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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(6)

6.住まいとモダン・コミュニティ
 京都は、8世紀末の平安遷都の平安京の大都市計画から都市化が始まったが、長い年月を経て実際に開発・発展したのは、著しく東側に偏っていた。800年近く経って豊臣秀吉が京都の大改革を実施して、御土居という堀を都市京都の境界線とし、その内を洛中、外を洛外と呼ぶようになったが、この洛中は平安京の中央を貫いた朱雀大路の東側半分に北部の一部と鴨川縁の東部を加えた、平安京の当初のプランのほぼ半分の範囲のものとなった。明治維新以降、京都の市街地近代化は、洛内市街地の商業地・業務地の近代化と、それにともなう人口増加に対応して居住地が発達・拡大した。これは、洛外とくに東山地区からはじまった。明治維新で東山山麓の社寺の境内地や多数の塔頭が上地され、やがてその土地が民間に払い下げられることで別荘や住宅が増えて行った。明治20年ころから造営が始まった南禅寺界隈の別荘地は、その嚆矢となった。そのひとつ、山形有朋の別荘無鄰菴は、私も訪れたことがある。Photo_20211123062401
 郊外の住宅地化が本格的に進展するのは明治40年代で、そこにまず住み着いたのは、学者や芸術家、あるいは文筆家といった人たちであった。衣笠一帯には、木島櫻谷や土田麦僊など多くの日本画家が来住し、「絵描き村」とよばれようになった。志賀直哉も一時期衣笠に暮らした。同志社や第三高等学校、京都帝国大学に近い塔之段、下鴨、北白川などには、早い時期から大学教員や学者が住むようになった。
 京都学芸大学に近い北白川の住宅地に、駒井卓・静江記念館がある。駒井卓は、京都帝国大学理学部教授で遺伝学の研究者であった。妻・静江は、のちにヴォーリズの妻となった一柳満喜子と神戸女学院の同窓生であった。この縁だと推測されるが、駒井宅の設計はヴォーリズであった。赤色桟瓦葺の屋根、スタッコ仕上げの外壁、窓はアーチ型が多用され、壺飾りもあり、全体にスパニッシュ風のデザインだが、控えめな装飾性で、機能性と合理性を重視した、学者の暮らしぶりを顕すような仕上げとしている。内部の部屋の配置や内装も、工夫の行届いた設計となっているらしい。主屋のほかに別棟の温室や附属室も備え、当時の近代における郊外の暮らしを今に伝えている。
Photo_20211123062402  さきの大戦の前、御所の西側、堀川に沿って下長者町通りと下立売通りの間に、堀川京極商店街という繁華街があった。しかし戦争末期に延焼防止のため建物疎開となり、建物が撤去されてしまった。その疎開空地に昭和26年(1951)から昭和29年(1954)にかけて鉄筋コンクリート造の市街地型集合住宅が建設された。これが「堀川団地」である。椹木町団地、下立売団地、出水団地、上長者町団地で、建物は全部で6棟からなっている。戦後復興期の深刻な住宅不足の解消、都市防災のための防火建築帯の構築、商店街の再興が目的の事業であった。昭和25年(1950)に設立された京都府住宅協会が、最初に住宅金融公庫の融資を受けて建設した団地でもあった。
 いずれの建物も3階建で、1階を店舗兼住宅、2・3階を住居専用とし、堀川通側に住戸を並べる。各戸は、面積が異なるものの集合で、面積に応じて2K、3K、2DKの間取りが採用されている。2階壁面の後退を利用した2階共用テラス、各団地でことなる平面と立面の組み合わせの試み、通風や採光への配慮、店舗による賑わいの創出など、新しい住環境を指向する設計者の情熱が感じられる。

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