズウィックの豊富な木材をイギリスまで船で輸送して、イギリスの造船所で木造帆船の戦艦を増産した。しかし、大量の木材を遠くへ運ぶ費用と時間、さらに海難などのリスクを考えると、造船技術をカナダ側に移して、木材原産地の近傍で造船することの合理性に気づいた。その結果、19世紀初めからニューブランズウィックの、とくにセント・ジョンの造船は急速に成長・拡大した。セント・ジョンには、造船業で莫大な富を蓄えた富豪がたくさん生まれた。Photo_20200125061501
 ナポレオン戦争の後には、商船や客船の普及拡大があり、さらに1860年代にはアメリカの南北戦争が莫大な戦艦の需要を発生した。木造帆船全体としては1820~1890年代が隆盛期であったが、とくにセント・ジョンでは1840~1890年が黄金時代であったと伝えられている。
より大きな船、より速い船が要求され、帆船としての最高峰を飾ったのが設計技師ジェイムズ・スミスによる、1851年進水のマルコポーロ号であった。Photo_20200125061502
 当時の木造帆船は、主要な材料は木材であったが、木材を継ぎ合わせたり、帆を固定したり操ったりする器具や装置をつくるための、金具・金属部品がとても重要であった。その需要からセント・ジョンでは、鍛冶屋の技術の開発・高度化・蓄積が進み、この技術は造船業が衰退してからも、セント・ジョンの産業界にとって重要な基礎技術であり続けた。
 1880年代には、蒸気船が急速に発達・普及し、船体にも木材より鉄が用いられるようになった。そうなるとニューブランズウィックの木材資源は必要でなくなり、新しい蒸気機関や鉄製船体製造の技術を欠くセント・ジョンは、造船業の衰退を余儀なくされた。
 ただ、造船の黄金時代の経済的蓄積は、19世紀後半からの鉄道の敷設、電気の導入、電気通信の普及などに大きく貢献し、今日のセント・ジョンの経済・文化の礎となった。

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北米東海岸クルーズ (30)

セント・ジョン-4 ニューブランズウィック州とセント・ジョン
 市街地の海岸寄りの一角に、マーケット・スクエアという真新しく大規模なモールがあり、そのなかにニューブランズウィック博物館がある。この博物館は、もとは1842年に設立されたカナダでもっとも歴史ある博物館だが、1996年にこのマーケット・スクエア内に移転したものである。3階にわたって展示室があり、1階は自然史、2階は地域史、3階は美術館となっている。時間の都合もあり、私は2階の地域史を中心に見学した。 Photo_20200123064401
 ニューブランズウィック州のある地域は、アメリカ新大陸にフランス人が入植したケベクと、イギリス人が入植したニューイングランドの間に位置し、アカディア地方と呼ばれて18世紀から仏英の勢力が対抗するところであった。
 この地域で1755年、フレンチ・インディアン戦争を機に、イギリスはフランス系住民(アカディアン)に対し、イギリスに忠誠を誓うことを強制した。そしてこれを拒否しあくまで中立を維持しようとしたフランス系住民に対し、イギリス軍は1755年から1763年までにその住居を焼き、フランス本国またはイギリス植民地に強制送還した。この事件は「大艱難Great Upheavalと呼ばれている。強制送還を逃れたフランス系住民の多くは先住民の手を借りて仏領ヌーベル・フランス(ケベック)に逃亡した。なお、現在のルイジアナ州にあたる地域に定住した人々の子孫は、現在ケイジャンと呼ばれている。
Photo_20200123064402  強制送還されたアカディアの人々の多くは、1763年ごろから旧アカディア地方に帰還し、イギリス系住民の居住地を避けて旧アカディアより北のニューブランズウィック州、ノヴァスコシア州、プリンスエドワード島沿岸部に定住した。年配のフランス系住民の間では、現在に至るまでイギリスおよび英語を母国語とする住民に対する反感が根強いという。
 アメリカ独立が宣言されると、アメリカ新政府よりイギリス本国に忠誠を尽くす王党派 Loyalists の植民たちが南からやってきて、1784年にノヴァスコシアから分離して、ニューブランズウィック植民地が創設された。ニューブランズウィックは1867年のカナダ自治領の成立した当初の4州のうちの一つである。

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北米東海岸クルーズ (29)

セント・ジョン-3 ロイヤリスト・ハウス
 カールトン・マーテロー・タワーからタクシーで旧市街に戻り、シティ・マーケットで買い物をしたあと、シティ・マーケットすぐ前のシャーロットストリートを少し北上して、ロイヤリスト・ハウスを見学した。Photo_20200121061501
 1776年のアメリカ独立宣言を受けて、1783年5月10日アメリカ独立に反対する王党派Loyalistsと呼ばれるひとたち2,000人が、私たちのクルーズ船が停泊している場所のすぐそば、セント・ジョン川河口の地に上陸した。彼らは、主にパールやカールトンに新しく住居を建設し、この地に定着した。6月と9月には第二波と第三波の上陸があり、そのなかには王党派の軍隊が含まれていた。しかしさらなる来航者たちを受け入れる準備は不十分で、やがて大勢の王党派たちはこの地域にやってきて、テント住まいで厳しい冬をすごさなければならないひとびとも発生した。それらの人々が土地を探して農耕生活を開始できるようになるまで、少なくとも数年間を要した。
Photo_20200121061502  ともあれ、こうしてセント・ジョンはアメリカ独立反対派の元イギリス植民地住民が多数入り込んだ地域となった。こうした王党派Loyalistsの人々は、質素で自給自足的な生活をすることが多かった。それらのひとびとのうちのひとりの家が、現在ここに残っているのである。Photo_20200121061601
 さほど大きな住宅ではなく、生活で使用する家具、衣類、日用道具、子供のおもちゃ、など住人が自ら手作りしたものが多いという。母親は娘に縫物を教え、父親は息子に大工仕事を教えた。家具や調度品は、ごく質素なものが多いが、個々の品物に、この家で生活した代々のひとびとの心血がしみこんでいる。住宅の内装にも、手作りのものが多い。彼らは遅れてきた開拓者ともいうべき人々だったのだろう。

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北米東海岸クルーズ (28)

セント・ジョン-2  カールトン・マーテロー・タワー
 続いてふたたびタクシーをつかまえて、カールトン・マーテロー・タワーを訪れた。Photo_20200119063202
 セント・ジョンの市街とファンディ湾の両方を見下ろせる丘の上に立つ、石積みで造られた高さ10~15メートル程度の円筒形の塔である。内部は2階建てになっていて、1階は弾薬貯蔵庫と、兵士がライフル銃で狙撃するための銃口がある。2階はこの塔に詰める兵士の住居となっている。元来は3階であったらしい屋上階には、大砲を据える砲台と、銃兵が周囲に打ち下ろすプラットホームになっている。
 このような様式のタワーは、15世紀にジェノヴァなどイタリア都市国家が、北アフリカ海賊からの攻撃を防ぐ目的でところどころの海岸に建てたものがモデルあるという。
Photo_20200119063101  18世紀末にコルシカ島のモルテラ岬の塔を攻めたイギリスの最新鋭艦隊が、その難攻不落に驚嘆して、同じような様式の敵軍監視と初期防衛のためのタワーを、19世紀はじめからイギリス支配下の世界各地に140以上建設したという。モデルであったモルテラMortella岬を、スペルを誤ってマルテロMartelloとしてしまったことで、以後この様式の塔がMartello Towerと呼ばれることになった。とくにナポレオン戦争(1805~1815)のとき、イングランドはフランスの侵攻から、イングランド、アイルランド、ジャージー、ガーンジーの南海岸と東海岸を守るために、合計で105のマーテロー塔の鎖を構築した。しかし19世紀末になって、ライフル砲が普及すると、その破壊力には対応できないことが判明し、以後増設はなくなり、廃棄したタワーも多々あった。Photo_20200119063201
 ニューブランズウィック州セント・ジョンのこのタワーは、1815年にナポレオン戦争対策として建造され、ライフル砲が普及したあとも見張り台や弾薬庫として活用され、第二次世界大戦まで大砲のプラットホームを改造しながら使用されたという。この地方に雪が多いことから、かつては三角錐の屋根があったことが、古い絵から判明している。

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NEVER COMPLETE 小畑健展

 大阪梅田大丸に、漫画家小畑健の個展を観た。
 私はマンガをほとんど読まないために、こんなに高名な小畑健すら、これまで知らなかった。
 展示全般にもっともインパクトが大きいのは、この漫画家の絵を描く能力の高さである。私は絵画も漫画も門外漢であり、偉そうに批評できる立場にないことを前提だが、この私でさえ小畑健が絵を描く力が卓越していることははっきりわかる。
 団塊世代の私が学生であったころ、とても下手、あるいはザツで汚い絵を売り物にする漫画家も何人かいて、その汚い粗雑な画風が当時のアナキーな風潮・雰囲気にむしろ適合したかのような時期があった。詩的な表現で売ったつげ義春も、作品としては魅力的だったが、絵が上手というわけではなかった。しかし半世紀以上が過ぎ去って、いまでは小畑健のような、一分のスキもないような完璧な絵で漫画を描く時代になったことを改めて観て、感動を覚えた。時間が経って、時代が変わった。漫画、恐るべし。

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「寿 初春大歌舞伎」大阪松竹座

 今年の初春大歌舞伎を、家人とともに大阪松竹座で観た。午前の部で、11時開演、3時半終演である。Photo_20200117063401
 最初の演目は「お秀・清七 九十九折」である。原作は明治10年生まれの歌舞伎脚本家大森痴雪というから、明治・大正期の作品のようである。作品の背景は幕末の混乱期で、諸家御用達を勤める大店である木谷屋が、勤皇派に金を貸したことで武家から厳しく咎められるところを、木谷屋の主人に大恩を感じる腕利きの手代清七が罪を一身に背負って失踪した。その清七が5年後に木谷屋に帰ってみると、許嫁の木谷屋跡取娘お秀には、武家の姻戚から養子が来ており、主人から300両の手切れ金を受け取ることになった。落胆した清七は、偶然お秀とうり二つの芸者雛勇と出会い、雛勇の家に数日間滞在して泥酔するが、そこへ雛勇の男たる力蔵が現れ、清七の金を狙う、というお話し。最後は清七が力蔵と雛勇の二人を切り殺してしまう。清七を幸四郎、力蔵を愛之助、そしてお秀を壱太郎がそれぞれ演じている。金に翻弄される人間を描くが、やりきりない、救いのない物語である。
 ふたつ目の演目は、「大津絵道成寺 愛之助五変化」である。河竹黙阿弥の作で、大津絵の題材になる藤娘・鷹匠・座頭・船頭・鬼がつぎつぎに現れて、その5人の人物をひとりの役者が早変わりで演じ、常磐津で舞踏するものである。最初の口上では、新春の祝詞に加えて、今年2020年のトピックとして東京オリンピックが登場し、続いてスポンサーによる地元産業の広告宣伝口上が入り、お正月らしい華やかな雰囲気を醸し出している。愛之助もいまや看板を背負う歌舞伎役者となり、踊りも達者である。
 最後は、「艶容女舞衣 酒屋」である。元禄時代に実際にあった茜屋半七と島の内の遊女美濃屋三勝の心中事件を題材に、竹本三郎兵衛・豊竹応律が浄瑠璃として合作した作品で、安永元年(1772)大坂豊竹座で初演されたという。大坂で酒屋を営む茜屋半兵衛の息子半七は、お園という妻がありながらも家に寄り付かず、女舞の芸人三勝との間にお通という子どもまでもうけるが、三勝をめぐって名うての悪人今市善右衛門と諍い殺害してしまう。そんな半七だが、女房お園は半七を一途に愛する。お園を扇雀が、半七とお園の父宗岸を鴈次郎が、そして三勝は藤十郎の予定であったが体調不良で扇雀がお園と二役で演じていた。お園が半七を思って苦悶するシーンが山場なのだが、今回は謡の声がいささか不明瞭でよく聞き分けられず、私には場面がよく理解できなかった。
 率直な印象としては、ふたつ目の大津絵道成寺はお正月らしい華やかな舞台であったが、九十九折と艶容女舞衣酒屋は、いささか物語が暗くて、お正月の演目としてはふさわしくないように思った。

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北米東海岸クルーズ (27)

セント・ジョン-1 リバーシング・フォールズ
Photo_20200115061901  クルーズ旅行の最終日程として、カナダニューブランズウィック州のセント・ジョンに着いた。セント・ジョンは、ニューブランズウィック州の州都ではないが、人口68,000の州内の最大都市である。
 港から6人が同乗できる大型タクシーで、最初にセント・ジョン川の河口近くにあるリバーシング・フォールズを訪れた。この地は、地質学的に少し特異で、玄武岩なのだろうか硬くて黒い岩石層と、石灰岩なのだろうか白くて柔らかい白い岩石層が複雑に混淆していて、河口付近の汽水のなかで長い年月を経てきわめて複雑な川底地形を形成しているらしい。
 さらにこのセント・ジョン川の河口付近は、世界でももっとも潮位の干満差が大きく、最大で14メートルにも達する。この結果、河口に近いこの橋の下付近の小さな落差と急な川幅の広がりの近くで、渦を発生するのである。ちょうど潮位が最も低い午前9時45分をめざして、この地の渦の鑑賞に臨んだ。
 現地には、御土産物店を含むインフォメーションセンターがあり、入場料を支払って入ると、渦発生のメカニズム解説のビデオの放映や、河口の水流を高い場所から眺めおろす、床にガラスをはめ込んだ展望台がある。Photo_20200115062001

 川の一部でみる渦なので、日本の鳴門海峡でみるような豪快な渦にはならないが、こんな小さな場所でも渦が発生するというのは興味深い。

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北米東海岸クルーズ (26)

ハリファックス-7 タイタニック号沈没事件
 もうひとつのこの博物館の特集的な展示が、タイタニック号沈没事件である。
 タイタニック号は、第一次世界大戦の直前の1912年に北アイルランドの造船所で建造された、当時の最新鋭の超豪華客船であった。展示では、船がどのように時代とともに急速に進歩して大きくなってきたかを図で比較している。Photo_20200113071601
 当時ヨーロッパは、18世紀末の産業革命から順調に進歩発展した科学や技術に対する信頼と自信が高揚していた時代で、科学技術によって貧困・飢餓・病気にとどまらず、自然災害や人為的災害までもが、かなりの範囲で克服できるとの楽観的な雰囲気があった。船舶も、19世紀後半ごろから急速に蒸気機関化が進展し、航行速度も風など自然に頼らずとも著しく高速になり、木造から鉄板をリベットで繫ぎ合わせる鉄製の船舶となり、難破という海難事故さえも著しく減少した、と受け止められていた。ちなみにこのリベットによる鉄の繫ぎ合わせは、第二次世界大戦ころに溶接が主流になるまでは、もっとも信頼されていた建造方法であった。
 タイタニック号は、その最新鋭の鉄製蒸気船で、しかも航行性能のみならず、旅客の快適性を最大化するさまざまな豪華な内装を導入した、まさに夢の豪華客船であった。46,300トンは、今でこそ私たちが乗っているクルーズ船167,000トンなどと比べるといささか見劣りするようだが、百年前の当時としては破格の規模であった。
Photo_20200113071701  タイタニック号は、1912年4月10日、イギリスのサザンプトンからニューヨークに向けて、処女航海に出発した。そして4月14日には、ニューファンドランド沖を通過していた。この日は、朝から数回にわたって氷山・氷原の存在を警告する無線通信を受信していたが、無線通信士は船舶運航担当者ではなく、無線通信の専門会社からの派遣搭乗であり、船舶の安全情報に関心が低く、むしろ乗船客のための私的通信に心を砕いていたという。
 その日の深夜23時40分、とうとう航海士の眼前に途方もなく巨大な氷山が現れ、急遽左旋回に大きく舵を切ったが、当時の大型船は舵輪の操縦から舵が実際に動くまで30秒ほど要するなど技術的制約もあり、なにより多くの乗組員が、最新鋭・最先端のタイタニック号に限って、少々の氷山で難破するとは深刻に心配しない雰囲気があったらしい。
 結果として氷山を逃げ切れず、左舷から氷山に激突して16の隔壁のうち5を破損し、2時間半ほど後の翌4月15日2時20分沈没した。氷山に衝突した瞬間も、船内の場所によっては座礁や破船を思わせるほどの衝撃でなかったという記録もあり、最初は楽観的な乗組員・乗客が多かったそうだ。しかし時間が経過し、下部の船室から浸水が進行し、やがて船体が傾き、それらが増徴していくと、いよいよ人々が騒ぎ出したという。Photo_20200113071801
 1等から3等までの客室の格差、避難用ボートの絶対数の不足、船上の全員に一斉に情報を伝達する手段が欠如していること、などのため沈み行く船からひとびとを救出することが十分でなかった。さらにこの付近の季節的条件から、海水温は氷点下2℃と低く、海上に逃れ出たひとびとのなかからも多数の死者がでた。
 2,224人の人々が乗っていたが、そのうち1,514人が亡くなった。とくに3等船客の過半数は亡くなっている。
 難船した現場からもっとも近い拠点港がハリファックスであったため、ハリファックスにはユダヤ人墓地、カソリック教徒墓地、英国国教会教徒墓地など、被災者の墓地がある。

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「村瀬裕子展」京都galleryMain

 「揺れる、響く、香るを絵にする」というテーマで、京都市下京区の古民家風のギャラリーで、個展が開催された。会場は木造の工場の建物だったそうで、天井も高く、スペースがゆったりして、心地よい雰囲気の展示場である。
 最近の3年間ほどの間に描いた10点の作品が展示されている。
 いずれも遠近法のような方法でなく、色彩の明暗・影・グラデーションで自然な遠近感と量感・立体感を表現している。背景も丁寧に描かれている。「砂と布」という副題のある作品が、その典型のようで、やわらかな感覚の網が、穏やかな立体感を表現している。
 人物画だけでなく、草花の表現でもそれは同じである。私は「チューリップ」と題された絵が好きである。
 「揺れる、響く、香るを絵にする」というテーマだが、私には、描く対象の表面から湧き出てくるもの以上に、むしろ描く対象の内部に込められたエネルギーの表現を感じた。

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北米東海岸クルーズ (25)

ハリファックス-6 ハリファックス大爆発事件
Photo_20200111061701  1917年12月6日の朝、フランスの輸送船モンブラン号は、ニューヨークから軍事物資としてTNT火薬・火薬用のピクリン酸、ベンゾール、ニトロセルロースを満載してきて、大西洋に出ていくために、ドイツの潜水艦攻撃を避ける護送船団に合流のためベッドフォード湾に入ろうと、ナローズと呼ばれるハリファックス市とダートマス市の間の海峡を通過しようとしていた。このころ、第三国の船舶は、ハリファックス港での検査を義務付けられていたのであった。そこへ海峡の反対側から、ノルウェーの食料・衣料の輸送船キモ号が、これからニューヨークに行って食料・衣料を搭載し、占領下のベルギーに救済物資として届けるために、空の状態で入ってきた。
 狭い航路ですれ違う場合、互いに相手の右側を通行することが義務つけられていた。しかし水先案内ボートとのやり取りや、互いの船の情報交換のミス、そして急いでいたイモ号の速度違反など、ささいな行き違いが蓄積して、午前8時45分、イモ号が急旋回してその舳先がモンブラン号の船腹に突っ込んでしまった。モンブラン号の船体ものものの損傷は軽微であったが、その接触で発生した火花が、気化したベンゾールに引火し、その火がピクリン酸やTNTに類焼していった。キモ号は衝突の衝撃で座礁し、モンブラン号は漂流しはじめた。
 そして20分ほど後の午前9時5分に、モンブラン号の火薬が大爆発した。数千メートルもの高さの火柱が突きあがり、爆発の衝撃波が音速の数倍の速さで周囲500メートルを超える範囲に伝搬し、瞬時にすべてを吹き飛ばした。さらに赤熱した船の破片は、夥しい数で数キロメートル遠くまで飛び散り、シタデルの火薬庫など多くの施設・建物に引火した。Photo_20200111061702
 このとき、大陸横断鉄道のハリファックス事務所に勤務していたヴィンセント・コールマンは、衝突した船から数百メートルの至近距離の車両基地にいたが、事前にその船に大量の危険物が搭載されていることを船員から聞いていて、まもなく大きな爆発が発生するかも知れないと考え、周囲の人々が避難するなか、ひとり持ち場へ戻り、爆発の危険があるのでハリファックスへ向かう列車を直ちに停止するよう電信で伝えた。この結果、ニューブランズウィック州セント・ジョンからハリファックスに向かっていた列車は途中で止まり、すくなくとも300人以上の人命が救われたが、コールマン自身は爆発により即死した。
Vincent-coleman  被害者は、即死1,600人を含んで2,000人の死者、900人の負傷者、破壊した住宅1,630、損傷した住宅12,000、住処を失った人は6,000人を数え、工場の倒壊など経済的ダメージは試算値として3,500万カナダドル以上と甚大なものとなった。
 この事件の責任については、1918年2月4日Wreck Commissioners Court(難破船委員会法廷)はモンブラン号に非あり、1918年4月28日ノヴァスコシア財務法廷はモンブラン号が過ち、1919年5月19日カナダ高等裁判所は両方に責任あり、1920年5月22日イギリス枢密院は両方に責任あり、とそれぞれ裁定している。
 1945年の第二次世界大戦末期の、アメリカによる日本への原子爆弾投下までは、地上で発生した爆発で最大規模のものであった。

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映画「さよならテレビ」

 マスメディアに関わっていた友人から紹介していただいて、今回ごくマイナーな手作り映画のひとつを観た。東海テレビの社員が、自社の内部をドキュメンタリーとして撮影・編集したものであるという。
 鑑賞後の感想としては、他の映画作品にはない独特のものがある。この映画のなかで最後のところで登場人物のひとりたる澤村慎太郎記者がつぶやく「なにを訴えたかったの?」という疑問・指摘も至極もっともである。実際、作品としての主張あるいは主題などというものは、きわめて希薄あるいはきわだって未整頓といえる。ただ、この業界に関わりのない私個人としては、業界内部の一部を垣間見るという意味ではおもしろい。
 なにを訴えるのかという観点から考えると、率直に言って、回答のない解決の見込みのない願望らしきものを、勝手に望んで勝手に失望しているように見える。民間からの広告スポンサーに依存する経営基盤で行う事業なのだから、「中立・公正」を謳う以上せめてもの「偏らない」指標として視聴率に振り回されるのは理解できる。しかしその視聴率という指標ほど中身のないものもないだろう。視聴率を稼ごうとすれば、メディアが見下し蔑視している「大衆」に享ける番組を提供せざるを得ない。その結果、事実を伝えかつ「権力を監視」すべきと高らかに謳う報道番組に、大衆うけする、大衆に「わかりやすい」芸人やタレントを多用して、低俗な喧しい井戸端会議風の番組にする。かつて競馬やプロレスの実況放送で人気を博しただけの、したがって見識など期待すべくもない軽薄なアナウンサーを、報道番組のキャスターに用いて視聴率を維持したことなど、その典型である。あるいは「権力を監視」と言いつつ、不勉強で怠慢な自称「ジャーナリスト」あるいは「評論家」を多用して、聴くに堪えない低水準の「評論」を貴重な電波に載せる。この映画のなかで澤村慎太郎記者がいう「社会の問題を指摘するだけでなく、その解決を考え抜いて報道する」からはほど遠い放送をせざるを得ないのが実情であろう。結局、アメリカで行われているような、それぞれの立ち位置を鮮明にしたそれぞれが「保守系放送局」あるいは「進歩系放送局」として、「中立・公正」など構造的に実現不可能な建前を棄て去って、堂々と「偏った」報道をする方が、視聴者から見れば安心できる、信頼のおけるテレビ放送になるように思える。
 この映画は、自分に関係ないものとして観る限りは、それなりに興味深いが、メディアに直接かかわっている人から見ると、愉快なものでは到底ないだろうことも容易に推測できる。まあ、そういった少し特殊な独特の作品であった。

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北米東海岸クルーズ (24)

ハリファックス-5 大西洋海洋博物館 (上)
カナダの帆船と戦艦
 ノヴァスコシア州議事堂からさらに海岸方向に下ってウオーターストリートに入ると、すぐ南隣に大西洋海洋博物館 Maritime Museum of the Atlanticがある。海洋史にかんする州立の総合博物館となっているが、実際の展示は1911年のタイタニック号沈没事件と、1917年のハリファックス大爆発事件を重点的に展示している。Photo_20200109061201
 ハリファックスは、アメリカ大陸全体のなかで大西洋航路の拠点として、経済的にも軍事的にも、地政学的にきわめて重要な位置にある。アメリカ大陸の開拓・開発と領有の主導権をめぐって、18世紀から200年間以上にわたってイギリスとフランスは対抗し抗争したが、この地はその要衝のひとつでありつづけた。軍事的にハリファックスは、フランスが開発したおなじノヴァスコシア北東端近くにあるルイブールLouisbourg要塞に対抗して、イギリスが1749年に「七つの大海」支配のために開発した軍事拠点であった。したがってハリファックスは、はじめからカナダ東部沿岸でのフランスとイギリスの対抗・抗争が以後の歴史にまとわりついている。そしてハリファックスは、当初はイギリスのアメリカ植民地の拡大・発展に貢献し、現在はカナダ海軍の重要拠点と位置づけられているのである。
 19世紀半ばまでは、木造帆船が商用輸送でも軍事用でも大量・高速の移動手段として唯一最大の有効な手段であった。1765年イギリスで建造された戦艦ヴィクトリー号は、イギリス軍の主要な戦艦としてアメリカ独立戦争、フランス革命に投入された。そして1805年スペイン沖トラファルガーでの海戦に出動し、ネルソン提督の指揮のもとフランス・スペイン連合艦隊を撃破した。
 カナダは歴史的経緯から、長らく自らの海軍を持たず、大英帝国海軍にもっぱら防衛を依存してきた。自前の海軍を持つことに対して、イギリスの戦争に巻き込まれることを恐れる意見や、費用負担を懸念する意見があった。
 1907年、ハリファックスの造船所がイギリスからカナダに移管された。このときがカナダ海軍創設のひとつのチャンスであったが、カナダ海軍の創設は1940年ようやく実現した。
Cgs  ハリファックスの近海は、良好な漁場でもある。この海上の漁業権の防衛も大きな課題であった。漁業監視を目的とした船としては、1904年イギリスで建造されたCGSカナダ号が最初である。CGSはCanada Government Shipを意味する。これは小型だが堅牢な蒸気船で、航行速度も速く、速射砲を装備した戦艦に準ずる機能を有している。第一次世界大戦に入ると、この船はHMCSカナダ号と改名されて、海軍のパトロール船として活躍した。HMCS とはHis Majesty Canadian Shipの意味である。
 第一次世界大戦になるとハリファックス港は、アメリカ大陸とヨーロッパ戦線の間の、戦争遂行のための軍団や武器・輜重の積出と受入れに決定的に重要な拠点港となり、ヒトも物資も交通は繁忙を極めた。そんななかに発生した大事件がハリファックス大爆発であった。
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北米東海岸クルーズ (23)

ハリファックス-4 市庁舎と州議事堂
Photo_20200107070501  市庁舎を訪れてみると、入り口に40歳代と推定される紳士が座っていて、今日はもう入場できない、という。この人は、気さくにいろいろ聞いてきて、またこちらの話に乘ってくれるような人物で、しばし雑談した。
 彼はもと軍人で、以前に2年間ドイツ・フランクフルトに軍人として滞在した経験があるという。そのため、流暢ではないがドイツ語の読み書きと会話ができるそうだ。外国語としては、彼のすぐそばに座っていた中年の女性は、アルメニア語をも使えるといって、少しだけ会話に参加してくれた。カナダは法制度的に完全なバイリンガル国家であり、ハリファックス市民の大部分は英語を使うが、市庁舎では市民サービスにおいて英語とフランス語は平等に使用可能としなければならない。したがつてこの市庁舎にいる従業員は、ほとんどバイリンガルだという。5か国語を使える職員もいるそうだ。彼がみると、アメリカ人はただ一つだけの言語を使う(ことが多い)ことがひとつの特徴で、カナダ人はその点でかなり違うのだと。Photo_20200107070601
 彼の親族のひとりが、シンガポールに滞在していて、私がかつて2年間シンガポールに赴任していたという話から、しばらくシンガポールや近隣アジアに行った時の話をしてくれた。日本にも興味はあるが、まだ訪問したことはない。今では日本に行ったら、あなたとのように英語で会話できるのだろうか、など。
 この市庁舎は、1888年に当時の15,000ドルを費やして建造したが、2009年に原型を維持してリノベーションした。これには想定外の費用がかかって、議会でも長らく議論になった、と。
Photo_20200107070701  しばらく雑談で時間をすごしたあと、グラン・パレード広場を突っ切ってさらに海岸に向けて歩くと、すぐにノヴァスコシア州議事堂がある。これは、1811-18年にかけて建設されたもので、カナダではもっとも古い州議事堂だそうだ。庭には、ノヴァスコシア州での民主主義のリーダーとされているジョセフ・ハウの立像がある。ジョセフ・ハウは、1804年ハリファックスに生まれ、ノヴァスコシアの出版に大きな貢献をし、あわせて民主主義を指向する言論人としても大きな影響を与えた人物であった。議会議員になり、すでに1848年時点に、カナダに責任政府を樹立しなければならないと主張して、議会で大論争になったという。1861年から2年間、ノヴァスコシアの首相となり、連邦主義には強く反対した。
 ジョセフ・ハウの住んでいた家が、今ではこのごくちかくにホテルとして残っていて、説明板が貼られている。

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北米東海岸クルーズ (22)

ハリファックス-3 オールド・タウン・クロックとセント・ポール英国国教会
Photo_20200105065801   シタデルを出て、旧市街に向かって階段を降りると、大きな時計台のある緑色の屋根が目立つ建物がある。ここは、シタデルのある丘の中腹になるので、やはり旧市街を見下ろすことができる。イギリス国王であったジョージ3世の息子エドワード王子が、1803年に造ったものである。王子は、性格として時間厳守に厳しかったと伝えられている。時計は精巧な機構のものが採用され、美しい建物とともに街の名物になった。200年を経ても、建物にほとんど損傷はない。しかし時計は、現在は動いていない。
Photo_20200105065802  オールド・タウン・クロックから、まっすぐ海の方向に向かって下ると、小さな公園がある。グラン・パレードと名付けられた広場で、ここハリファックスを開拓したエドワード・コーンウォリス大佐と当時の2,500人の入植者が造った広場である。かつてはここで軍事パレードが行われていたのでこの名がある。北北東から南南西に細長い長方形の広場で、広場の南端にセント・ポール英国国教会が、北端にハリファックス市庁舎がある。
 セント・ポール英国国教会にそっと入ってみた。イギリス国王ジョージ2世が1749年に創設したカナダで最古の英国国教会の礼拝堂であるという。しかし創建以来改築されているのか、現在ある建物は外装も内装もかなり新しいようだ。意外に広々とした内部と、美しいステンドグラスが印象的である。

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北米東海岸クルーズ (21)

ハリファックス-2 シタデルの軍事博物館
 「騎士の館」2階の軍事博物館では、ノヴァスコシアに関係する軍隊の動きを中心に展示がある。Photo_20200103062101
 1914年8月4日大英帝国連邦が第一次世界大戦に参戦すると、カナダは連邦支配下の地域として自動的に参戦となり、6万人の兵力を提供した。ノヴァスコシアは当時55万人の総人口のうち実に3万人が戦争に従軍した。 1916年には、アフリカ系カナダ人2,000人の部隊、1917年にはユダヤ系カナダ人1,100人の民族部隊がノヴァスコシアで形成され、それぞれ勇敢に戦った。1917年3月フランスのヴィミーリッジでイギリス・カナダ軍はドイツ軍と壮絶な戦いを行い、ドイツ軍に2万人の死者をもたらす大勝利を達成した。このときノヴァスコシア・ハイランダース(高地連隊)の不退転の勇敢な活躍は「The Neverfails」と呼ばれて広く知られた。


The-neverfails

 戦争中、ノヴァスコシアは軍需生産で超繁忙となり、石炭鉱山は全カナダの75%の石炭を供給した。3万人もの女性が第一線にはじめて出て、そのうち4,000人の看護婦は国内のみならず海外にまで出かけて活動した。また一方では、1914年からカナダ軍に忠誠でない人たちを取調べ拘束し、8,579人がシタデルを含む24の施設に抑留された。カナダ全体では主に東欧からきた人々であったが、ノヴァスコシアでは大部分がドイツ兵であった。
Photo_20200103062201  第一次世界大戦のとき、ハリファックスは地政学的に大西洋への軍隊と軍事物資の積出と移入のカナダ最大の拠点港となり、膨大な数に上る人と物資の出入りがあった。その最中の1917年12月6日、ハリファックスに大爆発事件が発生した。この事件に関しては、この後で訪れた大西洋海洋博物館により詳しく展示があったので、後述する。
 第二次世界大戦では、1943年9月のイタリア本土解放にカナダ軍が活躍したことが展示されている。さらに1944年春のノルマンディー上陸作戦にも、カナダ歩兵隊が参加している。

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北米東海岸クルーズ (20)

ハリファックス/カナダ・ノヴァスコシア州
ハリファックス-1 シタデル
 アメリカ・メイン州バーハーバーの翌日は、カナダ・ノヴァスコシア州の州都ハリファックスに入港した。昨日のバーハーバーからさほど離れていないのに、クルーズ船内の天気予報では15℃とかなり寒いとのことである。
 ハリファックスは、人口36万人で、カナダの大西洋海岸地域での最大の都市である。このあたりは、Photo_20200101061401 1497年にジェノヴァの探検家ジョン・カボットがケ―プ・ブレトン島を発見して以来、フランス人が移住して1605年にはアカディア植民地を形成したが、そののちニューイングランドにいたイギリス人が中部大西洋岸からアカディアまでをニューイングランドと主張・規定するなど、古くからフランス系とイギリス系の植民たちの接点であり、争い合った地であった。七年戦争(1756-63)でフランス・ケベック軍がイギリス・ニューイングランド軍に敗北し、1763年のパリ条約でケベックを含めてフランスはカナダの植民地を放棄し、イギリス植民地になった。こうしてイギリスにとってのカナダ地区最前線となったが、歴史的経緯からフランスの影響も強く残る土地柄である。
Photo_20200101061601  町全体はこじんまりしていて、すべて歩いてまわれそうだが、昼過ぎごろの到着とスタートが遅いこともあり、上陸後はまずハリファックス・シタデルまでタクシーで直行した。
 まもなくタクシーを降りて、入場券を購入した。65歳以上のシニアで1人600円ほどとかなり廉いのに感動した。
 入り口の門には、女性の衛兵が立っている。入って門の裏側で、やはり女性の衛兵がいたので、私たちは一緒に記念写真をとらせていただいた。
 ハリファックス・シタデルは、ハリファックスの市街を見下ろす丘の上に建設された五角形の要塞で、七年戦争まえの1749年に、ケベックからのフランス軍を防ぐ目的で、イギリス軍によって建てられたものである。結果としては、この地でのフランス軍との戦争は発生しなかったらしい。Photo_20200101061701
 日本の明治維新期の函館五稜郭は、これをモデルにしたとされている。
 五角形の高い堅牢な囲い壁のなかの中央に「騎士の館Cavalier Building」と呼ばれる建物がある。もともと兵士が単身で、あるいは家族と居住するバラックと呼ばれる宿舎であり、現在は1階に受付事務所・映像展示室など、2階にはハリファックスの軍事博物館がある。
Photo_20200101061901  受付に申し込んで、説明付きのツアーに参加した。説明員の女性は、白人だが小柄な人で、巻き舌の早口で勝気そうにしゃべる。大砲のある場所では、この大砲はライフルのない旧式砲で、現在でも正午に時報として紙の空砲を打つこと、掲揚されている軍旗は、カナダ軍旗とハリファックスの軍旗の両方が掲げられていること、1917年12月6日のハリファックス大爆発のときは、市街地が全焼したその火がこのシタデルにも飛び火して、火薬庫の大量の黒色火薬が爆発し、シタデルの過半が焼失するという大事件であったこと、などを教えてくれた。Photo_20200101061902
 この施設の外壁は高い石壁だが、外側はなだらかな傾斜の草地となっていて、敵が駆け上って勢い込んでシタデルに入ってくると、急峻な内側の高い壁から墜落するようにしていること、そして18世紀につくられたシタデルの学校の中も案内してくれた。18世紀のシタデル周辺の青少年は、この学校で初等教育を受けることができた。私たちも、先生役の説明員の指示で、スケッチブックほどの大きさの黒板を銘々に配られ、自由にチョークで絵を描け、と求められた。全員の内から2点ほどの「優れた作品」はチョークを消さずに教室の壁に展示された。
 ツアーのあと、私たちは城郭の周囲の壁の上の尾根道を歩くことができた。全方向に、ハリファックスの旧市街と海を見下ろすことができる。また、衛兵の射撃の実演を見学することもできた。空砲だそうだが、射撃の音はしっかり大きなものであった。
 衛兵の交代も見た。ここでは男性の衛兵も、女性の衛兵も、おなじように勤務しているようだ。

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