南蛮美術館
神戸市中央区熊内町にある神戸市文書館は、もともと『南蛮美術館』であった。それは、昭和初期の富豪池長孟(いけながはじめ)が、神戸を世界的な文化都市にしようと、私財を投じて、世界中から有名な美術品を体系的に収集し、私立美術館として公開したところから始まっている。池長孟は、若いころヨーロッパを訪れて、その美術品の文化的蓄積の大きさに深く感銘したのがきっかけだという。苦心の末収集した7000点以上の美術品のために、小川安一郎設計のアール・デコ調のしゃれた美術館を建て、昭和13年(1938)5月『私立池長美術館』を開設し、昭和15年(1940)4月から一般公開した。
戦後、神戸市が池長から美術品ごと館を譲り受け、昭和26年(1951)に『神戸市立美術館』として開館した。このとき池長は、「南蛮美術総目録」(昭和30年1955)を自ら著していて、今回展示されている。出版冊子で300ページを超える浩瀚な目録は、池長の美術評論をも含む貴重かつ重厚な作品である。
『神戸市立美術館』は、昭和40年(1965)4月には『市立南蛮美術館』と改称した。昭和57年(1982)11月京町筋に新設の『市立博物館』内に『南蛮美術館』を設け発展的に美術品を全部移転した。なお、熊内町の『南蛮美術館』は閉館して、のちに現在の神戸市文書館になった。
重要文化財「泰西王候騎馬図屏風」(17世紀初期)は、会津藩主松平家に伝来した初期洋風画とされる八曲一双の屏風である。「泰西」とは、ヨーロッパを意味し、ここでは画面左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、オスマン帝国のスルタン(ムラト2世)、モスクワ大公(イワン雷帝)、タタール大汗、をダイナミックに描いている。

これは慶長15年(1610)ころに、有力大名への贈答品とするため、イエズス会の指導のもと、イエズス会セミナリオの工房の日本人絵師によって制作されたとされる。キリスト教の王と異教の王が対峙する主題と短縮法や陰影法の表現などは西洋風だが、背景の金箔、墨絵による下図、彩色の顔彩絵具などは日本画という和洋折衷の作品である。原図は、アムステルダムで1606年から1607年に刊行された世界地図(ウィレム・J・ブラウ図)を基に、1609年に海賊版として刊行された大型世界地図(いずれも現存しない)の周囲に描かれた装飾画と推定されている。17世紀初頭、世界地図の上部を飾る図像を日本で取り入れ拡大し、装飾性をもつ他に例をみない騎馬図を完成させた。
本作品は会津若松城に伝来し、最初は城の襖絵だったと伝えられる。しかし戊辰戦争の頃には屏風装になっており、若松城落城の際に屏風から切り剥がされて2つに別れた。片方は長州藩士前原一誠の手に渡り、南蛮美術のコレクターであった池長孟を経て、この神戸市立博物館の所蔵になった。もう片方は会津藩松平家が所持しつづけ、戦後個人コレクターを経てサントリー美術館へ入った。この美術作品も、わが国の歴史の激変を生き抜いてきたのである。
展示品の絵のなかには、戦国期あるいは近世期に伝来したものとともに、日本に渡来した中国の画家の作品もある。たとえば、今回展示の「風牡丹図」は、享保期に長崎にきたらしい清の画家鄭培(ていばい)が、日本で描いた作品だという。中国の絵らしい面とともに、日本の花鳥風月の表現に学んだところもあるように思う。
近年では、江戸時代日本の「鎖国政策」も、字句通りの閉鎖ではなく、一定度の国際交流が存在したことが知られているが、美術においても外国から、あるいは外国に向けての相互的な影響は確実に存在したことがわかる。
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