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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(1)

 「モダン建築の京都展」は、1か月以上前から始まっていたが、コロナ騒動の緊急事態宣言や例年にない10月に入ってまでの残暑などで、ついつい出かけるのが遅れてしまい、やっと10月末になって鑑賞することができた。Photo_20211109062401
 私にとっては、京都市美術館が改装され「京都市京セラ美術館」と改められてからは、初めての来館である。建物の外観は、構造や装飾ももちろん変わらないが、丁寧に清掃したのか全体に綺麗になっている。そして一番変わったのが出入口で、地下一階からとなった。そして館内の内側の壁が大きなガラス貼りに替わり、美しい庭園を広範囲から眺めることができるようになった。

1.古都の再生と近代
 京都は、明治維新で天皇が東京に移ってしまい、あわせて公家たちも東京に出て、かつての都としては文化的に大きなダメージを被った。また天皇以下の朝廷を軸とする都を支えていた商工業も衰退した。しかし京都は、官民を挙げて教育と勧業を軸にして繁栄の再建と近代化に取り組んだ。
  明治2年(1969)には、全国に先駆けて小学校が建設され、殖産興業のために京都府に置かれた勧業方は、勧業場、女紅場(じょこうば: 女性の授産のための育成機関)、養蚕所、製糸場、牧畜場などを次々に開設した。明治28年(1890)には、第4回内国勧業博覧会が岡崎で開催され、同時に博覧会場に接してその会場の北側に平安神宮を創建した。
 平安神宮の設計を担当したのは、伊東忠太(1867-1954)であった。伊東忠太は、出羽国米沢に生まれ、軍医を目指した父にともない上京し、父の転勤で千葉に移転したり、ドイツ語を学ぶために東京外国語学校に学んだりした後、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、大学院に進んだ。大学院のとき「法隆寺建築論」を記し、わが国の日本建築史研究の先駆けとなった。ちなみに、「造家学」では建物建造においての芸術性を表せないとして、「建築学」の呼称を提唱したのが伊東忠太であったという。Photo_20211109062501
 明治政府が「学制」を発令したのは明治5年(1872)であったが、それに先駆けて明治2年(1869)に、京都の町組はのちに「学区」となる「番組」という住民共同体単位で64校もの小学校を創生していた。これらの施設は、行政の出張所や町組の集会所としても機能させた。小学校の建設や運営は、町組が主導することになったので、それぞれが独自性を発揮して、個性豊かな校舎を誕生させる結果となった。
 古くからの京都市街の中心に、下京三番組小学校として開校したのが明倫尋常小学校である。アーチ型や丸型など、美的意識の高い意匠の窓が取り入れられていた。建設は清水組(現在の清水建設)であった。現存の校舎は、昭和天皇御大典記念事業として昭和6年(1931)改築されたものである。鉄筋コンクリート造の躯体に、外壁は人造石洗い出し仕上げとなっている。小学校の統廃合のため、平成5年(1993)廃校となったが、建物は改修されて、現在は京都芸術センターの建物として使用されている。Photo_20211109062601
 琵琶湖疎水は、京都復興を目指して第3代京都府知事北垣国道が始めた、灌漑、上水道、水運、水車の動力など多方面へのテコ入れを目的とした、当時史上最大規模の土木事業であった。滋賀県大津の取水口から京都蹴上の船溜までの約8キロメートルを、3つのトンネル(隧道)を経由して高低差3.4メートルの緩勾配で接続する壮大かつ緻密を要する工事であった。工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎が、主任技術者として設計監督を担った。
 京都御所の防火用水を実現するため、紫宸殿の棟まで放水することが求められ、十分な水圧を得るために九条山頂上に貯水場を設け、蹴上側トンネル出口から水を九条山貯水池にくみ上げるために九条山麓にポンプ室が設置された。明治45年(1912)完成した建物にはポンプが収納されるのみだが、その外観は英仏の新古典主義を取り入れたレンガ造りで、皇室建築の風格を漂わせている。
Photo_20211109075701  勧業政策に注力する京都府は、勧業場や舎密局(せいみきょく)を木屋町近くにつくった。仏具職人から出て鋳物業を木屋町で営んでいた島津源蔵は、明治8年(1875)勧業場や舎密局で必要となる理化学機器の製造を始めた。これが島津製作所のはじまりであった。
 昭和2年(1927)、島津製作所は、京都帝国大学建築学科創設メンバーたる武田吾一を設計顧問に迎え、武田吾一のもとにいた荒川義夫の設計により、河原町二条下ルの高瀬川沿いに本社営業所ビルを建築した。平滑でグラフィカルな斬新なデザインのファサードが特徴で、これは後に島津製作所河原町別館となり、平成24年(2012)からはレストラン・結婚式場「フォーチュンガーデン京都」として使用されている。

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