2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
フォト
無料ブログはココログ

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »

2023年4月

高槻芥川 こいのぼりフェスタ1000

 「昭和の日」の祭日に高槻芥川桜堤公園で、恒例の「こいのぼりフェスタ1000」が開催された。「恒例の」とは言うものの、コロナ騒動で2年間のブランクがあり、3年ぶりの開催である。1000
 タイトルの「こいのぼりフェスタ1000」は、1000匹の鯉のぼりが春の空に舞うことを意味するという。数えたことはないが、じゅうぶん多数で見応えがあるのはまちがいない。
 1週間前から鯉のぼりは掲揚され、ずっと好天続きであったのに、肝心の催しが開催される日に雨天の心配が発生した。前日の快晴から天気は下り坂となり、雨天の予報まで出ていた。幸い当日になってみると、午前中は雨が降らないだろうという予報に変わり、ともかく午前中の催しに参加しようと、家人と出かけた。
 Dance-factory 午前10時から高槻市長挨拶にはじまり、高槻市消防音楽隊、高槻市少年少女ジュニアバンドのブラスバンド演奏が続いた。
 河川敷の開放された舞台で演奏されるので、反響がなく音が分散し、せっかくの演奏ながらいささか迫力に欠けるのはいたしかたないのだろう。また、アナウンスの拡声器の機能が不足なのと、マイクで話すことに不慣れなヒトが小声・早口で話すので、団員の紹介や演目の紹介などのアナウンスが聞き取りにくい。このようなアマチュアによるアナウンスについては、ごく短時間でも事前にアナウンスのレッスンを準備できないものか、と思った。
 そのあと「Y lockers」という市民グループのダンス、小学生の「キッズロックダンス」が続く。そして「Studio Laugh」という市民グループのダンス、「DANCE FACTORY」という小学生を含む若い女性中心のグループのストリート・ダンスが続けてあった。
 ダンスも、上手なダンサーは年齢にかかわらずいるものだと感じた。最近は、このようなモダン・ダンスやロック・ダンスが、若い人たちの学校のクラブ活動や習い事で人気が高いそうだ。Photo_20230430054501
 そして午前最後のプログラムとして、これも恒例となっている高槻市内にある大阪府立芥川高校の和太鼓クラブによる和太鼓演奏があった。
 大小各種の太鼓による太鼓のみの合奏、笛を加えた太鼓演奏、そして最後には三味線と太鼓の合奏があった。三味線はエレキ型なのだろうと思うが、ただ一人なのに音量も演奏技術も素晴らしかった。太鼓は、音量がじゅうぶんであるためか、このような河川敷での演奏ではやはり花形である。今年の和太鼓演奏にも、すっかり感動した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

杉山大志『亡国のエコ』2023.2

気候変動問題への誤解とエネルギー政策の欠陥と誤りの指摘
 キャノングローバル研究所研究員の杉山大志氏による、最近話題となっている気候変動危機にかんする論考で、「今すぐやめよう太陽光パネル」という副題がついた本である。
 気候危機、脱炭素、SDGs、ESG、ネットゼロ、などというキーワードで話題とされている国家政策に深く関わる問題について、科学的データを根拠として、科学的かつ合理的に厳しく批判している。
 おもな主張は、地球温暖化は現実には問題でも危機でもない、温暖化を脱炭素で防ごうと多大な努力を傾注してもその効果はごく些少に留まる、そして気候変動対策とされる政策は間違いでありむしろ大きな問題と危機を招く、というものである。

 まず、これまでに明らかになっている気候変動のデータが示される。産業革命前の1850年時点の大気中の二酸化炭素濃度は280ppmであったが、現在は410ppmと約1.5倍弱に増加しているのは事実である。この間温度は0.8℃上昇したことが観測されている。日本でも観測データによれば、過去100年間で温度は0.7℃上昇している。
 しかしこれは大きな温度上昇とは言えない。ただ、都市化現象たる道路舗装・自動車の増加などによるヒートアイランド効果は局地的には発生していて、約3℃の温度上昇がみられる。これは当然ながら人口密度が大きい都市のみで発生するもので、全地球規模の現象ではない。
 マスコミなどは、気候変動で自然災害が激甚化しているというが、観測データと記録からは激甚化はまったく見られない。台風の発生頻度も大型化も発生していない。温暖化の悪影響といわれる現象、たとえば北極熊の減少や、海洋上の島嶼の沈下などもまったく発生していない。
 気候災害による被害額の上昇は、たとえば過去20年間で2.5倍などのデータがあるが、これは災害そのものが激甚化したのではなく、経済成長によって災害に関わっている富が増加したものである。2022年度の東京都の資料で、過去50年間で災害件数が5倍になったとされるが、それは行政制度の整備などにより、災害の検出・認知・報告の件数が増加したのである。1.5℃の平均気温上昇ですら悲惨な結果をもたらすというが、すでに0.8℃は上昇しているのに、恐るべき事態はその兆しさえ発生していないのである。
 結論として、気候変動による気候災害の激甚化はないし、これからも発生しないというのが正しい事実である。
 次に、東京都が2022年打ち出した「カーボンハーフ」プロジェクトを例として、2000年に対して2030年までに二酸化炭素排出量を半減するとした場合の効果を試算している。2000年時点の二酸化炭素排出量は年間0.58億トンであった。これを2030年までに半減するなら、温度は観測データから1兆トンの二酸化炭素は0.5℃の温度上昇をもたらすので、半減により0.00025℃の上昇抑止効果が期待できる。雨量は1℃の気温上昇で大雨の雨量を6%増加することがわかっているから、上記の二酸化炭素排出削減は1日に100ミリ降る雨を0.0015ミリ現象させる効果が期待できる。このように、二酸化炭素の半減という努力は、きわめて微々たる効果しか期待できないのである。このような定量的な議論が、これまであまりになさ過ぎた。
 それに対して、その「二酸化炭素排出削減」を実現するためには、莫大な資金と労力を必要とする。日本政府が掲げるプランでは、2050年に「カーボンニュートラル」として、実質的に二酸化炭素増加をゼロとするために、10年間で150兆円を投入するというのである。
 東京都は、2022年5月、都内の新築住宅に対して太陽光パネルの設置義務化の方針を決定した。太陽光パネルによる発電には、多くの大きな問題や欠点がある。太陽光の変動が発電能力に直結するので、昼間のみの発電であり、しかも曇りや雨で大幅に低下する。そのため発電は稼働時間が限られるうえに、きわめて変動が大きく不安定である。電力エネルギーは、大規模で経済的なバッテリーがない現状では、発電した電力をそのまますぐ消費する必要があり、利用に耐える電力にするためには火力発電のような発電量をこまかく調整できる補助発電機との組み合わせが必須となる。そのため、実際の採算性はとても悪く、電力コストはとんでもなく高騰する。それを公的財政と国民の電力料金から補填しようというのである。
 太陽光パネルの製造は、大量の電力と人件費を要する。世界の太陽光パネルの最大の供給国は中国で、その現場は露天掘りの炭鉱と、石炭火力発電所と、太陽光パネルの工場が新彊ウイグル地区にコンビナートとして集結して造られ、コンビナート周辺地域の環境汚染にほとんど配慮せずに、新彊ウイグル人の人権問題を含む強制労働に近い安価な労働力が投入されて、世界的な価格競争力を達成している。したがって人権問題だけでなく、実質的な環境負荷も実は甚だ大きい。
 太陽光パネルは、太陽光があれば常に発電するので、台風や水害のとき漏電や感電の事故を防ぐことが簡単ではないという、隠された大きな問題もある。
 経済合理性に優れた発電方法としては、石炭火力があり、現実にウクライナ戦争発生以後、ロシアへのガス依存から離脱を目指す欧州諸国は、猛烈な勢いで石炭火力発電に戻りつつある。石炭は、石油ほどには資源の偏在がなく、産地が多くて安価で資源リスクが小さい。石炭火力発電は技術が成熟していて、発電時の環境対策も進んでいる。発電電力の制御も容易で、コストが低廉である。
 エネルギーコストの問題は現実には深刻で、容易にインフレや経済成長の足かせの大きな要因となる。再生可能エネルギーを増やせば化石燃料は不要になる、というような憶測はまったく間違っている。
 そのような事実にてらして、現在日本のみならず、ヨーロッパやアメリカでさえも進められようとしている脱炭素の方向性は、きわめて不合理で深刻な危険でさえある。
 経済合理性に反する努力は、経済成長を阻害し、国家安全保障をも脅かす。国家として、自殺的行動に近いといえる。スリランカは有機農業以外の農業生産を許可しないという強硬な脱炭素政策を行って、ヨーロッパなど気候危機をさけぶ多くの国々のひとびとから大きな賞賛を集めたが、農業生産が激減し輸出ができなくなって経済危機をひきおこし、燃料を輸入できなくなってデフォルトの後、政権が崩壊した。
 一方で中国は、環境汚染をものともせず石炭火力発電をさらに増強するとともに、原子力発電も大幅に増加して豊富な電力供給をしっかり確保し、太陽光パネルは新彊地区などにコンビナートをつくって世界最低価格の製品を量産して、専ら経済的合理性にもとづく世界戦略を着々と進めて、多くの国々をエネルギーを武器に支配しようとしている。
 冷静に考察したらほとんど意味の無い危険な脱炭素化に、経済的合理性を無視して大規模な財政を投入し、結局は国力を疲弊して安全保障を脅かすような政策は、決して実施すべきではない。
 むしろ現実的には、火力発電、原子力発電の有効活用をベースに、将来のために核融合実験炉などを国の支援で推進し、経済的合理性を重視しつつ、エネルギーで自立できることを真剣に目指すべきである。
 この本の概要は以上である。論拠のもとになるデータと気候変動問題に対する認識にかんしては、スティーブン・E・クーニン『気候変動の真実』の内容とほぼ同じであり、事実誤認はない。この本ではその認識のうえで、現在のヨーロッパや日本のエネルギー政策の根本的な欠陥と誤りと危険性を、きわめて具体的に指摘している。
 少し性質は違うが、最近のコロナ騒動も、私の理解を超えるような集団ヒステリーの様相が蔓延した。わが日本も、無責任なマスコミだけでなく政府も国民も、思いがけず信じがたいようなことに付和雷同してしまうことがあるのは、大きな懸念事項である。
 わが国の政権担当者も、ぜひ早めにこの本を読んで、よく考えていただきたいと思う。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(23)

新橋停車場の復元駅舎
 ようやく出発点の新橋駅までもどったが、朝の出発時点で時刻が早すぎて入場できなかった新橋停車場の復元駅舎を訪ねた。ここは鉄道歴史展示室を備え、鉄道関係の展示と、わが国の蒸気機関車のビデオ放映をしていた。
 日露戦争の後ころから、鉄道輸送は全国的に発展し、当初はイギリス製やドイツ製の蒸気機関車を用いていた国鉄にも、やがて国産の蒸気機関車が登場するようになった。Photo_20230428055901
 旅客者用に高速化を図るため駆動車輪の直径を大きくしたC型蒸気機関車では、時速120キロメートルほどの速度が得られ、また荷物輸送のため牽引力を重視して、駆動車輪の直径を小さくしたD51型を典型とするD型蒸気機関車も広く普及した。
 昭和34年(1959)の国鉄の「動力近代化計画」で、電化の推進と、ディーゼル化への代替が進められるようになり、蒸気機関車は昭和49年(1974)11月に本州から、昭和50年(1975)3月に四国・九州から相次いで姿を消し、この時点で大半の蒸気機関車の型式が消滅し、北海道にC57形・D51形・9600形の3形式が残るのみとなった。そして昭和50年(1975)12月14日、「さようならSL」のヘッドマークを掲げたC57 135による室蘭本線室蘭─岩見沢間の225列車が運行され、蒸気機関車牽引の定期旅客列車は姿を消した。
 このような蒸気機関車の話題は、私には知らなかったことが多くて興味深かった。振り返ってみると、私が社会人となったころには、まだ多数の蒸気機関車が全国各地を走っていたのである。私の青少年時代が如実に「時代劇」の世界になったことを、あらためて感じた。

散策を振りかえって
 こうして東京の中心部の一部を午前・午後を通じて10キロメートルほど散策した。東京のごく一部に過ぎないのだが、実に多くの近代初期の史跡がある。私がもっとも感銘を受けるのは、幕末維新期、とくに維新以後の10年ほどのごく短い諸事多忙な間に、実に多くの事業が発案され、具体化され、実際に起業され、後に発展している、という事実である。この他にも、失敗に帰したこと、時間と共に消滅した事象も多々あったことだろう。
 たとえば、東日本大震災からすでに12年が経っているが、その復興の状況と比較しても、この幕末維新期の変化と発展の迅速さは驚きである。このころの日本は、徳川幕府の行き詰まりでいったん疲弊し衰弱していたが、実は秘められたあるいは鬱積した莫大なエネルギーがあり、維新をきっかけとしてそれらが一気に爆発したかのようである。もちろん、それまでの徳川幕府のもとでの着実な蓄積と実績が、あくまででそのベースであり、変革に際しては、あとから振り返れば思った以上に民間の活力や外国の力の有効な活用があった。
 これらの事実は、現在の日本の低迷・衰退の風潮と、これからの脱皮・再生に対して、貴重なヒントとなり、国民の自信となる要素が満載であると思う。とても興味深く、感動とともに考えることの多い散策であった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(22)

交詢ビルディング
 再び来た道を戻って銀座6丁目までくると、特徴あるファサードを備えた交詢ビルディングがある。
 交詢社は、明治13年(1880)福澤諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家の社交クラブである。名称は「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」に由来する。慶應義塾の同窓会メンバーを中心として社則を草案し、林金兵衛が構想に関わり、宇都宮三郎から煉瓦家屋を譲り受け、同年1月25日に青松寺(東京芝区愛宕下)で交詢社の発会式が行われた。Photo_20230427055001
 慶應義塾出身者が中心であったが、一般の加入者もあった。大正元年(1912)に財団法人化され、正式名称は財団法人交詢社という。入社には社員2名の推薦を必要とし、入社審査を通過する必要がある。のち法人制度改革により一般財団法人に改組された。
 活動は大きく分けて政治的運動と出版事業である。
 自由民権運動が盛り上がった明治時代、憲法制定が課題になると、憲法案を草案し発表した。「交詢社憲法」と名づけられ、私擬憲法のひとつであった。また大正政変で、第3次桂太郎内閣に対抗する護憲運動の拠点になったことでも知られている。
 出版事業としては、紳士録『日本紳士録』を発行していた。明治22年(1889)から隔年で交詢社(後に交詢社出版局)が編纂し、各界で活躍する人物を紹介していた。明治期の発刊当初は高額納税者を掲載していた。古来より結びつきが深かった住友銀行と三井銀行が広告を出稿していた。また、天皇、皇后をはじめ秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、寬仁親王家、桂宮家、高円宮家など皇族も収録されている。平成19年(2007)4月に刊行された第80版で休刊した。
 なお、交詢社ビルの本体は立て直されているが、特徴あるファサードのみは、現在も残されているのである。<

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(21)

煉瓦銀座之碑
 北東方向に銀座1丁目まで、地下鉄駅近くまで行くと、復刻したガス燈があり、その傍に「煉瓦銀座之碑」が建っている。
Photo_20230426054501  明治5年(1872)2月26日に発生した銀座大火は銀座全域を焼き尽くし、その猛威は築地方面までおよんだ。当時の東京府知事由利公正は、この災害を繰り返さないために羅災した銀座全地域を不燃の煉瓦造りの街にすることを計画し、煉瓦街が35戸造られた。街路照明は、当時の最先端の照明としてガス燈が採用された。この「煉瓦銀座之碑」は昭和31年(1956)に建てられた。傍に立つガス燈は、明治7年(1874)の燈柱で、燈具は当時のものを忠実に再現している。都市ガスの発端は、加熱源ではなく、照明、すなわちガス燈こそが目的なのであった。
 由利公正(1829-1909)は、福井藩士の子として生まれた。藩主松平慶永に仕え、横井小楠の実学思想に師事し、当時窮迫していた藩財政の再建に貢献した。明治政府の発足にあたり新国家の基本方針を示した「五箇条の御誓文」の草稿を作成した。その後、東京府知事、元老院議官、貴族院議員などの要職を歴任している。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(20)

東京銀座通電気燈建設之図
 銀座2丁目の大倉本館のビル側壁に、電気事業開始記念の「東京銀座通電気燈建設之図」のブロンズプレートがある。Photo_20230425054501
 明治15年(1882)大倉財閥の設立者である大倉喜八郎は「電灯がいかなるものか」を庶民に知ってもらうことが急務であると考え、日本で初めての電気街灯(アーク灯)を、銀座2丁目の大倉組商会前に建設した。この アーク灯は、一般人が見た初めての電気の灯りであった。2,000燭光といわれるその光源の明るさは大きな話題を呼び「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と例えられるほどで、大勢の見物客が連夜つめかけたと言われている。
Photo_20230425120201  なお、日本初のガス灯は明治5年(1872)横浜に登場し、続く明治7年(1874)日本橋に石油ランプの街灯が登場していた。しかし、アーク灯の光はガス灯や石油ランプをはるかにしのぐ明るさだったという。
 その後、昭和31年(1956)電気街灯建設の地の記念灯としてアーク灯が復刻され、以降昭和47年(1972)、昭和61年(1986)と老朽化による改装を重ね、今回大倉本館ビルの建て替えに合わせ4年ぶりに4代目の記念灯が再建された。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

 

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(19)

専修大学発祥の地
 築地川祝橋公園まで戻り、銀座方面に少し歩くと、ビルの脇に赤い大理石の碑がある。「専修大学発祥の地」の石碑である。Photo_20230424073401
 専修大学は明治13年(1880)9月に開校した専修学校(現在の専修学校とは異なる)を前身とする、五大法律学校のひとつであり、大正11年(1922)大学令に基づく大学となった私立大学である。
 大学の前身である専修学校は、明治8年(1875)日本人の官費留学生によってアメリカ合衆国で結成された「日本法律会社」にまで歴史はさかのぼる。当時明治政府は、近代国家建設を目指して、西欧の先進的な文化を導入するため、積極的に海外留学政策を推し進めていた。「日本法律会社」の創立者たちも、アメリカへ留学した人たちであった。明治12年(1879)日本法律会社に所属していた相馬永胤と目賀田種太郎は、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に法律事務所を開設した。そこへほぼ同時期に帰国した田尻稲次郎と駒井重格(こまいしげただ)が加わり、アメリカ留学時に構想していた高等教育機関の設立へ動き出した。
 この構想に賛同した福澤諭吉は、まず慶應義塾内に教育機関を開設するように促した。こうして明治12年(1879)12月に開設されたのが、慶應義塾夜間法律科であった。また、同じくこの構想に賛同した箕作秋坪は、自分の私塾である三汊塾(さんさじゅく)へ法律経済科を設置して、相馬らに教授を任せた。一方、日本法律会社は、東京大学法学部の卒業生らを加え、東京法学会へと発展し、東京攻法館という教育組織を結成していた。
Photo_20230424073402  慶應義塾や三汊塾の一部としてでは、自分たちの求める高等教育機関として不十分であると感じた相馬らは、本格的に独立した高等教育機関の設立を模索した。その結果、明治生命本館として使用されていた明治会堂を借り受けることとなり、慶應義塾夜間法律科と三汊塾法律経済科、さらに東京攻法館を統合して、専修学校を設置することにした。明治会堂跡地(現在の東京都中央区銀座3丁目)には、明治会堂の経緯についての説明板がある。
 これらの教育機関での実績をもとに、相馬ら8名は明治13年(1880)8月、東京府へ開校届を提出し、イギリス法学系の私立旧制法律学校として認可を得た。その後明治会堂の完成が遅延したが、福澤の好意で、簿記講習所で開校式が執り行われた。
 当時、法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校などごく少数にとどまり、東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対して、専修学校法律科は、日本語で英米法を教授する法律学校として多くの学生を集めた。そのため法学部が専修大学の看板学部となっている。
 また、明治13年(1880)に日本で初めて「経済科」(現在の経済学部)を設置し、日本最初の経済学に関する独立した高等教育機関となった。専門教育課程において経済学を日本語で教授した最初の学校でもある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(18)

活字発祥の地
 来た道を戻り、そのまま首都高速道路沿いに進み、築地川祝橋で左に渡り、旧電通ビルの前の道を右に曲がるとコンワビルがある。このビルの裏側に「活字発祥の地」の石碑が建っている。Photo_20230421060301
 幕末に長崎奉行所のオランダ通詞本木昌造は、印刷技術とそのための活字に魅せられて、日本語の活字を開発した。その門人平野富二は明治6年(1873)東京に進出して、東京築地活版製造所を設立し、活字だけでなく印刷機械までも製作して販売した。
 明治維新で東京では、新聞や出版などが活況となり、活版製造所は新しい産業を支える中核的存在となった。とくに築地には幕末から明治にかけて外国人居留地があったこともあり、これまで見てきた学校などに加えて、さまざまな新しい文化の発祥の地となった。
 日本の印刷文化の源泉となった功績を讃え、昭和46年(1971)に この地に碑が建立された。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(17)

蜊河岸と桃井道場跡
Photo_20230420054401  三吉橋から都心環状線に沿って北東に少し歩くと、まもなく左側に京橋公園がある。その中の「蜊河岸」の説明板に、桃井道場がここにあったとの記述がある。
 現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していた。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていた。蜊河岸(あさりがし)は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名であった。明治13年(1880)公布された東京府達によって、この河岸の正式名称になった。
 Photo_20230420054402 江戸時代初期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井(もものい)春蔵の「士学館」があった。嘉永6年(1853)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができる。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(16)

土佐藩築地邸跡と三吉橋
 地下鉄新富町駅に戻って、高速道路をまたぐ橋を西に渡り、中央区役所に出る。こんなに大きな建物なのに、南東側からアプローチすると、高速道路を隔てて反対側でもあり、意外に見つかりにくいことを発見した。
 中央区役所の前に「土佐藩築地邸跡」の説明板がある。1_20230419060201
 この場所は、江戸時代前期に埋め立てられ、武家地や町人地となっていた。文政9年(1826)この一帯の土地をまとめて土佐藩山内家が拝領し、土佐藩の中屋敷ないし下屋敷として使われた。藩邸は、幕末までこの地にあった。幕末に活躍した第15代藩主山内豊信容堂は、ここに屋鋪を構えていたときの藩主であった。豊信は、井伊直弼と対立して藩主を退くといった苦難も経験したが、幕府に大政奉還を働きかけて実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩・長州藩とならんで明治維新の先頭にたって活躍した。
Photo_20230419084601  幕末に土佐勤皇党を結成して幕府に立ち向かった武市半平太は、ここからほど近い士学館道場に通っていた。薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政3年(1856)から3年ほど剣術修行を兼ねて江戸に出ていたが、この地の土佐藩築地邸に寄宿しながら千葉道場に通っていたという。この地は、まさに幕末の壮士の巣窟でもあった。
 この区役所前には、珍しい三叉路型の橋である「三吉橋」がある。
 三吉橋は、中央区役所前の首都高速道路を越えるための三つ又になっている橋である。中央区役所前の高速道路は、首都高速道路から新富町方向出口への高速道路が分岐している。このため、T字状になっている高速道路を越えるため、三つ又の橋が架けられた。道路が交差している場所に、X字型の跨線橋はあるが、三つ又の橋は、珍しい。
 三吉橋のたもとにある石碑には、三吉橋の建設の経緯が、地図入りで詳しく記載されている。石碑の説明によると、築地川の屈曲部と楓川・築地川連絡運河が、中央区役所前で合流していた関係で、三つ又の橋が架けられたとの説明がある。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(15)

靴業発祥の地
 地下鉄有楽町線新富町駅のある入船橋交差点に面したアーバンネット入船ビル北東側の建物の脇に、グレーの石碑が建っている。残念ながら植え込みが繁りすぎて、石碑に貼り付けられた説明文がよく読めない。Photo_20230418054001
 日本で西洋式の靴が履かれるようになったのは、江戸時代最末期ないし明治の初めのころに始まるが、その多くは軍靴であった。また築地の明石町一帯は、明治初期には外国人居留地であり多くの外国人が居住していたため、靴の需要がとくに多かった。
 明治3年(1870)居留地に隣接する入船町に、日本で初めて靴の工場ができて、国内での靴の製造が始まったのであった。
 なお、現在「靴の記念日」となっている3月15日は、この靴工場が創業を開始した日といわれている。
 ここから銀座柳通りを西に少し歩くと、地下鉄有楽町線新富町駅だが、そこから一筋東側に入った小路のビストロで、遅めの昼食を摂った。ここもなかなか趣のある良い店で、いささか歩き疲れた脚を休める心地よいひとときを過ごすことができた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(14)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
立教学院発祥の地
 この近くに「立教学院発祥の地」の碑がある。Photo_20230417072401
 立教学院の基は、西暦597年ローマから英国に派遣されたオーガスティンが初代カンタベリー大主教に着座したその流れを汲み、安政6年(1859)初代米国総領事タウンゼント・ハリスの支援によって、プロテスタント初の宣教師たる米国聖公会のジョン・リギンズが幕府の要請から長崎に私塾を開設し、チャニング・ウィリアムズとともに英学教育を創始したことを起源とする。
 明治3年(1870)ウィリアムズは大阪居留地があった川口の与力町で英学講義所(後の大阪英和学舎、立教大学の前身の一つ)を開設した。明治7年(1874)ウィリアムズは東京に移り、ここ東京築地で私塾「立教学校」を開設した。英国国教会(英国聖公会)を淵源とする米国聖公会が設立した学校であるが、長崎でミッションを開設した当初から英国国教会とは同じ聖公会として連携し、明治20年(1887)に日本において合同し、日本聖公会を設立している。立教学院は、英国国教会と米国聖公会を母体とした学校法人で、英国の伝統的なパブリックスクールと中世ヨーロッパ以来のリベラル・アーツ教育の伝統を受け継いでいる。
 現在は学校法人立教学院として、大学、高等学校、中学校、小学校を運営する学校法人となっていて、本部は東京都豊島区西池袋である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

山口真由『ふつうの家族にさようなら』KADOKAWA

 話題の本ということで、市立図書館に予約をいれたところ、大変人気があるらしく約1年経ってようやく借り出しができた。
 果たして読んでみるとよく整理された構成と明快な文章で、すぐに読み終えることができた。しかし、記述内容に取り上げられた課題はとても難しい。
 ヒトは出生・成長・結婚・生殖・養育・老後という人生の階梯に応じて、誰もが親子・結婚・家族・老後という問題に遭遇することになる。さらにそれぞれの問題には、性別・立場・立ち位置・視点の相違に応じて価値観・欲求・権利・義務が異なり、広範な多様性と激しい葛藤が伴っている。それら問題の典型的な切り口の例として人種やLGBTQの問題がある。
 そして葛藤や軋轢、あるいは生存の保障、生活の保護などの問題に対して、法的規制や制度による公的枠組みもあれば、家族・パートナーあるいは共同体による支援や対処など、問題解決手段にもさまざまなバラエティがあり得る。
 これらの問題は、近年かなりのスピードで変化しているとされるが、その一方で太古の時代から引き継がれている要素あるいは部分も多々ある。たとえばLGBTQは、旧約聖書にも登場している古くて新しい問題である。
 著者は、これらの多様で複雑な問題を、ひとまず「家族」という枠組みを軸に整理して、真正面から熱意をもって挑戦し精緻に思考している。それでもそれらの問題を相互に矛盾なく明確に解決する方法はない、というのが結論である。
 たとえば女性同士の同性カップルがいた場合、近年の生殖医療の成果により、第三者から精子の提供を受け、人工授精で懐胎し出産することも可能である。こうしてできた子は、法的にどう扱われるべきか、親と子の定義が問題となる。それを解決して子を持ちたいという親の願望が満足されたとしても、成長した子は実の父を知る権利を求めるかも知れない。それは精子提供者のプライバシーや人権と両立するのか。このような比較的シンプルそうな例においても、だれもが納得して合意できる解はなかなかみつからない。
 これらの問題の背景となる社会的傾向・宗教・文化は、当然国によってかなりの乖離がある。したがって、「外国では」「西欧では」などという説明は、意味がない。
 私は、これらの問題は人間の理性や感情、さらには生理的・心理的な領域におよぶ多面的で多様な水準の欲求や満足感に関わるので、簡単なわかりやすい解が存在しないのは当然だと思う。それらは相互に二律背反的なもの、両立不可能なもの、を現実に本来的に含んでいるのであり、きれいなシンプルな解はない。
 私は、この本で詳しく論じられているような、問題に対する具体的な考察と議論が、一般的には欠けていると思う。たとえば「LGBTQに対する理解を。差別の廃止を。」という声は大きいが、具体的になにを求めているのか不分明なことがほとんどである。私は、たとえばジェンダー差別の議論でも、トイレの男女別のピクトグラム(絵文字)の色の同一化が、なぜそれが必要なのか理解できない。どんな場合も同じ扱いにせよ、となるとたとえば陸上競技の男女区別をなくすなどは、明らかに不自然で不合理であろう。
 この本の著者のように関連する問題の複雑さ・難解さに真摯に接近することなく、じゅうぶんな知識もなく、深く考えもせず、その場の思いつきで耳ざわりよくその場を凌ぐというような、いわゆる「識者」「コメンテーター」が多すぎるのである。その結果、軽薄かつ無責任な「世論」がひろがる傾向がある。
またこれらの解決にむけてのプロセスで、最低限重視すべき要素として、自由と制約の兼ね合い、権利と責任のバランスを忘れてはならないと思う。具体的には、現代の風潮として「無限の保護と両立しない広範な自由の要求」と「自己責任の否定・排斥」の問題があると思う。広範囲な保護を保証すると謳う政治統治体制が、かならず広範囲な強制力をともなってきたのは歴史が証明している。そして「家族」の存在の意味として、「人間が満ち足りて生きていくために必要な、寄り添うという欲求を実現し得るチャンスを与える」という側面を尊重する必要があると思う。
 本書は、近年マスコミで喧伝されるいい加減で安易な浅い議論ではなく、問題の複雑さ・困難さに丁寧に向き合い、多面的に深く考察した良いエッセイである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(13)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
慶応義塾発祥の地
 道路を挟んだ反対側の三角形の道路内小島の植え込みに「慶応義塾発祥の地」のモニュメントがある。Photo_20230414084901
 18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が盛んに行われ、藩医前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この江戸中屋敷内であった。その中屋敷内に80年余を隔て成立した「蘭学塾」が慶應義塾の原点となった。しかしその後、藩主が変わった中津藩では主に国学、漢学が重視され、鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩から見ると中津藩は立ち遅れた状況にあった。
 幕末の中津藩江戸藩邸では、当主奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った蘭癖大名と評されていた奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。
 奥平昌高は、本格的な蘭学研究者であった。安政5年(1858)中屋敷の藩士に対する蘭学教授の仕事を薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に依頼したが、薩摩藩の事情でそれができなくなり、当時大坂の適塾(大阪大学の源流)で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福澤は藩からここ江戸築地鉄砲洲(東京都中央区明石町)にあった中津藩中屋敷内での蘭学教授の仕事を命ぜられるに至った。福澤諭吉は、塾長として蘭学を学んでいた適塾がある大坂に立ち寄って助手を務める同行者を求め、同年10月中旬、江戸に到着した。
 開塾当初の協力者は、村田蔵六(大村益次郎)の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介、沼崎済介、久留米藩医・松下元芳、中定勝(大阪府仮病院医員)、山口良蔵などやはり適塾に連なる人物が多かった。【続く】

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(12)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
女子学院発祥の地
 さらに前進して聖路加国際病院の端まで行くと、聖路加看護大学の前の植え込みに「女子学院発祥の地」の石碑がある。
女子学院は、キリスト教プロテスタントカルヴァン派長老派教会のミッションスクールで、明治3年(1870)設立の女子中等教育校として最古の学校である。Photo_20230413053801
 明治3年(1870)ジュリア・カロザースにより、この築地居留地六番にA六番女学校が設立され、その後原胤昭に引き継がれて、原女学校となった。
 明治7年(1874)ミス・ヤングマンとミス・パークがやはりここ築地居留地六番地にB六番女学校を設立し、その後居留地四十二番に移転して新栄女学校となった。
 明治9年(1876)櫻井ちかが麹町に櫻井女学校を設立した。櫻井が夫の函館赴任に伴い北海道に去ると、メアリー・トゥルーが経営を引き受け、矢嶋楫子が校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理となり同校を支えた。
 明治11年(1878)に原女学校と新栄女学校が合併し、さらに明治23年(1890)櫻井女学校と合併して校名を「女子学院」に改め、千代田区一番町に校舎を新築移転し、矢嶋楫子が初代院長となった。
 中学・高校一貫教育のプロテスタントのミッションスクールであり、週5日制を踏襲している。卒業生の4割ほどは東京大学をはじめとする難関国立大学に進学し、進路は多岐に渡っている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(11)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
暁星学園発祥の地
 いったん銀座柳通りまで出て、佃大橋西から明石小学校の方向に戻り、築地カトリック教会に向かうと、教会の前の歩道に「暁星学園発祥の地」の石碑がある。
 明治10年(1877)から日本で宣教活動をしていたパリ外国宣教会のピエール・マリー・オズーフの要請により、パリのカトリック教育修道会マリア会から、アメリカ人を含む5人の宣教師を日本に派遣し、明治21年(1888)築地カトリック教会の敷地内に家塾として神学校を開設したのが暁星学園の母体である。Photo_20230412060101
 マリア会は、19世紀の初頭、フランス南西部の中心都市ボルドーに始まり、フランス革命の荒廃した社会風潮から「青少年を守ろう」と、シャミナード神父が7人の修道士に呼びかけ、教育修道会として組織したものであった。初めは「わずか6人の生徒」を数えるだけの「寺子屋」的な教育機関に過ぎなかったという。このマリア会の家塾は開設2年後に現在の九段の高台に移転した。
 明治32年(1899)旧制暁星中学校が設立認可され、大正8年(1919)には卒業生にフランスのバカロレアと同等の資格が与えられることになった。暁星はフランス語で明けの明星を意味するétoile du matinに由来する。
 大正12年(1923)の関東大震災では校舎に引火し被害が甚大となったが、ローマ教皇庁はじめ世界中の国々からの浄財が集められ大正14年(1925)校舎は再建された。学制改正により暁星初等・中等学校となった。太平洋戦争中は学童疎開において暁星疎開学園委員会を結成し軽井沢や箱根、山梨に分かれて疎開した。
 戦後の学制改革により、暁星初等・中等学校は、暁星小学校、暁星中学校となった。昭和23年(1948)暁星高等学校が認可設立され、小中高の一貫教育を開始した。
 『キリスト教の理念に基づく教育により、人格の完成をめざすと共に社会の福祉に努める人物を育成すること』を建学の精神とし、フランス語を必修としている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(10)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
青山学院記念の地
 「女子聖学院発祥の地」の石碑の、道路に面した反対側の植え込みに「青山学院記念の地」の石碑がある。
 青山学院は、明治7年(1874)に佐倉藩士出身の農学者津田仙の斡旋により、ドーラ・E・スクーンメーカーが麻布に設立した女子小学校、明治11年(1878)に津田仙が命名・斡旋してジュリアス・ソーパーがこの築地に設立した耕教学舎、そして明治12年(1879)にロバート・S・マクレイが横浜山手町に設立した美會神学校の3つの学校を源流とする大学である。
 Photo_20230411054401 明治14年(1881)津田仙、和田正幾、菊池卓平、元良勇次郎、生島閑、栗村左衛八等の尽力により、耕教学舎と美會神学校が合併して「東京英学校」となった。明治16年(1883)ジョン・F・ガウチャーの寄付により赤坂区青山南町七丁目の開拓使試験場跡に移転して、「東京英和学校」と改称した。
 明治27年(1894)に本多庸一院長により青山學院と改称し、神学部と普通部が設置された。明治37年(1904)神学部、高等科、青山女学院英文専門科が旧制専門学校として認可された。昭和19年(1944)青山学院工業専門学校を開設、昭和22年(1947)青山学院専門学校横須賀分校を開設した。
 昭和24年(1949)新制大学として青山学院大学が開校し、文学部、商学部、工学部を設置した。令和2年(2020)時点で、11学部・12研究科(大学院)を設置する総合大学となっている。
 特徴として、学院院長、理事長、および大学長を除く設置学校の長は、すべてキリスト教徒であることが義務付けられている。そのため現在でもキリスト教を教育の基本に置き、「キリスト教概論」の講義は、建学理念のバックボーンを理解するために必修科目として位置づけられている。「地の塩、世の光」(マタイによる福音書 5章13〜16節)をスクール・モットーと定めている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(9)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
女子聖学院発祥の地
 「明治学院発祥の地」の近くに「女子聖学院発祥の地」の石碑がある。Photo_20230410060501
 女子聖学院は、明治38年(1905)11月、この東京築地の宣教師館に創立した。初代校長は明治31年(1898)に来日した米国プロテスタント教会の女性宣教師37才のバーサ・F・クローソンで、わずか10名の生徒でのスタートであった。当初は、女子のキリスト教指導者を育成するための神学部であったが、その後、普通部本科、家政学部が開設された。
 途中、神学部は青山学院神学部に合併し、家政学部は廃止となり、普通部本科だけが残り、戦後の学制改革により、今日の形となった。
 さきの大戦後は、昭和35年(1960)女子聖学院小学部開設(現聖学院小学校)、昭和42年(1967)女子聖学院短期大学開設(現聖学院大学)と、発展した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(8)

文明改革期の日本の大学・教育機関の発祥記念碑
 この付近は、江戸開市にともなう外国人居留地として開化期に開発され、多くの外国人、とくに伝道師や教育者が来日・居住したことから、現在に続く多くの教育機関の発祥の地となっている。

明治学院発祥の地
 「指紋研究発祥の地」の碑から北に少し進むと「明治学院発祥の地」の石碑がある。Photo_20230407061101
 アメリカ長老派教会の医療伝道宣教師・医師であったジェームス・カーティス・ヘボンが横浜で開いた「ヘボン塾」を起源とする、日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。
 この石碑によると、明治10年(1877)この地に開設された東京一致神学校を基とするとされる。明治19年(1886)東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校の合同時に新校名として「一致学院」「共同学院」「明治共立学院」の3案が示され、同年6月の理事会で議論を重ねた結果、植村正久が提案した明治学院を採用することに決定したという。
 「明治学院」の意味するところは「明けき政治の時代の学問の学校、即ち明けき政治の学校」との意であるとされる。
 建学の精神として「キリスト教主義教育」を掲げ、キリスト教による人格教育を実践している。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(7)

指紋研究発祥の地
 晴海通りに入り、少し南下すると隅田川にかかる勝鬨橋に至る。ここを左折して隅田川沿いに歩くと、聖路加ガーデンという真新しいビルに入る。このビルに入り、階段を下りて河岸と反対側の道路に出ると、すぐ前の植え込みに「指紋研究発祥の地」の石碑がある。Photo_20230406054001
この石碑は「ヘンリー・フォールズ住居の跡」とのサブタイトルがついている。
 ヘンリー・フォールズ Henry Faulds(1843-1930)は、スコットランドに生まれた。父親の事業が破綻し、おじの商社で働きながらグラスゴー大学を1868年に卒業、アンダーソンカレッジ(現在のストラススクライド大学)で医学を学んだ。
 長老派のスコットランド一致長老教会の医療宣教師としてインドに渡った後、やはり教会の医療伝道団の一員として伝道を目的として明治7年(1874)来日し、この地の築地病院で働き、治療とともに日本人医学生の指導を行った。先に訪れた東京盲唖学校の設立にも関わった。
日本でエドワード・モースと親しくなり、大森貝塚の発掘に参加した。発掘された土器に残された、古代人の指紋に興味を持ち、指紋の研究を始め、大量の指紋を集め、比較対照し、同一の指紋をもつもののないこと、物理的に除去したとしても再生すること、児童の指紋が成長によって変わらないことを確かめた。
 明治13年(1880)その研究成果を書いた手紙をチャールズ・ダーウィンに届けたが、ダーウィンは手紙をいとこにあたるフランシス・ゴルトンに送った。返事のないままフォールズは、日本から『ネイチャー』に論文を投稿し掲載された。その翌月ウィリアム・ジェームズ・ハーシェル(ウィリアム・ハーシェル=ハーシェル天体望遠鏡の発明者 の孫)が1860年頃インドの役人時代に契約書に指紋押捺させていた経緯を『ネイチャー』に発表した。
 指紋による個人識別についてはフォールズの発表時には注目を集めなかったが、1892年に優生学・遺伝学の研究者フランシス・ゴルトンによる『指紋』の出版、インドの警視総監エドワード・ヘンリー、分類法を確立したアジズル・ハクの研究と1900年のヘンリーの『指紋の分類と使用法』の出版によって実用的なものとなっていった。
 本当は先行していたフォールズの業績は、ゴルトンによって無視されることになった。さらにフォールズは指紋による誤認逮捕を恐れる立場から単指指紋を証拠として採用するのに反対する立場をとったため、スコットランド・ヤードとも対立した。フォールズは、指紋研究の先行性についてハーシェル、ゴルトンと業績を争ったが、存命中はフォールズの業績先行は認められなかった。
 80年以上後になって、ようやく1987年に指紋検査官の協会がフォールズの墓を再建しその功績を顕彰した。
 指紋の特異性・有用性の発見が、意外に新しいものであったこと、さらにその業績が、英国人の日本滞在中に行われたことに、私は驚いた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(6)

築地場外市場・軍艦操練所跡
 市場橋公園から南下すると、かつての築地市場地区になる。いまでも築地場外市場が賑わっている。Photo_20230405054101
 築地場外市場は東京都中央区にある商店街で、通称「場外」「場外市場」「築地場外」と呼ばれるようだ。築地市場に隣接し、市場と築地四丁目交差点(新大橋通りと晴海通りとの交差点)との間の築地四丁目、築地六丁目にあたる。築地市場の豊洲市場への移転後も営業を継続しており、はとバスのコースも設定されている。すしざんまい本店、小田保(豚カツ、フライ)、近江屋牛肉店(食肉)など、海産物を中心に小売店、飲食店などが多数ある。
 コーヒーでも飲んで少し休憩しようと、喫茶店に入った。なかなかおしゃれなレトロ風のお店で、すっかり寛いだ。店内にも外国人の客が多いようだ。
 築地場外市場は、平日にもかかわらず、外国人客も含めてほんとに大盛況である。
 築地場外市場の賑わいを突っ切って南下すると、波除神社に突き当たる。ここを左折して勝鬨橋方面に向かう。晴海通りに出る角に、軍艦操練所跡の説明板が立っている。
 軍艦操練所は、幕末期に江戸幕府が海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関であった。
 黒船来航後、西洋式海軍の必要を痛感した幕府は、幕府海軍の建設に乗り出した。最初の本格的な海軍教育機関として、安政2年(1855)長崎海軍伝習所を設置した。長崎に続いて、江戸の築地にあった講武所のなかに海軍教育部門を設けることにした。安政4年(1857)永井尚志以下の長崎海軍伝習所の学生の一部が蒸気船「観光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所が開かれた。航海術、海上砲術、オランダから輸入した軍艦の操縦などの教育・訓練が目的であった。
Photo_20230405054201  しばらくは長崎海軍伝習所と並立していたが、西洋式軍事技術の導入に消極的な井伊直弼の大老就任により、安政6年(1859)長崎海軍伝習所は閉鎖された。こうして築地の軍艦教授所は、以後の幕府海軍教育の中核施設となった。当初の教育対象は幕臣に限定されていたが、万延年間(1860-1861)には諸藩からの学生も受け入れるようになった。
 元治元年(1864)軍艦教授所は、軍艦操練所と改称した。しかし間もなく付近で発生した火災が延焼して、施設の大半を焼失した。勝海舟はこれを期に神戸にも海軍操練所を整備しようとしたが、小栗忠順らが速やかに築地軍艦操練所を再建したため、従来の方針が維持された。
 軍艦操練所はさらに軍艦所と改称され、慶応2年(1866)には教育だけでなく、海軍奉行を置き、幕府海軍の行政機関としての機能も追加されて、最終的に海軍所となった。慶応3年(1867)に火災に遭って再度焼失し、築地から浜御殿へと移転した。その後新たにイギリスのトレーシー顧問団による教育が行われる予定であったが、大政奉還・王政復古に伴う幕府瓦解により、実現しないままに終わった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(5)

東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地
 みゆき通りをさらに進むと市場橋公園がある。ここに「東京盲唖学校発祥の地・日本点字制定の地」の碑がある。
 東京盲唖学校(とうきょうもうあがっこう)は、明治後期の日本に存在した官立の盲教育・聾唖教育機関である。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校、同聴覚特別支援学校の前身に当たる。
 明治8年(1875)古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香・ボルシャPhoto_20230404055401 ルト・ヘンリーフォールズの6人が集まって、盲人学校を設立するための主体として「楽善会」を発足させた。続いて、前島密・小松彰・杉浦譲・山尾庸三が加わった。翌明治9年(1876)楽善会訓盲院の設立認可が下り、皇室より3,000円が下賜された。校舎は築地3丁目、約4,783坪だった。明治12年(1879)12月、総面積約100坪、総レンガ造りの2階建て、室内は総漆喰塗りの校舎が落成し、翌明治13年(1880)授業が開始された。
 明治17年(1884)盲人だけでなく聾唖者の教育もという観点から聾唖者の受け入れを始め名称も訓盲唖院と改称した。明治19年(1886)には楽善会から文部省に移管されて官立学校となった。明治21年(1888)には東京盲唖学校と改称された。
 明治23年(1890)校舎が小石川区指ヶ谷町に移転された。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(4)

海軍兵学寮跡と海軍軍医学校跡
 采女橋を渡り、国立がんセンターに入る道の入口右手の都心環状線沿いに「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の記念碑がある。Photo_20230403062301
 明治2年9月(1869)海軍操練所が東京築地の元芸州蔵屋敷内に創立開設され、明治3年11月(1870)海軍兵学寮と改称し、明治9年(1876)また改称されて海軍兵学校として開校した。この築地時代に明治天皇が皇居から海軍兵学校まで行幸した道が、現在のみゆき通りとなったのである。
 この海軍兵学校は、明治21年(1888)に呉市の呉鎮守府に近接した広島県の安芸郡江田島町(現在の江田島市)に移転した。「本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれ軍艦でイギリスから運ばれた」と伝えられている。
 海󠄀軍軍醫學校󠄁は、大日本帝国海軍における軍人の医療・衛生を担当する軍医および看護士・薬剤師を養成する教育機関である。
 明治5年(1872)現在の国立がん研究センター中央病院の場所にあった海軍病院に「海軍病院学舎」を増設し、イギリスから招聘した医学博士アンダーソンによる医術の手ほどきを、11名の医師に与えさせたのが起源である。9年にわたって医術教育は継続されたが、明治14年(1881)第1回卒業生を送り出した後にアンダーソン博士が帰国したため、教育が続行不能となった。
 そこで、高木兼寛医務局副長を中心とする日本人医療スタッフが自ら教鞭をとり、翌年に海軍医務局学舎を立ち上げ、10名の医師の指導を始めるとともに、軍医官依託学生制度を新設し、東京帝国大学医学部生7名を候補に挙げた。これは明治19年(1886)「海󠄀軍軍醫學校󠄁」と改称され、ほぼ同時に同じ東京市の芝山(現・港区西新橋)へ移転した。海軍病院と離れてしまったため、臨床実験や実習は隣接する東京慈恵医院の協力を得た。その東京慈恵医院は海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)で学んだ高木兼寛が松山棟庵と共に設立した医院であり、現在の慈恵医大である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

東京都心の幕末維新文明開化史跡散策(3)

築地川・采女橋・築地ホテル館の勾欄
 みゆき通りをさらに少し進むと、采女橋という首都高速都心環状線道路にかかる橋に出る。この橋の下は、かつては築地川(つきじがわ)という河川であった。Photo_20230401060301
 築地川は、東京都中央区を流れ東京湾に注ぐ二級河川で、現在はほとんどが埋め立てられ、ごく一部が残るのみとなっている。
 江戸時代に江戸前島の東に位置し、もとは海であったのが埋め立て造成され、海から陸になった際に埋め残されて運河となった部分が築地川となった、と考えられている。
 かつての築地川は、現在の隅田川の明石町付近の明石堀から分流し、入船橋を通り、中央区役所付近から現在の首都高速都心環状線に沿い、浜離宮恩賜庭園の東側を通って隅田川に合流する河川であったとされている。この他に支流として現在の銀座出入口付近から別れて隅田川に流れる東支川、聖路加国際病院付近から築地方面に向かい築地本願寺の南側を通り東支川に合流する南支川があった。南支川には小田原河岸、明石堀には南飯田河岸があった。明治期には南支川周辺に、これから訪れる築地居留地が造成された。
 築地川は数度にわたる埋め立ての結果、本流の大部分・東支川・南支川・連絡運河は完全に消滅し、現在では本流が河口付近に750m程残っているのみである。
 本流のうち入船橋から下流側は、ほとんどが現在の首都高速都心環状線に転用されている。新しく道路を大規模に造成するとき、かつての川の埋め立て地は好適である。細長く、建造物がなく、所有者の問題もない。
  半地下構造にかつての名残が残るが、将来的には半地下構造を完全にトンネル化する構想もある。首都高速道路に蓋をする形で橋に隣接して小規模な公園として、築地川亀井橋公園、築地川祝橋公園、築地川千代橋公園が設けられている。

 そしてこの采女橋の鋳物製の勾欄のデザインは、幕末の慶応4年(1868年)に開業した日本最初の本格的ホテルであった築地ホテル館を表現している。
Photo_20230401060302  ロンドン覚書にもとづく慶応3年(1868)からの外国人に対する江戸開市によって、江戸に滞在する外国人の増加が予想された。イギリス公使ハリー・パークスは幕府にホテルの建設を要請し、それに応えて築地船板町の軍艦操練所の跡地(現在の中央卸売市場の立体駐車場あたり)に「築地ホテル館」が建設されることになった。設計は横浜外国人居留地に土木建築事務所を開いていた、アメリカ人のリチャード・ブリジェンスが担当した。
 このホテル開設について、小栗忠順は「民間でこれを行なうものがあれば、土地は幕府が無償提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から資本を募り、利益を出資金に応じて分配する。」とした。これに応じたのが、清水組(現在の清水建設の前身)の二代清水喜助で、工事だけでなく経営も引き受けることとなった。
 慶応3年8月(1867)に建設着手し、1年後の慶応4年8月(1868)完成した。ところがすでに幕府は瓦解し、完成前月の7月には江戸が東京と改められ、完成翌月の9月には明治と改元された。正式の開業日は、予定より1年遅れた東京開市に合わせた明治元年11月(1869年1月)であるが、その前も仮営業し、宿泊客を受け入れていたようである。
 完成したホテルの規模は、2階建ての本館(一部3階、塔屋付)と平屋からなり、延1619坪、間口40間、奥行34間、102室と立派な規模であった。設備も、水洗トイレつき、ビリヤード室、シャワー室、バーが備えられていた。連日見物人が押し寄せ、錦絵が100種以上も作られ、江戸・東京の新名所となった。
 しかし築地居留地は商業にかんしてはさほど発展せず、ホテル館の経営も厳しくなり、明治3年(1870)清水喜助は経営から退き、明治5年(1872)ホテルの建物は海軍の管理下に渡った。それから間もなく発生した銀座大火で類焼し、灰燼に帰した。わずか4年足らずの寿命だった。
 この築地ホテル館だけでなく、たとえば昨年近江八幡市でみた「白雲館」など、幕末・維新期の混迷した時期に、西洋建築の経験も技術もないとき、これだけの建物を短期間で建造した日本の大工の技能に、私は感銘を受ける。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »