2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
フォト
無料ブログはココログ

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »

2021年8月

伊能忠敬展 神戸市立博物館(3)

伊能図に関わるひろがり
 伊能忠敬が心血を注ぎ、彼の死後はその弟子たち後継者たちが丹精をこめて作製した最終成果たる日本全図「大日本沿海輿地全図」は、文政元年(1818)の忠敬の死後、文政4年(1821)ようやく完成した。大図(1/36,000、全214枚)、中図(1/216,000、全8枚)、小図(1/432,000、全3枚)の3種から構成されている。
 完成した「大日本沿海輿地全図」は、将軍家斉に献上され、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、重要国家機密として厳重に保管された。しかし、書物奉行を勤めていた高橋景保が文政11年(1828)、長崎オランダ商館付医師であったシーボルトに伊能図を贈ったことが露見し、シーボルト事件として大問題となり、高橋が刑死する結果となった。
 開国直後の文久元年(1861)には、幕府の停止要請を無視して日本沿岸の測量をしていたイギリス海軍測量船の軍人が、伊能小図を見てその完成度と精度の高さに驚嘆し、測量を即刻停止して伊能図の控えを持ち帰ったこともあった。Photo_20210830070801
 しかし明治6年に皇居となっていた紅葉山文庫が、皇居の火災で全焼して、貴重な「大日本沿海輿地全図」の原本は焼失してしまった。そのため、伊能家は「大日本沿海輿地全図」の控えを新政府に献上した。文部省が、その小図から明治10年(1877)「日本全図」を編集して発刊した。さらに内務省地理局は、明治13年(1880)中小図から「大日本国全図」、明治17年(1884)「輯製20万分1図」の作製に伊能大中図が基本図として用いられた。この以後も、各府県で作製された官製地図の原図として多面的に活用された。
 しかし、東京帝国大学附属図書館に保管されていた伊能家の「大日本沿海輿地全図」の控えも、大正12年(1923)関東大震災ですべて焼失してしまった。こうして貴重な「大日本沿海輿地全図」は、すべて焼失してしまったのである。
 このような伊能図の利用・活用は、ごく当然かつ自然な成り行きである。しかし、思いがけないひろがりが多々あった。
 最近になって、フランスに伊能図が保管されていることがわかったという。なぜ、伊能図がフランスに渡ったのだろうか。これには、明治維新を数奇な運命で生き抜いた榎本武明が絡んでいたと推定されている。
 文化6年(1809)第7次測量として伊能忠敬が九州を旅したとき、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)庄屋の箱田園右衛門直知の次男で、当時17歳であった箱田良助が伊能忠敬の直弟子として測量に加わった。箱田良助は、故郷の備後国神辺で私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)から発展した廉塾を営んでいた菅茶山に学び、数学を得意とする俊才であった。江戸に出て兄・右忠太(うちゅうた)とともに、江戸で伊能忠敬の弟子になったのである。このとき、伊能忠敬に、一切権威がましい振る舞いをしない、厳しい測量旅行の掟を遵守する、など忠誠を誓った「一札」が展示されている。箱田良助は、こうして文化6年(1809)の第1回九州測量以降、伊能忠敬の実測旅行に常に随伴し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献した。
 伊能忠敬の死後、文政元年(1818)御家人の榎本家の株を買い、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗った。そして文政6年(1826)伊能忠敬のもとで働いた実績を認められて天文方に出仕、天保4年(1833)西丸御徒目付に就任した。晴れて天下の幕府役人に取り立てられたのである。そして天保7年(1836)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で、二男釜次郎、後の榎本武揚が生まれた。
 榎本武揚は、伊能忠敬の側近を勤めていた父から、伊能忠敬の地図の一部を受け継いでいた可能性は高いと思われる。榎本武揚は、明治維新直後の戊辰戦争で新政府軍と戦い、北海道に逃避したが、そのとき旧幕府の軍事顧問を務めたフランス軍の仕官と行動をともにしていたらしい。そんな経緯から、フランス軍人が伊能忠敬の地図を入手して、フランスに持ち帰ったのではないか、との憶測がなされている。
 伊能図がフランスに渡ったことも数奇であるが、それ以前に、箱田良助が伊能忠敬に出会って弟子にならなかったら、榎本家への縁も、さらに榎本武揚の誕生もなかっただろう。
 このほか、全国に測量旅行をする途中、新しい科学的知識、新しい情報に関心が高かった何人かの大名たちが、積極的に伊能忠敬に支援を申し込み、対価として伊能図の提供を求めた。こうしていくつかの大名に献上された伊能図が各大名の地元に保管されている。阿波国蜂須賀家、長州毛利家、小藩の島原深溝松平家まである。賢君で高名な松浦静山の平戸藩も当然のように伊能忠敬に熱心に接近し、多くの伊能図を保管している。
 伊能忠敬の地図の作製工程の詳細など、私には理解が及ばない範囲もあったけれど、改めて困難で偉大な業績と、その多方面への影響に改めて感動した鑑賞であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

伊能忠敬展 神戸市立博物館(2)

地図の作製の難しさ
 現代のように、航空写真で全容を把握したうえで細部の精度を上げていく、というアプローチは、作業量の多寡はともかく基本的に凡人でも実現が可能であると思う。しかし、伊能忠敬の時代の測量技術とその測量に基づくデータからの地図の作製という作業は、私のような凡人がこれまで漠然と思い描いていたよりも、はるかに難しいものであったろうことに、この度改めて気づいた。
 ひとことで言えば、微分方程式を数学公式も計算機もない状況で、図解で解くようなものなのである。地図をつくる基礎データは、方向と長さが判明したごく短い直線の膨大な集合だけである。それを丁寧につなぎ合わせて地形を復元する。コンピューターを使った精度の高い、つまり有効数字の大きい数値計算でさえも、微分的なデータを集積していくと誤差が累積して、とんでもない結果を導くことは多い。伊能忠敬のアプローチでは、この累積誤差を大きくならないうちに補正するために、天体観測によるマクロな位置の同定と、共通の目印の点を複数の観測地点近辺に設定して、確認すべき地点からの方向を測り、その方向の直線が正しく交差することを確かめる方法(これを伊能は「交会法」と名づけた)などで較正を加えたらしい。そのような実用的な測量技術上の工夫も、もちろん素晴らしい。
 それでも、ミクロな地図の形を周囲に誤差少なく接合して面積を拡大していくことは、言うは易く実現にはかなりセンスというか、特異な才能が要るように思う。私はこれまで伊能忠敬という稀有で有能な人物の、測量での恐るべき体力と根気に基づく緻密なデータ収集が偉大な成果の要因だと漠然と思っていた。今回の展示を観て、初期的な測量技術の高度な工夫とともに、実はその後の、測定データの集積から地図に起こす際のミクロとマクロを接合する作業こそが、もっとも困難で重要なポイントだったのではないか、と印象を少し転換した。Photo_20210826054901
 地図作製において、膨大な量の針を使っているという。測量データから先ずはごくミクロな局部的な小地形図を作製し、いまではほとんど残存していない大量の「麁絵図」という景観のスケッチ図、周囲の様子の詳細なメモなどの情報を活用して、そのミクロな小地図の断片を繋いでいく。そのとき、小さな紙切れ上のミクロな小地図(断片的な地図の要素)を大きな「料紙」の上に転写する必要がある。ここで地図の曲線を分解した小さな直線の集合を、その小直線の両端に針を突き通して、紙きれから料紙の上に形を転写していくようである。地図を記録する紙は、「竹紙」と呼ばれる竹の繊維で作った、滑らかで吸水性に優れ、細かい描写ができる紙を使うらしい。
 私には、まだ詳細がきちんと理解できてないが、漠然と想像するだけでも、とてつもなく大変なことだと思う。
 なお、山陽地方中心の第5次測量旅行のとき、文化3年(1806)ころ一部に画家が同行して、測量隊一行の測量活動の様子を描いた貴重な絵が残されていて、展示されていた。「浦島測量之図」と題された、広島呉付近の測量の様子を描いている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

伊能忠敬展 神戸市立博物館(1)

Photo_20210824065901  季節外れの停滞前線が1週間以上西日本にかかり、8月半ばというのに線状降水帯が居座り続けて、まるで梅雨明け前のような集中豪雨が西日本のそこここで続いている。私の住んでいる地域は幸い大災害に至らず、困るのは洗濯の物干しくらいで済んでいるが、鬱陶しいことは間違いない。そんななか、もうすぐ企画展の会期が終わるので、雨のなか傘をさして神戸市立博物館に行ったのであった。
 今回の展覧会は、最近最終報告書を出した科学研究費基盤研究「伊能図の成立過程に関する学際的研究─忠敬没後200年目の地図学史的検証」の成果をベースにしたもので、単純明快な側面は少なく、かなり学術的、プロフェッショナルな展示であった。展示の構成も、1.はじめに、2.測量と地図作製、3.伊能図の精華、4.伊能図を探求する、5.おわりに─活用される伊能図、というもので、まるで学術論文のような論理的ではあるが、わかり易いとはいえないだろう。
 今回の展示を見て、素人として率直に感じたのは、⑴精度の高い地図を作製することの難しさ、⑵伊能図とそれに関わるひとびとの思いがけないひろがり、のふたつであった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言

 驚くような報道記事が出た。

“ロックダウン”のような抑制策求める緊急提言 全国知事会
NHKニュース 2021年8月20日 19時40分
 緊急事態宣言などの対象地域が、20日から拡大されたことを受け、全国知事会が会合を開き、現在の宣言発令で効果を見いだせないことは明白だとして国に対し、「ロックダウン」=都市封鎖のような徹底した人流抑制策の検討などを求める緊急提言をまとめました。(以下略)

 素朴な質問として、①ロックダウンが有効な対策なのですか、②もしロックダウンを実施するなら、出口はどういう考えで設定しますか、③もっと優先的にやるべきことはないのですか、の3つを最低限お聴きしたい。
 フランスなど、すでにロックダウンを実施した国は、いくつもあった。しかしそれが大した効果もなかったことも、いまではすでに分かっている。国会で尾身会長もそのように答弁している。
 仮になんらかの効果が期待できると仮定して、もしロックダウンを開始するとしたならば、その解除の基準を設定する必要がある。現実問題として、これを責任もって提案できますか。すでに経験として、ロックダウンも中途半端にやれば、ヨーロッパですでに経験したように、またそのうち感染の波がぶり返し、マイナスばかりが残るのは見えている。感染者がゼロになれば、などと立憲民主党みたいなことを言えば、何年間もロックダウンのままかも知れない。もっとも、もしほんとうにどこかの時点で新規感染者がゼロになったとしても、世界中から感染が絶滅できない限り、グローバルな現代ではいずれまた蔓延するだろう。その間、実害は甚大である。経済は大きく活動が制限され国富は大幅に縮減し、多くの人たちが職業を失い、さまざまな形で後世に莫大な負債を残すだろう。大学の新入生をはじめとする、多くの若者たちの貴重な二度と戻らぬ青春を奪うだろう。自殺者がますます増加するだろう。ケア・ホームなどに収容されている老人たち、認知症が始まっている人たちは、家族や知人と会うことができず、心身の機能劣化や病状がますます進行するだろう。日本中が死屍累々の地獄になってしまうかも知れない。
 そんなリスクの大きすぎることを考える前に、「医療崩壊」と叫ばれている状況を冷静に考える必要がある。わが国は、病院のベッド総数が160万とも、90万弱ともいわれている。それに対して、コロナ肺炎の重症者数は、2000人にも満たない。すでにコロナ騒動が始まってから、1年半をとうに過ぎている。これは、いかにも不自然である。中小のサービス産業を見放し続ける一方で、医療関係業者のみは現状維持のままで護るというのは、政治としては不公平・不公正である。行政指導、法的措置でもなんでもいいから、政治的解決が図られるべきだと、私は思う。
 相手は、人間ではなくウイルスなのだ。人間がどのように行動しようが、変異などを含めて、感染が増えるときは増えるだろう。増えたときの対策をしなければ、対策にはならない。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京オリンピックでの二つの感動

 東京オリンピックが閉幕した。オリンピックに特段の関心があったわけではないが、アスリートたちの全身全霊を尽くしたパフォーマンスは、当然ながら今回も多くの感動を与えてくれた。そんななかにも、私がとくに印象深く感動した二人のアスリートについて記しておく。Photo_20210820060201
 まず日本で初の女子1500メートル競走に出場した田中希実選手である。オリンピックは、発祥のときからやはり陸上競技こそが中心であり花形である。このオリンピック陸上競技は、日本人にとってはなかなか閾値が高く、メダルどころか参加標準記録の達成すら容易ではない。かつて日本人の誰もが参加できず、陸上競技先進国から大きく後れをとっていたこの種目において、田中希実は標準記録をクリアし、予選、準決勝を勝ち抜き、決勝では世界のトップランナーたちと互角に近い走りを見せて、8位入賞を果たした。この間、予選、準決勝ともに自己最高記録を毎回更新し、日本人ではじめて4分の壁を突破し、決勝でも4分を再び切る走りを示した。オリンピックは、どうしても金・銀・銅のメダル獲得が注目されがちで、彼女のとてつもない偉大な快挙も、さほど大きな報道がされなかったが、私はとりわけ強く感動した。
Photo_20210820060202  もう一人は、アメリカ陸上競技界のレジェンド的な存在であるアリソン・フェリックスである。2004年アテネ・オリンピックに18歳の高校生ランナーとして初めて出場してから、実に5回目のオリンピック出場であった。東京オリンピックまでに、金6個、銀3個の9個のメダルをすでに獲得していたアメリカ陸上界短距離・中距離のスーパースターである。8年前には太腿の筋断裂という重篤な負傷を経験して一時引退し、復帰してリオ・オリンピックに出場し、結婚して2歳余りに成長した女児のママでもある。
 そのアリソンも、オリンピック初出場から17年あまり、35歳になり、当然全盛期の勢いはない。しかしそれでも競争が著しく激しい全米の陸上競技界で勝ち抜き、オリンピック400メートルの出場権を獲得し、さらにどんどん若手の強豪が世界中から出現し登場するオリンピックで堂々3位を勝ち取るというその強さには、心底感動した。とくに若いころは小顔で笑顔がチャーミングで、アイドル的な美貌も魅力であったが、なによりも上体がまったくぶれず、しなやかで力強い大きなストライドで美しく走り抜けるそのランニングフォームが、今にかわらぬかけがえのない大きな魅力である。35歳の人生の半分を、全米陸上競技界のトップレベル、すなわち世界陸上競技界のトップレベルを維持して過ごした、というのは実に壮挙である。このあと、1600メートルリレーでも金メダルを取ったというが、それは私は見ていなかった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

「イサム・ノグチ 発見の道」東京都美術館(4)

石の彫刻
Photo_20210818080801  第一会場は「彫刻の宇宙」とタイトルがあり、展示会場の中央には、多数の岐阜提灯があり、その周辺にブロンズ、鉄、陶器のさまざまな作品が並べられている。入口の正面に据えられているのは「黒い太陽」と題された石の彫刻である。1969年に制作されたもので、もとの作品はブラジル産黒曜石を素材としたドーナツ状の彫刻で、アメリカ・シアトルのキャピトルヒルにあるシアトルアジア美術館に設置されている。展示品はその模型で、花崗岩から彫り出されている。Photo_20210818080601
 安山岩から彫り出された作品に「発見の道」(1983)がある。イサムは、石を単なる材料として使用するのではなく、石が本来持っている芸術のインスピレーションを彫刻家として見つけ出し、その石から与えられたアーティスティックな気配を彫刻作品として抽出して表現したいとする。そのためには、加工しすぎてもいけないし、なにもしないで隠れたまでもいけない、という。
 「第三章 石の庭の展示会場」には、イサムが最晩年まで没頭した石の彫刻が主題として展示されている。
Photo_20210818080602  「無題」として展示される安山岩の作品は、天然の安山岩を鋭く切り込み、断面には磨き上げられた平面に美しい岩石の断面が表出されている。一見すると、複数の岩石を接合したようにも見えるが、一つの岩石からの切り出しと磨き出しなのである。イサムが、岩石に隠されている芸術性を、アーティストとして抽出して顕わしているのである。「フロアーロック」と題された作品は、玄武岩の周辺をノミで削り出して花びらが開いたかのような配置をつくり、特定の面は鏡面に磨き出すことで玄武岩特有の黒っぽい艶やかな光沢を顕わしている。鉄分によるこの色彩は、酸化による経年変化で緩やかにその色を微妙に変化させるという。Photo_20210818080901
 やはり同じ玄武岩から、柱状の形を切り出した「ねじれた柱」(1982)という作品がある。玄武岩の本来の岩肌と色彩を活かしつつ、部分的に、むしろ控えめにノミを入れて、自然の美とエネルギーを感じさせる力強い造形を達成している。
 美術作家が表現すべき価値を自ら創造して、絵具なり石材なりの材料を用いて表現するのが通常の美術作品だとするなら、イサムの石による彫刻は、石材は材料にとどまらず、価値の源泉・発生源として作品を構成することが特徴だということだろう。その結果、イサムの石の彫刻作品は、自然を眺めてその深い自然の美や感触、空気感などを探るような鑑賞となり、長い時間見つめていても時間経過とともに感じるものがゆるやかに変化し、積み重なり、飽きることがない。イサム・ノグチの切り開いた新しい境地が、少し理解できる気がした。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

「イサム・ノグチ 発見の道」東京都美術館(3)

かろみの世界Photo_20210816072301
   イサムは、日本の美的伝統と感覚をリスペクトし、西洋的な芸術に突き進む日本の美術界の傾向に批判的であった。とくに主張したのが「かろみ=軽みの世界」というイメージで、軽み=lightから発想して、light=光にまで発展したという。
1_20210816092701  日本の岐阜提灯の自由な形とやわらかでやさしい光を尊重し、さまざまな形状のバリエーションを導入した「あかり」シリーズを創作した。「私の彫刻は高価なために、誰もが身近に購入して楽しむことができないが、提灯なら安価で誰でもが楽しめるので、私もうれしい」と言っている。
 「第二章かろみの世界」と題された展示会場の入口冒頭の彫刻は「黒いシルエット」(1958)である。これは、一枚だけの大きなアルミ板を切断と折り曲げだけで彫刻とする、という命題を自らに課して創作したという。イサムは「日本の折り紙のようなもの」という。高さが2メートルを超えるような大きな作品だが、たしかに軽みが感じられ、対峙するものを暖かく包み込むような優しい気配がある。Photo_20210816072501
 ドーナツ状の赤色の太いパイプが、波打った「プレイスカルプチュア」(1965)という作品がある。鋼鉄製なのだが、明るい鮮明な赤色とやわらかな曲線から、子供たちを明るく遊びに誘うような軽くて楽しい雰囲気がある。
 「雨の山」(1982)という鋼鉄板の合成による彫刻作品がある。これは、鋼板を設計した形状に切り出して、その上に高温溶融した亜鉛を流して亜鉛メッキしたもので、亜鉛溶解液の流動により、不定形の文様が発生するのを利用した造形である。イサムは、この溶融亜鉛メッキという工程とその効果をずいぶん面白く感じたそうで、同じ手法での作品を連作している。Photo_20210816072601
1_20210816092401 40歳代に入ったイサムは1947年にジョージ・ネルソンの依頼で「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作するなど、インテリア・デザインの作品にも手を染めた。ピンクのソファ「フリーフォームソファとオットマン」(1946)もそのひとつである。

 

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

「イサム・ノグチ 発見の道」東京都美術館(2)

イサム・ノグチの生涯(続)
 そして22歳のとき、ルーマニアの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの個展を観て深い感銘を受け、「抽象の世界」に開眼したという。グッゲンハイム奨学金を獲得した23歳のイサムは、その翌年にはパリに渡り、ブランクーシの工房で助手として石彫を学んだ。Photo_20210816104901
 それから3年余りの間に、渡米しての初の個展を開催、ヨーロッパ経由で中国を訪問、画家・篆刻家・書家であった斉白石に師事して墨と筆のドローイングを研修、さらに来日して父米次郎との再会、などがあった。日本では、伯父高木藤太郎の世話になり、東京日本橋に滞在、京都を訪れて日本庭園、寺社、埴輪などに深く感銘を受けた。陶芸家宇野仁松からは、テラコッタ作品の制作を学んだ。テラコッタの作品としては「旅」と題された軽妙な小品が、今回展示されている。
Photo_20210814064801  さらに日米開戦までの4年間29~33歳のころには、庭園設計、舞台装置のデザイン、量産商品の工業デザインなど、広範囲の活動を展開した。昭和10年(1935)には、在米日本人芸術家の国吉康雄、石垣栄太郎、野田英夫らと共にニューヨークの「邦人美術展」に出展した。
 第二次世界大戦が勃発すると、在米日系人の強制収容が行われ、イサムは自ら志願してアリゾナ州の日系人強制収容所に拘留された。しかしアメリカ人との混血ということで、アメリカ側のスパイとの噂が立ち、収容所内の日本人社会から冷遇されたため、収容所からの出所を希望したが、今度は日本人であるとして出所が許可されなかった。その後、芸術家仲間であったフランク・ロイド・ライトらの嘆願書によりイサムは出所し、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。1944年(昭和19年)、建築の外壁材として安価に入手できた大理石板を使って、新しい彫刻作品を発表した。そのひとつが「化身」である。ここでの展示作品は1972年にブロンズ版に改作したものだが、もとは壁材の大理石板を加工し、日本建築の技術からヒントを得たクギを使用しない嵌め込み構造を導入して、複数のパーツを互いに組み合わせた、「インターロッキング法」で構成している。Photo_20210814064901
 終戦後、昭和25年(1950)19年ぶりに来日し、建築家の丹下健三、谷口吉郎、画家の長谷川三郎、猪熊弦一郎、岡本太郎などと会った。父米次郎が学び、また教鞭をとった慶応義塾大学も訪問した。日本橋三越にて、日本で最初の個展も開催した。このころのアルミニウムを用いた彫刻に「不思議な鳥」(1945)がある。
 昭和26年(1951)には、広島を訪問して広島平和記念公園に原爆死没者慰霊碑を設計・制作して寄贈しようとしたが、イサムが加害者側のアメリカの血を引くことから拒否された。「ヴォイド」(1971)は、このころの構想からつくられた、近代科学を戦争に利用することに反対する意志をこめた作品と言われている。またこのころ、ニューヨークで出会った国際的女優山口淑子(李香蘭)と結婚したが、4年弱で別れた。「淑子さん」というタイトルの陶芸作品も展示されている。
 昭和31年(1956)ころには、アメリカやヨーロッパなどで多くの庭園設計を推進する一方、多様な彫刻を手掛けた。代表作となる多くの作品を創作しはじめたこの時期を、イサム自身は後に「大いなるはじまり」と述べている。
 Photo_20210814065001  昭和36年(1961)には、ニューヨークの下町・工場街のロングアイランドに工場跡を購入し、アトリエに改造して以後のアメリカでの創作活動の拠点とした。後に、隣接する赤レンガのビルを買い足して、現在はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。
 彫刻材としての大理石の産地をもとめてイタリア・カッシーラを見つけ、以後定期的に訪れて大理石の彫刻を制作するようになった。日本でも良質の花崗岩を産出する香川県牟礼町に、石彫のアトリエを設け、江戸時代からの豪商の旧家屋を改修して、以後住み着いた。この地で熟練の石工和泉正敏と出会い、以後多くの作品を手掛けた。
 昭和63年(1988)12月、イサムは突然肺炎に倒れ、半月余りで急死した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

「イサム・ノグチ 発見の道」東京都美術館(1)

 上野公園の東京都美術館に、家人と一緒にイサム・ノグチの特別展覧会を鑑賞した。
 私は、イサム・ノグチの作品をまとめて観るのは初めてであった。


Photo_20210812062501

イサム・ノグチの生涯
 イサム・ノグチは、1904年(明治37年)アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスでアメリカ人レオニー・ギルモアを母として生まれた。レオニーは、その4年ほど前に日本からニューヨークに来ていた日本人の詩人野口米次郎と知り合い、短い恋愛が終わり別れるころイサムを妊娠したことを知ったという。レオニーは、明治6年(1873)ニューヨーク生まれで、米次郎に2年年上の作家・教師・ジャーナリストで、ボルティモアのブリンマー大学で留学していた津田梅子に3年下級生として知り合ったという先進的な自立心の強いインテリ女性であった。イサムの父野口米次郎は、明治8年(1875)源氏足利氏の末裔を称する名家の四男として愛知県津島市に生まれ、16歳で慶応義塾に進学した俊英であった。18歳になる寸前には渡米を決意し、慶応義塾を退学してサンフランシスコに渡り、さらにイギリスに学び、ニューヨークに滞在してアルバイトを並行しつつ英語詩や英語小説を書いていた。そりころ英語の添削指導ができる編集者として募集をかけ、雇ったのがレオニーであった。
 明治40年(1907)「勇」と名づけられた3歳の幼児は、母とともに初めて日本にきた。すでに父米次郎は、日本人の許嫁があったが、しばらく父と同居して過ごすことになった。外国人との混血というだけでなく、このような両親の複雑な事情もあり、イサム・ノグチは終生自分の出自のことで悩み続けたという。
 7歳のころには母とともに茅ヶ崎に転居し、地元の小学校に通ったが、混血児を理由にイジメにあった。母は、アメリカ・インディアナ州の、実験的・先進的なインターラーケン校にイサムを通わせたいと、大正7年(1918)14歳のイサムを単身渡米させた。しかしインターラーケン校は間もなく廃校となり、転校したイサムは、大正11年(1922)18歳のときラ・ポート校を主席で卒業し、芸術家を志望して彫刻家ガットスン・ボーグラムに師事した。しかしボーグラムから、君は彫刻家にはなれないと言われてしまった。イサムは翌年ニューヨークのコロンビア大学医学部進学課程に入学する。ここでは、日本から来ていた野口英世に会い、今度は医師でなく芸術家を目指すように励まされたという。


Photo_20210812062601


レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に学びながら、20歳ころから大学を中退し、イサム・ノグチと名乗って彫刻に専念し始めた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

H.R.McMaster"Battlegrounds",2020.9(59)

第6部 North Koria
11. The Definition of Insanity
11.1.北朝鮮の態度と行動
 G.W.ブッシュ大統領と廬武鉉大統領Roh Moo-hyunは親しかったが北朝鮮対策にかんしては不一致があり、それはピョンヤンがつけいる隙となった。2002年アメリカ国務次官補James A.Kellyがピョンヤンを訪れたが、そのとき北朝鮮は密かに核兵器の燃料となる高密度ウランの製造にとりかかっていることを否定しなかった。これは1994年、北朝鮮が核開発を凍結し国際査察を受け入れる見返りに、石油と2基の軽水型原子炉建設に支援を受ける、という合意に違反するものであった。この弱々しい合意は、アメリカの上院の承認を経ないで実施されるなど、そもそも初めから問題含みのものでもあった。
 この濃縮ウラン計画を受けて、ブッシュ大統領は北朝鮮支援を停止し「悪の枢軸」に北朝鮮を入れて批難した。しかし廬武鉉大統領は「廬武鉉版太陽政策」を唱え、平和裏に北朝鮮を交渉で非核化に導くことを主張した。2003年ブッシュ政権は、六か国協議をアメリカ・中国・ロシア・日本・南北朝鮮で行い、経済制裁を含めて北朝鮮を非核化することを目指すことにした。しかし韓国の太陽政策の中での経済制裁は、ほとんど意味がなかった。ノーベル平和賞を受けた前大統領の金大中は、以前にひそかに$500Mを北朝鮮に渡していた。韓国とアメリカとの思惑が一致しないまま、2007年六か国協議は成果を得ないまま終了した。2008年7月、北朝鮮はヨンビョンの原子力研究センターの設備の一部を破壊して、外国からジャーナリストを招き公表した。アメリカは、これを受けてテロ支援国家のリストから北朝鮮を削除し、北朝鮮がマカオでマネーロンダリングに使ってアメリカが凍結していたなかから$25Mを支払った。しかし1994年と同様、北朝鮮との核・ミサイル合意の成果はなかった。4か月後にはヨンビョンのIAEA査察団を追い返し、六か国協議は以後再開されることはなかった。
 韓国の大統領は、李明博に代わった。2008年以降は、北朝鮮の暴行の嵐により、さすがの太陽政策も停止した。北朝鮮は表向きの韓国との連繋をも否定するかのように、2009年4月長距離ミサイルの実験を、5月には2回目の地下核実験を行った。その最中にアメリカ人ジャーナリスト2人を人質に捕らえ、2010年3月韓国海軍船天安cheonanを魚雷で沈没させ6人を殺し、11月には韓国延坪島を遠距離砲で攻撃し4人の死者、19人の負傷者を出した。2010年末、アメリカ・スタンフォード大学のウラン濃縮研究者Siegfried Heckerがヨンビョンでウラン濃縮施設が完成していることを見た。北朝鮮のリーダーたちは、10年近くにわたりその存在を強く否定してきたのだ。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

H.R.McMaster"Battlegrounds",2020.9(58)

第5部 Iran
10. Forcing a Choice(選択を強いる)
10.4.イランの戦略の本質的特性
 中国はイデオロギーとして共産主義を唱え、国家的再勃興を目指して共産党を維持するが、イラン共和国はそのイデオロギーを外国にまで広げることを目指して国家が存在している。クズ軍Qeds Forceはイラン革命防衛隊IRGCのひとつの支部であり、通常でない新しい戦闘を実施できるインテリジェンス活動を包含した部隊であり、革命の純粋さを護ることを使命として謳っている。イランが、イラン・イラク戦争で、100万人以上の死者を出し、$645B以上の経費を費やした後、イランのリーダーたちは「攻撃こそ最良の防御だ」と領土を超える軍事活動に注力するようになった。
 イランは、2つの主な敵たるサウジアラビアとイスラエルに対する、積極的防御forward defenseを標榜している。それに対してイスラエルは、西側諸国よりも軍事攻撃力をより重視した対抗をしている。2019年イランがイスラエルに対するイラク・シリアを跨いだ「攻撃の橋」としてレバノン領域を完全に抑えようとしたとき、イスラエル防衛軍Israel Defense Forces(IDF)は、イランのシリア、レバノンさらにイラクにまでおよぶイランの軍事ネットワークの多くの拠点を攻撃した。他にも多くの困難な問題があるが、パレスチナをイスラエル破壊のための手段とするイランがある限り、イスラエルとパレスチナとの和解は見通せない。
 アメリカは、スンニ派対シーア派の宗派抗争のいずれにも肩入れしないが、双方に暴力に走る、あるいは対立を煽る過激派を排除して、内戦の起こらぬようにすべきことを重ねて呼び掛けている。サウジアラビアとイランの関係を「冷戦cold war」と見るアナリストもいるが、現実はもっと危険で破壊的である。拡大する政治的・宗教的対立が、地域の暴力の連鎖を促すからである。これまでも、メッカ巡礼での衝突や、テロリストの処置などをめぐって、なんども多数の死者を出す危険な衝突が発生した。ドローンやサイバー攻撃を含む戦闘も発生している。
 イランの弾頭ミサイル、核兵器開発計画、化学兵器は、サウジアラビア、イスラエル、その他のアラブ諸国にとって到底許容できるものではない。そのため、イランのそのような計画を阻止する目的の予防的戦争が起きる可能性が高まっている。イランが、パキスタンと同じように、ジハード主義テロリストたちに安全地帯を提供し、しかも核兵器を持つ、ということになれば、世界にとって危機が著しく増大してしまうのだ。そんなことになれば、イランに対抗して、たとえばサウジアラビアまで核兵器の所有を求める事態もあり得るのだ。JCPOAは、このような基本的で重大な問題の解決には役に立たない。
 イランの現在のハメネイによる政権は、制裁により収入が大きく減少し、外国からの投資も無くなり、役に立つ人材が流出し、経済が行き詰まり、財政が逼迫し、民衆の不満が蓄積して、民衆の反政権の蜂起が発生して、危機に陥っている。この状況は皮肉なことにイスラム革命が倒したパーレビ王朝の末期に類似している。歴史的な経緯をよく考えれば、現在のハメネイが説く「厳格な」イスラムも、実は永続が約束されるものではなく、かつてイランが経験したなかにももっと合理的なものに変え得る可能性がある。アメリカと他の諸国が、現イラン政権の攻撃に対して対抗して防ぐ長期的な戦略を確立すれば、イランのリーダーたちに対して、政治を改革して国内にも国外にも責任ある行動を取り、外国に対して攻撃をすることをやめる選択をさせることができる可能性がある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

H.R.McMaster"Battlegrounds",2020.9(57)

第5部 Iran
10. Forcing a Choice (選択を強いる)
10.3.イランとその代理勢力が進める戦争
 イラン革命防衛隊IRGCの成功は、その無節操・破廉恥で巧妙な欺瞞だけでなく、相手が然るべき対抗措置をしてこなかったお陰でもある。2019年秋の湾岸危機時のイランの挑発に対しても、アメリカ離脱後のJCPOAの制裁への迂回・回避に対しても、EUは和解方針に固執して対抗措置を取らなかった。まず間違いなく、イランのリーダーたちはアメリカもヨーロッパ諸国も軍事的な対抗措置の意志がないと判断しただろう。2019年11月、イラン革命防衛隊のSalami司令官はアメリカに対して「我々の力がわかっただろう。戦場で強力な一撃を食らっても、反応もできない。もしレッドラインを超えたら、完全に叩き潰してやる」と誇らかに言い放った。2020年1月のイラン革命防衛隊ソレイマニ司令官とムハンディス副司令官へのアメリカ軍の襲撃を、イランは驚きをもって受け止めたであろう。そのすぐ前にイランはイラクのアメリカ軍基地を攻撃してアメリカ人を殺していたので、トランプ大統領は必要な対抗措置としてこの攻撃を命じたのであった。
 経済制裁のみならず、イランは自らの経済政策の問題から激しい不況に陥っていて財政は厳しいが、それでも外貨準備を取り崩してまでも代理勢力を支援しているようだ。地理的にも投入する人員数でも代理勢力の活動は拡張していて、危険性は増大している。シリア、イエメン、ペルシア湾海域の影響力強化を求めて、他の国々に対しても闘争を仕掛けている。レバノンとガザでは、イスラエルとヒズボラ・パレスチナジハード主義テロリストとの闘いもある。
 イランの支援により、イランの代理勢力の兵器も強力になり、危険性が増大している。ヒズボラとフーシ反乱軍は、誘導ミサイルを使って船舶を攻撃した。湾岸諸国も、アメリカやヨーロッパ諸国と連携して、ミサイルや空爆への防御能力を強化して、イランのリーダーたちに、力だけで目的が達成できないことをわからせようとしている。レバノンから発生したヒズボラは、レバノンの領域をはるかに超えて、シリア、イスラエル、ヨーロッパ諸国、南アメリカ、広義の中東全体にまで活動範囲を広げており、イランはヒズボラを「アラブの顔」として多方面の秘密破壊作戦に利用しようとしている。そしてレバノンはイランにとって、イスラエル破壊工作の最前線として重要な場所であり続けている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

H.R.McMaster"Battlegrounds",2020.9(56)

第5部 Iran
10. Forcing a Choice (選択を強いる)
10.2.イランがアメリカ西側諸国を憎む理由
 ただ、イラン政府が発する「大悪魔Great Starn=アメリカ」「イスラエルに死をDeath to Israel」「アメリカに死をDeath to America」などのコトバを軽視すべきではない。アメリカ、イスラエル、西側諸国に対する憎悪・敵対心は、イラン革命の創立理念であり、イランのイデオロギーであり、イスラム革命以前から存在する概念なのである。イランは歴史的にも、地政学的にまた原油産地として、中央アジアをめぐる大英帝国とロシア帝国の「大いなる闘争Great Game」の地であった。2度の世界大戦を経て、パーレビ王朝とモサデク事件などを経験しながらも、最初はイギリス、後にはアメリカに実質的に支配され、国民感情として深い憎悪を抱くに至った。1979年にひとびとから広範囲に人気と期待を受けてイスラム革命を成功させたホメイニが政権を奪取したとき、革命理念の軸にアメリカと西側への深い憎悪がイデオロギーとして定着した。テヘランの444日間にわたったアメリカ大使館占拠・アメリカ人幽閉の事件も、それはハメネイが断固としてアメリカに対抗した成果として、イラン国民からは絶大な支持を得て支配の確立に大いに貢献したのであった。2017年11月、石油の配給と価格急騰を発表したイラン政府に対して、イラン国民は抗議したが、イラン革命防衛隊は「これはすべてアメリカの仕業だ。我々はいま世界大戦争の真っただ中にいる。傲慢な大国アメリカを打ち負かさなければならない。」と責任を転嫁し、それが直ちにイラン民衆に受け入れられていた。イランのリーダーたちの思考の傾向は、国民・民衆にも共有されていたのだ。
 1998年、イランのハタミ大統領Mohammad Khatamiは「文明の対話dialogue between civilizations」を主唱した。イランの人びとのアメリカや西側に対する態度は、均一でも変更不可能でもない。イスラム革命の前には、長い間にわたるアメリカ人とイラン人との友好関係もあった。公的にも私的にも交流を通じて、ポジティブ・ネガティブ両様に相互交流の歴史の理解を深めることができる。イランのタブリーズでペルシア憲法革命の最中に1909年殉教したバスカーヴィル牧師Howard Beskervilleは、イランとアメリカの関係が最悪のときでもイラン人の尊敬を受け続けている。「私とあなたたちとの違いは、生まれた場所だけです。そんな違いは大きなことではない。」との彼のメッセージは、イランの人々に今に至るまでなんども繰り返し引用されている。イランのひとびとの、視点の拡がりとアメリカや西側の文化に対する親しみの存在にも注目すべきである。多くのイランの人々の社会が持つ文化的あるいは宗教的アイデンティティは、現在のイラン政権のマルクス主義やイスラム原理主義に適合するものではない。ただ、イランを外から変革させることは難しい。現政権の外国への攻撃や圧政を正当化する扇動demagogueryを、イラン人自身が制限させることを助けることはできる。イラン人の西側諸国の在住者diasporaや友人・家族たちも、イランの情報遮断を超えるのに貢献できるかも知れない。インターネットなどイランの厳しい情報制限を回避できる通信技術も増加してきた。歴史的にも、不安定な時代にはリーダーたちが特権を利用して不正を重ねているものだ。アメリカやその他の国々は、現イラン政権の隠蔽された不正、間違ったイデオロギー、道徳への冒涜などを、もっと暴露して示すことができるだろう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2021年7月 | トップページ | 2021年9月 »