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2021年2月

Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(14)

6.第一次世界大戦
政治的な疫病=ボルシェビキ
 ドイツが第一次世界大戦で用いた陰謀は、ことごとく失敗におわった。ただ一つだけ、ドイツの陰謀で成功したのが、レーニンを亡命先のスイスからロシアへ送り返したことであった。レーニンはロシア革命でロシア帝国を覆した。レーニンとトロッキーは、もっと広範囲のヨーロッパ、さらには全世界におよぶ社会主義革命を夢見ていた。目指したのはProletarian Pandemicである。
 しかしこの後、ボルシェビキがいかに無慈悲なネットワークを新しいヒエラルキーに組み込んだのかが驚異的である。1918年10月17日、退位したツアーは家族とともに地下で殺害された。クラーク(富農)は、吸血鬼として多数が大衆の眼前で処刑された。1918~1920年のわずか2年間に、30万人もの政治犯が死刑に処せられた。厳しい環境下の強制収容所に、ボルシェビキに疑惑を抱かれた夥しい数の人々が送り込まれた。
 スターリンは、カリスマも嗅覚も乏しい人物で、レーニンの後継者たり得なかったはずであった。スターリンもレーニンも、私的・秘密の革命ネットワーク(clandestine revolutionary network)の産物であった。常に陰謀に取り巻かれている、という意識を共有しているのが20世紀の独裁者の共通の特性である。
 スターリンは、
①官僚機構を完全に制御した
②通信手段のすべてを完全に掌握した
③秘密警察を完全に掌握した
これによって、彼は史上無比の独裁を達成したのであった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(13)

6.第一次世界大戦
(2)第一次世界大戦時に発生した諸要因
 第一次世界大戦の末期に、インフルエンザのパンデミックが襲った。これは、ヨーロッパ各国に合計で何千万もの、とくに若者に死者を発生して、戦争の悲惨を拡大した。
 まるで突然変異のように、マルキシズムがユーラシア大陸を感染させた。それだけでなく、ヨーロッパ各国はさまざまな新規の極端なナショナリズム、あるいはファシズムなどに襲われた。
 経済的なペストともいうべき、ハイパー・インフレーションが、ドイツ・オーストリア・ポーランド・ロシアを襲った。ロシア・フランスvsドイツ・オーストリアハンガリーの対立を、バランサーたるイギリスが抑えきれなかったという問題もあった。
 ヨーロッパのなかでは、オランダ・スペイン・スイス・スカンジナビア諸国だけが中立であった。
 この第一次世界大戦のなかで、ドイツはさまざまな陰謀的手段を投入した。
・オスマン・トルコの参戦に際して「イデオロギー・ウィルス」ともいうべきプロパガンダとして「英仏に対するジハード」を唱えた。しかし英仏を倒すほどには盛り上がらず、むしろイギリスのアラブ・ナショナリズムの支援がオスマン帝国に動揺を与える結果となった。一方で、イギリスは、オスマン帝国内のアラブ主義者を離反させることに成功している。
・ロシア革命勢力たるボルシェビキをロシア国内で活動させることには成功し、実際にロシアを戦争から撤退させた。
・ドイツのカイザー・ウイルヘルム2世は、イスラムとオリエンタリズムに傾倒しており、またこの傾向は皇帝のみならずドイツの学者にも多かった。彼らは、インドのムスリムに叛乱させることを企てた。しかし、このジハード戦術も成功しなかった。ムスリムがジハードに集結する、というのはオリエント主義者の頭の中の希望的想像に過ぎず、実現すべくもなかったのである。
 一方でイギリスは、オスマン帝国内のアラブ人たちに接近し、彼らとアラブの独立を真剣に議論した。アラブ人たちは、オスマン帝国、とくにヤング・トルコの連中を近代化志向に過ぎるとして信用しなかった。彼らはオスマン帝国の下よりもイギリスを、さらにイギリス傘下よりも独立を切望した。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(12)

6.第一次世界大戦
(1)第一次世界大戦の開戦
 この戦争がはじまったのは、1815年のウィーン体制が崩壊したからであるが、問題はなぜウィーン体制が崩壊したのかである。1871年ドイツが統一を果たすと、ドイツの外交は卓越した外交家であったビスマルクに一任された。彼は、ロシアがフランスに接近しすぎないように、ロシアの外相ニコライ・ジルスと独ロ秘密再保証条約を結んで、密かにロシアのバルカン半島進出を容認した。いわゆるビスマルク体制はこれで完成し、彼が任務に就いている間は平穏であった。しかしビスマルクの退任後この条約が更新されず、ヨーロッパ各国同士の対立・衝突が増加して、ついに第一次世界大戦に突入した。
 セルビアのテロリストがオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子を暗殺すると、ドイツはフランスに攻撃を仕掛け、ベルギーの中立を侵害したので、ドイツが勝ちすぎることを憂慮したイギリスが参戦してきた。結果的には、当時世界最強であったイギリスの参戦が勝敗を決した。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(11)

5.イギリス帝国の発展
(2)太平天国の乱
 ヨーロッパの帝国が鉄・鋼・ゴムなどを駆使して、武器・鉄道・船舶・海底ケーブルなどを製造し、陸・海にどんどん拡大しているとき、アジアにあった帝国、とくにオスマン帝国と清とは、どのように改革・変身すべきか悩んで停滞していた。
 しかも19世紀のヨーロッパは比較的平和であったが、中国は平和ではなかった。清の地方権力は地元の血縁的ネットワークが握っていて、中央政府は科挙で選抜・採用した官僚を期限付きで派遣して統治していた。このような官僚君主制であったが、そのもとで発生する官僚ネットワークの反乱が悪夢となった。18世紀末の白蓮教徒の乱に続き、19世紀中ごろの太平天国の乱は、2,000万人とも7,000万人ともいわれる途方もない死者数を出す大惨事となった。
 ネットワークの観点からみた太平天国の乱のポイントは以下の3点である。
①当初は周辺的な熱狂信者のカルトから発生した騒動であったが、やがて全国主要都市へウィルスのように感染拡大した。
②外国、とくにイギリスの干渉があった。
③内戦の荒廃は、中国の激しい空洞化を招いた。
 内戦の最中に、イギリスによりインドから大量の阿片が輸入され、ヨーロッパ各国から大量の武器が売り込まれた。首謀者 洪秀全 Hong Xiu Quanは、誤ったキリスト教理解にもとづき、自分をイエスの弟と信じて「神を礼拝する者の王国」の運動と称して自分をその支配者に据えた。結果は世界にも類を見ない悲惨なものであった。

(3)人々の大移動
 19世紀後半から、世界中で大量の人々が移動する、単に旅行するのでなく移住することが増加したのである。彼らが頼りにしたのは、ネットワークの進展によってもたらされた外国の情報であった。自分が悲惨な環境にいること、外にはもっと良い場所があることを知るようになったのである。
 単に情報と貧困だけでは大量の民族移動は生じない。必要なのは政治的混乱であり、革命と戦争は交通費が急激に下がるとき、移動の大きな要因となった。1840年から1940年の100年間に、ユーラシア大陸の1.5億人が移動したのであった。この結果、3つの過疎地域が発生した。
①ヨーロッパからアメリカへ5,500~5,800万人
②中国・インドから東南アジアへ4,600~5,200万人
③ロシアから満洲・シベリア・中央アジアへ4,600~5,100万人
 アメリカでは、自身もアイルランド移民であったDenis Kearneyが、カリフォルニア労働党を創設し、中国人労働者(Coolie)排斥を指導し、実際にかなりの中国人労働者が排斥された。大西洋側では、主にロシアからアメリカに流入するユダヤ人への排斥運動(anti semitism)もあった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(10)

5.イギリス帝国の発展
(1)間接統治と民間活用
 イギリス帝国の統治方法には、大きな特徴があった。イギリス帝国は、植民地支配において、現地の既存の統治体制を尊重して活用し、さらに現地の教育ある新しいエリートよりも旧式の伝統的政体になじんだ既存のエリートを使用することで、最小のコストで統治する方法を採用した。これはフレデリック・ラガード(Frederick Lugard)の「二重統治論 Dual Mandate」と呼ばれるもので、現地人を支配者として間接的に統治することで、コストを抑制できるとともに反乱も防げるというものである。
 イギリスは、交通(鉄道・海運)、通信(陸上通信・海底ケーブル通信)のそれぞれのネットワークを構築し、ヒト・モノ・情報の交通・運搬・伝達のコスト・時間・実効距離を格段に縮減して独占し、それはイギリス帝国の大きな強みとなった。植民地マレーシアのゴムを海底ケーブルの被覆に使用するなど、19世紀の世界的帝国のメリットを最大限有効活用したインフラ整備であった。
大英帝国のスケールと持続の主因は、比較的中央の支配が緩やかであったこと、原理的には強力なヒエラルキーだが、ローカルと民間を積極的に活用するなど、ネットワーク的活動を阻害しなかったことが、大成功の秘訣であったと考えられる。
ドイツは大学・学会の構築において、プロシア軍と似た中央集権的な制度を採用し、それぞれのトップは独裁者のように振舞うことができた。しかし結果として、イギリスに勝ることはできなかった。イギリスのエリートは、相対的にオープンで、貴族は鉄道や海運に投資し、銀行連合の経営にも参加した。ユダヤ人の子弟とも結婚し、アメリカ人とも同様につきあった。このようなオープンなネットワーク的文化がドイツと異なるところであったが、ヨーロッパをドイツよりさらに東に行くと、さらに保守的・伝統的な文化=ヒエラルキーのみの文化に覆われていた。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(9)

4.ヒエラルキーの復興
(2)ロスチャイルド家の展開
 ザクセン-コーブルク・ゴータ公国(Saxe-Coburg-Gotha)と同様に、積極的にヨーロッパに広範囲に家族・血縁で展開した民間人がロスチャイルド家(Rothschild)であった。19世紀初め、フランクフルトのジューイッシュ・ゲットーから出たマイヤー・アムシェル・ロートシルト(Mayer Amschel Rothschild)は、銀行家として登場した。彼は5人の息子をフランクフルト・ロンドン・ウィーン・パリ・ナポリのそれぞれの国・都市に配置し、堅い結束を誇る家族ネットワークを基礎に国際的大富豪の一族を成した。
 金融業としては、国家への貸付による革新的経営を取り入れ、イギリスで生産される綿布を大陸へ販売する国際取引で巨万の財を成した。その背景には、私有の船や伝書バトまで活用した独自の卓越した情報ネットワーク(通信網、Private couriers)を構築し、誰よりも早く情報を独占したことがある。産業革命初期の経済・流通の開拓者・先駆者であった。


(3)五か国体制からイギリス覇権体制へ
 ナポレオン戦争で王政のヒエラルキーが復興し、フランスも王国になったが、それはフランス革命以前に戻ったわけではなかった。
 技術革命・産業革命が進み、鉄の武器が普及し、さらに船舶も鉄が導入され、軍隊も大きく変貌した。なかでもイギリスが抜きんでて強力な帝国に成長した。
 ヨーロッパの経済も大きく成長して、19世紀にはじめて西ヨーロッパが東アジアを経済規模で追い抜いたのであった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(8)

4.ヒエラルキーの復興
(1)フランス革命とナポレオン
 ネットワークを介した革命は、宗教・科学・啓発など広範囲に進展し、大きな成果を達成したが、唯一政治革命だけは、アメリカ独立を除いては理想的には推移しなかった。
 フランス革命の発生直後の熱狂のとき、すでにイギリスのエドムント・バーク(Edmund Burke)は、フランス革命がアメリカ独立よりもはるかに血なまぐさい悲劇であることを予見していた。果たして流血の大暴動がフランス全土に拡がりGreat Fearとなった。そこにナポレオンが現れて、この絶望的なアナキーを終わらせようとした。ナポレオンはジュリアン・ソレルのような道徳を持ち合わせていなかったけれども、幸運に恵まれ啓示を得た絶対主義者であると自認して最初の近代的独裁者となって、ともかくアナキーなネットワークを秩序あるヒエラルキーに戻した。
 やがてナポレオンが敗れ、ヨーロッパはオーストリア・イギリス・フランス・プロシア・ロシアの5つの帝国が、そのバランスの上に国際的平和を維持するという形となった。ウィーン体制である。キッシンジャーは、これを二人の才能ある外交家の成果であるとする。リベラリズムを認めない正統性の再建と反革命をめざすオーストリアのメッテルニヒ、そしてイギリスが5大国のバランサーとして貢献すると考えるイギリスのカールスレーである。この二人に対抗したのは、ナポレオンを直接破ったロシアのアレクサンドル1世であった。
 ヨーロッパは、フランス革命以前の七年戦争を最大の戦争とした後、19世紀を通じて第一次世界大戦まで世界的戦争はなかった。ウィーン体制の下で、5大帝国が正面衝突を避けてよく話し合ったといえる。平和を維持するためには、帝国(王国)の正統性を復活させる必要があり、そのために行われたのが古いネットワークたる王族間の血縁的ネットワークの再構築であった。ナポレオンが神聖ローマ帝国を走破してライン同盟をつくろうとしていたとき、破滅の淵にあったザクセン-コーブルク・ゴータ公国(Saxe-Coburg-Gotha)は、ちいさな公国ながら、積極的かつ果敢にロシア・イギリスなどヨーロッパ各国の王室と血縁を形成したことで有名であり、王族間の血縁的ネットワークの典型である。

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分離派建築会100年展 (3)

昭和モダニズムから解散、そして新しい展開へ
 昭和に入ると、石本喜久治・山口文象の共同設計による「白木屋百貨店」などの都市的スケールの近代建築もつくられた。Photo_20210213061001
 さらにモダニズム、すなわち昭和初期に流行した和洋折衷の近代都市文化の思想をも吸収し、実生活にも視線を向け、個人の居宅や、そこで用いる家具にまで活動の範囲を拡大した。蔵田周忠が設計したロシア文学者米川正夫の住宅の写真が展示されている。
 分離派建築会は、昭和3年(1928)の第7回作品展が、展覧会活動として最後となった。これ以降は、グループとしての活動ではないが、建築の革新を目指すという共通の理念のもとに、それぞれに活動を展開していった。
 時代背景は、社会主義運動があり、また戦争への接近からナショナリズムの台頭があり、それぞれに新たな葛藤と戦うことになった。
 写真、図面、雑誌や書籍、建築模型、記録映画など、多様な媒体が200点近く展示され、細かい説明文も多数あって、鑑賞に時間と労力を要する展覧会であったが、100年も昔に、とてもみずみずしい豊かな創造的活動が存在したことを知って、わが日本の活力と創造力を逞しく思えたひとときであった。

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分離派建築会100年展 (2)

初期の活動と関東大震災のインパクト
 建築技術にコンクリート構造が導入され、それまで直線と面を基本的構成要素としていたのが、塊的な要素の比率が増加し、バルク的な表現を追及するチャンスが訪れた。Photo_20210211065701
 分離派メンバーたちが注目したのが、美しい曲線の造形に満ちた西欧彫刻であった。すでに文芸グループであった白樺派がモノクロ写真を介してオーギュスト・ロダン、アリスティード・マイヨールなどの作品を紹介していたが、建築家たちは、単に鑑賞するのみならず、その造形を自らなぞって試作したりして、自分の創造につなげる方向でさまざまに模索していった。
 また、東京などの大都市から離れた農村の景観も、新しい芸術的創造を目指す彼らに、新鮮なインスピレーションを与えた。「田園」をテーマにした住宅作品や、農民美術運動とも関わって、多面的に活動を展開した。
Photo_20210211065801  大正12年(1923)9月、関東大震災が首都圏を襲った。
 首都圏は、地震とそれにともなう大規模火災により、広範囲に灰燼に帰した。分離派も、改めて建築の強靭さ、耐久性の重要さを再認識させられた。その一方で震災復興需要は、彼らに多くの建築物創造のチャンスを与えた。「構造」と「意匠」とのはざまで、構造の合理性と建築の美しさをいかにして両立させるのか、あらたな葛藤を抱えながら斬新な建築物をつくっていった。山田守の「東京中央電信局」は、このころの代表的作品である。

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分離派建築会100年展 (1)

 京都国立近代美術館で「分離派建築会100年展─建築は芸術か?」と題された展覧会が開催された。通常の美術展とは少し違うのだろうとは思ったが、興味を惹かれたので鑑賞した。


分離派建築会の発足
 今からちょうど100年前の大正9年(1920)東京帝国大学建築学科を卒業したばかりの同期生6名が、建築を芸術として発展させたいと「分離派建築会」という同志の会を結成した。
明治維新の高等教育機関の設立に至り、明治6年(1873)工部学校造家学科の第一期生として入学し、御雇外人教授ジョサイア・コンドルから英国式の建築を学んで明治12年(1879)卒業した辰野金吾が、明治19年(1886)に30歳で日本人最初の帝国工科大学教授となり、イギリス風の大型建築が始まった。Photo_20210209060601
 やがてドイツ式も取り入れられ、わが国初期の洋風建築が次々に建設されていったが、いずれも当時の先進西欧国の建築の模倣であった。大正初期(1910年代)ころには、鉄筋コンクリートが紹介され、地震・火災に対する耐性が優れることから、わが国の風土に適するのではないかと注目を集め、東京大学建築学科は、コンクリート構造を積極的に導入して美術的要素よりも構造的耐久性を重視すべきと、の考え方が主流になっていった。その動向に反対して、建築の芸術性を主張したのが、分離派であった。
 石本喜久治、堀口捨己、山田守、瀧澤眞弓、森田慶一、矢田茂の6人が発起人となり、大正9年(1920)7月の卒業直後に銀座白木屋で第一回作品展を開催し、分離派建築会の「宣言」を掲げた。


我々は起つ。
過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
我々は起つ。
過去建築圏内に眠つて居る総てのものを目覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
我々は起つ。
我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同、右を世界に向つて宣言する。

 この後、山口文象、蔵田周忠、大内秀一郎が加入して、昭和3年(1928)の第7回作品展まで活動が継続した。
 最初の作品展は、新卒者ばかりの仕事であり、当然実現した建築物はなく、卒業設計の図面のみであった。ただその内容は、機能第一主義を唱える教授陣に真っ向から逆らおうとするもので、いずれも教授たちからの評点は低かった。
 彼らはそれぞれ建築会社、建築設計事務所、大学、官庁技術者、などの職に従事して、現実の建築を実現していった。


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岡本裕一朗『フランス現代思想史』中公新書 (下)

この書の読後感想
 フランス現代思想界のひとつのバックボーンがマルクス思想であり、それだけに構造主義全盛期であった1968年5月のパリ事件が多くの思想家に甚大な影響を与えたこと、さらに次のショックがポスト構造主義期の1973年のソルジェニーツィン『収容所群島』であったことがよくわかる。
 この本のお陰で、これまでより私の理解が進んだように思えることがいくつもあった。しかし、あらためて感じることは、登場する多くの思想家が、問題提起はするものの、結論までにいたらないことが多すぎるように思う。その前のドイツ観念論などをはじめとする近代思想の方が、相対的に問題提起から思想展開、結論までひととおり閉じた議論として完成したものが多かったのではないか。フランス現代思想が、表現方法(バルトのいうエクリチュール)の魅力からか、大きなブームを巻き起こし、多くの哲学ファンを魅了したものの、意外に後世への影響力が小さいのは、あまりに未完の思想が多すぎるからではないか、と思った。
 また、この本を読んでいて、若干気になったことがある。ひとつは、日本の哲学者の不在である。フランス思想の本とはいえ、それを研究する日本の学者・研究者が多数いるのだから、日本の学者の存在の影がまったくないという構成は、やはり不自然さを感じる。フランス思想にかんしての日本の学者の理解・解釈、さらに議論が、このような本にも少しは現れてもよいのではないだろうか。
 それに無関係ではないが、著者のフランス思想に対する立場、関係、評価がほとんど現れていないのが、やはり気になる。極言すれば、ヒトゴトとしてのみの講義になっているように思える。たとえば目的が類似する書の例として、船木亨『現代思想入門』ちくま新書、2016があるが、そこでは著者は、述べている対象の哲学者・思想家にけっして積極的に主観的に接近するわけではないが、どうしても自分の立場からの評価、自分との関係が窺われる書き方となっていて、著者のある種の悩みが窺われて、それだけに本の全体としてのトーンがいささか陰鬱ともなっている。それは読みやすい、わかりやすいか否かという面とは別に、研究者としての誠意が感じられるのである。哲学や思想は、構造主義が目指しながらも達成できなかったように、科学的・純粋客観的には伝達して理解することはできない部分が少なからずある。それはいわゆるアート、芸術でも同様で、受け手がそれを好きにならないかぎり、積極的に共感しない限り、理解することができない部分が残るのである。
 説明は丁寧で、できるかぎり具体的に説明しようとの姿勢がわかり、この種の本としてはわかりやすく、その点で良書だと思う。

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岡本裕一朗『フランス現代思想史』中公新書(上)

 新書で270ページほどの小さな本だが、内容は多い。さきの大戦直後ころの1940年代後半を起点として2000年代はじめまでのフランス思想のマクロな流れを、かなりわかりやすく叙述している。
 ヨーロッパ近代思想への批判としてのフランス現代思想の歩みについて、レヴィストロース、ラカン、バルト、アルセチュール、フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、デリダと、一人ひとり具体的に紹介があり、それ以後のフランス思想界の動きとして、ヌーボー・フィロゾフ(アンドレ・グリュックスマン、ベルナール=アンリ・レヴィ)、ポストモダラズム(リオタール)、民主主義批判(ジャック・ランシェール)などまで、ひととおりの紹介・説明がある。

フランス現代思想の梗概
 この書では、フランス現代思想の始点をレヴィストロースの構造主義として、そこから叙述をはじめる。レヴィストロースは文化人類学に取り組み、未開人たちの親族の婚姻関係の基本構造に明確なルールが存在することを科学的調査で発見し、その理論的解明・証明をブルバギ派の数学者の助けを借りて科学的論理的に厳密に証明した。そしてサルトルの「実存主義」を痛烈に批判して世界から注目を浴びた。「実存主義」が西欧先進国インテリの上から目線での主観を軸に真理を認識しようとする傲慢さ、曖昧さ、不透明さを、科学的・客観的な実証主義の立場から痛烈に批判したのであった。この科学的な真理の認識・証明というインパクトは、思想界の主役交代を印象づけ、「構造主義の時代」となった。
 ジャック・ラカンは、フロイトの精神分析に回帰し、ソシュールの言語学を引用して科学的にとらえ直そうとした。レヴィストロースも当初ソシュールに注目したことが、構造主義を目指す後進に影響を与えたのだが、レヴィストロースの場合は、実際に本質的なところで活用したのはソシュールの言語学ではなく、ブルバギ派の数学であった。ラカンの言語学の利用、さらに科学的アプローチへの言及は、実際には比喩的なものにとどまった。
 ロラン・バルトは、サルトルとマルクス思想からスタートして、やはりソシュール言語学に注目し、「言語体=ラングと文体=スティルから独立した、ひとつの形式的現実の存在を明らかにすること」を目指し、それを「エクリチュール=書き方」だとし、さらに彼なりに発展させて「記号学」の構築を構想した。しかし1968年5月のパリ事件で挫折を体験し、作家が書く文章は、彼をとりまくさまざまな人々の「エクリチュール=書き方」を織り合わせながら加工され編集されてできる「テクスト(織物)」であり、独立して自律的に成立するものではない、として「作者の死」を宣言した。知的エリートも、周囲の影響から免れないとの諦観のようである。
 マルクス主義者ルイ・アルセチュールは、マルクス主義に回帰し、サルトルのヒューマニズムにもとづくマルクスの理解に反対し、反人間主義、科学的認識を説いた。しかし1968年5月のパリ事件の経験から「人々はなぜ服従する=支配されることを、みずから自発的に望むようになってしまうのか?」を根本的な問題とした。アルセチュールは、これを「イデオロギー論」によって解明しようとした。人々はイデオロギーによってみずから進んで国家に服従し臣民=主体subjectとして国家を下支えするようになる、とした。
 1968年5月のパリ事件は、他の多くのフランス思想家にも甚大な影響を与えた。ミッシェル・フーコーは、実存的人間主義から臨床心理学の構造主義化に転換し、さらにパリ事件によって「権力論」をメインテーマにするようになった。
そしてパリ事件の総決算あるいは共産革命の鎮魂歌として、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「アンチ・オイディプス」が登場する。彼らは「欲望する機械」という難解なモデルを介して、人間が実はみずから進んで、欲望して服従することを説いた。
 パリ事件よりも少し前、1966年のフランス構造主義の全盛期に、すでにジャック・デリダは構造主義の巨匠レヴィストロースを痛烈に批判して、急遽「ポスト構造主義」の旗手として登場した。デリダは、われわれが見つめる現実のモノや現象には、これまで蓄積されてきた伝統が張り付き、生き生きとした現在=「現前」が隠蔽されているため、それを解体、より厳密には系譜をたどる解体として「脱構築」と名付ける過程が必要だとした。具体的方法として、あらゆる二項対立での優劣関係を反転すべきとする。たとえばパロール(音声)は常に文字言語(エクリチュール)に優先するという立場がプラトン以来の西洋思想に引き継がれてきたが、音声=ロゴス主義に反対する。ロゴスはギリシア語で「話された言葉」を指し思考や摂理をも包含するとされてきた。デリダはパロールとエクリチュールの両方にさらに根源する「原エクリチュール」を想定した。その結果、デリダはエクリチュール=文字言語による著述ができなくなり、編別構成のない「郵便モデル」などの特異で不可解な著作を発表することになった。
 1973年のソルジェニーツィン『収容所群島』の発表は、世界のとくにマルクス主義を尊重したい人々に大きな衝撃を与え、それまでのフランス現代思想=「フレンチセオリー」が、1980年代には大きく後退していった。マルクス主義を排斥しようとする「ヌーボー・フィロゾフ」や、多様性や異種混在性を目指した文化運動から転じた「ポストモダニズム」が拡がり、人間主義の再来、また共産主義の再生を図る動き、民主主義への懐疑論などが登場している。

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NHK 山口百恵ファイナルコンサート再放送 

 1980年10月に行われた山口百恵のファイナルコンサートが、録画編集なしで全容が再放送された。40年余りぶりに改めてコンサートを観て、感じたことをメモしておく。
 まずこの山口百恵という歌手が、21歳とは到底思えないということである。存在感、成熟感、敢えていうなら良い意味で老成しているとも思える風貌と態度は、いま改めて見つめても驚異的である。14歳でデビューして8年間ほど芸能界で活動したらしいたのだが、この間にいかに驚くべき成長を成し遂げたのか、ということだろう。普通は21歳といえば、大学生としてやっと落ち着いてくるころで、まだまだ少年少女である。短いトークでも、この人の場合は自身の経験にもとづく自分の思考を、自分の言葉でごく手短に鋭く訴える力がある。
 肝心の歌であるが、率直に言って、声質そのものの美しさ、音域、テクニックなどの純粋にテクニカルな側面では、この人より優れている歌手がいる。しかし、歌がなんらかのメッセージを聴き手に伝えるべきものであり、それをつとめるヴォーカリストという観点からは、このひとはやはり超一流だと思う。歌詞と曲のかくありたいという本質を非常に的確に把握してかつ的確に表現している。かつて中央公論の記事で、作詞家の阿木曜子が、山口百恵の歌詞の理解力、さらにそれにもとづく表現力を絶賛していたが、私にもとてもよくわかる気がする。このひとが女優としてやはり一流だったのも、同じ理由だろう。単なる技術ではなく、思考と戦略の問題なのだろう。
 山口百恵が、阿木曜子・宇崎竜童コンビを大好きだったらしいことも、コンサートの構成から一目瞭然である。初期の他の作詞家・作曲家の作品が、多くはワンコーラスのメドレーで終わるのに対して、阿木曜子・宇崎竜童の作品は、ほぼ全部がフルコーラスである。阿木曜子も、良い歌い手との出会いを喜んだであろう。
 そしてこのときの山口百恵は、見た目も美しくなってはいたが、それ以上にひとつのピークを思わせる魅力に輝いている。ラストコンサートを自分のヴォーカリストとしてのピークに持ってくることを実現するのは、歌手冥利につきるだろう。
 山口百恵のデビューは、たまたま私自身が社会人としてデビューしたタイミングと一致していた。私は現役時代の彼女のファンというわけでもなかったが、それでも彼女の歌声を、それとなく聞きかじっていた。私個人にとって、彼女のヒット曲の歌詞とメロディーの断片的な記憶は、若いころの私自身の思い出のさまざまなシーンを連想させる。コンサートを聴いていると、新たな感動とともに、私の「セピア色」的なノスタルジーが連動する。2時間半もの長い収録だったはずだが、あっという間に時間が過ぎ去った。

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倉敷散策 (6)

本栄寺と阿智神社
 美観地区の北側裏には鶴形山があり、その山麓に本栄寺と阿智神社とがある。Photo_20210201060601  
 本栄寺は、現在修復工事中の井上家住宅のすぐ北側に上ったところにある日蓮宗寺院である。本堂は260年ほど前の宝暦14年(1764)に建てられたと伝える。本堂からさらに少し石段を登ったところに「清正堂」というお堂がある。これは加藤清正を祀るお堂だという。加藤清正が熱心な日蓮宗徒であったことは知らなかったが、時代から考えると不思議ではない。
 境内に、大きな黄色い果実がたくさん転がっている。これは花梨の実だそうだ。
 このお寺は、最近では屏風祭やジャズストリートの会場として使用されることで、近隣では有名となっているという。
Photo_20210201060501  本栄寺をいったん降りて、井上家の工事現場から少し東に行くと、阿智神社の入口として「米寿段」がある。米寿にちなんだ88段の石段である。家人とも相談したが、なんとか登れるだろうと判断して、登った。 
 これを登り終えると、今度は「還暦段」という61段の石段がある。まあ米寿段よりは少ないので、と思ってまた登っていく。その終点には「厄除段」33段があった。まだか、と思ったがせっかくここまで来たので、がんばって登った。さらに短い石段があって、随身門に着き、とうとう拝殿に到着した。まず長い石段からはじめて、段々と段数を減らす、というのは設計戦略として優れている、と感心した。Photo_20210201060701
 『日本書記』によれば、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖阿智使主(あちのおみ)の一族が渡来し、その一族の一部がこの地に定住したことが伝えられているという。彼らにより、大陸文化と日本固有の信仰とが融合して神仙蓬莱様式となり、このお社が築かれたとされている。
 江戸時代に天領として繁栄したこの地で、阿智神社は崇敬を集め、神仏習合から妙見宮として多くの寄進を集めていた。明治維新の神仏分離で現在の社号となり、昭和17年に県社に指定された。創建以来現在に至るまで、倉敷の鎮守神としてひとびとの崇敬を受け続けているという。
Photo_20210201060801  境内の西端にある絵馬殿は、倉敷の市街を見下ろす展望台となっている。ちょうど冬の早い黄昏で、絶好の快晴のなか穏やかで美しい夕陽と、それが照らし出す市街の景観の輝きを、日没までしばし楽しんだ。(了)

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