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2020年6月

ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(3)

日本映画のポスター
 日本の映画もかなりの数が、戦後の社会主義ポーランドで上映されていたようである。ポーランド側のお国事情から、ポーランドの日本映画は3つのグループに分類できる。一つは、社会主義的な方針と親和性のある、自由主義日本の国家体制や社会に対して批判的な映画であった。二つめは国際的に高名な世界的に認められた映画で、この典型的な例が黒沢明監督作品であった。そして三つめは、特殊撮影技術を開発して世界に売り出すことに成功した怪獣映画であった。
Photo_20200629063001  「東京湾」(1962、野村芳太郎)は、戦友であった二人の男が、片方は刑事としてそしてもう一方は殺人犯として再会するという物語で、ともに暗く重い戦争体験を背負っている。ポスターの画面は、殺人者のスナイパーとしての姿である。
 「姿三四郎」(1971)は、すでに日本国内でも大ヒットした柔道の青春物語である。ポスターでは柔道を競う二人の姿が、かなり抽象デザイン化して描かれているのがおもしろい。
 「七人の侍」(1960)は、黒沢明作品として日本でも大ヒットした。ポスターの絵は、ポーランド人からみた「アジア的」な表現なのか、ポーランド人を描く時とはずいぶん異なり、なぜか汚く醜く描かれている。それは「上意討ち」(1968)でも同様で、ここでは中国の鍾馗をそのまま取り入れて一部を汚く変形させて日本の武士を表わしている。こういう表現は、ポーランド人からみれば自然なのかも知れないが、日本人から見ると一種の「人種差別」のようにも感じ得るものである。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館(2)

ポーランド映画のポスター(下)
 「大事故」(1965)は、稲妻のように激しく斜行する白と、グレーの縞模様だけの単純で大胆な構成だが、激しい衝撃や心理的動揺を遺憾なく表現するポスターである。大きな橋が突然崩壊し、その原因が規格外れの部品の採用によることが判明したという。大胆にも、ポーランドの社会主義国家機構の深い闇を寓意するのだろうか、と思ってみる。
 「婚礼」(1972)は、アンジェイ・ワイダ監督の名作のひとつとされ、一夜の婚礼の宴に集った人々の幻想を通じて、象徴的にポーランドの歴史を描く映画である。幻想のなかに実在した歴史的人物の幽霊や亡霊が現れ、民衆蜂起を煽られる。人々は蜂起の準備をはじめ、芸術家やインテリたちに参加と指導を求めるが、彼らはそれは陶酔と幻想のなかのことだと動こうとしない。やがて人々はみな魔法をかけられたように動けなくなり、明け方になると何かに衝かれたかのように踊りだした。そして花嫁の前で一頭の白馬がゆっくり倒れ息をひきとる。ポーランドの悲しい歴史を表現する映画であるためか、ポスターに描かれた新郎と新婦の表情に笑顔はなく、孤独、寂しさ、虚脱が漂っている。Photo_20200625063401
 「イルミネーション」(1973)は、ヒトとムシ、そして不気味な泡のような物体がいわくありげに組合せて構成されている、かなり抽象絵画的な作品である。登山を趣味とする物理学者がある日突然自分の仕事に疑問を抱き始め、職を捨てて工場で働き始めるという。映画の物語のなかには、実在の哲学者も登場し、かなり理屈っぽいストーリーなのだそうだ。
 「心電図」(1971)は、若い医師が田舎町に赴任して、地元のひとびとと接することになるが、地元の人たちは医学などの科学知識から遠い伝統的思考に固執して、若い医師と対立し軋轢を生じることがテーマなのだそうだ。
 ポーランドの映画とそのポスターは、たいてい大きな社会全体ではなく、家族、恋人、個人などのごく狭い範囲のなかでの人間の精神・心理の機微や複雑さ、あるいは意外さを扱った作品が多く、その範囲内ではかなり斬新な表現を取り入れているように感じた。一党独裁の社会主義体制でもあり、芸術も狭い世界を深耕する方向にしか進めなかったのかも知れない。

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ポーランドの映画ポスター展 京都国立近代美術館 (1)

 新型コロナウィルス感染対策の自粛要請がようやく終わって、6月初めころから各所の美術館が平常に戻りつつある。しかしまだ美術館によっては入場が事前予約のみとか、同一府県内からのみとかの制限がある。岡崎の京都国立近代美術館は、開場時間が少し短いが再開し、「ポーランドの映画ポスター展」は、3月初めから5月初めであった会期を臨時休館を配慮して延長し、7月12日までとなったのを鑑賞したのであった。

ポーランド映画のポスター(上)
 今回は、社会主義政権下であったころのポーランドの映画ポスターの展覧会である。映画ポスターの展覧会という企画そのものが私にははじめでてあり、アートにもいろいろ制約が多かったであろう社会主義政権下の時代の作品展なので、私の正直な気持ちとしては、期待というより好奇心で観に行ったのであった。
 考えてみれば戦後のポーランドの映画界には、アンジェイ・ワイダ、イェジ・カヴァレロヴィチ、ロマン・ポランスキーなど世界的にも高名な監督・プロデューサーがいた。展覧会の解説によれば、1950年代半ばから社会主義リアリズムを脱して新時代のアーティストたちが自由な表現を最大限に推し進め得たのが映画とグラフィックデザインであったという。映画のポスターについても、国際的に注目されるような斬新なアートが出現して、映画作品とグラフィックデザイナーによるポスターとで「ポーランド派」と呼ばれるグループが形成された。今回は、1950年代後半から1990年代前半ころまでに制作された96点のポスターを紹介するのだという。
 冒頭の展示作品である「黄色のジャージを得るために」(1954)は、グラフィックデザイナーのイェジ・ヤヴロフスキが、イェジ・ボサク監督の映画「黄色のジャージを得るために」のために制作したポスターで、「平和のためのレース」と名付けられたポーランドの自転車レースのドキュメンタリー映画であった。画面はグレーと薄い青色のみで黄色はないが、オリンピックの勝者に与えられるとおなじ黄色のジャージが優勝者に授与されたので、この題がつけられた。社会主義体制の圧迫からか、スポーツの映画なのにポスターには弾けたような快活さはなく、そこはかとなく鬱屈したエネルギーを感じさせる。Photo_20200623062601
 「悪魔との別れ」(1957)は、暗色の険しい表情の男の顔が強烈な暗い印象を与えるポスター作品である。ジャーナリストが殺人を犯すが、その背後に複雑な事情があったことが徐々に解明されるという映画だそうだ。登場人物の心理表現が軸となる映画だという。
 「さよなら、また明日」(1960)は、週末だけワルシャワに来るフランス領事の娘に恋したポーランド青年の物語だそうで、ヤヌシュ・モルゲンシュテルン監督のデビュー作品であった。可憐なヒロインの写真が中心に配置され、この時代のさまざまな制約の中での男女の恋の物語である。
 ロマン・ポランスキー監督の映画「水の中のナイフ」(1962)のポスターがある。ポランスキー監督のデビュー作品で、私はたまたまこれをテレビ番組で観たことをかすかに覚えている。裕福な中年夫妻と若い行きがかりの男のたった3人の登場人物で、性的欲望、世間的欲望、殺意、善意などの人間の内面の多様性と葛藤をテーマとしたドラマであった。ポスターは、夫妻を表わす魚が上と下に描かれ、その間に挑戦的な面構えの攻撃的な印象の魚が描かれる。いずれの魚も太い輪郭で囲まれ、葛藤・緊張や孤独が表現されている。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(6)

第二次世界大戦までの昭和時代(下)
 昭和に入ると、絵画と彫刻に加えて、写真や版画がより普及して美術の分野としての地位を確立するようになった。
Photo_20200619060801  安井仲治「公園」(1936)という写真作品がある。明治36年(1903)大阪市の裕福な商店の長男として生まれた。早くも10代半ば頃から写真を始め、大正11年(1922)には浪華写真倶楽部に入会し、写真展でなんども入選を果たし、また浪華写真倶楽部の代表格のメンバーとして活躍した。若くして関西写壇に欠かせない写真家であったが、さきの大戦最中の昭和17年(1942)、腎不全のため神戸の病院で38歳で早世した。 彼はアマチュアリズムを徹底して、初期のピクトリアリスムから、ストレートフォトグラフィ、フォトモンタージュ、街角のスナップにまで、自由に活動範囲を広げた。枠にとらわれず自由に撮影対象を選択し、それに対応しうる確実な撮影技術をもっていた。現代の代表的なプロ写真家である森山大道や土門拳も、安井を敬愛し高く評価している。
 昭和期も戦後になると、金山平三、恩地幸四郎、田中敦子、草間彌生、片岡球子、佐藤忠良、篠原有司男などが登場するが、これらは別の機会になんども眺めたので、今回の記録としては省略する。
 今回の展覧会は、「超・名品展」とあり、日本の近代絵画の歩みを100年にわたって回顧するということで、正直な気持ちとしてはさほど期待は大きくなかった。ただ、新型コロナウィルス問題で2か月近く全国の美術館が閉鎖され、久しぶりに美術作品を観ることができるというその一点のみで飛びついたようなところがあった。しかし実際に鑑賞に訪れてみて、とくに明治初期のわが国の西洋画草創期の画家たちの作品に感銘を受けた。オリジナリティとか、社会との関係とか、ダダイズムとか、マルクス主義とか、芸術としては当然大切な要因だとしても、いろいろ考える以前に、先ずはひたすら西洋の油彩という新しい技術、技能を習得することに、ひたすら職人的に邁進したころの画家たちの作品である。そんな初期でも、個人的な技術・技量はかなりの水準のものであった。そういう時期の日本人の能力は、とくに優れている。そんななかにも、図らずも控えめながら印象に残るオリジナリティが発揚したりする。私は自分自身で絵を描いたり彫刻を制作したりしない、いやできないが、観るだけでもこうして感銘を受けるし、至福を感じることもできる。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(5)

第二次世界大戦までの昭和時代(上)
 村上華岳「岩の山」(1939)という少し変わった作品が気になった。岩の山というわりには、なにかモコモコしたカタマリがいくつか描かれるのみで、ある意味抽象画のようでもある。彼は、「山は遠くから眺めるだけでなく、自分が入り込めないといけない」と言って、自ら山登りや山道の散策を好んだと、絵の説明文にあるのをみて、この絵は親しみを感じた岩山と自分を心理的に一体化したものを描いたものかも知れない、と勝手に想像してみた。そう思って絵をしげしげと見つめると、やはり一瞥したときとは異なるなにか迫るものを感じる。甲州武田氏の末裔の家に生まれ、早くから両親と別れて複雑な家庭に育ち、美術の才能を武器として日本画を研鑽しながら喘息の持病に苦しみ、51歳で没した画家の人生は、今でこそ早世のようだが、当時の本人としてはそれなりに生き切ったのかもしれぬ。Photo_20200617061201
 富岡鉄斎「夏景山水図」(1912)がある。この人の絵は、これまでにも何点かは見ているが、実に自由奔放でかつ知的である。大正・昭和期のわが国の洋画家たちから高い評価と人気を博したのも自然に頷ける。天保期の京都に法衣師の子として生まれ、猛烈な勉学好きで、富岡家の家学である石門心学をはじめ、国学、勤王思想、漢学、陽明学、詩文などを広く学んだ。さらに出家した大田垣蓮月尼が少年であった鉄斎を侍童として受け入れ育て、人格形成に大きな影響を与えたという。わが国最後の文人と言われるだけあって、生涯にわたって詩文、教育、そして画業に膨大な作品を残した。本人は画家と呼ばれることを嫌い、あくまで学者であると主張したというが、それだけに描く絵は何を気にする必要もなく、自由そのもので魅力に満ちている。
 洋画家の巨匠、安井曽太郎の「座像」(1929)がある。美しい女性を描くというには少し画面の緊張感が過ぎていて、画家の猛烈なエネルギーと集中とが強調されているような重い作品である。説明にあるとおり、画面の隅々まで周到に設計して描き込まれ、一分のスキもない力作である。説明文によると、彼は同じモデルを複数回採用したことはめったになかったのに、この絵のモデルの女性だけは、なんどか描いたという。絵を観てなにかざわつく感じを受けるのは、そんな事情もあるのかも知れない。でもそれならもっと女性を美しく描くこともできたと思うが、そこは真剣に画業に取り組む安井曽太郎の矜持なのだろうか。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(4)

大正時代の美術(下)
Photo_20200615060701  中原實「乾坤」(1925)がある。乾坤=天地・陰陽という抽象的概念を題材にしているので、必然的になんらかの抽象的表現の作品となっている。中原實は、明治26年(1893)東京に生まれた。父は日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の創設者であった。中原も同校を卒業し、そのあとハーバード大学に編入学して、当時の先端的な歯学を学んだ。第一次世界大戦中には渡仏し、フランス陸軍の歯科医として兵士の治療にあたった。第一次世界大戦終結後には、こんどはパリの芸術学校に入学した。そこで油絵を学び、美術の才能を開花させた。芸術学校を卒業したあとに移ったベルリンは、当時「ダダイズム」の最盛期であった。ダダは既成の価値観を否定し、秩序や調和を壊そうとする芸術運動で、写真を切り貼りするフォトモンタージュという手法はこのころに生まれたといわれている。その後も画家、教育人、医師のいずれにも真剣に取り組み活躍し、二科展で知られる芸術団体「二科会」の理事や、日本歯科大学学長、日本歯科医師会会長などを歴任した。画家としてはアバンギャルド=前衛であり続けることをモットーとしていたという。この時代には、このようなマルチな才能を発揮する人がいたのである。Photo_20200615060801
 萬鐵五郎「ねて居るひと」(1923)という裸婦像がある。このころは萬だけでなくわが国の画家は西洋の豊満な女体ではなく、日本人女性の体格の特徴を積極的に取りあげ、独自の裸婦像を開拓したという。この絵の女性は、たしかに豊満さには欠けるが、よく観ると自分独自の性的魅力を、自信をもって主張しているようにも思える。
 戸張孤雁「煌めく嫉妬」(1924)という彫刻がある。俯いた女性の顔の表情はわからないが、右手は右足の指をつかみ、左手は左脚のふくらはぎを撫でている。この所作は女性の内面のしっと葛藤を表すという。
 佐伯祐三「リュクサンブール公園」(1927)がある。この画家の人気は当時から高く、多くの贋作が出ていたが、この作品は、厳正な鑑定を経て真作と認定されたものだという。すっきりした構図、明暗の配置にも色彩の選択にもアクセント・メリハリがあり、素人の私にもインパクトのある良い絵だとわかる。この大いに期待された青年画家が夭逝したときの世間の落胆が、私にもわかるような気がする。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(3)

大正時代の美術(上)
 わが国の画家や彫刻家たちは、西欧から到来した新しい技術や美術思想・美術様式とひと頻り格闘したのちは、改めて自分の立場を振り返って自分なりの方針を模索しようとし始めた。おりしも大正デモクラシーがあり、ロシアで共産主義革命が起こり、マルクス主義のインパクトに影響される芸術家も現れた。
 北村四海「凡てを委ねる」(1918)という題の大理石彫刻がある。長野の宮彫師の子として生まれ、東京に出てからわが国には珍しい大理石彫刻に取り組んだ。この作品は、大理石彫刻の特徴のひとつとされる、造形が大理石のなかから浮かび上がってせり出すような構成をとって、頭を伏せた大柄の男が、小柄な女に抱かれているが、ともに姿勢がかなり不自然である。それでもその不自然さが大理石のなかに吸収されて、全体として不思議なバランスがある、独特の静謐で穏やかな世界を表している。
 荻原守衛「女」(1910)というブロンズ像がある。裸体の女性は、身体をねじって斜め上を見上げるが、体幹は螺旋形になって向上心、苦悩、希望などアンビバレントで多様な内面と表情を豊かに静かに表現している。荻原守衛は同じ長野出身の相馬愛蔵が経営する文学サロンであった銀座中村屋に出入りしており、この彫刻のモデルは彼が密かに憧れていた相馬夫人の黒光であろうとの説がある。荻原守衛は、高村光太郎とともにわが国にオーギュスト・ロダンをはじめて紹介した近代彫刻の先駆けであったが、30歳で夭逝してしまった。Photo_20200611060801
 柳瀬正夢「五月の朝と朝飯前の私」(1923)という小型の抽象画がある。彼は村山知義等とともに1923年の関東大震災の直前に結成した、わが国ダダイズムの先駆けグループMOVAの中核メンバーであった。モヴァは、虚無思想を根底に持ち、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。政治的には当時のロシア革命のブームにも影響されて、マルクス主義への傾倒があったらしい。
 柳瀬正夢は、この絵を描いていたころは珍しく絵画創作に集中できていたと回顧していて、同じころに下宿の娘との恋も進展してほどなく結婚するに至るという、人生の一代転換期・高揚期であった。タイトルと絵の内容との関係などは、私にはよくわからないが、世界の動きにも刺激され、自らも新しい芸術を創生しようと意気込んでいたことだけは雰囲気から理解できるような気がする。

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兵庫県立美術館「超・名品展」(2)

明治時代の絵画作品(続)
Photo_20200609060501  小坂象堂の「草摘み」(1897)と「野辺」(1898)というきれいな作品がある。小坂象堂は、但馬国出石で武士の子として生まれ、明治維新の後出石焼という地元の陶器の絵付け職人となった。しかし絵付けに飽き足らず、なんとか絵描きになりたいと、余暇にいくつもの絵を制作し、岡倉天心にも見てもらったらしいが、あまりに素直・素朴すぎて、理想を掲げて美術の大成・発展をめざす天心にはもの足りず、良い評価を得られなかったという。でもいま客観的に観ると、西洋絵画を精一杯追いかけて技能本意で描いている画家たちとは異なり、ずっと日本国内で生活してむしろ自分の絵の世界を期せずして身に着けている美しい絵とも思える。
 菱田春草「暮色」(1901)は、西洋画・油彩ではなく、伝統的な日本画で絹本着彩の軸である。こうして初期の日本の西洋画のなかに置かれると、当たり前だが基礎技術が確立した安心感と安定感の溢れる見事な絵である。彼は、岡倉天心から「絵は申し分ないが、なぜそんなに輪郭を残さず朦朧と描きたがるのか」と批判され、それならばと意識的に輪郭を明瞭に描いた絵がこれだという。色彩のコントラストは強くないが、線の輪郭ははっきり描かれ、画面全体も光を意識した明るい作品となっている。
Photo_20200609060502  和田三造「南風」(1907)がある。これは今回の展覧会のポスターとなった作品で、国の重要文化財でもある。文部省がはじめた最初の文展で最高賞を獲得した作品で、当時和田三造は、弱冠24歳であった。
1904-5年の日露戦争で勝利した後でもあり、世の中全体が明るく前進と発展の機運に満ちていたこともあり、このような勇壮な作品が好まれたのだろう。4人の男性が描かれるが、筋骨逞しい大柄の男が中央に仁王立ちし、その左手になにやら考えているかのような表情の少し年長の男がタバコを燻らせ、右手には遠くを見据えて膝を抱えるように座る青年、手前には日焼けした鯔背な雰囲気の背中を見せる男が配置される、まるで「男の四態」とも思える構図である。彼は、東京美術学校で青木繁、熊谷守一、児島虎次郎、山下新太郎等と同期であり、この文展の後、文部省交換留学生として渡欧し西洋絵画を学び、さらに工芸図案も習得し、留学の帰途にはインド・ビルマをまわって東洋美術も研究した。後には、文展などの審査員、絵画・装飾工芸・色彩などのさまざまな美術の研究所を設立し、東京美術学校の教授として後進を育成し、また自らも本格的に日本画を制作するなど、非常に広範囲に活躍した。

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兵庫県立美術館「超・名品展」

 新型コロナウィルス肺炎感染予防のため、4月初旬から臨時休館していた兵庫県立美術館が、6月初めからようやく一部制限付きで開館した。入場希望者は原則前日までにネットで予約して、制限人数などを勘案して入場を認められた者のみが割り当てられた決まった日時に入場する、というものである。
 さらに今回鑑賞する展覧会は、当初4月11日~6月7日のまる2か月の会期を予定していたのが、臨時休館のために6月1日~7日の7日間のみと大幅に短縮となった。そんな事情なので、私も鑑賞が可能かどうか懸念したが、結果的には6月2日午前11時から入場することで入場が許されて、晴れて久しぶりの美術鑑賞となったのである。
 展覧会の内容は、兵庫県立美術館の前身たる兵庫県立近代美術館が開館した1970年から今年が50周年になることを記念して、日本近代美術の作品を明治維新・開国の1870年から兵庫県立近代美術館開館の1970年までの100年間について、それぞれの時代を代表する作品を100点余り選択して展示する、というものである。明治維新を経てわが国に西洋絵画が入ってくるようになり、美術界も大きな変革期を迎えた。その後も、二度にわたる世界大戦、ロシア革命などの大きな歴史的事件を経て、美術も変遷を遂げてきた。その一端を回顧してみようというものである。

明治時代の絵画作品
 最初は、明治初年から明治終わりまでの時代で、大きなインパクトは「油彩」の導入と、留学も含めた若手画家による西洋美術の習得であった。Photo_20200605062402
 高橋由一「豆腐」(1877)は、豆腐というきわめて日常的な対象を真剣に描写して、新しい絵画技術たる「油彩」の写実的描写能力を実証して啓蒙しようとした作品であった、との説明がつけられている。明治10年当時のわが国は、まだ西南戦争の混乱もありおちついていなかったから、そんな環境を考えるとよく描いたものだとも思う。焼き豆腐と別名「お稲荷さん」とも呼ばれる厚揚げが丁寧に描かれた絵は、まさにふさわしい場所として香川県金毘羅宮に奉納・保管されている。高橋由一の作品は、私は鎌倉に住んでいたころ横浜に縁の深い画家ということもあり、何度も多数観たが、この「豆腐」は初めてである。たしかにいじらしいほど真剣かつ丁寧な描写である。
Photo_20200605062501  小林正太郎「濁醪療渇黄葉村店」(1889)という作品がある。高橋由一「豆腐」より10年余り後だが、にごり酒が渇きを癒してくれる、そんな田舎の小店、といういささか隠逸詩人の心境のような題がつけられている。この人は政治論議を好む実直な教員として生活していたという。それが最近になってこの絵が発見されて、一気にしっかりした描写力のある自然派の画家でもあったことが判明したのだそうだ。なんとなくバルビゾン派の作品を追っかけるような絵だが、たしかに技能は充分優れていると思う。

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「ハマスホイとデンマーク絵画」東京都美術館 (4)

ヴィルヘルム・ハマスホイの作品
Photo_20200603061401  そしていよいよ展覧会タイトルであるハマスホイの作品の登場である。彼は、首都コペンハーゲンで活動し、首都の街から消え去ってしまったデンマークの古い文化を追い求めたかのような作品を多く残している。
 「寝室」(1896)では、人物は登場するが画面の主役ではなく風景の一部のようである。ここで丹念に追及されていのは光のグラデーションである。
Photo_20200603061601  「室内」(1898)でも、人物は人格的な存在ではなく、やはり風景の構成要素に過ぎない。穏やかな光と静かな雰囲気の中で、静かに時間が流れるようである。
 風景画である「農場の家屋、レスネス」(1900)は、思い切った画面の平面的表現とともに、いっさいのヒトの気配を消去していて、雰囲気としてはシュールな感じを与えている。Photo_20200603061701
 展覧会のポスターに使用された「背を向けた若い女性のいる室内」(1903)は、画面左上に一部だけ見える額縁入りの絵、左手中ほどのロイヤル・コペンハーゲンのパンチ・ボール、そして画面右手に立つ少し腰をひねった後ろ姿の黒いワンピースの女性、と綿密に設計された幾何学的な画面構成の絵である。静かでとても理知的な作品である。
 「カードテーブルと鉢植えのある室内、ブレスゲーゼ25番地」(1910)は、じっと眺めているとだんだん現実味を失っていくような、人工的で綿密な設計による画面構成で描かれていて、その意味ではまるでフェルメールの絵を連想させるような作品である。
Photo_20200603061901  ハマスホイは、古い建物の室内は時間の堆積を秘めていて、その歴史から醸し出される美がある、とする。「美」とはなにか、ひとつの根底的な視角からの問いかけである。 
 全部で86点の展示で、私の鑑賞のキャパシティとしてはちょうど手ごろであり、疲労し過ぎずに楽しく鑑賞できた。展示作品の全体の印象としては、「北欧」というイメージからもう少し暗いトーンの絵画を想定してしまうが、意外に光を積極的に取り入れた明るい印象の絵が多いように感じた。
 古いモノが歴史を堆積しているという思考は、イタリアの静物画家ジョルジュ・モランデイが静物のホコリの存在まで重視するのに通じるように思う。「時間の堆積」「モノの歴史的存在」という視角は、とてもおもしろいと思う。
 絵画というひとつの側面からであっても、お国柄、国民性、民族の性格などといったことがそこはかとなく感じられる、とても興味深い鑑賞であった。

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「ハマスホイとデンマーク絵画」東京都美術館 (3)

19世紀のデンマーク絵画
Photo_20200601061101  19世紀前半から中頃までは、デンマークのナショナリズムが鮮明に表現された作品が多かったが、その風潮に反発する芸術家たちが画壇から分離して独立展を開催するようになった。そしてこのころからデンマーク絵画に重要な分野として「室内画」が登場してくる。
 ヴィゴ・ヨハンスン「きよしこの夜」(1891)は、画家の自宅のクリスマスの集いを描いたもので、デンマーク人が好む「ヒュゲhygge」すなわち寛いだ心地よさの雰囲気を表現している。
Photo_20200601061301  カール・ホルスーウ「読書する女性のいる室内」(1913)には、デンマーク人の私的生活の尊重とこだわりが現れている。
 ピーダ・イルステズ「ピアノに向かう少女」(1897)は、少女が愛する身の回り品々が配置され、少女の理想的で幸福な空間を描いている。
この時期の風景画に目を転じると、  ティーオド・フィリプスン「晩秋のデューアヘーヴェン森林公園」(1886)は、大気や光のゆらぎを、短いタッチで絵具を重ねて表現していて、印象派の色彩感覚を取り入れた画期的なデンマークの絵であった。Photo_20200601061401
 クレスチャン・モアイェ=ピーダスン「花咲く桃の木、アルル」(1888)は、アルルでのゴッホの桃の木を描いた作品と、ほとんど同じ対象の描写に見えるため、ゴッホとキャンバスを並べて描いたものではないかと推定されている。南仏らしい明るさに満ちた絵である。

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