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2021年1月

倉敷散策 (5)

大原美術館
 ようやく大原美術館に入場した。16年ぶりの再訪だが、そのときどんなものを鑑賞したのか、すっかり忘れてしまっている。Photo_20210129060201
 倉敷紡績の経営者であった大橋孫三郎が、同年代の画家であった児島虎次郎の才能を愛し、支援して明治41年(1908)から児島をヨーロッパに留学させた。児島はその期待に応えてベルギー・ゲント大学美術アカデミーを主席で卒業した。児島は帰国ののちも、大橋の支援により2度にわたってヨーロッパに留学し、当時のヨーロッパ美術作品を日本の人々になんとか直接見せたいと考えるようになった。児島は大橋に、すぐれた西欧絵画の購入を提案し、その考えに賛同した大橋は、児島をヨーロッパに派遣して、すぐれた美術作品を購入せしめた。こうしてわが国では最初の西欧絵画のコレクションが大橋のもとに形成された。児島は、西欧以外にも、エジプト・中東・中国などの美術品をも買い集めた。
 しかし児島が47歳の若さで昭和4年(1929)死ぬと、その翌年大橋は、それらのコレクションと児島の作品を展示するために、大橋美術館を創設した。当時これは、西欧近代美術作品を直接展示する美術館として画期的なものであり、わが国には先例がないものであった。
Photo_20210129060301  第二次世界大戦ののち、大橋孫三郎を継いだ長男大橋總一郎は、「美術館は生きて成長していくもの」との信念で、前衛的な作品や、日本の新しい美術運動による美術・工芸品、すなわち濱田庄司、河井寛次郎、宗像志功などの作品にまで蒐集の範囲を拡大し、それにともなって展示場も増設した。
 展示作品を眺めると、私たちが少年期・青年期に学校の教科書で観たような有名な作品も多々あり、コレクションの幅広さ、先見の明にあらためて感銘をうける。
 今回は、エル・グレコ「受胎告知」を観た。このテーマは、世界中の画家たちがさまざまに描き、エル・グレコだけてもいくつもの作品があるそうだ。この作品は有名で、私もなんども本の写真ではみているが、実物はやはりインパクトがある。実物はさほど大きな絵ではないが、投影法的な技法でなく、光と色と質感だけでみごとに表現された立体感に、感銘を受ける。やはり絵は、直接観ないとわからない、とあらためて思った。

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倉敷散策 (4)

昼食と旧市街の路地
Photo_20210127055501  旅館くらしきのすぐそばには、火の見櫓があり、その下には小さな滝がつくられている。このちいさな滝は、脇のボタンを押すとしばし流水が流れる仕掛けになっている。
 この付近は、かつての旧市街のままの狭い路地が行き交っていて、伝統的市街地の風情が楽しめる。江戸時代の陣屋町の通りのまま、少しずつ曲がっていて、また食い違って繋がっている。当時の治安のため、敢えて見通しを悪くした設計である。現在の市街の法律規制では、4.5メートル以下の狭い路地はつくれないので、これらはこのまま維持しないと再建はできないとのことである。
 昼過ぎとなったので、「桜草」という和食レストランに立ち寄った。ガイドブックにも掲載されていたし、ガイドさんも薦めたのである。寒い天候のためか、正月あとの日曜日なのに客は少ないようだ。通された部屋は、まずまずきれいで、快適であった。

Photo_20210127055601

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倉敷散策 (3)

美観地区の周辺
 倉敷美観地区の人出は多くない。折しも成人式のタイミングと重なるのか、晴れ着姿の若い女性は多い。Photo_20210125151701
 倉敷川沿いに少し行くと、大原美術館がある。来る前にインターネットで、コロナ騒動のため入場制限があり、いったん美術館にきて入場整理券をもらうことになっている、ということなので、まず初めに立ち寄って整理券をもらっておくつもりであった。果たして行ってみると、今日は幸いにさほど混雑していないのですぐ入場できる、と。ただ、絶好の好天で、寒さもなんとかしのげるレベルなので、真昼の陽射しの良いうちに市街を散策したいと思い、午後に来ますと答えた。それなら予約してください、とのことで予約の整理券をもらって、後刻入場することにした。
Photo_20210125151801  観光案内所で聴いた通り、「倉敷館」という美観地区観光案内所に立ち寄ろうとしたところ、その入口すぐ前で観光ガイドさんから売り込みがあり、説得されて半時間程度の短い観光ガイドを受けることにした。16年前にきたときは、さほど時間もなくあまり歩き回っていなかったので、役に立った。
 倉敷川沿いの遊歩道の北西側にも、古い町並みが続き路地が行き交っている。「大原家住宅」から倉敷川沿い遊歩道を離れて北方向に歩くと、「児島虎次郎記念館」の建設現場がある。かつて中国銀行倉敷支店があった場所で、これまでアイビースクエア内にあって、私たちも16年前に訪れたのだが、2022年4月からここで新築開館となるそうだ。Photo_20210125151901
「旅館くらしき」という老舗旅館がある。これは江戸時代から続く土蔵などをベースに伝統的な雰囲気を配慮して建設された、昭和32年(1957)創業のかなり有名な旅館で、司馬遼太郎や宗像志功など、さまざまな有名人が宿泊した宿だそうだ。全室がわずか8室のみの高級旅館である。

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倉敷散策 (2)

倉敷市とデニム
 倉敷駅に降り立つと、いつものように観光案内所に立ち寄り、お薦めの散策ルートの紹介とマップをいただいた。この地には、16年前の真夏に観光にきたことがあるが、そのときにはまだこんな立派な観光案内所はなかったと思う。Photo_20210121060101
 駅から10分あまり南に歩くと、倉敷美観地区の入口にさしかかる。
 美観地区に立ち入ると、最初に目についたのが「倉敷デニム総本店」という少しユニークなお店である。ショーウインドーにデニムでつくった鎧が展示されている。倉敷のデニム製品は、いまではひとつの名物・特産物の扱いのようで、美観地区の奥の方、白壁通りの近くや、旧市街の東方などに、さまざまなデニム製品の製造販売店舗がある。さらにデニムに便乗して「デニム・ソフトクリーム」「デニム・チョコレート」なども販売されている。私たち老人には、デニムのブルーはあまりおいしそうに見えないように思うが、子供たちがよろこんで頬張っている。
Photo_20210121060201  その近くに「倉敷物語館」がある。これは倉敷の江戸時代の長屋門や土蔵などの建物を移設・修築したものらしいが、伝統的な佇まいのなかで、この地の歴史紹介の展示、さまざまな会合の場所としての多目的ホール・会議室の提供などを行う公設の施設である。
 この地は、戦国時代ころまでは高梁川の河口の浅瀬であったが、継続的に干拓が進められ、かつて島嶼であった児島が陸続きとなり、近世はじめには農耕と商業の倉敷村になった。この美観地区付近は幕領として倉敷代官所が置かれ、商業・流通の中心地となった。明治維新の廃藩置県で倉敷県県庁所在地となり、まもなく明治8年に岡山県に編入されて倉敷町となり、昭和3年市制を施行して岡山県下で2番目の市として倉敷市が誕生した。倉敷市は周辺の市町村を統合・拡大し、昭和42年(1967)玉島市・児島市も編入合併してほぼ現在の倉敷市となった。人口は47万人、有名な観光都市であり、かつ総額3兆円にのぼる工業製品の製造業の都市でもある。

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倉敷散策 (1)

 コロナ騒動のなか、窮屈な正月を迎えたが、関西地域にもまもなく非常事態宣言が出るとの報道もあり、そのまえに控えめな散策をしたいと、折しも寒波到来のなか、久しぶりに倉敷を散策することにした。数年に一度の厳しい寒波だというので、半分は諦めかけたのだが、10日の日曜日はめったにないような極上の快晴となった。

川崎医科大学とその周辺
 JR山陽線の車窓から見る景色は、特段の景勝ではなくても、冬の快晴の澄み切った空気に輝き、どこでもがとてもきれいに見える。もちろん電車の外は気温が低くてとても寒いのだろうが、こうして電車内で車窓の内側にいれば、暖房のお陰で居ながらにして美しい景観を快適に楽しむことができる。Photo_20210119055401
 倉敷から乗り換えて、少し経つと中庄駅に差し掛かる。私はかつて技術者として製造業に働いたが、その初期の仕事に大病院の医療事務システムの開発があり、そのとき頻繁に出張し、さらに現地の据え付け・立ち上げに何週間か滞在したのが川崎医科大学附属病院であった。当時は大学が創設されてまだ3年目、付属病院は開院直後であった。とうぜん建物は真っ新で、コンクリートのにおいがのこるすべてがきれいな病院であった。それから半世紀が経ち、おそらく一部で建物の老朽化すら始まっているだろうが、それより目を見張るのがJR中庄駅とその周辺の景観の変化である。当時はまだ国鉄中庄駅の、ごく小さな古い建屋がポツンとあって、病院が開院したため通院の患者さんなどが急増し、最初に変化したのが駅員の増員、乗車券自動販売機の増設、そして駅前の自転車置き場の設置だったように覚えている。当時の駅舎は田んぼのなかにあったが、いまはほとんど住宅地に変わっている。岡山市内で評判の大病院が創設した新しい大学とその病院ということもあり、この地区にとっては社会的・経済的にインパクトの大きい新病院の誕生だったのだろう。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(7)

3.印刷技術と革命とネットワーク
(3)ネットワークが推し進める啓発と変革
 新しいアイデア・思想がネットワークを介して速く伝達されるようになって、ネットワークが推進する(Network Driven)の科学革命、啓発革命が普及していった。こうして大学や都市がネットワークとして結合されるようになり、情報が狭い範囲に閉じ込められず広く伝達されるようになった。新しい科学も発生してくる。たとえば気象学は、ひとつ乃至少数の観測地点のデータでは成り立たず、広範囲の地域にわたる多数のデータを集積してこそ成り立つのである。通商を生業としつつ、東インド会社はヨーロッパとアジアをつなぐネットワークを形成していった。
 アメリカ独立革命、フランス革命などの大革命においても、ネットワークの役目は決定的であった。革命の成功のためには、書かれて印刷された言葉と文章の共有が必須であり、暗黙の友愛(Freemasonry)のネットワークが決定的な貢献を果たした。アメリカ独立時の、銀細工職人であり愛国者であったポール・リビア(Paul Revere)の「真夜中の騎行」などの活躍は、その一例である。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(6)

3.印刷技術と革命とネットワーク
(1)グーテンベルクの印刷機と宗教改革
 イベリア半島(ポルトガル、スペイン)の人々が大航海時代をむかえていたころ、中央ヨーロッパでは宗教改革が進行していた。
 印刷技術そのものは、15世紀よりはるか以前から中国に存在していたが、15世紀のグーテンベルクの印刷機の歴史的衝撃ははるかに甚大であった。それは、宗教改革と結合したからであった。ルターの宗教改革も、もしグーテンベルクの印刷機が登場しなければ、ほんの少し前のチェコのヤン・フスとおなじ運命にとどまったであろう。
 ルターは、宗教のみならず印刷技術を駆使してコミュニケーションを抜本的に変革したのである。1440~1450年ころ、印刷機の登場でまったく新しい経済セクターが創生され、印刷物でなく印刷機そのものがマインツから同心円的に急速に普及して、ルターの文章が北ヨーロッパに急速に拡散して、強かなネットワークが拡大し、それに比例してプロテスタント人口が増加し続けたのであった。メアリー1世の厳しい弾圧や執拗な反宗教改革の運動にも関わらず、新しい印刷技術を組みこんだプロテスタントのネットワークは大成功した。


(2)宗教改革の経済への想定外の影響
 ルター革命の後、プロテスタントが普及した国は経済的に大きく発展した。それはルターの意図を超えて、宗教改革が人的・経済的資源を宗教から世俗に移動させたからである。ドイツ、そしてとくにイギリスで、教会を建設するよりもビルや学校を建設するようになり、そこで学んだ学生がキリスト教関係の仕事より世俗的活動に向かうようになった。つまり宗教改革で、精神と社会と生活の世俗化が急速に進展したのであった。
 この背景には、印刷技術の発展・普及による本の著しい普及があった。1400~1500年の100年間に、イギリスでは本の価格が10分の1になった。こうして数学などの自然科学をはじめ製造技術、経済学などさまざまな世俗的知識が普及した。ヨーロッパは長い間ローマを中心とするキリスト教文化(「すべての道はローマに続く」)であったのが、ネットワークを基礎とする世俗的文化に取って代わったのであった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(5)

2.皇帝と探検家
(3)大航海時代
 15世紀末ころには、ヨーロッパは他地域とは異なる文化・経済を獲得し、大航海時代に突入した。
 Henrique the Navigator(エンリケ航海王子:1415-1460)は、ポルトガル王子として航海士に冒険航海を命じ、ポルトガルからアフリカ最南端をまわって大西洋からインド洋、そして太平洋へ至り、新しい海洋商船ルートを開拓させた。続いてポルトガルは、中国との交易を開始した。ポルトガルの場合は、みずから生産した物品を輸出したのではなく、通商ルートと交易拠点を開拓・独占して、他国から買った物を別の国へ売ることで利益を得るものであった。そのための航海技術・地図・船舶を確立したが、それ以上の活動ではなかった。やがてイベリア半島から東に進んでブラジルを発見、植民地化した。
 スペインはイベリア半島から西に向かい、南に下り、ついにアメリカ大陸を発見した。スペインは、交易拠点のみに飽き足らず、新天地から金・銀・その他の財を奪いつくす意欲が大きく、攻撃的であった。折しも天然痘のような疫病と、帝国内の内紛があった南アメリカのインカ帝国は、200分の1に満たない少数のスペイン軍に簡単に征服され滅ぼされてしまった。南アメリカ植民地に投入したスペイン人の人口はアメリカ植民地に投入したイギリス植民人口よりもずっと多く、スペインは現地人との混血を奨励したので、征服者(Conquistador)は被征服者の制度・文化のみならず生物学的特性までも変えてしまったのであった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(4)

2.皇帝と探検家
(2)初めてのネットワークの時代
 ユーラシア大陸では、14世紀に腺ペストが大流行した。それまでにか細いながら開拓されたヨーロッパとアジアを結ぶ通商ネットワークをたどって、腺ペストが4年間を費やしてゆっくり感染拡大した。このペスト流行で、南ヨーロッパの人口の75%、ヨーロッパ全土の人口の50%が死亡したという。
 1500年ころ、ヨーロッパはネットワーク的な国家群、東アジアは専制的なヒエラルキー的国家群からなっていた。そのなかで、イングランドは相対的に自由度が大きく、商人は自分の財産を自分の意思で自由に使用することができた。東アジアでは家族的結合の専制的支配者がヒエラルキーを統治していた。専制的支配者たちは、戦略的に支配者同士で婚姻関係を構築し、家族・血縁ネットワークを構成した。イタリアのメディチ家(Medici)は、政治的エリートとして、商人・銀行家の有力者とも血縁を造り、経済的にも発展した。ラグサ共和国(現在のクロアチア・ドゥブロニク)のベネディット・コトルリ(Benedetto Cotrugli)は、豪商・古典的教養人として、政治とは慎重に距離を置きつつ国際的な血縁ネットワークを形成し、博学者のネットワークのマニフェストとして”The Art of Trade”を著わしている。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(3)

2.皇帝と探検家
(1)ヒエラルキーの登場と滅亡
 人類が社会的ネットワークをつくりはじめ、力を合わせて協力して行動することを習得して行動するようになると、そこに参加している人々を外敵から護るために力が必要であった。そして人間に限らずすべての生物には力の強さ、体力、知力に差が存在する。したがって自然に上下関係が求められ生じてヒエラルキーが発生した。時代が変わり生活が変わっても、優劣、戦闘能力の差、財力の差などは存在して、ヒエラルキーは経済的にも政治的にも実践的に自然かつ有効であった。古代帝国の登場である。
 ヒエラルキーのトップは、なんらかの形の「王」であり、たいていは神になることを指向した。ヒエラルキーでは王以外の下層の者には横と交わる自由はなく、王のみが王同士のネットワークを形成した。その王のネットワークは、ヒエラルキーを維持する安全保障に有効なこともあったが、危機の原因ともなった。
 古代帝国は存続できず、滅び去った。古代帝国のヒエラルキーは、他のヒエラルキーから滅ぼされることもあったが、ゲルマン民族の侵入のような新しいネットワーク集団、あるいはキリスト教のような新しい宗教のネットワークによって変質・崩壊したのであった。ヨーロッパでは、5世紀ころに移民∔宗教+疫病が入ってきてローマ帝国を滅ぼしたのであった。
 7世紀にはもうひとつの一神教イスラム教が出現し、宗教的ネットワークから新しいヒエラルキーを形成した。かつてのローマ帝国はカトリック教皇の下に帝国の小さな破片としてネットワーク的に残ることになり、封建制の前駆となった。当時は交通手段もなく、ヨーロッパとアジアとは断絶していて、世界をひとつにするネットワークはなかった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(2)


 世の中の社会構造を2つに分類してみる。ひとつは人間が基本的には対等に相互に結び付いている関係で、これをnetwork=ネットワークという。その象徴は人々が同じ目線で集う広場であり、すなわちsquareである。もうひとつは上位下達、命令服従の対等でない関係で、これをhierarchy=ヒエラルキーという。その象徴は明確に階層が分断されている塔であり、すなわちtowerである。
 これまでの歴史学は、圧倒的にヒエラルキーをもとに考えられ構築されてきた。その主たる原因は、考察の根拠たる史料が国家、組織などヒエラルキーに基づくものがほとんどを占めていたからである。ネットワークに基づく史料は、私信、書状などごく限られかつ断片的な形態の文書でしか存在しなかったので、歴史学に豊富に情報を提供することができなかったのである。
 しかし現実の歴史的事実を改めて考察してみると、比較的少人数の小さなネットワークが貢献をして、結果として大きな変革が起こったことは意外に多い。ここでは、ネットワークの働き、貢献を尊重しながら人類の歴史を見直してみる。

1.ネットワークとヒエラルキー
 人類は、12,000年前に社会的ネットワークをつくりはじめ、力を合わせて協力して行動することを習得し、そのことにより飛躍的に強い生物に変革した。
 しかし多数の人間を動員しパワーを行使するとき、もっとも有効な関係はヒエラルキーである。短時間に議論不要で直ちにひとつの目的に結集して行動できる。多数の人間をおなじ目的に動員する農業社会に適したヒエラルキーは、ネットワークと同じくらい早くから人類史に登場した。 
 ネットワークは、日常的感覚としてはかなり強い関係で結合しているネットワークを想像するが、実は必ずしも常に意識にのぼるわけでないような弱い結合によるネットワークが重要で、その弱い結合にかかわらず非常に大きな変革の力になることがある。アイデア(思考)や行動は、文字よりも直接的に接するネットワークの各段階を通じて伝達する無意識の模倣(copy)が伝達の大きな要因である。文化は複雑であればあるほどその伝達には、一定規模の同調者集団のマスが必要かつ有効である。
 そのような弱い結合のネットワークを考えると、段階の数が大きいネットワークが身近に存在することになるが、実はせいぜい6段階もたどるとほとんど世界中全員の人々とつながってしまうのである。
 そしてグラフ理論を用いて数学的に解析すると、ヒエラルキーが少し拡張したネットワークのひとつの特殊形態であることが証明できるのである。
 集中化せず、クラスターを含み、弱い結合を持つことができるので、ネットワークはヒエラルキーよりも進化に適している。悪いアイデアを良いアイデアにつくり替えることもできる。しかし、ネットワークは時間的にも空間的にもひとつの方向にまとまりにくいという欠点をもつ。
 ヒエラルキーは、本質的にリジッドで固定的であり、トップダウンで横方向の繋がりがないので、思想や文化が伝達して広がることに適さない。その半面では悪いことが伝染病のように感染拡大しにくいメリットがあるとも言える。
 ネットワークは、とどまらず常に変化する。思想やイデオロギーがウィルスのように伝染する。位相変化してより複雑なネットワークに進化することも容易である。ほんの少しの要素が加わっただけでラディカルに変貌することもある。
 ネットワークの性質を理解して歴史を振り返ると、何かを滅ぼすから歴史が変わるのでなく、連続して多様なモノを加えつつ変化して歴史が変わる様相が見えてくる。古びて機能が劣化したヒエラルキーも、新しいネットワークの挑戦を受けて生まれ変わるのである。リジッドで固定的なヒエラルキーは自己変革できなくても、ネットワークからのインパクトにより生まれ変わることができる。

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