2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ

« 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (1) | トップページ | 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3) »

「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (2)

ワルシャワからパリへ
 ショパンは、20歳に満たずしてすでに演奏家・作曲家としてワルシャワで名声を博していた。そして1830年11月2日、彼はオーストリアに向けてワルシャワをあとにした。彼はそれ以後、ワルシャワに、ポーランドに帰ることはついになかった。1831
 彼がワルシャワを発った直後の11月29日に、ワルシャワで11月蜂起が発生した。それまでにポーランドは、ロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割され、独立国としての実態を失っていた。ロシア皇帝がポーランド王を兼ね、ポーランド国家は独自のセイム(国家議会)と政府をもち、裁判所、軍隊、国家財政の面で独立していたとはいうものの、立憲王国に与えられていた自由は徐々に削減され、憲法は次第にロシア当局から無視されるようになった。ロシアのアレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠することはなかったものの、その代わりに皇帝は憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。このようなロシアの振る舞いに対して、若い士官学校の生徒たちが反発して陰謀を計画し、1830年11月29日夜に武装してコンスタンチン大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲ったのが蜂起のはじまりであった。この蜂起は、結局はロシア・ポーランド戦争に拡大し、約1年後にロシアの圧倒的な軍事力の前にポーランドが屈する結果となった。フレデリク・ショパンは、この祖国の事態を、外国ウィーンから心配しつつ見守っていた。
 この蜂起の結果、ショパンの居所ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、また十分な演奏の機会も得られなかったため、ショパンはパリ行きを決断した。当時、パリをはじめフランス各地に、多くのポーランド人が祖国を逃れて移住した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (1) | トップページ | 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3) »

美術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (1) | トップページ | 「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (3) »