「大阪の日本画」展 中之島美術館(7)
第四章 文人画 ─街に息づく中国趣味
江戸時代の大阪は、都への玄関口、あるいは回廊として様々な文物が集まり、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行していた。大阪では、漢詩や漢文の教養を備えた市民が多かったこともあり、明治以降も文人画人気が続いていて、西日本を中心に各地から文人画家が集まり優れた作品が多く生まれた。
森琴石(もり きんせき、天保14年1843-大正10年1921)は、日本の明治から大正にかけて大阪で活躍した南画家、銅版画家である。
幕末に摂津国の有馬温泉(現在の兵庫県神戸市北区)に生まれた。父は、現在も同地で経営を続ける老舗旅館「中の坊」を経営し、有馬温泉の炭酸水発見者でもある。幼少期の弘化3年(1846)大坂で旅館「出石屋」を経営する森猪平(のち善蔵)の養子となり、嘉永3年(1850)鼎金城に南画を学んだ。金城が文久2年(1862)に亡くなると、忍頂寺静村(梅谷)の門に転じた。また漢籍を妻鹿友樵(めが ゆうしょう)、および高木退蔵に学んだ。
明治6年(1873)東京に遊学して、高橋由一から油絵の手ほどきを受けたという。少なくとも由一と親交があり銅版画家で知られる松田緑山(二代目玄々堂)とは、何らかの接触があったと推測されている。明治10年ころから胡鉄梅や王冶梅ら来舶清人画家と交流する機会を得た。明治10年代には全国各地の景勝地を巡り、写生画稿が幾つか残っている。明治15年(1882)第一回内国絵画共進会で褒状を得て認められた。浪華画学校の支那画教員となり、後に同僚になった矢野五洲とともに、明治22年(1889)浪華学画会を結成して、翌年大阪府立博物場で大阪絵画共進会を開催した。さらにその翌年、宮内庁の御用画家となったとされている。大正2年(1913)大阪の画家では初めて文展審査員に選ばれた。
その森琴石の森琴石「獨樂園図」(明治17年1884)が展示されている。俗世を脱して自然のなかに理想的な生活を描いたものと思われるが、色彩の使い方や立体感・量感の表現はいささか西洋絵画の技法に倣っていて、伝統的な南画とは違うのだろう。
この時代に活躍した女流の南画家として、橋本青江(はしもとせいこう)がいる。
橋本青江(文政4年1821-明治31年1898)は文政4年、船場の資産家の娘として生まれたらしい。詳しい史料がないが、門人の河邊青蘭が「青江女史の後半生」(『大毎美術』第百六号)という随想録の中で、青江の人柄を以下のように記している。
靑江はもと播州(今の兵庫県)の生れだと思つてをりましたが、他の話ではやはり大阪の人で、而も船場で生れた人だつたらしいのです。今の堺筋平野町の角にある「澤の鶴」あの酒問屋の一軒か二軒おいて隣りがその生家だつたさうです。そんなわけでこの人は、元は相當の資産家の娘に産れたのださうです。それが、老後お氣の毒なほど落魄して死んでしまひました。靑江は中年以後所々方々と移り住んでゐましたが、私が就いた頃は南本町にゐまして、その頃がまあこの人の全盛時代とでも云へば云へるでせう。その住居はちよつとした小さな處でしたが、小ぢんまりとして如何にも画家らしく住つてゐました。何しろ靑江といふ人は純然たる画家氣質の人で「わたしは画を賣るのではない、好んでかいてゐるのだが、世間が求めるからそれをわけてやるのだ。世間がこれに對して報酬をするので、わたしは賣るつもりでかいてゐるのではない」と云つたような愛想のない調子で、商質氣もお上手もみぢんもあつた人ぢやありませんから、何うも世間と調和しにくいところがありました。だから靑江といふ人は、一生貧乏で通した人です。その超然たる高いところには感心するより外はなかつたのですが、それがために物質には惠まれずに終つてしまつたのは、まことにお氣の毒でした。
いかにも学識とプライドの高い文人気質が窺える才媛の面目躍如とは言える。
橋本青江画家橋本芳谷の妻でもあった。後半生は息子とともに名古屋に移り、その後、京都に暮らす娘・青蘋のもとへ行き、最期に大阪へ戻ったが、孤独と困窮のうちに世を去ったという。明治31年(1898)没、78歳であった。
上記のとおり門人に河辺青蘭(かわべせいらん、明治元年1868-昭和6年1931)がおり、青蘭は14歳のときから五年間、南本町の青江宅に通っていた。
橋本青江の「山水図」(明治23年1890)が展示されている。この絵を観ても、近世の南画あるいは山水画に比べると、ずいぶんくっきりと鮮明・明徴な筆致であると思う。
村田香谷(むらた・こうこく、天保2年1831-大正元年1912)は、幕末の天保2年筑前に生まれ、村田東圃の養子となった。はじめは父に、のちに長崎の日高鉄翁、京都の貫名海屋に南画を学んだ。詩は梁川星巌に学んだ。中国に3度渡り清の文人画家胡公寿らと交わり研究した。帰国後は大阪に定住した。
村田香谷「西園雅集図」(明治37年1984)が展示されている。描かれた内容は、まったく中国の景観と人物であり、中国の文人画が憧れ夢見る理想郷の生活を丁寧に描写したものである。ただ、さすがに明治後期のわが国の西洋画の水準が影響してか、色彩の豊富なこと、緻密な描写は伝統的な南画から進化(変化)しているのではないだろうか。
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