「見えてくる光景」アーティゾン美術館(下)
第二部「アートをさぐる」 アンリ・マティス「石膏のある静物」(1927)は、思いがけない色彩の導入と、二次元と三次元の間を自由に行き来する驚きから、意表をつかれる楽しさがある。
ピエール=オーギュスト・ルノワール「水浴の女」(1907)は、これまで何度か観ているが、こうして他の画家の作品とならべて鑑賞すると、絵画の技量も卓越しているが、それ以上に自分の絵の世界観、表現の方針を明確に持って、確固として堅持していることがあらためて理解できるように思った。
百武兼行「臥裸婦」(1881)は、明治維新から日の未だ浅い時期に、これだけの裸婦像を堂々と描いているのに感動した。百武兼行は、明治初期に岩倉遣欧使節にも同行したわが国の海外通の草分けで、日本人最初のオックスフォード大学留学生でもあり外交官でもあったというが、絵画の技量もなかなかのものであった。
パブロ・ピカソ「女の顔」(1923)は、この絵なのか、それとも似通った彼の他の絵なのか記憶が判然としないが、見たことがあるような気がする。眺めていると人間の顔のパーツが、実際にはどのような形状を成していてそれが見る角度、光線の当り具合、さらには見たときの自分の感情の具合によって、果たしてどのように見えるのだろうか、と思案してしまう、そんな風に誘導されるように感じる。そんな風に考え始めると、ピカソが描く女の顔のパーツはそんなに奇異なものでもなく、不思議にリアリティーを感じてしまうのである。そのような事実から遡って考えると、ビカソは実は描く対象をとても精緻に見つめて表現していたのかも知れない。
安井曾太郎「水浴裸婦」(1914)は、上手な絵だと思うが、このままではどうしてもヨーロッパ絵画の模倣にしか見えない。
古賀春江「素朴な月夜」(1929)は、時期的にサルバトール・ダリの模倣ではないのだろうと推測するが、ダリが卓越した描写能力でようやく観る者に感動を与えている、ということを思って比較すると、なんとなく未熟に見えてしまう。
メアリー・カサット「娘に読み聞かせるオーガスタ」(1910)は、この展示コーナーの副題「Happiness」にふさわしい暖かい絵である。
青木繁「わだつみのいろこの宮」(1907)は、とても魅力的な絵であることはまちがいないが、コーナー・タイトルのHappinessというよりは、青年の願望・理想であると思う
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