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「ショパン─200年の肖像」展 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で、日本-ポーランド国交樹立100周年記念として開催された「ショパン ─200年の肖像」展を、家人とともに鑑賞した。展示会場はいつもと少し違う場所であった。絵画など美術そのものでないものをも含むものの、総展示品数は200を超えて、鑑賞にはずいぶん時間を要した。


誕生から少年期
 フレデリク・ショパンは、1810年ポーランド国ワルシャワから50キロメートルほど西にあったジェラゾヴァ・ヴォラという町に、ポーランド人の母と、フランス北東部のロレーヌから16歳でポーランドに移住してきたフランス人の父との二人目の子として生まれた。父ニコラ・ショパンは、ポーランドに移るとポーランド風に「ミコワイ」と名乗った。彼は貴族の屋敷に住み込んで高度な教育を受け、やがてポーランド貴族の家庭教師や、学校の教師として生計を建てた。完璧なフランス語を話すフランス人であったが、ポーランド移住の後はポーランドにすっかり入り込み、1794年のコシチュシュコの蜂起では、ワルシャワの市民兵として戦いに加わった。彼は、自分のことをポーランド人として疑うことがなかったという。これは子のフレデリク・ショパンにも、大きな影響を与えたはずである。Photo_20200211060401
 父ミコワイは、貴族のスカルベク家で家庭教師をしていたとき、スカルベク家の遠い親戚である一家が逼塞してこの屋敷に身を寄せていたユスティナ・クシジャノフスカと出会い、1806年結婚した。1810年フレデリクが生まれて7か月のとき、父がワルシャワ学院のフランス語教師に転任したことで、一家はワルシャワに移転した。
 母ユスティナはピアノに秀で、父ミコワイはフルートとヴァイオリンが堪能であった。そんな音楽的環境のなかで、フレデリクは6歳ころから天賦の音楽的才能を認められ、7歳から公開演奏をはじめ、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるほどになっていった。7歳のショパンは、すでにト短調と変ロ長調の2つの『ポロネーズ』を作曲した。11歳のとき、議会(セイム)の開会のためにワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露した。12歳の時、シレジア出身の作曲家ユゼフ・エルスネルに出会い、16歳からワルシャワ音楽院で本格的な師弟関係が始まり、ショパンはエルスネルのもとで音楽理論・通奏低音・作曲を勉強した。エルスネルはショパンの通知表に「顕著な才能」そして「音楽の天才」と記し、またショパンの才能が開花するのに対して手を施すことはなく、ただ見守るだけだった。エルスネルはショパンを指導するにあたって「偏狭で、権威的、時代遅れな」規則で「押さえつける」ことを嫌い、若い才能を「彼自身の決めたやり方の通りに」成長させていくことにしたという。

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