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映画「さよならテレビ」

 マスメディアに関わっていた友人から紹介していただいて、今回ごくマイナーな手作り映画のひとつを観た。東海テレビの社員が、自社の内部をドキュメンタリーとして撮影・編集したものであるという。
 鑑賞後の感想としては、他の映画作品にはない独特のものがある。この映画のなかで最後のところで登場人物のひとりたる澤村慎太郎記者がつぶやく「なにを訴えたかったの?」という疑問・指摘も至極もっともである。実際、作品としての主張あるいは主題などというものは、きわめて希薄あるいはきわだって未整頓といえる。ただ、この業界に関わりのない私個人としては、業界内部の一部を垣間見るという意味ではおもしろい。
 なにを訴えるのかという観点から考えると、率直に言って、回答のない解決の見込みのない願望らしきものを、勝手に望んで勝手に失望しているように見える。民間からの広告スポンサーに依存する経営基盤で行う事業なのだから、「中立・公正」を謳う以上せめてもの「偏らない」指標として視聴率に振り回されるのは理解できる。しかしその視聴率という指標ほど中身のないものもないだろう。視聴率を稼ごうとすれば、メディアが見下し蔑視している「大衆」に享ける番組を提供せざるを得ない。その結果、事実を伝えかつ「権力を監視」すべきと高らかに謳う報道番組に、大衆うけする、大衆に「わかりやすい」芸人やタレントを多用して、低俗な喧しい井戸端会議風の番組にする。かつて競馬やプロレスの実況放送で人気を博しただけの、したがって見識など期待すべくもない軽薄なアナウンサーを、報道番組のキャスターに用いて視聴率を維持したことなど、その典型である。あるいは「権力を監視」と言いつつ、不勉強で怠慢な自称「ジャーナリスト」あるいは「評論家」を多用して、聴くに堪えない低水準の「評論」を貴重な電波に載せる。この映画のなかで澤村慎太郎記者がいう「社会の問題を指摘するだけでなく、その解決を考え抜いて報道する」からはほど遠い放送をせざるを得ないのが実情であろう。結局、アメリカで行われているような、それぞれの立ち位置を鮮明にしたそれぞれが「保守系放送局」あるいは「進歩系放送局」として、「中立・公正」など構造的に実現不可能な建前を棄て去って、堂々と「偏った」報道をする方が、視聴者から見れば安心できる、信頼のおけるテレビ放送になるように思える。
 この映画は、自分に関係ないものとして観る限りは、それなりに興味深いが、メディアに直接かかわっている人から見ると、愉快なものでは到底ないだろうことも容易に推測できる。まあ、そういった少し特殊な独特の作品であった。

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