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越境から生まれるアート 東京・アーチゾン美術館(2)

第一部 越境と変化
藤島武二
Photo_20220625055801  西洋由来の油彩画は江戸時代にも、たとえば狩野内膳の南蛮屏風の膠画技法の拡張とか、日光東照宮陽明門の羽目板下から発見された壁画の、漆地に乾性油を用いた技法など、ある種の油彩技法の試みは、わずかながらも早くから行われていた。明治維新の開国の後の本格的な西洋油彩の導入は、明治初期の岡倉天心などの西洋画排斥の影響を受けて意外に遅れ、東京美術学校に西洋画科が設置されたのは、開校から7年後の明治29年(1896)であった。まもなく明治33年(1900)のパリ万国博覧会を経験して、主にパリへ多くの留学生を送り出すようになった。
 明治38年(1905)東京美術学校西洋画科助教授として留学に出たのが藤島武二であった。4年間にわたるフランスとイタリアでの滞在で、西洋画の伝統と技術を深く学んだ。Photo_20220625055802
 明治40年(1907)ローマに到着した藤島は、フランスのアカデミーの国外機関であるアカデミー・ド・フランスの校長カロリス・デュランを訪れ、その指導を受けることになった。このローマ滞在時代に描かれたのが「黒扇」である。禁欲的とも思えるほぼ白と黒に絞り込んだ色彩表現は、肖像画の大家であったカロリス・デュランの影響が感じられるという。白いヴェールは、スピード感を感じさせる筆致だが、一切の乱れがない。藤島は、この白いヴェールという難しいモチーフを見事に描き出すことで、油彩の高度な技術を証明している。この絵は、藤島の代表作の一つとされている。
 それから20年余り後の作品として、日本で描いた「淡路島遠望」(1929)がある。この絵に対して「舞子あたりの風景で、遠景に淡路島が見えて、帆船を配しておいた。近景に赤い屋根の家など三軒を描いた。事実あんな別荘風の建築があったが、実際はよほど旧式な西洋館である。画面構成にいけないと思へば勝手に実景を冒涜してゐる。画因は、からつと晴れた瀬戸内海の風光明媚な処を描いてみたかった。」との言葉を藤島は残している。
Photo_20220625055901  作中には、赤い屋根の家などなく、言葉のとおり改変があるのは事実だが、より重要な要素として、淡路島の位置がより画面奥に置かれているとの指摘がある。この操作により、画面手前に建物などの構築的なモチーフ、中景に水の領域、そして後景に単純化された陸地が描かれるという、対比的な要素がまとめられた新たな調和が創り出されている。藤島武二は「西洋画の材料を駆使して、西洋臭みを離れたものを描こうとしている。同時に東洋とか西洋とかいう観念を撤回するのが私の年来の主張である。時と処を超越して私は常に絵画的効果のうえに全力を傾けようと努めている。」(「足跡を辿りて」1930)とも記している。
 絵画の知的な処理である画面構成の設計は、同時代の抽象の動向を知る画家の誰もが取り得る傾向であった。油絵具を繊細に扱う感性と技能にこそ、20世紀前半における日本の油彩画の独自性があると考えるべきである、との解説文がある。一見なんでもない風景画のようだが、こうして藤島の経歴と解説を読んで、しばらく絵に見入ってみると、一枚の絵でもなかなか奥深い。いずれの分野でも、先達たちには、先達ゆえの苦悩や努力や工夫がある。

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