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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3)

パリでのショパン
 パリでショパンは芸術家や他分野の著名人と出会い、名士として認められ、ヨーロッパ中から集まる多くの弟子にピアノを教えることで、相当の収入を得ることができた。彼はベルリオーズ、リスト、ベッリーニ、ヒラー、メンデルスゾーン、ハイネ、ドラクロワ、チャルトリスキ公、ヴィニー、アルカンらと交友関係を築いた。ショパンは熱烈なポーランド愛国主義者ではあったが、フランスではフランス式の名前を名乗った。ショパンに対してフランスの旅券が1835年8月1日発行され、これを境にショパンはフランスの市民となった。Photo_20200215072201
 フランスに移ってからのショパンは、公開演奏会ではなく、貴族やエリートたちが集うサロンでの演奏をおもに行った。すでに結核を患って健康状態が芳しくなかったこともあり、教えることと作曲で十分な収入を得ることができたので、めったに公の舞台に出ることはなかった。伝記研究者によれば、このように内向的な音楽活動にも関わらず高い名声を得たのは、ショパン以外には世界的にも歴史的にもほとんど例がないという。
 25歳の時、5年前から顔見知りだったヴォジンスキ伯爵の娘マリアに再会した。マリアはその時16歳になっていて、その知的で芸術の才にも優れた魅力的な様子に、彼は恋に落ちた。翌年の9月にショパンは彼女にプロポーズし、彼女は求婚を受け入れ、その母のヴォジンスカ夫人も一応認めたものの、結局ヴォジンスキ家がショパンの健康状態への懸念から破棄した。傷心のなかショパンは、マリアに対する想いから「別れのワルツ」として知られる『ワルツ 変イ長調』を作曲した。パリに戻ったショパンはすぐに作品25の『練習曲集』の第2曲ヘ短調を作曲し、これを「マリアの魂の肖像」とした。さらに、彼はマリアに7つの歌曲をつくって贈った。それらはポーランドロマン派の詩人たち、ステファン・ヴィトフィツキ、ヨゼフ・ザレスキ、アダム・ミツキェヴィチの詩に曲をつけたものであった。

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