伊能忠敬展 神戸市立博物館(3)
伊能図に関わるひろがり
伊能忠敬が心血を注ぎ、彼の死後はその弟子たち後継者たちが丹精をこめて作製した最終成果たる日本全図「大日本沿海輿地全図」は、文政元年(1818)の忠敬の死後、文政4年(1821)ようやく完成した。大図(1/36,000、全214枚)、中図(1/216,000、全8枚)、小図(1/432,000、全3枚)の3種から構成されている。
完成した「大日本沿海輿地全図」は、将軍家斉に献上され、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、重要国家機密として厳重に保管された。しかし、書物奉行を勤めていた高橋景保が文政11年(1828)、長崎オランダ商館付医師であったシーボルトに伊能図を贈ったことが露見し、シーボルト事件として大問題となり、高橋が刑死する結果となった。
開国直後の文久元年(1861)には、幕府の停止要請を無視して日本沿岸の測量をしていたイギリス海軍測量船の軍人が、伊能小図を見てその完成度と精度の高さに驚嘆し、測量を即刻停止して伊能図の控えを持ち帰ったこともあった。
しかし明治6年に皇居となっていた紅葉山文庫が、皇居の火災で全焼して、貴重な「大日本沿海輿地全図」の原本は焼失してしまった。そのため、伊能家は「大日本沿海輿地全図」の控えを新政府に献上した。文部省が、その小図から明治10年(1877)「日本全図」を編集して発刊した。さらに内務省地理局は、明治13年(1880)中小図から「大日本国全図」、明治17年(1884)「輯製20万分1図」の作製に伊能大中図が基本図として用いられた。この以後も、各府県で作製された官製地図の原図として多面的に活用された。
しかし、東京帝国大学附属図書館に保管されていた伊能家の「大日本沿海輿地全図」の控えも、大正12年(1923)関東大震災ですべて焼失してしまった。こうして貴重な「大日本沿海輿地全図」は、すべて焼失してしまったのである。
このような伊能図の利用・活用は、ごく当然かつ自然な成り行きである。しかし、思いがけないひろがりが多々あった。
最近になって、フランスに伊能図が保管されていることがわかったという。なぜ、伊能図がフランスに渡ったのだろうか。これには、明治維新を数奇な運命で生き抜いた榎本武明が絡んでいたと推定されている。
文化6年(1809)第7次測量として伊能忠敬が九州を旅したとき、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)庄屋の箱田園右衛門直知の次男で、当時17歳であった箱田良助が伊能忠敬の直弟子として測量に加わった。箱田良助は、故郷の備後国神辺で私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)から発展した廉塾を営んでいた菅茶山に学び、数学を得意とする俊才であった。江戸に出て兄・右忠太(うちゅうた)とともに、江戸で伊能忠敬の弟子になったのである。このとき、伊能忠敬に、一切権威がましい振る舞いをしない、厳しい測量旅行の掟を遵守する、など忠誠を誓った「一札」が展示されている。箱田良助は、こうして文化6年(1809)の第1回九州測量以降、伊能忠敬の実測旅行に常に随伴し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献した。
伊能忠敬の死後、文政元年(1818)御家人の榎本家の株を買い、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗った。そして文政6年(1826)伊能忠敬のもとで働いた実績を認められて天文方に出仕、天保4年(1833)西丸御徒目付に就任した。晴れて天下の幕府役人に取り立てられたのである。そして天保7年(1836)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で、二男釜次郎、後の榎本武揚が生まれた。
榎本武揚は、伊能忠敬の側近を勤めていた父から、伊能忠敬の地図の一部を受け継いでいた可能性は高いと思われる。榎本武揚は、明治維新直後の戊辰戦争で新政府軍と戦い、北海道に逃避したが、そのとき旧幕府の軍事顧問を務めたフランス軍の仕官と行動をともにしていたらしい。そんな経緯から、フランス軍人が伊能忠敬の地図を入手して、フランスに持ち帰ったのではないか、との憶測がなされている。
伊能図がフランスに渡ったことも数奇であるが、それ以前に、箱田良助が伊能忠敬に出会って弟子にならなかったら、榎本家への縁も、さらに榎本武揚の誕生もなかっただろう。
このほか、全国に測量旅行をする途中、新しい科学的知識、新しい情報に関心が高かった何人かの大名たちが、積極的に伊能忠敬に支援を申し込み、対価として伊能図の提供を求めた。こうしていくつかの大名に献上された伊能図が各大名の地元に保管されている。阿波国蜂須賀家、長州毛利家、小藩の島原深溝松平家まである。賢君で高名な松浦静山の平戸藩も当然のように伊能忠敬に熱心に接近し、多くの伊能図を保管している。
伊能忠敬の地図の作製工程の詳細など、私には理解が及ばない範囲もあったけれど、改めて困難で偉大な業績と、その多方面への影響に改めて感動した鑑賞であった。

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