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「発見された日本の風景」展(4)

庶民の仕事ぶりへの関心
 ひとびとの暮らしへの視線と同じようなことだが、日本の庶民の仕事ぶりにも関心が向けられていた。Photo_20211105064501
 やはり笠木治郎吉の「提灯屋の店先」がある。やはり水彩画なのだが、大胆で動きのある構図、繊細で高度な描く技術、結果としてのダイナミックさ、立体感、臨場感など、素晴らしい絵だと思う。写真よりも写実的な、というべき絵画作品である。
 本多錦吉郎「豊穣への道」がある。ミレーの「晩鐘」を連想させる暗い画面と背景のほの明るい夕空との組み合わせが印象的である。厳しい日常の農作業と、近い将来の収穫への希望を表現しているのだろうか。油彩でもあり、そもそも画面構成がそれまでの日本の絵とはまったく違うものである。
 本多錦吉郎(ほんだきんしろう、1850-1921)は、幕末の嘉永3年(1850)江戸の広島藩屋敷で藩士の子として生まれた。8歳のとき、父の死により家督相続し、15歳で広島に帰って第二次長州戦争に従軍した。その後、広島藩の藩校で洋式兵学を学び、あわせて英語を学び、やがて藩校の助教授となった。しかし明治4年(1871)廃藩置県により失職し、上京して慶応義塾で1年間英学を学び、工部省測量司の測量学校に第二期生として入学した。そこでイギリス人御雇教師であったライマー・ジョーンズに画才を認められ、洋画家への道を薦められた。その後、英学・英法学などを教えていたが、画才を活かして明治10年代から週刊新聞『団団珍聞』及び姉妹紙の『驥尾団子』(きびだんご)に風刺漫画を提供していた。明治16年から明治34年まで、陸軍士官学校と陸軍幼年学校の図画の教官を勤めた。明治19年(1886)には、文部省の委託により『小学画手本』14冊を編んだ。明治22年(1889)、岡倉天心やアーネスト・フェノロサらが、日本美術革新のためとして洋画を排斥した東京美術学校を設立すると、それに対抗して、明治美術会を小山正太郎・浅井忠らと設立した。
Photo_20211105064601  私は、彼の作品としては明治期の保守的作風の代表とされる「羽衣天女」を展覧会で観たことがある。「羽衣天女」はじゅうぶんに日本的のように思えたが、一方で「豊穣への道」のような、すぐれて西洋画風の作品を残していたことを知って、彼が岡倉天心らに反対したことも頷けるように思った。
 全体を通して印象に残ったことは、明治期のはじめころからわが国の絵画は、西洋画から受け取った優れた写実表現を、急速かつ高度に洗練していったこと、あわせて西洋画で「風俗画」を軸に進展した環境、生活、風俗への視点を着実に取り入れたこと、である。水彩画の緻密な表現力は、日本の画家が高い水準で習熟していた。
 こんな高い水準の写実性が、いまではほとんど忘れ去られているのは、やはり並行して日本に入ってきた写真技術の影響があったのだろう。写真の登場により、絵画での写実能力は、もはや大きなアピール・ポイントではなくなったのだろう。
 それでも、当時の西洋画から受け継いだ「視点」の豊かさは、明治以降までわが国の絵画・美術に影響を残し続けた。
 全部で286点という多数の展示は、私の鑑賞能力のキャパシティーを超えるものであり、ヘトヘトになって鑑賞しても、なにかやり残しや観残しの感覚がある。しかし、まあこれはこれでなかなか充実したひとときであった。

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