佐倉散策(1)
かつて私は製造業会社勤務先の転勤で、20年弱を首都圏に過ごした。ただ、住処が神奈川県であったこともあり、かなり歩き回ったように思っていたものの大部分は東京より西側で、東京より東の千葉、茨城についてはとんと不案内であることにふと気づいた。この度東京方面に小旅行するにあたり、佐倉市街を歩いてみたいと思った。ずいぶん以前、国立民俗歴史博物館ができて間もないころ、博物館は訪問した記憶がある。とは言っても、なにを見たのか今となってはほとんど覚えてはいないのだが。
ともかく朝ホテルを発って、午前9時ころに京成佐倉駅に降り立った。さっそく観光案内所に立ち寄り、アドバイスと散策マップをいただいた。
ざっと京成佐倉駅からいくつかの地点に立ち寄りつつ、半日でJR佐倉駅まで散策するというプランである。関東平野の町ではあるが、佐倉市はあらまし北高南低の地理的条件となっていて、標高が少し高い立地にある佐倉城跡公園からはじめて、次第に南下して武家屋敷や元藩主家たる堀田氏の旧邸を見学しようというものである。
佐倉城跡公園
佐倉城の概要
京成佐倉駅を出発して、歴史民俗博物館方面に向かう。かつての佐倉城の一部に博物館が建てられたので、このあたり全体がお城の高台なのである。佐倉城本丸は、標高30メートルほどの鹿島山の西端部に築かれた。西側と南側は鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側は印旛沼に至る低湿地が広がっていたらしい。
佐倉城のなかの「椎木曲輪(しいのきくるわ)」とよばれた侍屋敷が集積していた地区に歴史博物館が建っている。博物館から城跡公園に向かう途中に、かつての佐倉城は、地理的条件と創建された時代との関係から、石垣がなく土塁だけで守られた構造の珍しい城である、との解説板がある。いわゆるお堀、すなわち水のある水堀もこの城の場合は少なく、「空堀(からぼり)」と呼ばれる水のない溝(塹壕)が多用される構造となっている。
戦国時代、佐倉付近を支配していた千葉親胤が鹿島幹胤に命じて築城を試みたが、親胤が暗殺されて工事は中断した。千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によってまたも頓挫した。いつしか築城予定地は鹿島幹胤にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになった。
天下を掌握した徳川家康は、慶長15年(1610)土井利勝に命じて築城を再開させてようやく佐倉城が完成し、以来佐倉藩の藩庁が置かれた。家康の天下泰平達成の後の、戦争のためではなく大名領統治のための城としてスタートしたことが、石垣や堀を用いない、あるいは多用しない構造となった大きな要因であると考えられる。
歴代城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、また初期は城主の入れ替わりも多かったが、江戸初期に城主であった堀田正信の弟堀田正俊の孫堀田正亮が11万石で再入封してからは、安定した藩の経営が行われた。
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