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2021年10月

「発見された日本の風景」展(1)

 京都国立近代美術館で「発見された日本の風景─美しかりし明治への旅」と題された展覧会を鑑賞した。先月初旬から始まっていて10月末で終了なので、気分的に少し焦っていたのだが、まだ暑い日差しの中、なんとか美術館まで行き、鑑賞した。
 明治時代の絵画で、明治維新以後新たにヨーロッパから入ってきた「西洋画」に準拠した、いわゆる「洋画」を、作者は日本人、外国人を問わず、描かれた対象が日本であることを基準として選ばれた280点以上の作品を展示している。詳しい紹介はなかったが、すべての展示作品はただ一人のコレクターがイギリス他の外国で発見し蒐集したものであるという。
 あまりに多数の作品が展示されていたので、印象に残ったことに絞って感想を記す。

田村宋立と小山正太郎
Photo_20211029081601  冒頭の序章では、田村宋立の「蒙古襲来図」が目につく。豪華な額縁に表装された大きな絵で、制作技術としては絹本着色(けんぽんちゃくしょく)なので、絹布の上に顔料で描いた日本画技術によっているが、構図も形の描き方も、洋画から受け入れた新しい様式となっている。田村宋立(たむらそうりゅう、1846-1918)は、明治維新の20年前、弘化3年(1846)京都に、公家侍の子として生まれた。幼少時から優秀な子供であったが、10歳から京都で南画を本格的に学び始め、13歳のとき本物そっくりに描く絵画技術の存在を知り、独学で陰影法を始めた。やがて写真を知り、ますます写実的に描くことに熱中した。23歳のとき、写実絵画を本格的に学ぶために外国語が必須と判断して、欧学舎支舎英学校に入学し、アメリカ人から英語を本格的に習った。このような経緯から、田村宋立は生涯を通じて流暢な英語を話したという。そして青蓮院にあった粟田口病院に通訳兼画家として勤め、解剖図を模写し、ドイツ人医師ランゲックや英国人ウェットン、米国人ライアンゲーに油絵の手ほどきを受けた。明治5年(1872)ワーグマンの評判を聞きつけ横浜へ行き、ワーグマンの紹介で高橋由一、亀井至一、五姓田派の人々と交わった。田村宋立は、わが国ではもっとも初期の洋画家だとされている。Photo_20211029081602
 小山正太郎(1857-1916)の「秋景図」がある。これはカンバスの上に油彩で描かれた本格的な洋画だが、その技術もかなり高いと思う。緻密で繊細な筆致は、とても印象的である。
最幕末の安政4年(1857)、長岡藩の上層の藩医の子として生まれた小山正太郎は、高100石の長岡藩士となり、維新を経て廃藩後に長岡英学校で英語を学んだ。14歳で政治家を目指して上京し、しかし政治でなく川上冬崖の画塾に入門し、塾頭にまでなる。16歳で陸軍に入り、そこでフランス人教官アベル・ゲリノーから水彩画法を学んだ。明治9年(1876)設立されたばかりの工部美術学校に入学し、御雇教授のイタリア人アントニオ・フォンタネージから指導を受けた。その3年後には、22歳で東京師範学校図画教員に抜擢され、洋画の教育者として先駆的な成果を残した。
 わが国の洋画導入の初期は、これらの例のように、かなり社会的上層の知識人から出た画家たちによって担われたようだ。

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赤穂小旅行(9)

赤穂温泉の食事と満月
 今回の小旅行のメインは赤穂温泉であった。グルメ・ガイドで食事がおいしいと評判だという旅館に宿泊した。
 ディナーはたしかに豪華であった。鯛の塩釜という名物メニューがあった。鯛1匹を3キロの赤穂の塩でくるみ、丸焼きする。


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大型のたい焼き用のような型に入れて、鯛の形の塩の塊として出てくる。鯛を包み込む殻となる大量の塩は、卵白をバインダーとして混ぜているので、再利用はできないという。これを木槌で叩き割る。塩の浸透圧でちょうど良い具合に塩味が鯛に浸みこみ、おだやかな鯛の塩焼きが出来上がるという料理である。鯛の捌きは、給仕係の女性が実に見事な箸づかいでテキパキとやってくれる。大きな鯛と思っても、3人で分けるとさほどの量はない。実に贅沢な食べ方である。そのあとビーフステーキも出てきたし、高齢者にはいささかキツイほどに満腹した。Photo_20211027061701
 せっかくの温泉であり、今回も夜2回、朝1回と、たっぷり温泉を楽しんだ。
 ちょうどこの日は、中秋の名月であった。しかも暦の関係でまったくの完全な満月と重なっているという。少し薄雲があったが、さいわい満月にはかかっていなかった。持参してしたポケット・デジカメで撮影したが、やはり多少ブレたのか、たしかに眼で見たような満月としては撮影できなかった。
 翌日の朝食も、なかなか充実した内容であった。ヒトは、おいしい食べ物で満腹できれば、それだけで幸福になれることを、再確認した。


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赤穂小旅行(8)

御崎の大石名残の松
Photo_20211025061201  伊和都比売神社の正面から、海沿いの遊歩道に降りる石段があり、往復1時間弱程度の海岸散策ができるようになっている。
 東にむかって少し歩いたところに「大石名残の松」という石碑があり、小ぶりの松の木がある。江戸吉良邸討ち入りの前年、元禄14年(1701)6月、大石内蔵助は妻子を御崎港から発たせ、大坂に移した。そしてそのしばらく後に、自らも御崎港から海路、山科に向かった。その出航のとき、御崎の岸壁に立つ老松を眺め、赤穂に名残を惜しんだと伝える。それがどの松なのかはおそらく不分明で、またどの松かが判明しても今ではすでに枯果てたであろうが、その故事にちなんで松の木を植えて、このように顕彰しているらしい。Photo_20211025061301
 この付近からは、海を隔てて家島諸島らしき岩陰が遠くに見える。切り立った美しい白い岩肌が印象的である。

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赤穂小旅行(7)

赤穂御崎伊和都比売神社
 今回は、御崎温泉街にある温泉旅館に泊まった。宿について夕食までに、赤穂御崎の散策ルートを歩いた。宿からすぐ近くにあるお社が伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)である。海に向かって鎮座する、航海安全と縁結びのお社である。Photo_20211021061101
 1000年余り前の延喜式神名帳に記載されている古社で、元々は伊勢外宮の豊受比売を祀っていたとも、あるいは播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社(現在の伊和神社)の神(大穴牟遅神 おおなむちのかみ)の比売神とも伝えられて、古くから「御崎明神」と呼ばれている。奥の山に洞窟があり、月読命と天鈿女命が祀られているが、公開はされていない。ここの前方海上の八丁岩の上にお祀りしてあったのを、天和3年(1683)浅野内匠頭長直がこの地に移したもので、「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞみる」と謡われているに、奇岩のうえに老松が舞う岩礁の社であった。東郷平八郎をはじめ、歴代の連合艦隊司令官の崇敬あつく、しばしば海から艦隊を率いて帝国海軍が参拝したという。

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2021年衆議院選挙への雑感

 自民党総裁選が9月末に行われ、新総裁に就任した岸田文雄首相は、衆議院議員任期満了寸前に、10月末の衆議院議員選挙を宣言して国会を解散した。まあごく普通の常識的な政権運営なのだろう。
 ただ今度の選挙に際して、表現のニュアンスの相違はあれども与党と野党を問わず、いずれも「富の再分配」を主張し、それが変革だと唱えている。このような政策構想が並ぶのは、まじめに考えるなら、あまり感心できるものではない。
 文科系の学会をはじめ世間一般では、「新自由主義」に対する反発が強いようで、それでは現在の「新自由主義」のなにが問題か、と尋ねると、たいてい「格差の拡大」という説明が一般的である。それではどう対処すべきかとなると、強大な資本主義資本と富裕者からカネを絞り上げ、持たざる者に富の再分配をせよ、ということになる。
 しかし私の観測では、これらは全般にフワッとした印象論で、具体的な説得性に欠ける。アメリカや日本をおもな対象として、ともかく「新自由主義」をなんとかしなければならない、というが、個別に「新自由主義」と「従来の自由主義」の違いを尋ねてもあまりわかり易い説明は返ってこない。「新自由主義」は、「新保守主義」と結託しているともいわれるが、「新保守主義」というコトバもいささか不分明である。1930年代のアメリカのニューディール政策では、それまでの自由放任主義に対して平等主義的傾向が強められ、その時代にはこの平等主義的政策こそが「新自由主義」と呼ばれた。それに対して自由放任主義への復帰を求める立場が「保守主義」とよばれることになり、その延長・発展としての1980年代のイギリスでのサッチャー主義(サッチャリズム)は、経済政策においては「新保守主義」的とされた。要するに、コトバに「新」を冠して運動や傾向を支持したり批難したりする表現法は、常にわかりにくさや曖昧さを導きやすく、政治においても十分注意が払われるべきだと思う。
 その観点から、このたびの岸田首相の「新しい資本主義」などというスローガンは、まずネーミングで落第である。さらにその内容が、所得の再分配と言うことであれば、ますます心配である。
 日本の戦後復興は、戦後期の日本政府の強力なリーダーシップにもとづく所得の再分配によって短期間に効率よく達成され、一億総中流社会も実現した。ただし、そのときは敗戦の焼け跡のゼロに近い貧困からの復旧であり、その意味で問題は単純であり、目標も全国民に共有されやすく、すべての国民が求める方向性が一致していた。再分配の問題よりも、その効用の方がはるかに大きいことが誰にも皮膚感覚で理解できた。しかし現在のわが国の状況は、問題ははるかに複雑化・多様化しており、全国民に共有されにくい。簡単な例でいえば、国民人口の最大比率を占めるに至った高齢者の利害と、なんらかの形でそれを支えざるを得ない相対的少数派の若年者層の利害の調整は簡単ではない。戦後の復興期と異なり、産業構造が製造からサービスに大きくシフトしたという側面もある。
 「富の再分配」というのは、要するに「持てる者」から「持たない者」へ、富(=カネ)を行政によって移動させる、ということだろう。これは、社会福祉の実現のために必要な要素である。しかし、国民の誰もが納得するような「再分配」の実現は、実は簡単ではない。「持たない人」をどうやって選別するのか、という点だけでもマイナンバーさえ徹底していないわが国では、大変な事務的負担=コストが発生する。マイナンバーが徹底して、前年度の所得を直ちに把握できるようにしたとしても、前年度に脱税したような人たちは、工夫を凝らしてさらに困窮を装うこともあるだろう。どうみても悠々自適としか見えない生活保護受給者も、現実に常に実在する。もっとも、これらさまざまな問題があるとしても、生活困窮者への経済的支援は、国の任務として必要ではある。ただ、安易に「国が支援したら解決する」という人たちが、どの程度まで現実の不正・不合理・事務コスト・技術的困難の程度を理解しているのか、私は不安である。
 「再分配こそが、国民の需要を喚起して、経済成長をもたらす」などと言うひともいる。所得不十分ゆえの不安から、国民が安心できず、消費を控えるのだ、という論理である。しかし多くの国民は、現状の野党を支持しないように、そんな簡単なことでないことがわかっている。十分な財源もなく再分配を優先して行うと、やがて国家財政が逼迫して分配もできなくなり、今より以上に困窮するとの不安がある。現在でも、コロナ騒動から緊急事態宣言などで事業停止に追い込まれた小事業者が補償金を支給されているが、実際に私が知る範囲で直接聞いた何件かの例でも、こんな状況がいつまでも続けられると信じている受給者は多くない。彼らは、ますます不安を募らせて、消費も一層切り詰める傾向にある。
 結局、経済成長を実現するためには、より効率の良い経済構造に進化していくことが必須であり、そのためには平常時にすら行き詰りつつある事業者は、現業から撤退して新しい事業に転換していくことを促すことが重要である。その方向での支援こそが政府に求められる。「新自由主義」であれ、「新しい資本主義」であれ、名前はどうでも良いが、正しい状況判断のもとに正しい方向に進まなければ、明日への改善は期待できないのである。

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赤穂小旅行(6)

赤穂城本丸跡と本丸庭園
Photo_20211015061601  赤穂城は、正保2年(1646)、常陸国笠間藩から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に命じて設計させた甲州流軍学による海岸平城である。造営には慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで、実に13年をかけたかなり大規模な城郭であった。本丸には、中央に藩主の居所たる本丸御殿を配し、海に向かう南東部には天守台を、御殿の南側には本丸庭園を置く。藩財政の事情のためか、泰平の時代の築城であったためか、ついに天守台に天守閣を建造されることはなく、4カ所の櫓台のうち東北隅櫓台のみ隅櫓が築かれ、他は横矢桝形として使用されてきた。Photo_20211015061602
 本丸御殿の跡は、土台のみが整備され、銘板で部屋や廊下の場所が記されている。
 本丸庭園も、前回来たときは、まだ整備されていなかったので、はじめての見学である。
 全体に、平城ではあるが、規模もかなり大きく、庭園もかなり凝ったものであり、造営に費用がかかって財政に影響を与えたという記録が理解できるような気がする。もっとも、赤穂藩は塩業で成功して、収入はかなり豊かであったようだが。

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赤穂小旅行(5)

赤穂城二ノ丸庭園
Photo_20211013072001  私が赤穂城を訪れるのは3度目である。前回の12年前に訪れたときには未だ整備されていなかった二の丸庭園を、この度は訪れた。
 正面から庭園に入るところに大石頼母助(おおいしたのもすけ)屋鋪門がある。赤穂藩家老大石頼母助良重は、大石内蔵助良雄の大叔父であった。浅野家初代藩主長直に重用され、二ノ丸に屋鋪を構え、主君長直の娘を室に迎えた。
 山鹿素行が配流されて赤穂に来たとき、素行はこの屋鋪の一角に8年余り住んだという。平成の発掘調査で大石頼母助屋鋪の門跡の他、土塀基礎石列、建物礎石、上水道遺構などが明らかになった。この門は、発掘調査にもとづき規模と構造が検証され、薬医門形式の屋鋪門として平成21年(2009)に整備再建された。Photo_20211013072101
 二の丸庭園は、二ノ丸の四分の一を占める大規模な廻遊式庭園で、発掘調査と再整備工事が進行中だが、平成14年(2002)には本丸庭園とともに「旧赤穂城庭園」として国名勝に指定された。前回訪れた12年前は公開されていなかったが、今回は部分的ではあるが入場することができた。

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十月花形歌舞伎 GOEMON 大阪松竹座

 コロナ騒動が下火となったお陰もあってか、先月に続いて今月も歌舞伎を観ることができた。
Goemon  今回の演目は、9月につづいて伝統歌舞伎とは異なり、2011年徳島県大塚国際美術館で「システィーナ歌舞伎」として初演されたもので、歌舞伎とフラメンコのコラボレーションが目玉である。「システィーナ歌舞伎」とは、徳島県の大塚国際美術館システィーナホールで行われる歌舞伎公演のことで、「和と洋のコラボレーション」をテーマにした新作歌舞伎シリーズなのである。江戸時代初期の伝説の大盗賊石川五右衛門が、実はスペインから来日した伴天連と日本女性との混血児であった、という奇抜な想定による作品である。初演が好評を得たので、その後大阪松竹座、新橋演舞場で再演されたという。今回は、5回目の公演で、前回の松竹座からは7年目の再演となった。
 この度登場する今井翼は、かつてスペインでフラメンコに魅せられて、本格的にフラメンコのレッスンをしてきたという。そして2014年の前回の大阪松竹座での公演を観に行ったとき、奇想天外な物語と歌舞伎の魅力にとても感動して、すっかり愛之助の大ファンになって、終演後の楽屋に押しかけ、熱い思いを伝えた。愛之助は、それに応えて「ぜひ一緒にやりませんか」と提案し、二人の共演が実現したのであった。
 石川五右衛門を片岡愛之助が、スペイン人伴天連カルデロンと石川五右衛門の逃亡を助ける霧隠才蔵の二役を今井翼が演じる。他には、悪役としての豊臣秀吉を中村鴈治郎、出雲阿国を中村壱太郎などが、それぞれ演じる。
 秀吉が天下を掌握したころ、イエズス会から多数の伴天連が来日して布教活動に励んでいた。そのなかで、カルデロン神父は明智光秀の家臣の娘石田局と出会い、愛し合い、ひとりの男子友市を設ける。しかし秀吉はキリスト教の宣教を禁止して伴天連たちを祖国へ強制送還すると発令した。石田局は聚楽第に召出され、友市は天涯孤独となってしまった。
月日が流れ、友市は忍者修行などをも重ねて成長し、親の仇として秀吉に反抗・対決する。しかし厳しい秀吉の攻撃を逃れ、父に再会するために、はるかスペインを目指すことになる。
日本国内の情景では、伝統歌舞伎に準じた演出をする一方、スペインの情景では、ギター演奏によるフラメンコが出てきて、和洋折衷のユニークな舞台としている。
 今井翼のフラメンコも、発声も、そして俳優としての演技も熟練に達していて、見事であった。愛之助は、替わらず愛嬌いっぱいのほほえましい、しかししっかりした演技で、観衆を魅了した。フィナーレに近いところで、中村壱太郎、今井翼とともに、フラメンコを踊るシーンがある。さすがに一流の歌舞伎役者は、専門外の舞踏でもそれなりに見事だと思った。
 私は、やはり依然として古典的・伝統的な歌舞伎を好む者であるが、今回はそれなりに大いに楽しめた。

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赤穂小旅行(4)

大石神社と大高玄五像
 赤穂城の西側に隣接して、大石神社がある。大正元年(1912)大石内蔵助をはじめ、四十七士と萱野三平を合祀して創建された。Photo_20211007072701
 赤穂事件以降、赤穂浪士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていたが、江戸時代は幕府にはばかって表立って顕彰することはできなかったという。明治33年(1900)、あらためて「大石神社」として神社を創建することが政府から許可され、無格社として建設され、昭和3年(1928)県社に昇格した。
Photo_20211007072801  境内の一角に、四十七士の石像が並んでいる。今回は、とくに大高源五の像に注目した。実は10年弱前に、技術者だった私は製造業を退職した後に大学の文学部修士課程に入学し、近世日本史を学ぶようになって、史料調査の一環で東京大学史料編纂所のデータベースを調べていた時、たまたま私の曽祖父が所有していた古文書が「赤穂浪士文書」として、ある縁から東京大学に影印本が残っていることを知った。古文書原紙はさきの大戦の明石空襲で焼失したが、写しが残っていたのであった。たった4件の書状のみで、その差出人のひとりが大高源五であった。
 大高源五は、寛文12年(1672)、赤穂藩士大高忠晴(200石)の長男として赤穂に生まれた。弟に小野寺秀富がいる。延宝4年(1676)父・忠晴が死去したため、大高家の家督を相続したが、父が200石であったのに忠雄は、なにゆえか20石5人扶持しか相続を認められなかったという。藩内では金奉行・膳番元方・腰物方などを務めたらしい。
 藩主刃傷事件ののち吉良邸討ち入りまでに、赤穂から大坂・京都、さらに江戸まで何回か出張し、その旅路の途中に通過する明石で、私の先祖の家になんどか宿泊したらしい。手紙の内容は、当然ながらなんら支障のないことしか記されず、私が瞥見した範囲では、たまたま宿で病気になり、主人から良い医師を紹介してもらったお陰で元気になり、無事旅を続けることができた、との礼状であった。

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赤穂小旅行(3)

花岳寺名残の松
1_20211005063601  本堂の正面前に、美しい松の木がある。藩主江戸城刃傷事件の前の元禄4年(1691)に、赤穂藩筆頭家老大石内蔵助が母親の冥福を祈って植えた松で、刃傷事件後城を明け渡して赤穂を旅立つ時、母と先祖の墓に参り、この松の下で名残を惜しんだと伝える。
 その松の木は、昭和2年(1927)まで220年あまり存続したが枯れたので、現在の松の木は翌昭和3年(1928)相生町(現在の相生市)が奉納した2代目である。初代の木の幹の一部が、別に保管・展示されている。Photo_20211005063701
 2代目の松も、植樹から85年経過してかなり衰退が目立ってきたので、平成25年(2013)本格的な修復の手入を行って、現在の生き生きした樹勢がよみがえった。
 大石内蔵助にまつわる名残の松は、もうひとつ、吉良邸に討ち入りに赤穂の御崎から出向したときに船から見たという故郷の名残の松があるが、それはあとで触れる。

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赤穂小旅行(2)

花岳寺本堂と天井絵
Photo_20211001061801  息継ぎ井戸を西に曲がり少し行くと、浅野家と森家の歴代赤穂藩主の菩提寺であった花岳寺がある。正保2年(1645)常陸国笠間藩から転封となった浅野長直が赤穂に入封し、浅野家菩提寺として創建した、曹洞宗の寺院である。
 本堂の前面には、浅野家と森家の家紋を染めた幕が掲げられている。また、本堂の天井には、幕末期の安政元年(1854)赤穂の絵師義信法橋によって描かれた虎の絵がある。この絵は、もとは五月の節句の幟の絵として描かれたもので、長さ5間、巾1.5間の大きな絵である。Photo_20211001061901 絵師義信は、赤穂に生まれ、幼いころから大坂に出て絵を学び、佐野龍雲に師事し、雪舟を敬慕して研鑽を積み、一家風を成したが、名利を厭い都に住まず、赤穂に戻って人生を終えた。しかし没後になってから、時の大家たちから、雪舟をも凌ぐ画家と激賞されるに至ったと伝える。勤皇志士河野鉄兜(こうのてっとう)、藤本銕石(ふじもとてっせき)などと親交し、美作国誕生寺定厳和上と同郷の誼で往来し、遺作の多くはその誕生寺に伝わっている。この虎の絵は、67歳の作である。

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