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2021年3月

H.R.McMaster"Battlegrounds",2020.9(1)

まとめ
 アメリカに在住する友人から薦められてこの書を知り、読んでみることにした。ただ、いろいろ当面の雑事があったりして、教えてもらってから購入して読み始めるまでに何か月かが経った。
 さて読み始めると、この書は著者自身が実際に問題の最前線に従事していたこと、しかもこの場合自他の生命に直接関わる軍および戦争の最前線を経験したことを前提に思考して書いていることから迫力も興味深さも申し分なかった。ただ、テーマの内容は、平和ボケともいわれる日本に住んで安穏な日々を過ごす平凡な市民の私には、日常的でないものが多く、読み進めることが容易であったとは言えない。Battlegrounds
 著者が軍隊に勤務して、もっともフラストレーションを感じるのは、軍事や戦争の現場の真実の状況を、文民統制に基づいて軍に指示を与える立場のワシントンの人たちに正確に伝えることの難しさであり、実際にはその間にかなりの乖離があるという現実である。さらにその延長として、軍事・戦争の理解と決断において、ワシントンの思考の視野が現実には狭すぎること、すなわち考える対象の範囲が、その時点の国内政治の懸念事項と個別の軍事的行動の周辺のみに限定されがちで、時間的(歴史的)にも空間的(影響がおよぶ地政学的拡がり)にも、近視眼的思考に陥り易いという問題である。
 この書は、560ページというボリューム以上に記述が豊富で内容が多く、簡単にまとめづらいけれど、著者の主張の要点は以下のようなことだと思う。
 戦争などの軍事的活動を計画するにあたっては、問題の現象を議論するより前に、まずは問題の本質を徹底的に深く追及して、その問題の原因を明らかにし、当事者すべてが共有できるわかりやすい目的を定義し、成否が評価可能な形として目標を明確に設定する。その上で戦略と戦術を立案する。最終的になにを求めて軍事的行動を進めているのか、当時者の全員がしっかり理解できなければ、戦争に勝つことはできない。
 問題の本質を考えるには、歴史的な時間軸、地理的な空間の拡がりのなかに、当該の問題を位置づけることが大切である。そして問題を理解するためには、strategic empathy(私は仮に「戦略的主観化」と訳した)、すなわちその問題に対して客観的にヒトゴトとして考えるだけでは足りず、主体的思い入れをともなう、感情、情念、愛憎にまでおよぶ理解を求めることが必要だ。
 戦争は、戦いに勝つだけで終戦ではない。戦争は政治的行動の一部であり、その政治的目標が達成できて初めて終了となる。戦争の政治的目標を明確に設定し、その実現方法を予めよく考えて、必要な準備作業をしておくことが重要である。この部分は、直接戦争とは関わらない作業を含むが、とくに文民統制を指令する側には非常に重要で必要なことである。
 そして戦争の遂行に於いては、一貫性のある戦略を貫くことが重要で、途中でそれが揺らいではならない。さらには戦闘が終わってからも、上記の真の「戦争の終わり」までは、戦略を変わらず維持して継続的にその問題に関わることが必要である。
 その上で、著者がとくにアメリカの軍事と外交について重大な問題としてなんども厳しく指摘し批判するのが「戦略的ナルシシズムstrategic narcissism」である。これは冷戦がアメリカなど西側自由主義陣営の圧倒的勝利で終わり、そのあとアメリカが世界で抜きん出た軍事力・国力を誇るにいたったことで、世界のあらゆる事象をアメリカとの関係のみで考え、世界の将来がアメリカの決断だけで決まる(決めることができる)、という思考である。これは、アメリカが想定しているように相手も動くはずだ、との希望的観測wishful thinkingを導く。戦争を含む軍事行動においても、現場の状況が真に求めていることを無視あるいは軽視して、その時点で自分(アメリカ)の側がしたいことを優先してしまうのである。この書では、この問題の実例と失敗が繰り返し示される。
 著者は、軍人の子として誕生し、ウエストポイント陸軍士官学校に学んで実務経験を豊富に積み上げた生粋の上級軍人で中将だが、入隊してからノースカロライナ大学チャペルヒル大学院で軍事史の博士号を取った歴史学者でもある。ヨーロッパでの軍務経験と南アジアとイラクでの実際の戦争経験があるという。実戦経験にもとづき、かつ広い視野からの冷静な思考は説得力がある。
 私は戦後の高度成長期に学生時代を過ごし、戦後教育のなかで軍人に対して根拠もなく、なんとなく好戦的・直情径行との印象をもっていた。しかしこの本を読んで、軍の文民統制が、軍人以外が最高指揮権を持つということだけでより安心と言えるわけではないと思った。考えてみれば、まさに命がけで働いている軍人が、自分の仕事の意義や目的に敏感なのは当然かもしれない。自分や部下が生命を賭して働いたことが、意味のないことになったのではたまったものではないのである。
 アメリカの新刊書で、未だ翻訳はない。いつものように私の備忘録として、以下に抄訳を記す。とくにわかりにくい英語ではなかったとは思うが、日ごろ馴染みのない世界と行動の記述であり、語句にも馴染みのないものが多く、読み進めるのは結構骨が折れて長時間を要した。とくにアフガンなどの南アジアや、中東のイランなど、そしていまだにヨーロッパとアメリカを深刻に悩ましているロシアの実情については、これまで知らなかったことが多く、そんなこともあって「抄訳」のつもりが結果として予想外に多くのページを費やしてしまった。

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コロナ騒動と緊急事態宣言

 昨年の1回目に続いて、今年1月7日から実施された新型コロナウイルス対策としての緊急事態宣言が、3月21日に停止された。その停止に先立ってまたもPCR検査陽性者の増加傾向がみられ、第4波のさらなる緊急事態宣言の話題が出ている。
 今回も、緊急事態宣言の影響は決して小さくはなく、多数の中小飲食店が閉店に追い込まれ、閉店や廃業にいたらなくても大きな損失と精神的負担を訴える業者が多数発生した。関連して、昨年夏ころから、確実に自殺者が増加したとも伝えられている。
 前回も、そして今回も、世論調査なるものによると、多くの国民が緊急事態宣言を止むなし、必要な措置と考えているという。しかし、緊急事態宣言はもし感染拡大を抑止する効果があったとしても、経済的あるいは精神的に、確実に被害者を発生する有害な側面をともなう措置でもある。
 私は、確実に実害をともなう手段である以上、発令する側である政府や都道府県行政府は、緊急事態宣言という方法の効果をできるだけ正確に評価する努力が必要だと考える。あわせて、私たち国民は、緊急事態宣言という過激な手段が、ほんとうに有効で必要なものであるのか否か、しっかり理解しなければならない。
 昨年の1回目と、今回の2回目の経過を虚心坦懐にみつめるならば、素朴に考えて緊急事態宣言の効果を疑うことが自然である。1回目も2回目もともに、PCR検査陽性者新規発生数のピークを過ぎてから発令され、日をおかずすぐにPCR検査陽性者数が減少に転じている。新型コロナウイルスは、感染してからPCR検査陽性検出まで2週間ほどを要するというが、そうであるなら、緊急事態宣言を発動してすぐに陽性者の数が減少するのは、緊急事態宣言の効果としては、説明できない。さらに第2回目は、全国一律ではなく11都道府県のみを対象として実施された。そのなかでPCR検査陽性者数の推移の傾向は、緊急事態宣言発令の地域も、そうでない地域も、ほとんど同じような推移を示している。緊急事態宣言の有無による有意差が認められないのである。またヨーロッパの例をみると、感染拡大が日本などと比べて桁違いに多いなかで、当初よりロックダウンのような厳しい対応を一貫して取ってこなかったスウェーデンが、当初こそ死者数が多いのではないか、として対応を批難されたこともあったが、1年以上の推移をみると、イギリスやフランスよりもPCR検査陽性者数と死者が少なく推移している。ここでもロックダウンなどの対応方法の有効性が疑われるのである。
 今回の緊急事態宣言停止の寸前になって、またもPCR検査陽性者数の漸増傾向がある、というのも、緊急事態宣言そのものに効果が無いと仮定するならば、ごく当然のことである。
 ほんとうは、緊急事態宣言のみでなく、「三密」という標語も、妥当性を再評価すべきである。アルコール飲料をともなう飲食の場でクラスターが報告されている一方で、世界的にみても、満員の通勤電車、遠距離列車、航空機でのクラスターの報告はないようだ。
 最近になって、「変異株」「変種ウイルス」が大きな話題になっているが、ウイルスは、本質的に変異するものであることは、当初から広く知られていたことである。常識的に考えて、変異現象そのものは、程度問題をさておいて、ウイルス感染が話題になった当初から存在していたはずである。「不可解な感染拡大」という思い込みから、理由付けにできるためか、いまごろ慌てて大きな話題となっていることが、ほんらい不自然であると思う。ワクチンも治療薬も、変異のために効果が変わる、効き目がなくなるという可能性は、はじめからわかっていたことである。
 いずれにしても、感染が収まらず拡大したりする以上、決して安全でも安心でもないことは明確であって、私たちはウイルスを恐れながら丁寧に対応しつつ生活していくことは必要である。ただ感染の事態の詳細は、いまでもわからないことが多いのであり、これまで経験したことの経緯・経過を貴重なデータとして、継続的に観察し考察して、今後に備えるためにできるだけ科学的に評価をアップデートして、不自由でも窮屈でもやるべきことは励行すべきである。たとえばマスクを必ず着用する、丁寧な手洗いを励行するなどは、私たち全員が、がまんしてでも継続しなければならない。しかし実害を確実にともなう対策、少なくとも緊急事態宣言は、その効果をしっかり検証して、納得して行うべきである。
 これまでのところ、緊急事態宣言の効果についての検証も納得しうる説明もない。メディアが感覚的・感情的に恐怖を煽り、喚きたてることで国民がなんとなく緊急事態宣言をやむを得ない、必要だと思ってしまうのであれば、それは由々しい事態である。私はそれこそ「集団ヒステリー」だと思う。先ずは、緊急事態宣言の効果と意義を真剣に考えて、議論していただきたい。

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2021年の高槻摂津峡の桜

 今年は全国的に桜の開花が、少し早めであるらしい。例年は4月の第一週くらいに行く高槻摂津峡の桜公園を、今年は3月最後の土曜日に訪れた。Photo_20210327055701
 3月は3日に、肌寒いなかを淀の河津桜を堪能したが、それから3週間余りでとても春らしく暖かくなった。ただ春の常として、晴天は続かず、桜の鑑賞に適した日がさほど多いわけでもない。幸いに3日の淀も絶好の快晴であったし、今日の摂津峡も雲がほとんどないような快晴であった。少し風があったが、気温は20℃に漸近していた。
Photo_20210327055801  自宅から芥川に沿って川岸の道を北上する。「あくあピア」付近の川岸の桜も、5分から7分咲きというところか、十分楽しめる開花を見せている。平常時には、この広場はバーベキューの本場で、かなり遠くまでバーベキューの匂いが伝わる名所のような場所だが、昨年からはコロナ騒動でバーベキューが全面禁止となり、今日はとても良い天気にも関わらず、静かに散策して花を楽しむ人たちがごく少数いるのみである。
 芥川は最近浚渫と河岸工事が行われ、整備された。春の光を浴びて川面は輝き、遠景には桜公園の桜が見え、はやくも春爛漫の雰囲気が漂う。Cimg7868
 ようやく摂津峡の桜公園に着く。平日でもあり、またコロナ騒動もあってか、今回は例年になくとても空いている感じである。桜は、5分から7分くらいで、かなり強い風が吹いても、花びらは散らない。掲示板に、バーベキュー禁止と大きなムシロやシートでの大勢の飲食を禁じる、とある。やはりコロナ対策の一環のようだ。
 ベンチにひと休みしつつ、桜を下から鑑賞する。青空を背景にした桜の花びらは、やわらかな優しい色彩がとても美しい。やはり桜花は、晴天の青空を背景にするときが一番きれいだ。
Photo_20210327055901  石段を登って、今度は丘の上から公園の桜を見下ろす。いつもは、滑り台に大勢のこどもたちが集まって、長い列をつくって、大いにはしゃいでいたが、今日はごく少数のこどもだけで、静かであり、少し寂しくもある。まあ、長い年月の間には、こうしたいささか窮屈な花見というのもあるのだろう。
 高台から見下ろす桜花公園の桜は、毎年ながら春の到来をあらためて感じる。今年もすでに冬を過ぎた。来年ここに来るときには、私たちの周辺は、どんな状況になっているのだろうか。

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「大阪湾の防備と台場展」神戸市立博物館(下)

大阪湾の防備と台場
 いよいよ本題の幕末大阪湾の台場である。
 冒頭の展示のなかに、イギリス新聞「イラストレイテッドロンドンニュース」による、文久3年(1863)薩英戦争の報道記事がある。記事には木目木版画による薩摩軍とイギリス艦隊との海戦の様子が掲載されている。歴史書などの文章記事で薩英戦争を読むことはあったが、こうして報道図絵として海戦を眺めると、その激しさと厳しさがよりひしひと伝わる。絵の元ネタはすでに写真だったのだろうか、とても写実的なインパクトある絵である。71854
 黒船来航と呼ばれる嘉永6年(1853)アメリカ提督ペリー浦賀来航の翌年、今度はロシア海軍のプチャーチンが大阪湾の天保山沖に来航した。この時のディアナ号の姿が絵として展示されている。帝の居住する京都に近い大坂に乗り付けることで、交渉を一気に進めようとの意図があったのではないか、との説がある。ただ、この絵で見るかぎりは、恐ろしい船というより、優雅な美しい船との印象がある。急に現れた巨大な外国船は、当然恐ろしかったと思うが、一面では見たことのない美を感じる面もあったかも知れない。
 このあと、幕府は全国の海岸防衛のために、全国で1000基ほどの台場を建造することとなった。台場とは、大砲を据え付ける台のことである。1854~1863年の10年間ほどの間のことで、明治維新により計画は消滅し、また着工しても完成に至らないことも多数であった。大阪湾周辺では、全国の約1割にのぼる100基ほどの台場が建造、あるいは計画された。
 ロシア艦隊の大阪湾来航を受けた幕府は、朝廷が求める攘夷を達成し朝廷を護る幕府との立場から、先ずは外国船が大阪湾に入ってくることを抑止する必要があった。これが嘉永7年(1854)から文久3年(1863)までの第1期で、大阪湾への入り口となる紀淡海峡と明石海峡に所領を持つ紀州藩、徳島藩、明石藩によって海峡警固の台場が整備された。
1870  しかし文久期(1861~63)になると、幕府の外交方針をめぐって幕府と尊王攘夷を唱える雄藩との対立が激化し、朝廷の幕府への不信感も高まり、台場の建設という事業も、単に外国からの防衛という意味だけでなく幕府が外国海軍に対するとともに、国内の長州をはじめとする反幕府勢力に対する防備という意味が加わり、複雑化する。この文久3年~慶応3年(1863~1867)は台場建造の第2期というべきもので、台場の建造は大阪湾内の主要な港湾および淀川などの大阪─京都間の動脈幹線沿いになった。動員された大名も、第1期の親藩中心から全国の外様大名を含む総動員体制となった。大阪湾岸から京都にいたる淀川筋に配された近代的な台場群には、「将軍の武威」を国内外に発信する装置としての役割が期待されていた。
 台場の建造においては、資材の確保、現場の人員動員・管理などで、多数の有力民間人が活躍した。灘の酒造業大手嘉納家の分家から出た回線業者嘉納次郎作は、やはり回線業者であった大坂の苫屋(とまや)久兵衛とともに、「差配方」としてこれらの業務に大いに活躍した。
 和田岬砲台は、この時期に建造されたもののひとつで、大正10年(1921)3月3日、五色塚古墳などともに兵庫県下では初となる国の史跡に指定された。本展は、その史跡指定100年を記念して開催されたのである。

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「大阪湾の防備と台場展」神戸市立博物館(上)

 神戸市立博物館に来るのは、一昨年末ころに改装直後の様子を「神戸市立博物館名品展」として観て以来である。コロナ騒動で外出が減ったことが主な要因であった。
 今回は、コロナ感染対策として、入場が事前予約制となっていて、インターネットで予約して整理番号をもらって予約時間帯内に入場する、というものである。気軽気ままにというわけにいかず、少し窮屈な感覚は否めないが、展示場内は確実に混雑がない、というメリットはある。


源内焼ユーラシア・日本地図の絵皿
 入場して間もなく、学芸員による特別セミナーがある、というので先ずそれから始めることにした。「源内焼」と呼ばれる陶磁器の皿に日本地図を描いたものが、数点展示されている。ものにより、日本だけでなく、ユーラシア大陸、さらにはアフリカ大陸らしい範囲まで描いたものがある。Photo_20210323055401
 これらの皿は、客をもてなすとき菓子などをこの皿に盛り付け、その食材を取りあげる客が、皿に描かれた珍しい絵に気づいて関心を抱き、話題ができる、ということを想定してのアートであろう、との説明があった。このタイプの日本地図は「行基図」と呼ばれてきたらしいが、行基は古代の偉人ではあっても地図をつくるにはあまりに古すぎて史実記録としては存在せず、いわゆる行基図なるものは実は、はるか後に造られたものだという。いずれも日本の近世期あるいは中国の地図から引用したものであったらしく、その元ネタらしい日本の正保期(1640年代)あるいは中国の明代の絵図が参考展示されている。日本の絵図は当時の必然として北海道(=蝦夷)をほとんど含まない。一部には中国の絵図の影響か、北の「小人国」や南の「女人国」、あるいは「長人国(背の高い人の国)」などが周辺に描きこまれている。
 それにしても日本の正保期の元絵図が、もちろん現代の地図からみると形がかなり異なるとはいえ、なんとなく外形がそれらしくとらえられていたことに改めて感動する。学芸員の方の推測では、幕府中央でかなり早くから日本のそれぞれの地方の絵図を集めて継ぎ合わせることが行われていて、その結果がかなりの情報の集積を達成したのではなかろうか、とのことであった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(24)

10.Cyberiaとこれからの展望
(4)ITの今後
 IT革命を理解するための要点3つ
①基本的にITはアメリカのものである。当事者がシリコンバレーに移住した外国人だとしても。
②アメリカのIT会社のもっとも大切な特徴は、独占(Dominant)であること。
③その独占は、かならずカネ(Money)に結び付くこと。
 このアメリカのIT革命に対するには、アメリカ以外の世界には2つの選択肢しかない。
①戦うのをやめて規制などを用いて共生を図る。
 これはヨーロッパが実行している方法である。
②排他的関係を辞さず、徹底的に戦う。
 これは中国がやっている方法である。
 FANG(Facebook, Amazon, NetFlix, Google)もGAFA(Google, Amazon, Facebook, Apple)も、すでにヨーロッパに深く浸透しているので、ヨーロッパはアンチトラスト、課税、プライバシー規制などで対抗しつつ共生を図るしかないと考えているようだ。
 これに対して中国は、すでに大手の国際的IT会社としてBATすなわち検索エンジンのBaidu、商品ネット販売のAlibaba、メッセージングサービスのTencentを持っている。これらは、内容はアメリカのコピーだが、中国市場を寡占し国際競争力もかなりある。
 中国の政権幹部の構造は、職務や行政機能から考察するより、学校での子弟関係のネットワークから考えるほうがはるかに理解しやすい。もうひとつの重要なネットワークは、習近平が主導する小グループにかかわるネットワークである。これらは中国内の情報に対して厳格な監視を続けている。
 2009~2013年の130億件にのぼる膨大なブログを、中国政府は分析した。その結果、38.2万件の抗争にかんするものがあり、250万件のストライキなど抗議運動にかんするものがあることなどが判明している。公衆の反対意見の動向や、官民の腐敗について調べているらしい。かつてソ連のときは、全体主義国家にとってその体制が存続するために民の動向を詳しく把握したくとも有効な手立てがなかった。彼らにとっては、夢のような有効な手段が、IT革命によって実現したのである。このように中国のトップは、アメリカのトップよりWebcraftに熟達している。
 仮想通貨(ビットコインなど)についても、中国は国を挙げて注力している。Bitcoinの取引の75%は中国であり、Bitcoin China=BTCCなども現れている。暗号通貨(Cryptocurrency)は、今後も中国主導で展開するのかも知れない。中国のプランが成功してワシントンに勝つようなことがあれば、国際通貨への参入から覇権を獲得して、米中関係の歴史的変革が実現するかも知れない。[完]

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(23)

(3)未来についてキッシンジャーの見通し
 半世紀以上にわたって世界情勢を詳しく考察してきたキッシンジャー(Henry Alfred Kissinger)は、現在4つの力、すなわちヨーロッパ、イスラム、中国、アメリカが変身しつつある状態であり、国際的アナキーに陥る崖っぷちにいる状態であり、ある意味かつての第一次世界大戦前に類似する、として近未来について下記のように見ている。
①政治構造にかんしてはこれまでとおり国民国家だが、経済はますますグローバル化が進展する。
②核拡散には誰もが反対するにかかわらず、核兵器が拡散するのを黙認しており、核の対決が発生する可能性が増大している。
③サイバースペースでの活動が、ホッブスが言ったような「自然状態」、つまり万人の万人に対する闘争のような状況となり、非対称性と先天的不安定性が大国間の間に組み込まれていく。
 このことから起こりそうな大炎上・危機として次の4つのシナリオが考えられる。
①米中関係が悪化し、ツキジデスの罠に陥る。
結局は従来からの覇権国家と新興の覇権国家が衝突を避け得ないかも知れない。
②ロシアと西側諸国とが、たがいに相手方への理解不足のため衝突する。
③ヨーロッパのリーダーが能力不足であるため、力を背景に持たない外交が無意味であることを理解できず、その結果ヨーロッパのハードパワーの衰退を招く。
④中東の紛争はエスカレートするであろう。
 アラブ諸国とイスラエルとまだ革命途上のイランの覇権争いに対して、オバマの行政・外交の能力がどの程度通用するのか。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(22)

10.Cyberiaとこれからの展望
(2)2016年11月9日アメリカ大統領選挙
 2016年のトランプが勝利した大統領選挙は、ネットワークの視点から見ると前例があった。イギリスがEUから離脱することの可否、すなわちブレグジットを問うた国民投票である。このとき国民投票の鍵を握っていたのがドミニク・カニングス(Dominic Cummings)という人物であった。イギリス北東部に石油関係の技師と教師の母のもとに優秀な子として生まれ、オックスフォード大学で歴史学を学び卓越した成績で卒業し、後には数学、とくに複雑系ネットワークに興味をもって真剣に独学したという。早くからEUがあまりにヒエラルキー的で集権的だと懐疑的・反対で、ふとした経緯からブレグジット推進派のブレーンになると、最高レベルのヒエラルキーとほとんど学の無い味方とわずか10か月の短い時間とわずか1000万ポンドの予算から、従来の選挙運動とはまったく異なるインターネットを介した新しい画期的な活動を指導して、イギリスをブレグジット達成に導いた。「ブレグジットこそネットワークの勝利」と宣言している。
 2016年のアメリカ大統領選挙も、まったく同様の経緯をたどった。カネ、実績、名声で圧倒的にリードするエスタブリッシュメントであったヒラリー・クリントンは、従来の選挙運動が有効かつ十分だと考えた。潤沢な予算をふんだんにつぎ込んで、マスメディアを全面的に掌握・動員し、圧倒的に優勢に見えていた。
 それに対してトランプ側は、ネットワークを駆使して挑戦した。トランプだけでなく、民主党のサンダースも既存の選挙運動を採用しなかった。ツイッター、Facebookに加えてYoutubeも最大限活用した。2000年以降出現したオルタナ右翼(alt-right)もトランプ応援に参加した。インターネット・ネットワークがなかったとしたら、この大統領選挙でのトランプの勝利はなかったであろう。また、今後の大統領選挙が従来行われてきたものと違うものになることも注目される。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(21)

10.Cyberiaとこれからの展望
 Cyberiaという新語がある。インターネットやコンピュータネットワークで相互に結ばれた世界と社会という含意だが、これこそ21世紀に入っていよいよ世界に本格的に普及し身近になった新しい環境である。
(1)ジハード・テロ組織の変化
 センチュリアムの前後で、ジハード主義のテロ組織も、いささか変化を遂げたようだ。
アルカーイダは、ウサマ・ビン・ラディンを頭目とする今から思えばオーソドックスで古いタイプのテロ組織であった。
 ところがISISは、バクダディなるカリフを名乗る男が頭目であったかに見えたが、今ではそうではなくはっきりしたリーダーを欠いたきわめて拡散的であいまいなテロ組織であるとみなされている。この組織は、創生の最初からインターネットを経由して世界中から同志としてメンバーを集め、メンバー同士が相互に遠く離れたまま、顔を会す機会さえないまま、いつまでもアメーバのようなセンターが不明確な存在であるらしい。
 オバマは、ウサマ・ビン・ラディンを暗殺することでアルカーイダを壊滅的に弱体化することに成功した。しかしISISに対しては、アルカーイダに対したような方法ではうまく行かなかった。

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三月花形歌舞伎 南座

 久しぶりに京都南座で歌舞伎を鑑賞した。歌舞伎鑑賞としては昨年1月以来の1年2か月ぶり、京都南座での鑑賞は一昨年6月以来の1年9か月ぶりである。
 会場に久しぶりに入って見ると、コロナ騒動でたしかにかなり様子が違っていた。開演前の入場開始が密を避けるために早まり、入場券のモギリが無くなって来場者が各自自分で入場券の半券を切り離して係員が差し出す収納箱に差入れることで入場する。観客席は三分の一ほどの席を着席禁止として、入場者を定員の6割強に制限している。休憩時間の飲食は観客席その他の館内エリアのすべてで禁止、売店での弁当・飲み物の販売は一切なく、ただ渇きを防ぐ最小限の水のみ可である。歌舞伎鑑賞中も全面的にマスク着用が求められ、客同士の会話も原則禁止である。大向こうの掛け声も、観客の発声も禁止である。観客は、唯一拍手のみで感動を伝える。Photo_20210313055901
 このたびは、歌舞伎界若手中心の舞台で、よく言えば歌舞伎界の将来を担う人材による公演である。冒頭に、壱太郎による「歌舞伎の魅力」という解説があった。今回登場する役者では、この壱太郎の30歳が最年長だという。
 今回は春を寿ぐ歌舞伎ということもあり、「義経千本桜」から「吉野山」と「川連法源館」の2つが演目であった。主役の佐藤四郎兵衛忠信を中村橋之助、静御前を中村米吉が演じる。
 「吉野山」は、頼朝の追手から静御前を救った佐藤四郎兵衛忠信が、急ぎ逃走・隠棲を必要とした義経から、静御前の保護を頼まれて、桜の咲き乱れる吉野山を道行する場面である。次の段で明らかになるが、実はこのとき静御前に連れ添ったのは、佐藤四郎兵衛忠信に成りすました狐であった。義経の忠臣を演じつつも、静御前が義経から預かった「初音の鼓」を打つと敏感に反応して狐の本性を垣間見せる、というのが舞台の見ものとなっている。どっしりした武士の佇まいと、軽妙な狐の振る舞いとを瞬時に演じわけるのがポイントである。
 そして吉野山にある「川連法源館」の場面となる。義経を訪ねてきた佐藤四郎兵衛忠信は義経から、同行してきたはずの静御前の消息を訪ねられて「なんのことか、知らない。静御前に会ったこともない」と答えて、義経を激怒させてしまう。そこへ、佐藤忠信とはぐれてしまったという静御前が来る。久しぶりの再会を喜ぶ義経だが、佐藤忠信の態度を不審に思い、静御前に短刀を手渡して、佐藤忠信に不審の所業あればこれで成敗せよ、と命じる。
 夜更けて、静御前が「初音の鼓」を打つと、館に佐藤忠信が忽然と現れる。屋鋪から庭に降りる階段の途中から突然登場するカラクリ的な設定で、ひとつの見せ場である。なぜ自分の前から急に消えたのか、など不審を問い糺す静御前に対して、佐藤忠信は奇妙な振る舞いとともに曖昧な返事を繰り返す。このときの佐藤忠信は、本物ではなく狐の化身であった。ついに自身が狐であり、その両親が「初音の鼓」に貼られた狐革になったことを告げる。親を恋しがって「初音の鼓」を追い求めて静御前を護ってきたのであった。
 佐藤忠信の本物と狐の化身の両方を演ずる橋之助は、とくに狐の素早く軽快な動きが求められ、この舞台一幕だけでも大変なエネルギーを要するだろう。熱演に大きな拍手が送られていた。静御前を演じた米吉も、上品な美貌であった。
 全体としては、2つの場面のみの3時間以内の短い公演であったが、まずは久しぶりに南座で歌舞伎が鑑賞できたこと、そして若手の歌舞伎役者たちが、ようやく観客を前にして演じることができる喜びを表すかのように、元気でエネルギッシュな演技を披露してくれたことで、大いに満足した。

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淀の河津さくら

 京都淀の河津桜を鑑賞しようと、早春の快晴の日、まだ少し肌寒いなかを、家人と淀に出かけた。
1_20210312060101  河津桜は、オオシマザクラとカンヒザクラの雑種に、さらにカンヒザクラが自然交雑した種である。樹高は亜高木、樹形は傘状で、4cmから5cmの大輪の特徴的な少し濃い紫紅の花を咲かせる。その色調から一見どこでも見る八重桜のようにも見えるが、よく見ると花はそれぞれに分離していて、八重桜のようにかたまってはいない。開花はソメイヨシノなどに比べて早く、通常2月から3月上旬で、稀に早い年には12月に開花することもあるという。花期が1ヶ月と長いことも大きな特徴である。静岡県河津町に原木があることからこの名がある。昭和30年(1955)静岡県賀茂郡河津町の河津川の河岸の雑草の中に、1mほどの原木が偶然発見されて、庭先に植え替えられたことが由来であるという。だから桜の種類としては、かなり新しい。
2_20210312060201  京都市伏見区の淀には、平成14年(2002)静岡から2本の苗木を取り寄せて植樹したのが最初だそうだ。現在では淀の町として300本、そのうち200本が淀緑地の水路沿い1.1kmの遊歩道に咲き誇っている。
 京阪電車淀駅は、通常は日本中央競馬会京都競馬場の駅として知られるが、このシーズンの昼間は、花見客が多いそうだ。今年はコロナ騒動で人出が例年より大幅に減ってしまっているというが、それでも下車した人々は、かなりの比率で花見に行く。私たちはここの花見は初めてで、駅の観光案内所でマップをもらえるものと勝手に期待していたのだが、観光案内所はどうやら無く、改札に駅員さんも見つからない。一瞬困惑したが、行きあわせた御婦人の二人連れが同じ河津桜を観に行くというので、ついて言った。3
 駅を降り立って、東側に出て線路沿いに南西方向に800メートルほど歩くと、東西に流れる淀水路に突き当たる。そこが河津桜遊歩道の西詰で、ここから川沿いに1.5キロほど河津桜の並木が続いている。
 今年は例年より少し早いと聞いていたが、たしかに満開に近いようで、みごとに景観となっている。結婚式の記念撮影の先撮りなのか、結婚式風の晴れ着をまとって写真を撮っているカップルが何組かいた。
 水路の北側の歩道を東に歩く。その間、ほとんど途切れなく河津桜の並木が続く。植樹して10年余りでもあり、樹高は2~3メートルほどで高くなく、桜木としてはかわいい感じだが、こうして満開に近い桜木が続くと、なかなか豪華である。しばらく桜の並木の下をくぐって進む。通路が狭いので、混雑しているともいえる。
5  遊歩道の中ほどで橋に出会い、ここで水路の南側に移ると、土手に少しせりあがった藤棚の下にベンチが並ぶ休憩所がある。しばらくベンチに腰掛けて、持参したおにぎりを食する。ここから水路と桜は見下ろせることになる。眼下には、桜の下でなにかの商業写真だろう、カメラマンが撮影している和服のモデルさんが見える。化粧や美貌、みごとな着こなしもあるが、なによりすっきり伸びた背筋がプロたることを感じさせている。6
 さらに東に歩くと、少し桜木の密度が減り、またまだ芽吹いてはいるがつぼみの木、あるいはすでに花が散ったあとの葉桜の木などがある。木によって、あるいは日差しの加減か、理由はよくわからないが、開花のステージに多少バラつきがあるのも自然なのか。
4  桜木が間隔をあけて植えられているところでは、全体として小型だが、若々しく端正な河津桜を見ることができた。説明のとおりの笠の樹形で、真っ青な快晴の空を背景に、実に美しい開花である。
 東詰めまで行くと、そこは京都競馬場の南西端に隣接していて、宇治川河岸に続く小路がある。しばし水路を離れて、宇治川右岸に登ってみた。宇治川岸に、自転車を倒して寛ぐひとりのバイク乘りの老人がいて、少し雑談した。この地の人だというその人から、河津桜の由来や例年の賑わいなどを聞くことができた。例年この時期は、中国人観光客でずいぶん混雑するのだという。今年はコロナ騒動で外国人がいないので、例外的に空いているのだと。
 ここから競馬場の西側を行く京阪淀駅への近道があることを教えていただいたが、せっかくの開花であり、また絶好の快晴であり、来た道を折り返して、もういちどゆっくり桜を愛でることにした。雲一つない絶好の青空のもと、ひとあし早い桜を満喫した。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(20)

9.インターネットが事件を起こす時代
(3)格差と動揺の時代
 15世紀のグーテンベルクの印刷機の発明と現代のパソコンのネットワーク結合と、ともに甚大なインパクトを与えたイノベーションであり、その普及のグラフには相似性すらある。しかし大きく違う点が3つある。
①現代のネットワーク革命は、普及の数も地理的展開も、はるかに速く広い。
 1998年のオンラインの比率は2%であったのが、2017年には40%になっている。低開発国においてさえモバイルフォンの普及は目覚ましく、最低限のライフラインとされている「きれいな水」を凌ぐ普及率が記録されている。
②革命の結果・成果の分布、すなわち富の分布に大きな格差がある。
 GAFA(Google, Amazon, Facebook, Apple)あるいはFANG(Facebook, Amazon, NetFlix, Google)と呼ばれる各種のサービスは、資本金も、$100~600Bもの市場価値も、事業利益も、創業者個人が独占している。いずれのサービスも、単に使うだけの莫大な数のユーザーが存在し、単価は小さくとも総額は莫大な広告収入があるが、その利益は株主たる創業者を中心とするごくごく少数の人たちが独占する構造となっている。グローバル化とインターネットは、あきらかに新しい激しい不平等をもたらしているのである。
③印刷は西ヨーロッパの教会ドームの宗教生活を排して、新しい世俗的生活をもたらした。対してインターネットは、商業取引に動揺を与えたのにはじまり、政治(すくなくとも投票行動)、さらにひとつの巨大宗教・文化たるイスラムに大きな影響を与えようとしている。
 そしてもう一方では、印刷とインターネットの類似点が2つある。
①印刷もインターネットも、市場を変えたのみならず「大衆の行動=Public Sphere」を変革した。ルターは、司祭を教会のためのものから万民のものへというファンタジーに変えた。インターネットは、ネチズンという概念、すなわちサイバースペース上での万民の平等というファンタジーをもたらした。
②変革の結果、支配のマージナルな部分において不安定や揺らぎを発生した。
 1555年のアウグスブルクの和議で、ドイツなど中欧でルター派プロテスタントが容認された。しかしカルヴァン派が個人の信仰選択が認められず都市や領主が選択することとなり、この禍根が30年戦争を導いた。インターネットは、2016年アメリカ大統領選挙時のネットを介した新しい投票誘導をもたらし、またWikiLeaksなどの新しい諜報活動が支配の境界領域を揺るがしている。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(19)

9.インターネットが事件を起こす時代
 20世紀が過ぎ21世紀に入ると、インターネットとAIの存在がますます大きくなった。
(1)2001年9月11日アメリカ同時多発テロ
 今世紀最初の画期をなす事件が、アメリカのニューヨークで起きた金融と輸送ネットワークを襲ったイスラム・ギャングによるテロである。現代のグローバリゼーションの雄である金融と航空をターゲットにするという意味でも象徴的な事件であった。犯人たちは、事前に検知されることを防ぐために、きわめて弱く、かつスパース=非社会的な結合のネットワークを形成して犯行を実施した。中心のないごく弱い結合のネットワークだが、唯一イデオロギーでは堅く結束している。このネットワークを構成する手段は、インターネットである。オーストラリアの反乱鎮圧の専門家であるキルケラン(David Kilcullen)によれば、ジハードのテロ組織はすでに国家と同様のヒエラルキーを形成している。それはヒトや領域を支配するものではないが、広範囲の分散システムを制御するpseudo-stateであり、単一のヒエラルキーではなくヒエラルキーの連合である。これに対抗するには、カウンター・ネットワーク諜報活動を頻繁に実施して、ネットワークの弱点を攻撃すること、つまり周囲の人々と暴動グループとの間のネットワークを切断して窒息させることが有効である。具体的には、アルカーイダとイラクとの間のリンクを切ることである。Anaconda Strategyと呼ばれるこの戦術で、以後この犯人グループとの闘いが続けられた。


(2)2008年9月15日リーマンショック
 アメリカ同時多発テロは、アルカーイダが期待したほどには金融や政治へのインパクトが大きくなかった。たしかに1週間は金融決済が止まり、ニューヨーク証券取引所が閉鎖された。それでも数週間以内にすべてはもとに復帰した。ジハードを企んだアルカーイダが想定していたよりも、アメリカの金融システムは、はるかに強靭であったといえる。
 それに較べると、2008年9月15日のリーマンショックは、1929年のウォール街株大暴落以来の大事件となった。経済的損失を見積もると、アメリカ同時多発テロの数十倍から百倍ほども甚大だったようである。
 金融危機の主な要因として下記の6点が挙げられる。
①主要銀行の資産の危険水準までの過小
②銀行間の相互相殺負債の過大
③2002~2004年において連邦銀行の金融政策があまりにいい加減であったこと
④ 政府がとった貧困層にも住宅が所持できるとの無理な誘導政策
⑤CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)などのデリバティブの過大
⑥中国からアメリカへの資本流入による不動産バブル
 2006年ころからこのように多くのリスク要因を抱えていたところへ、サブプライム・ローンのデフォルトが発生したので、一気に危機に陥ったのであった。
 しかし当事者たちもこの事態の深刻さになかなか気づけず、ひと月以上後の10月29日バーナンキ連邦準備理事会(FRB)議長がようやく1930年ころの大恐慌に近い危機の可能性があると言及し、12月半ばになってようやく連邦公開市場委員会(FOMC)が明確に大恐慌以上の非常事態と宣言するに至ったのであった。金融システムが、インターネットで接続・拡大されて、専門家でさえ理解できないほどに莫大で複雑なものとなった。このように誰もが事態をよく理解できなかったのは、ひとことで言えばこの複雑なグローバル金融システムのネットワークを十分制御できていなかったのである。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(18)

8.二つの世界大戦のあと
(2)インターネットの登場
 1964年、ソ連の核攻撃への対策としてアメリカのRAND研究所で、スポーク型の分散型コンピュータネットワークが開発された。さらに通信経路に冗長性を強化して1969年からARPANETが計画され、1970年Highly Decentralized NetworkすなわちInternetが登場した。次いで電子メールも発生した。続いてより使いやすいプロトコルも開発されて1987年には30,000のホストが参加し、いよいよInternetの名前にふさわしい”Not planned, it just grew”の通信ネットワークが定着した。1989年には、Tim Berners-LeeがWorld Wide Webをはじめた。
 実は1972年ソ連であったキエフに、ソビエト・インターネットをつくろうとするサイバネティクス研究所があった。考えはシリコンバレーとおなじであった。しかしこの計画は単に予算がネックで葬られていた。この当時は、高名な西側の経済学者サムエルソン(Paul Anthony Samuelson)でさえ1984~1997年の間にはソ連の社会主義経済がアメリカの総生産を凌駕するだろう、と考えていた。


(3)ダボス会議という私的ネットワーク
 1992年、スイスのダボスで開催されたWorld Economic Forum、いわゆるダボス会議において、長い監獄生活から解放されて日も浅いネルソン・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)が参加した。彼は、社会主義を目指していたが、社会主義国でありながら市場経済と外国資本導入を図る中国共産党とベトナムの代表と話し合い、かつかつての敵であるオランダの代表とも話し合い、長い間抱いてきた生産財国有化の構想を転換した。これが新生南アフリカの以後の躍進のスタートとなった。スイスの山奥の、私的なネットワークが世界に重大な変化をもたらすひとつの例である。


(4)イングランド銀行の崩壊とEU
 マンデラがダボス会議で自分の考えを大転換した8か月あと、ロンドンではジョージ・ソロス(George Soros)が「英国銀行を壊した男」として大きな話題となった。ソロスに言わせれば「通信技術とコンピュータ技術が国を越える金融取引の速度を著しく速めたために、銀行のヒエラルキーによるコントロールの限界を突き破ってしまった」のであった。
 実際に、金融は農業・工業・商品市場・サービスなどの経済活動に比べても、圧倒的に容易に国を越えて行き交う存在となった。これによって、19世紀以来の労働者の連帯の夢であり、1957年の西ドイツ・フランス・イタリア・オランダ・ルクセンブルク6か国によるローマ条約で規定した石炭と鉄の価格協定をさらに前進・発展させたEUが現実性のあるものとなり得たのである。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(17)

8.二つの世界大戦のあと
(1)冷戦下の長い平和と局地紛争の時代
 第一次世界大戦で、4つの帝国、すなわちロマノフ、ハプスブルク、ホーエンツォレルン、オスマンが崩壊し、言語と民族の統一性を主張する新しい中央集権的な強力な民族国家群が叢生した。
 第二次世界大戦の後には、かってない高みのヒエラルキーが形成された。そして冷戦体制が続いて、二大陣営間の大戦争は回避され、たしかに平和な時代といえた。しかし、開発途上国に目を移すと、現実はまったく平和ではなかった。アフリカ、アジア、ラテンアメリカなどである。これらの地域では、ドミノ的に暴動や反乱が発生し、伝搬した。かつて植民地であった地域が、相次いで独立したが、果たしてその結果はかならずしも幸福であるとは限らなかった。アイゼンハワーが言うJungle Warfareという状況であった。
 イギリスはふたつの世界大戦に勝利し、生き残った最後で最大の帝国であったが、1970年代にはヒエラルキーによるアプローチがことごとく不首尾に終わるようになり、混迷と低迷の時期を迎えた。ハイエク(Friedrich August von Hayek)は、アダム・スミス(Adam Smith)を引用して、複雑な世界では、もはや予め計画したことは実現できなくなった、と指摘した。そして1951年にはウェブスター辞書にGlobalizationという単語が現れた。世界は、民営化(Privatization)とグローバリゼーション(Globalization)へ舵を切り始めた。
 冷戦下で活躍したひとりがキッシンジャー(Henry Alfred Kissinger)である。彼は博士論文に「政策の精神と官僚制の精神とは、完全に相反する。政策の本質は不確実性であり、その成功はある程度の不確実性を含む推測の正しさにかかっている。対して官僚制の本質は安全性の追求であり、その成功は算定可能性にかかっている。官僚的に政策を進めようとすれば算定可能性を追求せざるを得ず事象のみにとらわれることになり、ほんとうに必要なこと、大切なことがなにもできなくなることがある。政治の意思決定は、そういうものであってはならない」と書いていた。彼は、1969年からソ連側の要人と、インフォーマルな個人的ネットワークを積極的に構築していった。公式の外交チャネルよりも、得るものがはるかに多いと判断したからであった。それは極めて有効かつ型破り(違法を含む)のネットワークであった。チェコのイネイダレク(Josef Šnejdárek)とは、来るべきプラハの春について二人で深く話し合った。さらにニクソン電撃訪中の4年前のこのときに、すでに中ソ分裂、米中接近を話し合っていたのであった。冷戦体制の確立で第三次世界大戦のリスクが減少し、デタントに則った外交がより重要となった。
 折しも世界的なエネルギー危機が、国際協調を促した。The Challenge of Interdependenceは、1974年のニクソン大統領のスピーチのタイトルであった。
 一方で機密情報がリークされると、民主国家ではメディアによって直ちに公開されてしまうようになった。そして、世界中で大学紛争、人権運動、アフリカ系アメリカ人たちの差別撤廃運動、ベトナム反戦運動、などにつながっていく。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(16)

7.独裁者と諜報活動
(2)Magnificent Five in Cambridge
 イギリスの知性の心臓部であるケンブリッジ大学のど真ん中に、ソビエト連邦のスパイ組織があった。すでに存在していた学術懇話会であったConversazione Societyのメンバーで、密かにMagnificent Five in Cambridgeと呼ばれた人たちである。
 当時ケンブリッジ大学には英国共産党の下、社会主義者は多数いた。Magnificent Five in Cambridgeは第一次世界大戦から1950年代にかけて、密かに情報をスターリンに報告し続けたのである。なんとしてもヒットラーを打倒するため、スターリこそが唯一のヒットラーに対するカウンター・ウェイトであると信じる人もいた。彼らの働きにより、1941年にはKGBにとってロンドンは世界でもっとも生産的な拠点となり、9,000種にのぼる書類がスターリンに供給された。1944年5月26日のノルマンディー上陸作戦についても、詳細な情報が送られていた。
 イギリス側には長らくカウンター・スパイが無かったことが、KGBに容易に入られた原因であったと分析されている。
 やはり激しいスターリンの弾圧下に、もうひとつの悲劇が紹介されている。ロシア、ソ連の高名な詩人アンナ・アフマートヴァ(Anne Akhmatova)である。彼女は若いころ新婚旅行で訪れたパリで、モジリアニのモデルを勤めたこともある女流詩人で国民に高い人気を誇ったが、スターリン体制下で厳しい弾圧を受けた。とくに第一次世界大戦のあとレニングラードを訪れたオックスフォード大学の若手哲学者アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)と、たった2度会ったことが当局から疑惑をもたれ、以後の彼女の生活に大きな苦難を強いることになった。この二人のふとした邂逅を密告したのが、Magnificent Five in Cambridgeのひとりであったブラント(Anthony Blunt)であった。

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Niall Ferguson,”The Square and the Tower”(15)

7.独裁者と諜報活動
(1)ヒットラーとナチズム
 ファシズムもネットワークとして始まる。イタリアのベニート・ムッソリーニのように、通常ファシスト体制は、君主あるいは貴族として任命されて急速に権力を集中してゆくことで成立する。
しかしドイツの国家社会主義は違う。ナチスのように選挙で権力を獲得したファシズムは、類がない。1930~1935年の大不況下に、96%の投票を得て権力に上り詰めたのである。階層・職業・失業の有無などにほとんど関わりなくとても高い支持率であった。強いて言えば、ドイツプロテスタントよりもカトリック中央党のほうが、支持が多かった。ナチスは1930~1933年のわずか3年間に急激に支持率を爆発させたのであり、利益の訴求よりも精神・意見の結束がポイントであり、新宗教(New Political Religion)ともみなされるべき現象であった。
 ボルシェビキと同様に、ナチスも権力を掌握し成長すると、急激にヒエラルキーになった。しかしボルシェビキと異なるのは、もっとアイマイで重層的で、全体としてとても過激なヒエラルキーであると言える。敢えて言えば、僭主的なカオスである。

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