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無駄と潤いと満足

 ある同窓会で、友人のひとりが「人間は生きながら、実は無駄を積み重ねていくようだ」と呟いた。自宅の整理をしたり、亡くなった親の遺品整理をしたりして、そんなことを思ったという。それを聞いた他の友人がすぐに同感を表明した。私も、とくに母が亡くなった時の実家の整理のとき、結局大部分の遺品を廃棄しながら、同じようなことを思ったことを思い出した。
 多くの場合「無駄」という言葉の含意は、個人的な判断である。ある人がとても大切にしていたものであっても、その本人以外はその大切さを共有できず、突き詰めれば「無駄」に過ぎないことは普通である。人間が生きていく上に本源的に必要な基本的な食糧・衣類・住居を除けば、大部分のモノは究極的にはそのような位置づけになるだろう。父や母が生前大切にしていた衣類などが典型的な例で、亡くなったら結局は破棄することになる。
 私個人を振り返っても考えても、現在私が大切にしている書籍、衣服、道具なども、その大部分は子供たちを含めて私以外にはほとんどなんの意味も価値もないであろう。
 実家の遺品整理でふと気づいたことだが、廃棄せずに引き取って持ち帰ったモノの多くは、百円ショップで売っているような品物であった。価格はとても低くても、誰にとっても一定の価値があるモノというのは、そのようなモノである。それだからこそ、百円ショップの売り手は、莫大な在庫を抱えていても安心なのである。
 少し考えると、人それぞれによって判定する「価値」が異なるようなモノこそが、より文化的、教養的なのだとも言える。その数によらず誰かが大いに個性的な価値として認める、受け入れるモノが文化を支えていると言える。ほぼ全員がおなじように価値をみとめるような、誰にとっても必須なモノだけでは、我々はとても潤いある満足な暮らしはできないであろう。その意味では「無駄」の効用面をしっかり認識して主張することは大切である。その一方で、多くの文化財はその価値を認める人々の一方で、その価値を認めない人々が常に大量に存在するのが通常というのも事実なのである。
 多くの人々がその価値を受け入れられない、認めたがらないものを、育成して保存するためには、保存しようとする人々の努力とともに、大勢の人々にとっての無駄を抱え込むことができる精神的・経済的余裕が必須となる。文化財の維持を、高踏的に「わが国の文化度の高さ」、「民度の高さ」などと偉そうに主張しても、多数の人々が本心では必要性を認めないのは当然かつ自然であり、それでも保存・維持するためにはそれを支え得る精神的合意のうえに、経済的余裕が必須であることを、我々は常に真剣に考えなければなるまい。「カネではない、心の豊かさこそが大切」とは言うものの、そういう側面も忘れてはならないのだろう。
 ある友人のふとした呟きから、ついついいろいろ考えてしまった次第であった。

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