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2020年2月

神戸市立博物館名品展 (4)

「聖フランシスコ・ザビエル像」
 この博物館コレクションのひとつの目玉が「聖フランシスコ・ザビエル像」である。Photo_20200229062901
 これはザビエルが聖人に列せられたという知らせが日本にとどいた1623年以降に制作されたと考えられる。類似の先行図様としては、フランドルの版画家、ヒエロニムス・ヴィーリクス(1553~1619)版刻の銅版画などがあり、作者は、落款の壷印(狩野派を示す)と「漁夫」(ペトロを示す)の署名から狩野派の絵師ペトロ狩野(狩野源助)とする説があるが、確証はない。大阪府茨木市の隠れキリシタンであった東藤嗣宅に伝わる「開けずの櫃」から大正9年(1920)に、「マリア十五玄義図」などとともに発見された。発見時のモノクロ写真から、保存学者の神庭信幸は、掛け軸だったのが額縁入りに仕立て直されたほか、制作時に使われた真鍮が変色して黒っぽくなっていた頭光が、発見後に黄色に描き足されたと推測している。禁教で破却された数多くの聖画のうち、秘匿(ひとく)されて伝世した数少ない江戸初期の洋風画である。
 描かれたフランシスコ・ザビエルの口からは「充分です、主よ、充分です」とラテン語を話していることが描かれている。下部には、フリーズのように「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」という意味のラテン文を記し、金を想わせる黄色地には、万葉仮名で「瑳布落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人(さふらぬしすこさべろりうさからめんと ぎょふかんじん)」とあり、「IHS」の朱印と壺印を押す。十字架をもつ右手の掌には、赤く燃えたぎる心臓が描かれ、ザビエルの命がけの伝道への情熱を表わしているとされている。

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神戸市立博物館名品展 (3)

南蛮美術館
 神戸市中央区熊内町にある神戸市文書館は、もともと『南蛮美術館』であった。それは、昭和初期の富豪池長孟(いけながはじめ)が、神戸を世界的な文化都市にしようと、私財を投じて、世界中から有名な美術品を体系的に収集し、私立美術館として公開したところから始まっている。池長孟は、若いころヨーロッパを訪れて、その美術品の文化的蓄積の大きさに深く感銘したのがきっかけだという。苦心の末収集した7000点以上の美術品のために、小川安一郎設計のアール・デコ調のしゃれた美術館を建て、昭和13年(1938)5月『私立池長美術館』を開設し、昭和15年(1940)4月から一般公開した。
 戦後、神戸市が池長から美術品ごと館を譲り受け、昭和26年(1951)に『神戸市立美術館』として開館した。このとき池長は、「南蛮美術総目録」(昭和30年1955)を自ら著していて、今回展示されている。出版冊子で300ページを超える浩瀚な目録は、池長の美術評論をも含む貴重かつ重厚な作品である。
 『神戸市立美術館』は、昭和40年(1965)4月には『市立南蛮美術館』と改称した。昭和57年(1982)11月京町筋に新設の『市立博物館』内に『南蛮美術館』を設け発展的に美術品を全部移転した。なお、熊内町の『南蛮美術館』は閉館して、のちに現在の神戸市文書館になった。
 重要文化財「泰西王候騎馬図屏風」(17世紀初期)は、会津藩主松平家に伝来した初期洋風画とされる八曲一双の屏風である。「泰西」とは、ヨーロッパを意味し、ここでは画面左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、オスマン帝国のスルタン(ムラト2世)、モスクワ大公(イワン雷帝)、タタール大汗、をダイナミックに描いている。

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 これは慶長15年(1610)ころに、有力大名への贈答品とするため、イエズス会の指導のもと、イエズス会セミナリオの工房の日本人絵師によって制作されたとされる。キリスト教の王と異教の王が対峙する主題と短縮法や陰影法の表現などは西洋風だが、背景の金箔、墨絵による下図、彩色の顔彩絵具などは日本画という和洋折衷の作品である。原図は、アムステルダムで1606年から1607年に刊行された世界地図(ウィレム・J・ブラウ図)を基に、1609年に海賊版として刊行された大型世界地図(いずれも現存しない)の周囲に描かれた装飾画と推定されている。17世紀初頭、世界地図の上部を飾る図像を日本で取り入れ拡大し、装飾性をもつ他に例をみない騎馬図を完成させた。
 本作品は会津若松城に伝来し、最初は城の襖絵だったと伝えられる。しかし戊辰戦争の頃には屏風装になっており、若松城落城の際に屏風から切り剥がされて2つに別れた。片方は長州藩士前原一誠の手に渡り、南蛮美術のコレクターであった池長孟を経て、この神戸市立博物館の所蔵になった。もう片方は会津藩松平家が所持しつづけ、戦後個人コレクターを経てサントリー美術館へ入った。この美術作品も、わが国の歴史の激変を生き抜いてきたのである。
 展示品の絵のなかには、戦国期あるいは近世期に伝来したものとともに、日本に渡来した中国の画家の作品もある。たとえば、今回展示の「風牡丹図」は、享保期に長崎にきたらしい清の画家鄭培(ていばい)が、日本で描いた作品だという。中国の絵らしい面とともに、日本の花鳥風月の表現に学んだところもあるように思う。
 近年では、江戸時代日本の「鎖国政策」も、字句通りの閉鎖ではなく、一定度の国際交流が存在したことが知られているが、美術においても外国から、あるいは外国に向けての相互的な影響は確実に存在したことがわかる。
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神戸市立博物館名品展 (2)

日本についての展示
Photo_20200225061901  神戸市立博物館は、私がなんとなく想定していたよりもはるかに膨大な、日本の歴史的遺物・資料を収蔵している。古代・中世・近世・近現代のすべてにわたって、とくに摂津・播磨を中心に、貴重な地方的な歴史的資料を豊富に集めている。紀元前後の弥生時代のものとして、「桜が丘12号銅鐸・銅戈群」が展示されている。銅鐸は絵が描かれたものと、それがないものの別があり、銅戈は微妙な形の相違がある。
 江戸時代17世紀に、狩野吉信が描いた「源平合戦図屏風 ─ 一の谷・屋島合戦図」がある。摂津国一の谷と、讃岐国屋島とを、同じ画面のうえに載せるという大胆な構図で、動きある表現で描かれた大勢の武士・戦士たちを配して、時代のエネルギーを表わした絵である。

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 幕末ころの興味ある展示品に「「大輿地球儀」」安政2年(1855)がある。あとで触れる秋岡竹次郎のコレクションのひとつである。
 Photo_20200225062001 江戸時代後期に土浦に生まれた地理学者・天文学者であった沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん)が考案して制作した、番傘の構造にヒント得た折り畳みができかつ低価格の普及版を目指した地球儀である。当時の日本は、すでにこうしたものに対してニーズが立ち上がっていたのであろう。沼尻墨僊は、他に「地球万国図説」を著したことでも知られている。当時の世界最高水準の地理書を数多く筆写したもので、その中には世界図の模写も含まれている。また彼は、多くの地図の収集も手がけていた。模写された地図は、長久保赤水作の「地球万国山海輿地路程全図」、「大清広輿図」、同じく高橋景保の「新訂万国全図」などを含む。
 南波松太郎・秋岡竹次郎の、地図コレクションからも展示がある。
 南波松太郎は、明治27年(1894)3月、大阪市に生まれ、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業ののち、三菱造船神戸造船所に勤務し、国内ではじめて豪華客船を設計した技術者であった。のち副所長を経て、東京帝国大学教授、神戸商船大学教授、大阪産業大学教授などを歴任した。
 大正8年、中学時代の同窓生であった友人秋岡武次郎から木版刷り江戸図をもらったのがきっかけで、以後60余年にわたって広く古地図の収集を続けた。著書に「砕氷船」「鉱石船」「日本の古地図」「船・地図・日和山」「日和山」などがある。昭和58年(1983)古地図4000点を神戸市立博物館へ寄贈した。
 この度は、寛延2年(1749)に写しとして描かれた「万国図」、伊能忠敬の作製による「沿海地図」(文化元年)、そして宝暦9年(1759)長莎館校、沢田員矩誌による「地球分双卯酉五帯之図」が展示されている。当時としては最先端の地図表現法だったのだろう。

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 秋岡竹次郎のコレクションからは、さきほどの「大輿地球儀」の他に「天竺之図」(寛延2年(1749)が展示されている。
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神戸市立博物館名品展 (1)

リニューアルされた博物館
 2018年2月以来、2年弱の長期間にわたってリニューアル工事のため閉館していた神戸市立博物館が、この11月2日からようやく再開した。諸事にまぎれて訪問が遅れたけれど、やっと更新された会場と展示を見学することができた。Photo_20200223062501
 この度は、考古・歴史・古地図・美術の博物館コレクションから151点を、この博物館の基本テーマ「国際文化交流 ─東西文化の接触と変容」にもとづいて展示・紹介するものである、としている。
 博物館の建物の構造と本体そのものは、当然ながら以前のままだが、内装はすっかりきれいに垢抜けしている。トイレなども、すっかりモダンになった。チケット販売窓口は、受付カウンターに統合され、すっきりした。コレクション展示場も、入口の扉をはじめ、そこかしこが新しくモダンに変わっている。
 今回は、時間と私の鑑賞力のキャパシティの問題もあって、コレクション展をじっくり見ることができなかったが、展示内容・展示方法がかなり更新されているようだ。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (5)

ショパンとポーランド
 こうしてショパンのわずか39年の生涯を眺めると、ショパンがポーランドで生活したのは20歳になるまでだけであり、成長してからの大部分はフランスで過ごしていたことになる。それにも関わらず、ポーランド人のショパンに対する熱い思いが、今回の展示からもひしひしと伝わってくる。ショパンこそがポーランドの国家をあげての英雄だと言わんばかりの雰囲気である。
 たしかにフランスに長く生活したとはいえ、ショパン自身もポーランドに対する並々ならぬ思い入れがあったようだ。長いフランス滞在にも関わらず、彼の父と異なり、終生フランス語は稚拙であったと伝えられている。
 ポーランドでは、さらにポーランド以外の国においてさえ、ショパンは卓越した天才的音楽家として崇敬の対象となっていて、そのため高貴、上品、繊細というイメージが先行して、彼の実像がわかりにくくなってしまっているという。たとえば彼の手紙には、かなり粗暴、卑猥、尾籠な内容が残されているにも関わらず、伝記作品などでは意図的にそういう側面を抹殺している事実が指摘されている。Photo_20200221065301
 この展覧会でも、世界中のショパンを愛する芸術家・画家が描いたショパンの肖像が多数展示されている。この度の展示の順序が、現代に近い時期に描かれた肖像画作品がはじめに登場したため、眺める私たちは、200年も昔の、写真もない時代の音楽家の肖像画を、いったいどうやって描くのだろうと訝った。しかし展示の中ほどから、ショパンを実際に見た同時代の画家による肖像画がおびただしく登場して、こういう次第ならたしかに後世の画家たちも肖像画を描けるだろうと納得した。こんなに多数の肖像画を描かれた音楽家も、あまりいないのではないだろうか。それだけショパンが、世界中の多くの人々から愛されていることを、あらためて認識する。
 現代においては、5年に1回のみ開催される「ショパン国際ピアノコンクール」が、ひとつの圧倒的なピアノ演奏家のための登竜門となっていて、世界中の最高レベルの演奏家が競い合っている。コンクールに参加するためには、何層にも重なる厳しい予選をすべて勝ち抜くことが必要であり、そのための練習にピアノ演奏家にとって数年間をただひとりの作曲家の作品群のみに捧げることはリスクをともなうにも関わらず、「ショパン国際ピアノコンクール」は世界最高レベルのコンクールであり続けている。
 私は、バックグラウンド・ミュージックとして、クラシック音楽をごくごくちいさな音量で一日中聞くともなしに聞いている、まったく横着で不埒な音楽ファンに過ぎないが、こうしてショパンにまつわる肖像画や彫刻、ゆかりの地の風景画、ショパン自筆の手紙や楽譜を眺めて、あわせて彼の波瀾万丈の生涯を振り返ると、私なりにショパンの音楽に対する感じ方が少し違ってきそうに思った。
 予想以上に長時間を要した鑑賞であったが、私なりに充実したものであった。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (4)

ジョルジュ・サンドとの生活
 失恋に落ち込んでいたとき、ショパンは友人であり仲間だった作曲家リストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のホームパーティーの場で、ジョルジュ・サンドとして知られるフランスの文筆家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパンと出会った。彼女はすでに年長の恋多き才女でかつ男爵夫人として知られていて、ショパンは当初、サンドに嫌悪感を抱いていたという。しかし二人の才能はやがて惹かれ合い、ショパン28歳のころには、二人の関係は公然の秘密となっていた。ショパンとサンドは、サンドの2人の子供をともなって、夏季には気候の良いマヨルカ島に滞在した。しかし冬になって陰湿な気候となり、ピアノが通関手続き上の問題で搬入出来ないなどのトラブルがつづき、ショパンの病状も悪化した。それでもようやく届いたピアノと、才気あふれるサンドからのインスピレーションを得て、マヨルカ滞在中に多くの作品を作曲した。38
 ジョルジュ・サンドは文筆家であるが、絵の才能もあるらしく、ショパンを描いたスケッチが展示されている。技巧的でもなく、ショパンを美化するでもなく、その内面・心理をストレートに顕わそうとする、それでもあわせて愛情を感じるような独特の絵である。
 冬のマヨルカ島の気候はショパンの結核を悪化させたので、サンドの子供たちを含むショパンたち4人は、島を去り、バルセロナ、マルセイユを経て、パリに移り、夏はノアンのサンドの別荘に過ごした。サンドとの生活は、10年ほど続き、サンドと別離したあとのショパンは、病状も進行し晩年を迎えていた。フレデリク・ショパンは、1849年10月、39歳にしてパリに客死した。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3)

パリでのショパン
 パリでショパンは芸術家や他分野の著名人と出会い、名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得ることができた。彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者ではあったが、フランスではフランス式の名前を名乗った。ショパンに対してフランスの旅券が1835年8月1日発行され、これを境にショパンはフランスの市民となった。Photo_20200215072201
 フランスに移ってからのショパンは、公開演奏会ではなく、貴族やエリートたちが集うサロンでの演奏をおもに行った。すでに結核を患って健康状態が芳しくなかったこともあり、教えることと作曲で十分な収入を得ることができたので、めったに公の舞台に出ることはなかった。伝記研究者によれば、このように内向的な音楽活動にも関わらず高い名声を得たのは、ショパン以外には世界的にも歴史的にもほとんど例がないという。
 25歳の時、5年前から顔見知りだったヴォジンスキ伯爵の娘マリアに再会した。マリアはその時16歳になっていて、その知的で芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちた。翌年の9月にショパンは彼女にプロポーズし、彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄した。傷心のなかショパンは、マリアに対する想いから「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』を作曲した。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」とした。さらに、彼はマリアに7つの歌曲をつくって贈った。それらはポーランドロマン派の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものであった。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (2)

ワルシャワからパリへ
 ショパンは、20歳に満たずしてすでに演奏家・作曲家としてワルシャワで名声を博していた。そして1830年11月2日、彼はオーストリアに向けてワルシャワをあとにした。彼はそれ以後、ワルシャワに、ポーランドに帰ることはついになかった。1831
 彼がワルシャワを発った直後の11月29日に、ワルシャワで11月蜂起が発生した。それまでにポーランドは、ロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割され、独立国としての実態を失っていた。ロシア皇帝がポーランド王を兼ね、ポーランド国家は独自のセイム(国家議会)と政府をもち、裁判所、軍隊、国家財政の面で独立していたとはいうものの、立憲王国に与えられていた自由は徐々に削減され、憲法は次第にロシア当局から無視されるようになった。ロシアのアレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠することはなかったものの、その代わりに皇帝は憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。このようなロシアの振る舞いに対して、若い士官学校の生徒たちが反発して陰謀を計画し、1830年11月29日夜に武装してコンスタンチン大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲ったのが蜂起のはじまりであった。この蜂起は、結局はロシア・ポーランド戦争に拡大し、約1年後にロシアの圧倒的な軍事力の前にポーランドが屈する結果となった。フレデリク・ショパンは、この祖国の事態を、外国ウィーンから心配しつつ見守っていた。
 この蜂起の結果、ショパンの居所ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。当時、パリをはじめフランス各地に、多くのポーランド人が祖国を逃れて移住した。

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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で、日本-ポーランド国交樹立100周年記念として開催された「ショパン ─200年の肖像」展を、家人とともに鑑賞した。展示会場はいつもと少し違う場所であった。絵画など美術そのものでないものをも含むものの、総展示品数は200を超えて、鑑賞にはずいぶん時間を要した。


誕生から少年期
 フレデリク・ショパンは、1810年ポーランド国ワルシャワから50キロメートルほど西にあったジェラゾヴァ・ヴォラという町に、ポーランド人の母と、フランス北東部のロレーヌから16歳でポーランドに移住してきたフランス人の父との二人目の子として生まれた。父ニコラ・ショパンは、ポーランドに移るとポーランド風に「ミコワイ」と名乗った。彼は貴族の屋敷に住み込んで高度な教育を受け、やがてポーランド貴族の家庭教師や、学校の教師として生計を建てた。完璧なフランス語を話すフランス人であったが、ポーランド移住の後はポーランドにすっかり入り込み、1794年のコシチュシュコの蜂起では、ワルシャワの市民兵として戦いに加わった。彼は、自分のことをポーランド人として疑うことがなかったという。これは子のフレデリク・ショパンにも、大きな影響を与えたはずである。Photo_20200211060401
 父ミコワイは、貴族のスカルベク家で家庭教師をしていたとき、スカルベク家の遠い親戚である一家が逼塞してこの屋敷に身を寄せていたユスティナ・クシジャノフスカと出会い、1806年結婚した。1810年フレデリクが生まれて7か月のとき、父がワルシャワ学院のフランス語教師に転任したことで、一家はワルシャワに移転した。
 母ユスティナはピアノに秀で、父ミコワイはフルートとヴァイオリンが堪能であった。そんな音楽的環境のなかで、フレデリクは6歳ころから天賦の音楽的才能を認められ、7歳から公開演奏をはじめ、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるほどになっていった。7歳のショパンは、すでにト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。11歳のとき、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した。12歳の時、シレジア出身の作曲家ユゼフ・エルスネルに出会い、16歳からワルシャワ音楽院で本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルのもとで音楽理論・通奏低音・作曲を勉強した。エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記し、またショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにしたという。

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喜劇「なにわ夫婦八景」大阪松竹座

 大阪落語界の重鎮であった桂米朝の五年祭に因んで、桂米朝夫妻の伝記のような喜劇が大阪松竹座で上演された。
 米朝を筧利夫、妻絹子を真琴つばさがそれぞれ演じる。狂言まわし的な役回りの彼らの長男小米朝を元関ジャニ∞の内博貴、米朝の師匠であった四代目桂米團治を桂ざこば、絹子の母を三林京子、が演じている。Photo_20200209061901
 中国関東州大連に生まれ、幼少期に姫路に帰って育った米朝は、青年期に作家であり寄席文化の愛好家・研究家であった正岡容(いるる)と出会い、落語に深く魅せられるようになった。正岡から、衰退した大阪落語を再興せよ、と励まされ、大学を中退して、正岡と親しかった四代目桂米團治に師事して、米朝は落語を修行した。師匠の米團治は「落語家は米も何も作るわけでない、世間の御余りで生きている。芸人になった以上、食い詰めることは覚悟の前でなければならない。」と教えられた。
 米朝よりわずか1年の年少であった桑田絹子は、大店の跡取り娘であったが、芸能界に憧れてOSKに入団、戦前は舞台の脇にその他大勢のダンサーとして出演していたが、戦後は独自の歌劇団を率いて、活発に活動していた。
 この二人は、マツダ・ランプ主催の宴会で知り合い、意気投合して33歳ころ結婚に至る。当時としては、晩婚のほうだろう。以後絹子は、まだ無名であった米朝の最大の支援者となる。従来の落語家らしくなく、文学を深く学んで独自の芸風を培った米朝は、やがてそれまでの中高年層のみならず、若年層にまで人気を博する落語家として成長した。弟子も増え、その強烈な個性に振り回される米朝一家であったが、ひとりも破門を出さず、枝雀、ざこば、月亭可朝、桂吉朝など、多彩で有能な落語家を多数輩出した。そして平成7年(1995)落語会で二人目の「人間国宝」を綬章した。
 なんといっても妻絹子を演じる真琴つばさの演技がひかる。宝塚のトップスターだけあって、声量豊かで明瞭なセリフは心地よく、立ち居振る舞いも安心感がある。三林京子の堂々たる演技も良い。筧の米朝は熱演だが、少し関西弁に違和感を残す。演技でもストーリーでも、ざこばの米朝に対する深い尊敬が現れている。
 桂米朝は、私たちも何度か正月の大阪サンケイホールに「米朝独演会」を聴きに行ったことを思い出す。端正で知的な雰囲気の米朝は、たしかに落語家としては一風変わった印象の人であった。こうして米朝さんの伝記を垣間見ることができたのは、私にとってもしっかり感銘があった。

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北米東海岸クルーズ (38)

クルーズ船内の楽しみ-2 IFly
 この船には、もうひとつユニークなエンターテインメント施設がある。IFlyと名付けられた空中遊泳である。縦に設置した大型の円筒風洞の中に入り、下から強烈な風を送り込んで、なかのヒトを空中に浮遊させるというものである。スカイダイビングを、一定の場所でシミュレーションするような装置といえる。Ifly
 これに参加するには、耳栓で風圧から鼓膜を護り、ゴーグルで眼を護り、宇宙服のようなツナギの専用服に身を包む。そして指導員から基本的な技術と注意事項を教えられる。大まかには、両手・両足を自然に広げて、大の字になり、身体の力を抜いて下からの風圧を受ける。そうすれば、身体は全体としては水平に弓ぞりになり、安定に浮遊することができる。
いよいよ順番にひとりひとり遊泳を試みる段取りになる。
 私たちのメンバーには、以前のクルーズで経験して今回は2回目の人もいたが、私と家内とはまったくの初めてであり、つい緊張したが、指導員が私の身体を適宜支えてくれるので、短時間の間なら空中に浮かぶことができた。指導員から、もっと力を抜いてリラックスしろ、と指示を受けた。たしかにリラックスできている短い間のみは、比較的安定していられた。いずれにしても、正味はほんの10秒間も遊泳状態にならなかったが、興味深い経験となった。
Ifly_20200207064301  この船には、もうひとつユニークなエンターテインメント施設がある。IFlyと名付けられた空中遊泳である。縦に設置した大型の円筒風洞の中に入り、下から強烈な風を送り込んで、なかのヒトを空中に浮遊させるというものである。スカイダイビングを、一定の場所でシミュレーションするような装置といえる。
 これに参加するには、耳栓で風圧から鼓膜を護り、ゴーグルで眼を護り、宇宙服のようなツナギの専用服に身を包む。そして指導員から基本的な技術と注意事項を教えられる。大まかには、両手・両足を自然に広げて、大の字になり、身体の力を抜いて下からの風圧を受ける。そうすれば、身体は全体としては水平に弓ぞりになり、安定に浮遊することができる。
 いよいよ順番にひとりひとり遊泳を試みる段取りになる。
 私たちのメンバーには、以前のクルーズで経験して今回は2回目の人もいたが、私と家内とはまったくの初めてであり、つい緊張したが、指導員が私の身体を適宜支えてくれるので、短時間の間なら空中に浮かぶことができた。指導員から、もっと力を抜いてリラックスしろ、と指示を受けた。たしかにリラックスできている短い間のみは、比較的安定していられた。いずれにしても、正味はほんの10秒間も遊泳状態にならなかったが、興味深い経験となった。


北米東海岸クルーズを終えて
 今回のクルーズ客には、私たち6人以外には日本人がいなかったように思う。それだけに、ある意味のびのびと旅することができた。
訪問先は、港がある比較的小さな町が多いが、これが私にはうれしいのである。今回訪問した、ポートランド、ハリファックス、セント・ジョンなどは、自分で企画したら訪問先に取り入れようと思いつくことすらもなかっただろう。観光地ズレしていない小さな町は、そこで生活する人々の日常の生活の雰囲気を感じることができ、現地のひとびとと雑談できると、ひとびとの素の部分にほんの少しでも触れた様に思えるときがある。
 ボストンは、かつて仕事で何度か訪れたが、訪問先の建物の中と、仕事で関係ある人々との夕食の会話など、ごく一部の範囲しか触れることがなかった。ゆっくり街を歩いてみて、アメリカの歴史を、サミュエル・モリソンの本で読んだことが、ところどころで思い起こされて楽しかった。
 こうして紀行をささやかにでもまとめてみると、あんなに短時間の訪問に過ぎなかったのに、印象は充分大きく心に残っていることがある。百聞は一見に如かず、とはこういうことなのだろうと、勝手に納得した [完]。

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北米東海岸クルーズ (37)

クルーズ船内の楽しみ-1
 クルーズ船内の日常は、いつものクルーズのように至れり尽くせりともいうべきものだが、今回はとくにAnthem of the Seasというクァンタム級と呼ばれる17万トンの大型船であったので、この船ならではのノーススターNorth Starと風力浮遊IFlyを記しておく。

ノーススター
 この船の船首近くの甲板上には、ノーススターNorth Starという可動式の展望施設がある。10人程度の観客を乗せたカプセルが、船体の上から2~30メートルさらに上に持ち上げ、海面から90メートルほどの高さから船上とその周囲を見下ろすことができる。Photo_20200205212301
 私たちは、今回のクルーズ旅行中、このノーススターに2回乗ることができた。
 1回目は、船がニューアーク港を出発した翌日、どこにも寄港せずに航海のみの日であった。ノーススターは、機能的には船の中心線から大きくそれたところまでカプセルを移動して、クルーズ船の船体を横から眺めることもできるそうだが、この日はあいにく風が強いなどの問題で、左右には±20度ていどの移動にとどまった。
 2回目は、バーハーバーに着岸し、バーハーバーの市街を散策して帰船した夕刻であった。
 この日も、諸般の事情でノーススターの視界は、ほぼ船の真上からに限られ、また残念ながら雲が多くて、バーハーバーの美しい日没をノーススターから眺める、という目論見は果たせなかった。

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北米東海岸クルーズ (36)

ニューヨークちょっとだけ-5  グランドセントラル駅

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 ブロードウェイを少し南下し42丁目通りを東に歩いて、グランドセントラル駅に来た。大きな地下コンコースがある重厚で美しい駅だ。それにしても大きな建物である。Photo_20200203060801
 高名なオイスター・バーもあったが、年齢のせいなのかクルーズ船の毎晩のディナーの連続で、いささか食べ疲れを感じていて、今回はパスした。
 グランドセントラル駅の1階フロアの一角に、グランドセントラル・マーケットという日常生活用の市場がある。休日の夕方だが、かなりの来客で混雑していた。

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北米東海岸クルーズ (35)

ニューヨークちょっとだけ-4 タイムズスクエア
Photo_20200201062801  ニューヨークのこの季節は、もっと涼しいのではないのか、とホテルの従業員に聞いてみたが、それは年による、との回答であった。日本の札幌とあまり違わない緯度だし、めったに訪れない私でさえ冬の寒さは経験したことがあるし、少しは涼しいことを期待していたが、この日は25℃を超えていたようだ。汗もかいたし、喉も乾いた。そういえばニューヨークの街は、日本よりトイレに困る。それやこれやでタイムズスクエアに向かう途中に、コーヒーショップに入り、喉の渇きをとめた。カウンターで料金を支払うと紙コップをくれて、自分でコーヒー焙煎器を操作して入れる。日本のコンビニと同様なシステムだ。渇いていたので、コーヒーは美味かった。
Photo_20200201062802  5番街の大通りから7番アベニューにシフトして、ゆっくり南下する。景観は、高級商店街からミュージカル、映画などの施設がひしめく歓楽街に、雰囲気ががらりと変わっていく。
 かつて製造業で働いていたころ、何度かこのあたり、あるいは少しはずれて、ブロードウェイ・ミュージカルあるいはオフ・ブロードウェイ・ミュージカルを楽しんだこともあったが、いずれも関係先や駐在員の人たちに車で連れて行ってもらうばかりだったので、こうしてミュージカルを実際に観るでもなくタイムズスクエアを散策するのは、はじめての経験である。

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