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2020年4月

野田市郷土博物館と野田市街 (3)

茂木佐平治邸庭園
 郷土博物館の建屋の向かいに、茂木佐平治邸庭園への門がある。そして庭園は、茂木佐平治家の屋敷の庭である。Photo_20200429065301
 茂木佐平治家はこの地域の人々から「茂木佐さん」と呼び親しまれて来たというが、「茂木佐家」とも呼ばれ、茂木本家にあたる茂木七右衛門家の初代の二男が分家独立した家で、当初は穀物商であったが、第3代茂木佐平治は天明2年(1782)から醤油醸造をはじめた。茂木佐家の登録商標(「本印」と呼ばれた)が「亀甲萬(きっこうまん)」であり、これが現在の「キッコーマン」ブランドにつながる。
1_20200429065501   この家は以降も常に野田で最有力の造醤油家の一角を占め続け、4代目の天保9年(1838)には幕府御用醤油造の下命があった。また4代目、5代目は地代官をも務めた典型的な豪商農であった。
 大正6年(1917)野田と流山の醸造家8家が合同して「野田醤油株式会社」を創設したが、そのときこの「キッコーマン」印がこの新会社の本印となった。2_20200429065501
 この邸宅は、大正13年(1924)建てられた。のちに野田醤油株式会社(現在のキッコーマン)に所有が移され、昭和31年(1956)10月に同社の創立40周年記念事業として、郷土博物館建設資金とともに宅地と建物が野田市に寄贈された。
 折しもこの建物を建設している最中に関東大震災(大正12年9月)があり、建物の基礎や土台は一段と強固に設計しなおされたという。
 現存の建物は平成9年(1997)国の登録有形文化財に、庭園は平成20年(2008)県内初の国登録記念物に認定された。

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野田市郷土博物館と野田市街(2)

野田市郷土博物館の歴史展示
 歴史展示は、前史時代から現代まで通時的にさまざまな事象がパネルの解説と、モノの展示で紹介されている。Photo_20200427061301
 この地域には2.5万年ほど前からヒトが住んでいたことがわかっていて、その旧石器時代と呼ばれるころは、気候が寒冷で海面が現在より100メートルほど低く、大陸と陸続きであったため、大陸から種々の生物が渡来したという。しかし縄文時代(BC15,000年~BC1,000年)を経て約6000年前には、この地域の多くの場所が海面下に沈んでいて、陸地はごくわずかであったらしい。
Photo_20200427061401  この縄文時代の遺物として、この地域独特の土偶として「ミミズク形土偶」がある。扁平で多くは少し皿のように凹面を成した顔面に、円盤状の眼・鼻・口が貼り付けられ、そのユーモラスな表情がミミズクに似ているところからこの名がある。たしかに関西では見ることのない様式の土偶である。
 少し時代が下って古墳時代になると、やはりこの地域独特のめずらしい埴輪として「魚形埴輪」がある。魚の形をした埴輪は、茨城・埼玉・群馬・千葉などから、ごく少数の例が発見されているが、かなり珍しい様式のものだそうだ。ここでの例は、利根川を遡行するサケを表わしたものと考えられている。Photo_20200427061402
 近世後期にこの地の特産物となった醤油は、江戸地巡り経済圏の重要商品として将軍家へも納入されたが、その証としての「御本丸西御丸御用額」が展示されている。
 醤油については、寛文元年(1661)野田で最初に製造がはじまった上花輪村高梨兵左衛門家の活動、天明元年(1781)の醸造家7家(高梨兵左衛門、櫛形屋茂木七左衛門、柏屋茂木七郎右衛門、亀屋飯田市郎兵衛、杉崎市郎兵衛、竹本五郎兵衛、大塚弥五兵衛)の造醤油仲間結成、19世紀の濃口醤油の隆盛、醤油樽の製造の進展、天保期の「関東醤油番付」など醤油製造の発展が詳細に展示・説明されている。
 近代については、醤油製造業者の「印」すなわち登録商標の確立、大正期の野田・流山の醤油製造業者8社の合同による「野田醤油株式会社」(現在のキッコーマン)の設立、野田の企業城下町化の進展、などが展示されている。すでに大正末期には、この地域は、周辺他地区がほとんど農村であったのに対して、過半数のひとびとが醤油とその関連製品の製造業、3割近くの人々が食品や菓子・飲料などの商業に従事し、農業従事者がわずか6%という著しい特徴を示していた。当時から、まさに「醤油の町」であったのだ。ただ運送にかんしては、ながらく河川の水運と、陸地では荷車が主流という状況が続いた。

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出水千春『おせっかいの長芋きんとん』 ハヤカワ時代ミステリ文庫

 著者の作品としては3年ぶりの発刊である。これまでは美貌の青年剣士を主人公とするものをシリーズで発表してきて、息詰まる剣劇場面がひとつの特徴であったが、今回は武士の娘、しかも吉原遊郭の台所で働く料理人が主人公である。ふと3年前のNHKテレビ時代劇「みをつくし料理帖」(高田郁原作)を思い出した。
 最初に感じたのは、今回の作品では登場人物の心理描写がより深く丁寧になっていることである。やはり著者が女性であるので、女性の心理描写が得意ということなのだろうか。
 物語の構成、つまり登場人物の配置、その相互関係、時間的配置、そして物語進行の伏線など、緻密に設計されていて、そういうすっきりしたところ、美しさが感じられる。
 そして以前からの特徴として時代考証がしっかりしていて、文章は流れがよくて過不足なく、物語の情景がとてもよくわかる。文章のリズムも物語の進行も、ともにテンポがよいのも著者の特徴だろう。
 今後できれば、テレビ時代劇として放送してほしい。今回も、購入して一気に読み終えた。

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野田市郷土博物館と野田市街 (1)

野田市郷土博物館と建物 (1)
 東武野田線の愛宕駅で下車して、10分ほど南に歩いたところに「野田市郷土博物館」がある。Photo_20200421060901
 地域市民たちによる文化団体協議会、國學院大学の樋口清之博士指導による遺跡調査、万葉歌碑の建設、食生活展覧会、市民自らによる資料調査・資料購入、などのさまざまな文化活動が基礎となって、この野田市郷土博物館は昭和34年(1964)に開館した。
 敷地は、キッコーマン醤油の創業者家茂木佐平治の旧邸で、入場門はその屋鋪の門である。
Photo_20200421060902  建物の設計者は、京都タワーや日本武道館の建築家として知られる山田守(1894-1966)である。山田は、樋口清之博士から依頼を受け設計を承諾すると、建築地の旧茂木佐平治邸の雰囲気に調和するデザインとして、正倉院の校倉造りをイメージしたものとした。
 開館後は、この地の代表的産業たる醤油関連資料の公開をしてきたが、それは全国でも珍しいものであった。博物館の建屋入り口の前に、キッコーマンが大正時代にいち早く導入した製造機械として、蒸気 機関によるコンプレッサーの展示がある。Photo_20200421061001
平成 19 年度からは、NPO法人野田文化広場を指定管理者として、敷地内の野田市市民会館(旧茂木佐平治邸、国登録文化財)と一体的に管理運営することになった。平成31年4月1日からは、野田業務サービス株式会社が新たな指定管理者として管理運営を行っている。

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関宿城をめぐって (5)

鈴木貫太郎記念館
 武家屋敷と教倫館の跡地から東にしばらく歩くと、少し大きな道路に交わる四つ角があり、その信号機の傍に「鈴木貫太郎記念館」がある。
 鈴木貫太郎は、慶応3年12月(旧暦のため1868年1月)下総関宿藩の飛地領であった和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に関宿藩士で代官の鈴木由哲の長男として生まれた。やがて明治4年(1871)に本籍地であるこの地関宿町に移転した。Photo_20200417061401
 明治10年(1877)群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、明治17年(1884)に海軍兵学校に14期生として入学した。明治28年(1895)日清戦争に従軍、その後海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡、金剛の乗務を経て、明治30年(1897)海軍大学校に入学、砲術を学んで明治31年(1898)甲種学生として卒業した。
 明治37年(1904)2月、日露戦争が始まると、鈴木は「春日」の副長に任命され、黄海海戦に参加した。その後第五駆逐隊司令を経て、翌明治38年(1905)1月には第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれつつも、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどのめざましい戦果を挙げ、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献した。
 大正3年(1914)海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行った。大正12年(1923)海軍大将となり、翌大正13年(1924)には連合艦隊司令長官に、そしてその翌年、海軍軍令部長に就任した。
 そのあと、昭和天皇のたっての要望で宮中に侍従長として勤め「大侍従長」と呼ばれた。天皇からの信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。そして実際に、昭和11年(1936)2月21日、反乱軍に突然銃撃され、死ぬ一歩手前までの重症を負わされたが、奇跡的に助かった。
 昭和20年4月、枢密院議長に就任していた鈴木貫太郎は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席し、紆余曲折の議論の後、後継首班に推薦された。鈴木は、「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から、あくまで辞退の言葉を繰り返したが、最後は天皇の懇請を拒否できず首相に就任した。鈴木貫太郎は、非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である。そして、ポツダム宣言の受諾を実施し、玉音放送による国民への終戦宣言を用意して、首相を辞任した。
 首相辞任の後しばらく枢密院議長などを勤めたが、翌昭和21年(1946)6月、公職追放となり、ようやく郷里たるこの関宿の地に帰り、以後はこの地で農業、酪農などの開発を試みつつ、昭和23年(1948)4月、肝臓がんで亡くなった。
 記念館の前に立っている塔碑の「為萬世開太平(萬世たる太平を開く)」の言葉と文字は、鈴木貫太郎自身が提案して揮毫したものである。

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関宿城をめぐって (4)

武家屋敷と教倫館
Photo_20200415062301  関宿城跡からさらに南南東に歩いてゆくと、関宿城博物館監修による「武家屋敷の区割りと教倫館」という表題の説明板が立っている。このあたりは、城内の武家屋敷の区割りがめぐらされていたところである。久保町、小姓町、桜町、鷹匠町などの区画があり、外堀の内外に90人ほどの家臣たちの屋敷があった。城郭周辺には、家老や城代などの要職者の屋敷が集まり、大手門近くにも上級家臣たちの屋敷があった。通りは「鍵の手十字路」と呼ばれる、真っすぐに遠くまで見通せないよう道路を意図的にずらして接続し、敵が攻め入った際の防御を考えたものとなっていた。Photo_20200415062302
 また、この付近にかつて「教倫館」という藩校があった。第5代藩主であった久世広運(ひろたか)が、江戸時代後期の文政7年(1824)に創設した藩校である。これは、明治5年(1872)学制を発布した明治新政府によって廃校となった。
 歴代藩主の中で、全国的に有名となったのが、第7代藩主久世広周(ひろちか)である。広周は家臣中から船橋随庵を登用して「関宿落とし」と称される用排水路を建設させて領内における水害を防ぐ対策を進めた。さらに嘉永4年(1851)には老中に就任して幕末期における中央幕政に参画した。広周は開国派であったため、安政5年(1858)の日米修好通商条約の調印に賛成していたが、その後大老に就任した井伊直弼が安政の大獄をはじめると、これに猛反対したために直弼の怒りを買い、老中と外国御用取扱を罷免されてしまった。万延元年(1860)井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたあと、広周は安藤信正と共に再び老中に就任し、幕政を主導した。広周は安藤信正と共に公武合体運動に注力・推進し、文久2年(1862)に孝明天皇の妹・和宮を降嫁させることを達成した。しかしこれら一連の動きは過激な尊皇攘夷派をはじめ幕府内でさえも憤激を生み、同年に坂下門外の変が起こって安藤信正が失脚すると、広周も老中を罷免され、さらに1万石を削減された上、家督を10歳の嫡男である広文に強制的に譲らされ、失意のうちに蟄居謹慎処分となった。

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関宿城をめぐって (3)

関宿城跡
Photo_20200413062801  千葉県立関宿城博物館の南南東に少し歩いたところに、舗装のない土道に面して「関宿城跡」と刻まれた石碑があり、そのまわりは茂った草地となっている。
 戦国時代には、関東の中心部にあたるこの地は、軍事的に重要拠点であり、関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を押さえる事は、一国を獲得することに匹敵する」と評していた。梁田氏の関宿城支配は100年間ほど続いたようだが、戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で「関宿合戦」と称される激しい争奪戦が繰り広げられた。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助が守る関宿城を3度に渡り攻撃して、天正2年(1574)後北条氏がついにこれを制し、北関東進出の拠点とした。Photo_20200413062701
 しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征討で北条氏は破れ、関宿城を手放したのち、続いて徳川家康の関東移封にしたがって家康の異母弟松平康元が2万石の宛行を得て関宿城主となった。江戸時代の関宿城は、本丸・二の丸・三の丸・発端曲輪、さらに侍屋敷が置かれ、三層の天守閣のまわりに多くの建物があった。
 明治2年(1869)の版籍奉還の後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部は民間に払い下げられた。

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関宿城をめぐって (2)

野田市との合併
 関宿の地域は、近世期には関宿藩の城下町として栄えたが、明治4年(1871)の廃藩と、昭和以降の水運業の衰退・消滅により、現在は小都市としての独自性は失われている。利根川・江戸川・権現堂川の合分流点に位置する関宿城の遺構は、明治以降に行われた河川改修工事のために保存されず破壊され、かつての武家屋敷町もほとんど残されていないため、いわゆる「城下町」としての景観は皆無に近い。Photo_20200409063001
 昭和30年(1955)北側から順に旧・関宿町、二川村、木間ヶ瀬村(きまがせむら)の3町村が合併して「関宿町」となった。合併後の新・関宿町の町役場は、東宝珠花(ひがしほうしゅばな)の旧・二川村役場に置かれた。このため地図において、新・関宿町の位置を代表する「関宿町」の位置と「本来の関宿町」(旧・関宿町)の位置が違うという状況となった。新・関宿町の代表地となった東宝珠花もまた江戸川水運の拠点として栄えた町であった。したがって、昭和30年以降の関宿町は、旧城下町かつ河港町である関宿地区、元の河港町である東宝珠花を中心とする二川地区、農村集落からなる木間ヶ瀬地区の3地区から成り立っていた。
Photo_20200409063101  そして平成15年(2003)に、この関宿町は野田市に編入された。野田市全体の人口約15万人に対して、旧・関宿町地区は約3万人程度である。
 千葉県立関宿城博物館は、平成7年(1995)11月に開館した。この建物は、もと関宿城があった場所から少し北の地にあり、まったく新築されたものである。建物のうち、天守閣部分はかつての関宿城を古い記録に基づいて新たに再現したものである。
 川と人々のかかわりについての歴史、産業、文化、自然等に関する資料の収集・保管・調査研究と情報の発信を行い、県民の生涯学習の場を提供することを目的としている。

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関宿城をめぐって (1)

関宿の位置と歴史
 私はかつて20年近く神奈川県に住んだことがあるが、それだけ関東地方に居たのに関宿を訪れたのは今回が初めてである。近世の歴史を学ぶと、関宿藩が大藩ではないのに多数の幕閣を輩出してきたことにも興味を惹かれた。Photo_20200407061001
 関宿の地は、かなり特異な地形で、大きな県である千葉県の最北端に細い鼻の先のような形で突き出し、東を茨城県、西を埼玉県に挟まれた狭い地形である。
 この地は、マクロには関東平野の中心に近いということもあり、中世から近世の初めころまでは主に軍事的要衝であった。実際、少しだけ高台の関宿城博物館から見晴らしても、全方向に山はない。室町時代の後期、関東公方足利成氏が康正元年(1455)に鎌倉を追われたとき、成氏の家臣簗田成助(やなだしげすけ)が、成氏を自分の根拠地たる下総国古河に迎え入れ、長禄元年(1457)に関宿に城を築城したのが関宿城のはじまりであると伝える。
Photo_20200407061101  利根川は、古代以来関東平野を、不規則に流域を変えながら何度も氾濫を繰り返し、耕地に沃土をもたらすとともに地域の混乱の要因でもあった。古代から利根川水系への治水工事はさまざまに行われてきたが、徳川家康も治水を重視した。家康は関東に入ったとき、この地に軍事・治水とさらに水運の要衝としての位置づけを与えて、自らが信頼をおける家康の異父弟・松平康元(久松松平家)を2万石で宛行い、関宿藩を立藩した。以後、藩主家は比較的短い期間で交代することも多かったが、歴代の藩主家8家の中から22名が老中、3名が京都所司代に就任していることからも、幕府がこの地をいかに重要視していたかが推測できる。
 久松松平・能見松平・小笠原・北条・牧野・板倉などの諸家を経て、宝永2年(1705)久世家が藩主となり、以後幕末まで160年余り続いた。
 関宿の地形がいささか異常なまでに細長いのは、江戸時代を通じて断続的に繰り返し行われた利根川東遷事業、とりわけ寛文5年(1665)権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削して、銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ用水路を開いたことが寄与している。そして明治期の河川工事で現在の特異な形状が決定した。

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「ゴッホ展」兵庫県立美術館 (7)

印象派に学ぶ さらなる探求
 1888年12月23日、ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。ゴッホは、アルル市立病院に収容された。テオは、婚約者ヨーに対し「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の容体、さらに自殺の可能性までも心配している。Photo_20200403064501
 しばらくの入院の後小康を得て退院すると、ゴッホはやりかけの絵を完成したり、耳に包帯をした自画像を描いたりして回復に向かうかに見えたが、やがて幻覚などに悩まされ、再入院を余儀なくされた。病院では、周囲を脅かす言動があったりして周辺住民から他の地域に移してほしいと嘆願がでるようにもなった。
 そんな中に、画家ポール・シニャックが病院にゴッホを訪れ、ゴッホの留守宅となっていた黄色い家にも訪問し、主の不在中に湿気などで損傷していた多くのゴッホの作品などを観た。シニャックは、ゴッホの画家としての成長・成熟を認め、ゴッホを励ました。孤立無援でひとり苦悩していたゴッホにとって、シニャックの訪問は大きな喜びであった。
 1889年5月、ゴッホは、アルルから20キロ余り北東のサン・レミにあるサン・ポール・ド・モーゾール修道院の療養所に入所した。そんな境遇の中でも、ゴッホは制作する手をとめず最後まで自分自身の芸術を追い求めた。
Photo_20200403064601  「薔薇」(1890)は、ゴッホが亡くなる2か月ほど前の作品で、今回の展示のなかではもっとも遅い時期のものに相当するが、みごとな作品である。
 ゴッホの絵画は、晩年の炎がうねり狂うようなイメージが強烈だが、すべての作品の背景にしっかりした骨格と構成と描写能力が裏付けられていて、それがいくら長く眺めていても飽きない、独特の落ち着きと品性と深い魅力を支えている。ゴッホの絵がときに狂ったように揺らぎうねるのも、描く対象から距離を置いて客観的に描くのではなく、彼が早くから「生命の表現」を目指していて、動物か植物かのみならず生物か非生物かさえも問わずに、描く対象に「生命」を敏感に感じ取り、他の画家たちよりずっと対象に心理的に接近し、あるいは入り込んで、客観的よりむしろ主観的に表現しようとしたことが要因ではないだろうか。樹木や建物が波打ち、燃え上がるように揺らめいたのは、ゴッホには実際にそのように感じ、あるいは見えたのであり、画家ゴッホにとってはそれはたとえ尋常ではないとしても、決して異常ではなかった、と私は思う。Photo_20200403064701
 ゴッホは、たった10年間の画家活動の間に2,000点以上の絵を描いたという。思いがけなく早世したが、画家としてとても密度の高い充実した人生であった。
 今回は、彼の画業に影響を与えたと考えられる何人かの画家をも含めた、総合解説的な展示で、かつ弟など親しい相手への手紙も多数紹介されていたので、何度目かのゴッホ展にも関わらず、私にとって新しい発見があり、充実した鑑賞となった。

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「ゴッホ展」兵庫県立美術館 (6)

  印象派に学ぶ アルルでの開花
Photo_20200401062301  1888年2月、ゴッホはテオと同居していたアパルトマンを出て、南フランスのアルルに移った。ゴッホは、手紙の中で「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いていて、南フランスの温暖な気候、明るい光と、そのなかで輝く色彩におおいに感動し魅せられたようだ。
 1888年の初夏には、見渡す限りに広がる黄色に萌える麦の穂に魅せられ、収穫期の小麦畑の油彩画を10点以上描いた。「見わたすと自然の中にたくさんの発見があって、それ以外のことを考える時間がほとんどないことだ。なぜかというと、いまはちょうど収穫の時期だからね。この一週間はずっと小麦畑のなかにいて、太陽にさらされながら、ずっと仕事をしたよ。」とテオに書き送っている。 Photo_20200401062501
 1888年7月ころゴーギャンから手紙で、近いうちにアルルに行きたいという希望が伝えられると、ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするためテオから送られてきた金をベッドなどの家具の買い揃えに投じ、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「夜のカフェテラス」を描き上げ、9月下旬「黄色い家」を描いた。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、精力的に制作を重ね、ついに過労で憔悴しながらも10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた「アルルの寝室」を仕上げた。
 同年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、待ちに待った共同生活が始まった。二人は一緒に出かけて絵を描いたりして、当初は順調な共同生活を送ったが、やがて絵の制作方針などで激しく対立し、2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し手紙で「フィンセントと私は概して意見が合うことがほとんどない。ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を訴えている。

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