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北米東海岸クルーズ (26)

ハリファックス-7 タイタニック号沈没事件
 もうひとつのこの博物館の特集的な展示が、タイタニック号沈没事件である。
 タイタニック号は、第一次世界大戦の直前の1912年に北アイルランドの造船所で建造された、当時の最新鋭の超豪華客船であった。展示では、船がどのように時代とともに急速に進歩して大きくなってきたかを図で比較している。Photo_20200113071601
 当時ヨーロッパは、18世紀末の産業革命から順調に進歩発展した科学や技術に対する信頼と自信が高揚していた時代で、科学技術によって貧困・飢餓・病気にとどまらず、自然災害や人為的災害までもが、かなりの範囲で克服できるとの楽観的な雰囲気があった。船舶も、19世紀後半ごろから急速に蒸気機関化が進展し、航行速度も風など自然に頼らずとも著しく高速になり、木造から鉄板をリベットで繫ぎ合わせる鉄製の船舶となり、難破という海難事故さえも著しく減少した、と受け止められていた。ちなみにこのリベットによる鉄の繫ぎ合わせは、第二次世界大戦ころに溶接が主流になるまでは、もっとも信頼されていた建造方法であった。
 タイタニック号は、その最新鋭の鉄製蒸気船で、しかも航行性能のみならず、旅客の快適性を最大化するさまざまな豪華な内装を導入した、まさに夢の豪華客船であった。46,300トンは、今でこそ私たちが乗っているクルーズ船167,000トンなどと比べるといささか見劣りするようだが、百年前の当時としては破格の規模であった。
Photo_20200113071701  タイタニック号は、1912年4月10日、イギリスのサザンプトンからニューヨークに向けて、処女航海に出発した。そして4月14日には、ニューファンドランド沖を通過していた。この日は、朝から数回にわたって氷山・氷原の存在を警告する無線通信を受信していたが、無線通信士は船舶運航担当者ではなく、無線通信の専門会社からの派遣搭乗であり、船舶の安全情報に関心が低く、むしろ乗船客のための私的通信に心を砕いていたという。
 その日の深夜23時40分、とうとう航海士の眼前に途方もなく巨大な氷山が現れ、急遽左旋回に大きく舵を切ったが、当時の大型船は舵輪の操縦から舵が実際に動くまで30秒ほど要するなど技術的制約もあり、なにより多くの乗組員が、最新鋭・最先端のタイタニック号に限って、少々の氷山で難破するとは深刻に心配しない雰囲気があったらしい。
 結果として氷山を逃げ切れず、左舷から氷山に激突して16の隔壁のうち5を破損し、2時間半ほど後の翌4月15日2時20分沈没した。氷山に衝突した瞬間も、船内の場所によっては座礁や破船を思わせるほどの衝撃でなかったという記録もあり、最初は楽観的な乗組員・乗客が多かったそうだ。しかし時間が経過し、下部の船室から浸水が進行し、やがて船体が傾き、それらが増徴していくと、いよいよ人々が騒ぎ出したという。Photo_20200113071801
 1等から3等までの客室の格差、避難用ボートの絶対数の不足、船上の全員に一斉に情報を伝達する手段が欠如していること、などのため沈み行く船からひとびとを救出することが十分でなかった。さらにこの付近の季節的条件から、海水温は氷点下2℃と低く、海上に逃れ出たひとびとのなかからも多数の死者がでた。
 2,224人の人々が乗っていたが、そのうち1,514人が亡くなった。とくに3等船客の過半数は亡くなっている。
 難船した現場からもっとも近い拠点港がハリファックスであったため、ハリファックスにはユダヤ人墓地、カソリック教徒墓地、英国国教会教徒墓地など、被災者の墓地がある。

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