2022年1月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
フォト
無料ブログはココログ

« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »

2021年12月

長岡京紅葉散策(7)

医王門からもみじ参道へ
Photo_20211231061101  拝観の順路は、実は本来の道順とは逆となっているらしく、勅旨門を眺めて大書院におりたら、最後に玄関に着いて、ここから履物を着けて建物から退出することになる。ここから総門までの、医王門を通り、緩やかにカーブして総門まで続く小路がもみじ参道と呼ばれる、紅葉のトンネルを抜けるような、この寺院の紅葉見物のハイライトとなっている。10年ほど前になるが、JR東海の京都観光キャンペーンで「そうだ京都、行こう」というのがあり、テレビでなんども放映された景観が、この小路の燃え立つような紅葉であった。Photo_20211231061201
 紅葉のピーク時には、小路を囲むすべての樹木が紅葉し、その紅葉が落葉して地面を紅葉で埋め、まさに極楽浄土のような雰囲気となるらしい。残念ながら今日はまだそれには早すぎたが、たしかにもみじの樹木は多い。
 この光明寺には、たしか10年余り前に一度訪れたことがあった。しかし今となっては記憶があいまいで、この度再訪して紅葉を真新しく楽しんだように思う。自宅からそんなに遠くないこの地に、こんな紅葉の名所があったことに、改めて感動した次第であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(6)

信楽庭から勅旨門へ
Photo_20211229060701  御影堂のご本尊「張子の御影」の周辺は宮殿(くうでん)と呼ばれる。宮殿は黄金の蓮や天蓋をはじめとして様々に美しく飾られている。このような装飾がほどこされているのは、御影堂の内陣が極楽の荘厳の様子を現すように見立てられているからである。極楽の様子は『仏説阿弥陀経』という経典にくわしく述べられていて、極楽の美しさ、素晴らしさが目の前に浮かびあがってくるような、生き生きとした描写が続くという。阿弥陀様がおいでになる極楽には、七種類の宝石でできた池があり、池の蓮華は車輪のように大きく清らかな香りを放つ。池の上にある楼閣も金銀、ルビー、水晶、メノウなどで華やかに飾られているそうだ。この浄土には絶えず美しい音楽が流れ、昼と夜に三回ずつ曼荼羅華の花びらが散ってくるのだそうだ。
Photo_20211229060801  阿弥陀堂から入って、御影堂を通り、釈迦堂に至るその廊下から、信楽庭を眺めることができる。この辺りは廊下の装飾も豪華で、庭園の樹木、そして紅葉も華やかである。
 信楽庭を眺めてから釈迦堂に至ると、その正面には手入の行き届いた枯山水の石庭があり、対面して勅旨門がある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(5)

光明寺 御影堂と花手水
 走田神社を出て、さらに起伏に富んだ道をまた40分余り歩いて、ようやく光明寺に着いた。さすがに光明寺はかなりの人出だ、というのが境内入口の拝観受付の混雑を見ての最初の感想であった。Photo_20211227062901
 法然上人が24歳の時、学匠となるべき師を求めて叡山を降り奈良へ向かう途次、この粟生野の里で、村役人を勤めていた高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた。その時茂右衛門夫妻は、上人の真剣な求法の志と、広く大衆を救う道を求めての旅である事を知って「まことの教えを見いだされたならば、最初に私共にその尊い御教えをお説き下さいませ」とお願いした。そして時は流れ、承安五年(1175)3月、ついに浄土宗を開いた法然上人は、20年前の約束の通り、この粟生野の地で初めて念仏の法門を説いたという。
Photo_20211227063201  さらに10年が経った文治元年(1185)、源平の戦いの戦功で有名な熊谷次郎直実が、戦いの明け暮れから積もる罪業を悔い、極楽往生の道を求めて法然上人を訪ねた。そして「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に称えれば必ず救われる」との、あまりにも有り難い教えに歓喜し心酔した直実は、直ちに弟子となり剃髪した。
 直実は法力房蓮生と名付けられ、数年の修行の後、喧噪の地を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、建久9年(1198)に、上人ゆかりの地、粟生広谷に寺を建て、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営み、開山第一世と仰ぎ、自らは二世となり、上人からは「念仏三昧院」の寺号を頂くことができた。これが光明寺の発祥であると伝える。Photo_20211227063202
 さて、拝観料を支払って境内に入ると、最初に通るのが有名な表参道の広くゆるやかな石段と、それを囲む紅葉である。さすがに紅葉の盛りには少しばかり早いようだ。拝観料の窓口ではかなり人出が多いと感じたが、こうして広々した通路に出てみると、まだ人出は少ないのだろうとも思った。まだコロナ騒動の余波は残っているのだろう。
 長い石段を登り切ると、紅葉に囲まれた参道の正面に御影堂と大きな法然上人像が見えてくる。高さが4.8メートルもあり、法然上人の誕生850年を記念して、昭和57年(1982)に建てられたものだ。
 法然上人像の少し左手に手水舎があるが、コロナ騒動の煽りを受けて手洗いは禁止となっていて、ただ手水鉢のなかはきれいに花を活けて花手水として参拝客を和ませている。たしか京都市内の金戒光明寺では花手水があると聞いたことがあるが、私は迂闊にもなんどか金戒光明寺を訪れたのに、気がつかなかったままである。
Photo_20211227063001  御影堂(みえどう)は通常の寺院様式では本堂に相当する、浄土宗系の寺院に独特の中核となる建物である。御影堂には、法然上人の「張子の御影」が祀られている。法然上人がお母様からのお手紙を水にひたし、紙粘土のようにして、水面に映った御自分の姿を見ながら、自ら肖像を作られたのだという。この像を受け取り京都へ持ち帰った湛空という僧が、漆を塗って仕上げたと伝えられている。長らく二尊院に祀られていたというが、いつしか光明寺に移されたのだともいう。お堂のなかは、さほど明るくはないのでこの御影像もあまりよく見えない。
 この建物も応仁の乱をはじめ、何度も火災にあって元の建物は残っておらず、現在のものは宝暦4年(1754)に再建されたものである。大きさは18間四面(約33m四方、建築様式は入母屋、総欅(ケヤキ)造りとなっている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(4)

長岡天満宮から走田神社へ
 絶好の秋日和でもあって、久しぶりに西山の一角を散策したいと思い、北の方角に走田神社を経て、紅葉の名所たる光明寺まで歩くことを考えついた。Photo_20211223061901
 しかし長岡天満宮に東側の八条ケ池から入ったので、北に向かって出る出口がすぐにはわからず、社務所でまず尋ね、駐車場の出入り口で再び尋ねて、ようやく境内を出たものの、走田神社に向かう道がなかなかわからず、前方から自転車でやってきた親子連れに尋ねて、やっと走田神社の前を通るという光風美竹通りにたどり着いた。途中なんどかバス停に出くわしたが、バス停の時刻表は、1日に数便というごく稀な運行サービスが多い。しかし住宅地がひろがり、しかもかなり古くから開発されている地域のように思える。
 急ではないが、かなりの起伏が続く道を1時間弱ほど歩いて、ようやく走田神社に着いた。長い階段の途中に勧請縄(かんじょうなわ)があり、さらに登り切ったかなり高いところに社殿がある。
Photo_20211223062001  平成30年(2018)、台風21号の影響で境内を囲む鎮守の森の木々が多数倒れ、参道がふさがれた。それが除去されたあとは、森の木々が排除されてしまい、以前の走田神社を知っている人からは想像のできない雰囲気になってしまったという。
 走田神社の創建・由緒についてはよくわかっていないが、927年の延喜式の神名帳に記載されていたことから、平安時代にはあったようである。現在は藤原氏の祖神である春日神を祀っているが、近世以前は「妙見社」と呼ばれて妙見菩薩を祀っていて、隣接する寂照院という寺院の鎮守であった。
この地にはかつて海印寺という空海の弟子である道雄によって創建された寺院があったが、応仁の乱により焼失し現在は塔頭である寂照院のみが残っている。長岡天満宮といい、この走田神社といい、応仁の乱の被害というのは、この西山地区のような、京都中心部からずいぶん離れたところにまで甚大に及んでいることに、改めて驚く。明治の神仏分離によって、寂照院は走田神社と分離された。式内社では丹波国桑田郡にも同名の「走田神社」があり、社名から推測して早稲を作る田の守護神だったと言われている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(3)

紅葉庭園「錦景苑」
Photo_20211221071001   長岡天満宮の境内に、平成19年(2007)造営された紅葉庭園である。四阿(あずまや)に腰かけて滝の方を眺めると、大小の紅葉が拡がり、迂回して坂を登り絵馬殿の窓から東を望めば、眼下には大銀杏の黄と楓の紅を眺めることができる。今日はまだ銀杏は少し早いけれど。
 庭園の中ほどに南北に延びる弁天池には、大きな石橋が架けられている。庭園の一角にある菅原道真の歌碑は、貴船石の銘石でつくられているという。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

吉例顔見世興行南座

 今年も師走となり、恒例の南座顔見世がはじまった。コロナ騒動でむなしく明け暮れたこともあってか、今年の一年はとりわけ速く時間が経ったようにも思える。今回は、一日の舞台公演が三部構成となっていて、午後6時からの第三部を家人と観劇した。

Photo_20211219061901


 ひとつ目の演目は、「雁のたより」である。
 新町から請け出した司(つかさ)と連れ立って摂津国有馬温泉へ湯治にきた若殿前野左司馬は、愛妾司の機嫌をとるために、温泉宿裏の髪結の三二五郎七を呼んで酒の相手をさせた。五郎七は、日ごろから女客から人気のある髪結であった。司は五郎七に興味を示したようにみえる一方で、自分には心までは売らぬ、とまで言われて、頭に血が上った左司馬は、髪結に一杯食わせようと家臣たちとはかり、司が書いたように見せかけた偽の恋文をつくって五郎七へ届ける手はずをした。一方、家に戻った五郎七は、中間が置き忘れたらしい司の女扇を手に取って、先ほどの司の美貌の様子を思い返し、自分に好意があるのでは、とニヤついているところへ、花車のお玉が偽の恋文を届けに来た。手紙には、殿が先に出発するので今宵会いたいとあり、五郎七は慌てて支度して駆けつけた。ところが、頬かむりで忍んできた五郎七を待ち構えていたのは左司馬とその取り巻きたちで、不義者、盗賊とののしられた上に、大勢でよってたかっての袋叩きに逢った。しかし前野家の家老高木蔵之進は、五郎七のこれまでの生い立ちを知っていて、五郎七の剣術の腕前を試そうと切りかかり、それを巧みに回避する五郎七をみて、五郎七が実は高木の甥浅香与一郎春義であり、司とは幼時からの許嫁であったと確認する。事情を高木から知らされた司と五郎七は、めでたく結ばれる、というお話しである。髪結五郎七を松本幸四郎が、司を片岡千壽が演じている。物語としては他愛がないが、司の美形に惹かれた五郎七が、浮かれたり驚いたりの上方特有の、誇張気味のユーモアと感情表現が持ち味の作品のようである。
 ふたつ目が「蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)」である。
 源光仲の子で摂津源氏の祖とされる源頼光は、物の怪に憑りつかれて摂津国多田の御所に伏せっていた。その傍には、家臣の碓井貞光、坂田金時が寝ずの番をしていた。この不寝番の二人が繰り返す睡魔に襲われて悩んでいたところへ、見かけぬ小姓寛丸が眠気を防ぐ濃茶を持って現れた。不審な動きに二人が斬り払おうとすると、その姿は忽然と失せた。その後、太鼓持の愛平、そして座頭松市が、つぎつぎと現れては、不審に思って捕らえようとすると消えてしまった。二人は、葛城山の土蜘蛛の仕業ではないかと訝しむ。頼光の寝所では、久しぶりに傾城薄雲太夫が訪ねてきた。ところが薄雲太夫は、突然蜘蛛の本性を現して頼光に襲いかかったのち逃走した。頼光は宝剣の蜘蛛切丸を携えて逃げた蜘蛛を追跡し、晩秋の美しい紅葉のなか、主従三人は葛城山の蜘蛛の精の棲家にたどり着き、日本を魔界に変えようと野望を抱く蜘蛛の精に刀を抜いて立ち向かい、壮絶な戦いの結果、最後は頼光が霊剣蜘蛛切丸で蜘蛛の精を退治する、というお話しである。
 一人五役の早変わりが見ものであり、その主役を愛之助が演じる。平成27年(2015)11月に出石町「永楽館歌舞伎」で初めて勤めて、今回が3度目だという。愛之助は、いまではすっかり人気者の看板役者となった。軽妙で俊敏な動きとユーモアが魅力だ。頼光は、幸四郎が演じる。舞台美術もとても美しく、その背景とよくマッチした蜘蛛の衣装も美しい。舞台美術としても優れた舞台であった。人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(2)

長岡天満宮
 八条ケ池を渡る中堤小路を突き抜けると、長岡天満宮への参道に至る。長岡天満宮の参道に入ると、紅葉の密度が高くなって赤色が鮮やかになる。Photo_20211217061001
 長岡天満宮は、文章博士菅原道真のゆかりのお社である。もともとこの地が道真の所領だったとの説もあるが、若き日々のひとときをここで過ごし、菅原道真が昌泰4年(901)に大宰府へ左遷される時、長岡に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだと伝えられている。この縁故によって、道真が自作したと伝える木像をお祀りしたのがこの神社の創立であった。創立年月は不明だが、応仁の乱(1467~1477)で兵火を罹り社殿が消失し、明応7年(1498)に再建したとの記録がある。以来、皇室の崇敬篤く度々の寄進造営が行われた。
Photo_20211217061101  その後荒廃していたが、明治になり中興の祖である宮司の中小路宗城が境内や奉賛会の整備を行って復興、長岡天満宮は宗城の代に村社から郷社、さらに府社へと社格を上げた。一代で二度の社格昇格は極めて珍しい例であるという。その後昭和3年(1928)には新京阪鉄道(現・阪急電鉄京都本線)が長岡天神の名前を冠した駅を開業させ、多くの参詣客と花見・紅葉見物で賑わうようになった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

長岡京紅葉散策(1)

 今年は秋の声を聞いたのちしばらく雨も少なく温度も下がらず、秋らしい気分が訪れなかったのに、急に秋らしくなったと思うと涼しくなり、結局紅葉の見ごろは例年よりも早いという。思いだしたようにネットで紅葉の状況を探ったら、いろいろな名所で軒並み「見ごろ」表示が乱発していた。そんなわけで、慌ただしく家人と出かけた。ごく近い紅葉見物の名所として京都西山の長岡京がある。ここを久しぶりに散策した。阪急長岡天神駅を降りて、阪急電鉄の長岡天神駅周辺の散策マップをたよりに、晴天の下を歩いてみることにした。

八条ケ池Photo_20211215080401
 駅から10分ほど歩くと八条ケ池に着く。こんなに駅から近いのに、急に視界が開けて穏やかな水面と紅葉が楽しめる。
 江戸時代前期の寛永14年(1637)、八条宮智仁親王の寄進によって、長岡天満宮の灌漑用の溜池として造営された池である。細長い池を横断するように中堤の長い細道が続き、長岡天満宮の参道に続いている。途中にある石太鼓橋は加賀藩「前田候」の寄進と言われている。週末で絶好の快晴なのに、思ったほど混雑していないのは、緊急事態宣言が終わって2ヶ月近く経ったとはいえ、まだ人出が復活していないのだろう。中堤両側には、樹齢百数十年の霧島ツツジが多数植えられており、まだ少し盛りには早いが、そこそこ紅葉が楽しめる。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(6)

パレルモの挑戦
1969  1969年の作品に「無題(布絵画:緑/青)」というのがある。一見、マーク・レスコーの作品などに似通っているように見えたが、よくみるとことは既製商品として販売されている染色された布地2枚を、白色の布地の上に貼り付けただけの、制作過程からいえばレディメードの一種と言える。「布絵画」と名付けられたこの作品は、色彩の選択と絶妙な組み合わせで、独特の静謐かつ上品な抽象表現を達成しており、彫刻家ウルリッヒ・リュックリームは「布絵画はまったく愉快な作品だよ、何といっても絵具も絵筆も使わずに、絵画をご破算にしてしまったのだから」と高く評価したという。Photo_20211213061901
 「青い三角形」(1969)という作品がある。この群青色で底辺に比べて少し高さを抑えた三角形は、パレルモがさまざまな作品でモチーフとしているそうだ。この「独自の」三角形を、誰もが購入しさえすれば自分で描けるように、三角形の型のステンシルと、絵の具と、筆と、さらにパレルモ自身がそのステンシルを使って制作した青い三角形のシートとをセットにした制作キットが、ひとつの作品となっている。これには注意書が添付されていて、この描画セットを使って自分の三角形を制作したら、使用者はただちにパレルモから与えられた三角形の原型を破棄しなければならない、と書いてある。こうしてパレルモの青い三角形は、購入者の数以上には増えてしまわないようになっている。
 1977年の作品に「無題」として、アルミ板の上に、黒いラインの枠と、黄色のアクリル絵具でかなり荒っぽく塗った4枚を並べたものがある。パレルモ自身は、この出来栄えにとても満足していたらしく、友人にその率直な満足感を興奮して伝えていたという。金属板の上に描くということ、そしてとくにこの作品の場合、大きな白い壁を背景とすることが大きなポイントであったのだろう、となんとなく思う。


1977

 気軽にちょっと観て、適当なところで終わりにすればよい、と軽く考えていたのだったが、見つめても、改めて眺め直しても、わからないことだらけで、ところが不思議に退屈一辺倒とはならず、ついつい深入りして眺め続け、思案し続けることとなり、時間の経つのを忘れていたようだ。ようやく展覧会の終わりに近づいたかなと思ったら、突然場内アナウンスがあり、あと15分で展示を終了して閉館となります、と知らされ、慌ただしく最後の展示コーナーを駆け足で観て、短い秋の日がとっぷり暮れてから美術館を後にすることになった。
 今回の展示は、正直なところあまりわからなくて、いつもは観るのにすっかりくたびれても満足感に満たされて帰ることが多いのに、この度はとても満足感などなく、頭のなかにクエスチョン・マークがいくつもならんだまま会場を出ることとなった。でもその反面で、不思議にわからないものを見続けながら、とりとめもなく観たり考たりしていると、その間他のことは一切忘れて、不思議な「気持ちの集中」があったようにも思う。作家の真摯な創作が、私にも自覚できないような不思議な魅力を持ちえたのだろうか。あるいは、それこそが作家の目論みだったのだろうか。島敦彦館長がいうごとく、分からないままに余韻を残して帰るのも、もしかしたら次の新しい発見の準備なのかも知れないと、ごくかすかにではあるけれども、思えた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(5)

ブリンキー・パレルモ
 ブリンキー・パレルモは、1943年戦時下のライプツィヒで双子の兄として生まれた。生まれてすぐハイスターカンプ家に養子にだされ、ペーター・ハイスターカンプが実名であった。1949年の東西ドイツ分割に際して、西側のミュンスターに移動し、ジャズなどの音楽と美術に関心をもつ高校生時代を過ごした。1962年デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学すると、シュールレアリスムの影響を受けた絵画を描いていた。しかし1964年にヨーゼフ・ボイスのクラスに移ってからは、ボイスに魅了され、自らの作家名としてイタリア風のブリンキー・パレルモと改めて、自由な境地で作品創作に没頭するようになった。教授となって3年目のボイスは、教員が自らの様式を学生に教え込もうとするアカデミーの教条的な指導法では、既存のスタイルの真似に終始する無批判な学生ばかりを育てかねないと考え、むしろ学生に「それぞれの個性がもつ可能性を探求し発展させる」よう導こうとした。Photo_20211209063201
 アカデミー在籍時代から、パレルモは20世紀初頭の抽象絵画、同時代のアメリカ美術の動向に関心を持ち、影響をうけながら、カンヴァスや木枠、絵の具などといった絵画の構成要素自体を問い直す独自の作品を発表するようになった。絵画を方法・手段としながらも、意味の生成や感情の表出へは向かわず、ボイスの言葉によれば「芸術によってかたちとなるような秩序」、すなわちまったく新しい世界の秩序を芸術の領域に提示した、と評価されるようになった。その作風は、きわめて繊細でありながら、絶妙な止め時で意図的に中止されたり、大胆なやりっぱなしであったりするという。レディメードも積極的に導入している。
 1977年にわずか33歳にして、モルディブに客死してしまったので、残された作品数はけして多くないが、今なお「作家のための作家」として尊敬されているという。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(4)

ボイスの政治的主張
Photo_20211207063501  やはり晩年の作品に「小さな発電所」(1984)がある。銅板を溶接して貼り合わせた箱が不規則に3つならんで置かれ、そのうちのひとつには各稜にフェルトが挟み込まれている。3つの箱は、大きな銅製のクリップとリボン状の銅線で頼りなく繋げられている。作品の題名から、エネルギーが生成され、伝達・循環する様子の象徴であることは、私にも理解できる。箱の表面にはところどころ錆が見え、色あせた銅の色、灰色のフェルトは、古くなり朽ちていく様子の表現ともとることができる。この作品は、チェルノブイリ原発事故の2年前の作であるが、こちらがそれを連想するがためなのか、そこはかとなく危うげな不気味な印象は感じられる。Photo_20211207063502
 1973年の作品に「直接民主制の為のバラ」という複合作品がある。既製品のメスシリンダーに赤い花が一輪差し込まれ、直方体の箱の上に置かれている。背景の壁には、赤と緑の長方形が一つずつ描かれた額に入った絵が掲げられている。タイトルから、民主主義についての表現なのだろうとは思ってみても、果たしてボイスが民主主義に肯定的なのか否定的なのか、民主主義に希望を感じているのか、絶望しているのか、私にはわからない。
 この国立博物館の館長である島敦彦さんは、「美術だからといって、見たら即時に理解できないといけない、とは考えないほうがよい。見てわからなければ、わからないまま保留にしてはどうか。わからない、を楽しむという考え方も必要ではないか。」という。「性急に他者の解説や理解内容を読んでわかったように思うよりも、目の前の作品がどのような文化的背景や文脈から生まれ、なぜこのような造形あるいは体裁を整えているのか、そこに想像力を働かすことこそが、案外におもしろいし、それこそが現代美術を鑑賞する醍醐味ではないか。」というのである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(3)

ボイスの芸術と人生表現
 1964年のドゥローイング作品に「女優と2本のフェルトロール」というのがある。少し薄茶色を帯びた薄い粗紙の上に、ボイスがブラウンクロイツと呼ぶ赤褐色の単色の油彩で素早く描き出した感じの小さな絵がある。女優のシルエットを中央に、下に横たわったフェルトロール、向かって左手に立てたフェルトロールがそれぞれ1本ずつ描かれている。説明によれば、立てたフェルトロールは蓄熱あるいはエネルギーの貯蔵を、水平のフェルトロールは運動・変化あるいはエネルギーの生成を象徴するのだという。しかしこれらの解釈も、説明文を見てのことで、私個人単独では、到底よくわからないのが本音だ。しゃがみこんだかのような女優の姿勢は、これらの熱やエネルギーを受容し、またそれをもちいて活動せんとしているようだ。しかし、そもそもこんな貧弱な粗末な紙を使うことが、私にはよく理解できない。Photo_20211203073601
 1985年の作品「ジョッキー帽」は、最晩年の作品だがモチーフは青年期の従軍の思い出だろう。当時愛用していたフェルトの帽子のつばを切り取って、ジョッキー帽の形とし、これを容器のようにして、中に脂肪の塊を詰め込んでいる。その上の端っこに、2枚の新聞紙の切れ端を置いて、ブラウンクロイツの十字架が小さく描かれている。脂肪が浸みこんで2枚の新聞紙は表と裏が透けて重なり、それが時間と意味が積層することの表現だと、解説は説く。帽子全体の小さな小舟のようなかたちが移動の意志を表わし、柔らかで時間の経過とともに変質する脂肪が人間の可塑性を表現しているのではないか、という。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(2)

ボイスの初期のアクションと彫刻
Photo_20211201064101  ボイスは、早くも1961年に40歳にしてデュッセルドルフ芸術アカデミー教授となったが、本格的に作品を発表するようになったのはそのころ以降だという。それまでに「フルクサス」と呼ばれる前衛芸術の運動に、ボイスも参加していた。「フルクサス」とは、建築家ジョージ・マチューナスが提唱した前衛芸術運動で、美術、音楽、詩、舞踏など分野の別にこだわらず、広い芸術ジャンルにまたがって、新奇なインターメディア表現、シンプルで意味を限定しない表現、ユーモア・ウィットのある表現、ゲーム性を好んだ表現などを展開していた芸術運動であった。1964年7月、アーヘン工科大学で、フルクサスのイベントとして、「新芸術フェスティバル」が開催され、この場でボイスは「クーカイ、アコペー─ブラウンクロイツ、脂肪コーナー、モデル脂肪コーナー」という奇妙な題名のアクションを行った。演奏しながらピアノの音を歪めたり、電熱器で脂肪の塊を溶かしたり、参加者が意味を理解しにくいアクションを次々に演じていたが、そこへ突然ひとりの学生が乱入し、ボイスは殴られて流血した。しかしボイスはその後、敢えて鼻血を垂れ流したままキリスト像を掲げローマ式敬礼をするなど、あたかも自己神話化をめざすかのような振る舞いをしたことが、記録フィルムとして展示会場で放映されている。
 その翌年1965年11月には、デュッセルドルフの画廊で、自分の作品の前で死んだウサギを抱えて徘徊し、ウサギにそれを鑑賞させようとしているかのようなアクションを演じた。ボイスは、自分の頭髪にハチミツを塗り、頭と顔面には金箔を貼り、腕にウサギの死体を抱き、そのウサギに語り掛け、それにウサギが応じて頷くかのようにウサギを動かしている。最後の場面では、死んだウサギだけか残される、そんな短い短編の記録映像である。
 Photo_20211201064102 1967年の作品に「ユーラシアの杖」という、彫刻がある。彫刻といっても、造形のために材料を彫り出すのではない。厚めのフェルトでびっしり巻かれた4本の4メートル近くもある長い鉄アングルと、同じような長さの銅製のパイプである。解説によると、4本の鉄アングルは動物(鹿)の四つ脚で、銅パイプは杖を象徴する、とある。題名のユーラシアは、ユーラシア大陸全体ではなく、シベリアの凍てついた大地を意味し、その酷寒に堪えようとするフェルトに覆われた長い脚と、たどたどしい歩みのための長い杖の象徴なのだという。しかし、その寸法といい、単純過ぎる形状といい、私には説明なしではそのように解釈できるものではない。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2021年11月 | トップページ | 2022年1月 »