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2023年5月

ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(4)

キリスト教の神のもとの愛
 シャルル・メラン「ローマの慈愛、またはキモンとペロ」(1628)がある。Photo_20230531053801
 17世紀の画家シャルル・メランは、ロレーヌ公国(現在のフランス北東部)の首都ナンシーの出身であったが、主に当時の芸術の中心地であったローマで活動した。この絵をふと目にした時、白髪の老人が若い娘の乳房を吸う情景に違和感を禁じ得ないが、描かれているのは親孝行の行いである。これは古代ローマの著述家ウァレリウス・マクシムスの『著名言行録』(1世紀)における、父キモンと娘ペロの教訓的な逸話に基づいている。年老いたキモンは牢獄で処刑を待つ身で、食物を与えられていなかった。ペロは獄中の老父を訪れ、ひそかに授乳して栄養を与えたのである。この場面は、孝心(子が親に寄せる愛)の模範として古代美術に表されたのち、16世紀ルネサンス以降の美術で再び取り上げられ、キリスト教の慈悲の行いを表す図像の原型にもなったという。
Photo_20230531053802  ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ「眠る幼子イエス」(1640)がある。
 幼子イエスを優しく胸に抱き、清らかな寝顔をそっと見つめる聖母マリア。ほのかに憂いを帯びたその表情は、いずれ人類の罪をあがなうために十字架にかけられ、命を落とすことになる我が子の運命に想いを馳せているようにみえる。眠る幼子を抱く聖母像は、キリストの受難の暗示として、ルネサンス以降頻繁に描かれるようになった。17世紀イタリアの画家ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィ(サッソフェラート)はこの画題で人気を博し、サイズや構図の細部を変化させながら、多くの作例を残した。見る者は、優しい感情を呼び起こすサッソフェラートの聖母子像に親子愛や人間愛の手本を見いだし、信心を強くしたのかもしれない。Photo_20230531053901
 ウスターシュ・ル・シュウール「キリストの十字架降架」(1651)がある。
 神は我が子キリストに、人類の罪をあがなうために十字架にかけられ、犠牲の死を遂げる過酷な運命を与えた。その意味でキリストの磔刑は、人間に対する神の絶対的な愛の表れとみなすことができる。この作品は、磔刑の直後キリストの遺骸を十字架から降ろす場面が描かれている。聖書の記述に従い、右からアリマタヤのヨセフ、聖ヨハネ、ニコデモの3人の男性がキリストの遺骸を運び、その足にマグダラのマリアが口づけしている。画面右の女性たちのなかには、我が子に向かって片腕を伸ばす聖母マリアの姿が見える。作者のル・シュウールは17世紀フランスの画家で、整然とした構図、明確な輪郭線、明快な配色を特徴とする古典主義様式を極めた。青と茶の対比に基づく落ち着いた色調と抑制された感情表現が、人々の深い悲しみをみごとに伝えている。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(3)

古代神話における性的欲望の表現(下)
 ドメニコ・ザンピエーリ「リナルドとアルミーダ」(1617)がある。Photo_20230530060101
 この作品の主題は、イタリアの詩人トルクアート・タッソの叙事詩『エルサレム解放』(1581年)に由来している。タッソは、11世紀末の第一回十字軍で聖地エルサレムを異教徒から取り戻すために旅立ったキリスト教徒の騎士たちの冒険を詩に綴った。騎士リナルドとイスラム教徒の魔女アルミーダの恋物語は人気を博して、17世紀にしばしば絵画化されている。敵であるリナルドを殺そうとしたが、恋をしてしまったアルミーダは、魔力で彼を誘拐して自分の宮殿に運びこんだ。17世紀イタリアの画家ドメニコ・ザンピエーリ(ドメニキーノ)によるこの作品では、遠くに宮殿を望む庭園の木陰で、恋の炎を燃え上がらせる二人が描かれている。周りには愛の神アモル(キューピッド)たちが散りばめられ、恋の情熱が強調されている。画面左、緑の茂みの向こうにはリナルドを探す二人の騎士の姿が見える。魔女といっても、ずいぶん若くて魅力的な美形である。
16  作者不明ながら16世紀後半にヴェネツィアで活動した画家の作と推測されている「アドニスの死」(1550)がある。
 愛の女神ヴィーナスと絶世の美青年アドニスの悲劇の恋は、ルネサンス以降の西洋絵画で最も人気を博した画題の一つであった。アドニスは、ヴィーナスの心配をよそに危険な狩りに出かけ、イノシシに突き殺されてしまう。悲痛な結末を視覚化したこの作品には、中央に死せるアドニスが横たわり、その横に気を失ったヴィーナスが配されている。三美神のうち二人の女神がアドニスとヴィーナスの身体をそれぞれ支え、3人目の女神は遺骸を覆うための布を手にしている。背後の遠景では3人の小さなアモル(キューピッド)が、悲劇を招いたイノシシを矢で痛めつけて仇を討とうとしている。人物の大胆なポーズやダイナミックな構図には、16世紀ヴェネツィアの巨匠ティントレットの影響がうかがえるという。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(2)

古代神話における性的欲望の表現
 アントワーヌ・ヴァトー「ニンフとサテュロス」(1715)という大作の絵がある。Photo_20230529054601
 山や泉などの自然物の精であるニンフと、人間の身体とヤギの脚を持つサテュロスを組み合わせたエロティックな情景は、古代美術に端を発し、ルネサンス以降はティツィアーノ、コレッジョ、ルーベンス、ヴァン・ダイクなど、名だたる画家たちによって描かれてきた。18世紀前半に活躍したフランスの巨匠ヴァトーによるこの作品は、この系譜に連なるものである。欲望に駆られたサテュロスは、無防備に眠るニンフの身体からベールをそっと持ち上げ、美しい裸身にみとれている。男性─女性、見る(能動的)─見られる(受動的)、褐色の肌─白い肌といった対比が、濃厚なエロティシズムをいっそう強めている。こうして改めて見ると、古典的な絵画でもかなりきわどい性的欲望の表現があったのだと気づくのである。
 Photo_20230529054602 セバスティアーノ・コンカ「オレイテュイアを掠奪するボレアス」(1715)がある。
 ギリシア・ローマ神話の男性の神々が気に入った女性を誘拐するエピソードは、ルネサンス以降の神話画において定番の主題となった。こうした場面には、肉体の強さを利用して愛する者を手に入れようとする男性の欲望の表出を読み取ることができる。18世紀イタリアの画家セバスティアーノ・コンカは、北風の神ボレアスが、川辺でニンフたちと遊んでいた王女オレイテュイアを力ずくで連れ去る場面を描いている。白髪の老人の姿をしたボレアスは、オレイテュイアの白く柔らかな身体をしっかりと抱きしめ、翼を広げて飛翔している。容姿でも年齢でもない、力こそが欲望を達成するのだ、というのだろうか。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(1)

 国立新美術館で「ルーブル美術館展─愛を描く」という展覧会が開催されていたので、鑑賞した。
 古代以来、西洋美術の根幹の一つであった、人間の根源的な感情である「愛」をテーマとする展覧会である。ギリシア・ローマ神話を題材とする神話画、現実の人間の日常生活を描く風俗画などにおいて、特別な誰かに恋焦がれる神々・人々の情熱や欲望、官能的な悦び、あるいは苦悩や悲しみが、どのように描かれてきたのかを探る。また、宗教画においては、神が人間に注ぐ無償の愛、そして人間が神に寄せる愛が、聖家族、キリストの磔刑、聖人の殉教といった主題が、どのように絵画に表現されてきたのかをたどる。こういったテーマのもと、74点の絵画が展示されている。

「愛」の発明
 冒頭に登場するのは、フランソワ・ブーシェ「アモルの標的」(1758)である。Photo_20230528054701
 ブーシェは、18世紀フランス絵画の巨匠である。この作品は、「神々の愛」をテーマにした連作タペストリーの原画の一つで、道徳的に正しい愛の誕生の瞬間が象徴的に描かれているという。古代神話によれば、神であれ人間であれ、愛の感情は、ヴィーナスの息子である愛の神アモル(キューピッド)が放った矢で心臓を射抜かれた時に生まれることになっていた。この作品では、ハートが印された標的に刺さる矢によって、恋人たちの愛の誕生のその瞬間が表されている。標的の上に舞うアモルは、高潔な愛で結ばれた恋人たちに授ける月桂冠を高々と掲げる一方で、地上では、なんと二人のアモルが、もはや不要になった弓矢を燃やしているのである。
 これまでにもキューピットが登場する絵画はたくさん見てきたが、この作品ほど一挙に大勢のキューピットたちが賑やかに溢れる絵ははじめてである。
Photo_20230528054702  西洋の「愛のはじまり」は、やはりアダムとイヴ(エバ)の物語であろう。
 ピーテル・ファン・デル・ウェルフ「善悪の知識の木のそばのアダムとエバ」(1712以降)がある。
旧約聖書の「創世記」によれば、神が創った最初の夫婦アダムとエバは、エデンの園で、互いに恥ずかしいと思うことなく裸で暮らしていた。しかし、蛇にそそのかされたエバが、神から食べることを禁じられていた善悪の知識の木の果実を食べ、アダムにも与えてしまった。この瞬間から二人は裸であることを意識し、神の怒りに触れて楽園から追放されてしまった。ここに描かれているのは、アダムとエバがまさに罪を犯そうとする場面である。両手に禁断の果実を持ったエバは、その一つを自分の口に運ぼうとし、アダムは驚いたような身振りでエバを見つめる。蛇は描かれていないが、悪の象徴と解釈されるトカゲが地面を這っている。
 見栄えのする美しい容姿のエバが明るく描かれる一方で、どういうわけかアダムは日陰にかくれてはっきりとは容姿がわからない。

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コロナ騒動を振り返って

 まず世界全体のコロナによる被害状況を簡単にまとめる。

Covid19

 このデータをみてまず目につくのは、あれほど多くのメディアで「識者」「専門家」のみならず、問題の内容がよくわかっているとは到底思えない「コメンテーター」たちが口をきわめて批判していた日本の「ひどい・不十分なコロナ対策」だったが、相対的には被害が大きくなかったことがわかる。徹底したPCR検査を誇った韓国も、人口比でみると日本よりは被害が大きい。
 それ以上に注意すべき点が、コロナ騒動の当初から、行動制限や行動自粛などにきわめて消極的であったスウェーデンが、被害を十分抑制していたことである。
 対照的な例が、ロックダウンなどの徹底したコロナ封じ込めを実行した中国が、この表をつくるに足るデータを公表していないのだが、上海などの都市封鎖解除のころに、短期間に「感染者9億人」などを公表し、最近でも2023年4月ころに「週あたり4000人の新規感染者」発生などとしていることである。
 つまるところ注目すべき点として、これまでPCR陽性者が急増したのは、いずれもコロナウイルスの変異が発生し感染能力が急増したときに第〇波とよばれる流行拡大の事象が発生する一方で、マスク、緊急事態宣言・蔓延防止措置などの行動制限・行動自粛などの対策の効果が、いまだにほとんど不分明なままであることである。
 私は感染症の専門知識を持ち合わせないが、少なくとも一般的な科学的判断をするつもりである。私の経験的観測では、コロナウイルス罹患防止に効果が期待できるのは、日常的行動としては丁寧な手洗いであり、積極的対策としてはワクチンであると思う。ところが、マスク着用には喧しいが、手洗いの重要性はメデイアでほとんど聴かない。
 私としては、意味の無いメデイアに煽られて、意味の無い行動制限を強いた政府の対策に大いに不満である。私のような高齢者はまだ被害が少ないが、学校や大学に学ぶ若い学生たちにとっては、顔も表情もわからなくなるマスク強要のみならず、効果不明の行動制限を強いられて、貴重な青春時代を大幅に不当なまでに抑制・弾圧されたのは、取り返しのつかない禍根であろう。
 さらに付け加えるなら、相対的には小さなことながら、直近のワクチン準備不足がある。私は先月、住所の地方自治体から第6回目のワクチン接種券の交付を受けた。そこでこれまで5回接種を受けた診療所に申込に出かけたところ、その診療所へのワクチンの割当分はすでに尽きていて、補充の見込みはなく、他の接種所をあたって欲しいという。結局、何回も電話をかけて、ようやくひと月後に、これまで行ったことのない診療所で接種の予約を得たのであった。
 ワクチンの効果も絶対的なものではないし、薬品である限り副反応や副作用のリスクがあるのは当然である。しかしコロナウイルス罹患を防ぐ希少な積極的手段として、私はリスクを覚悟のうえで接種を受けようと思う。その重要なワクチンが、これまで5回も接種を受けてきた場所で接種できないというのは、政府としてはきわめて不十分な対応ではないだろうか。もし政府が、すでにコロナ騒動は過ぎ去ったからワクチンの必要性も少ないと判断するのであれば、いまだに市井で蔓延っているマスク着用に対して、明確に「不要」と宣言すべきである。
 まだまだ言いたいことはあるが、それらの大部分はすでに書いたので、下記にリストを上げておく。
【参考記事】

コロナ騒動への追加的感想: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナウイルスに対する全国知事会の緊急提言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

無意味な緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動にみるわが国のパンデミック対応の反省点: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動とワクチン: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と「不要不急」: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ騒動と緊急事態宣言: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

新型コロナウイルス対策での休業自粛要請と休業補償について: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動にかんするメディアの問題: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

コロナ・パンデミック騒動と対応政策: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

新型コロナウイルス肺炎騒動について私信: 珈琲ブレイク (cocolog-nifty.com)

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(10)

シーレの表現の変遷(下)
 1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時に、クリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開した。そこでそれまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めることになった。シーレの絵の価格は高騰し、相次いで絵の買取りの依頼が舞い込むようになった。同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区ヒーツィング・ヴァットマン通り6番地に新アトリエを構えた。
 やはりシーレの最晩年のヌード作品として「横たわる女」(1917)がある。

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 広がった白いシーツの上で、長い茶色の髪を持つ裸の女性が横たわっている。彼女の調和のとれたメランコリックな顔立ちは、シーレの後期作品の中では最も美しいものである。曲げた腕と脚は互いに対称になっており、画面は性的な緊張で満たされている。この作品は、シーレが生涯の終わりの時期に起こした進化の典型として、美的でバランスの取れた構成を示している。
 最初のバージョンでは、女性の性器が露出していたと推測できる。シーレはおそらく、1918年の春に行われた分離派の展覧会に考慮して、修正を加えたのだろう。全体の描写と表現も、一部の性的な主張を除いては「カール・グリュンヴァルトの肖像」と同様に、かなり自然な雰囲気のものに変遷している。シーレが様々な絵画を発表したこの展覧会は、ウィーンにおいて初めて大成功を収めた。
 高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹患し、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去した。
シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、3日後の10月31日に亡くなった。
 義姉アデーレ・ハルムスによると、臨終に際してシーレは「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったとされている。エゴン・シーレと妻エーディトは、最後の住居のあったウィーン13区のザンクト・ファイター共同墓地に葬られた。半世紀後の1968年、義姉のアデーレ・ハルムスが78歳で死去し、エゴン・シーレと妻エーディトの墓に加えられる形で埋葬された。
 卓越した描写技能を持つ画家が、観る者の期待や感情を度外視して、激しい意図と意欲を持って自分が表現したいように真剣に描いたら、結果はこのような絵となった、というような作品ばかりである。それは19世紀までの、発注者の意向に応えるような絵画とはまったく異なる。観る者の視線を忖度していないとも思えるし、あるいは自分の作品を愛おしんでいないのではないか、とさえ思ってしまうような出来栄えにも見える。それでもやはり気になる、少しひっかかる側面があり、なんどか見つめ直して、時間をかけてよく見つめると、実に丁寧に精緻に描いていることがわかるのである。観始めたときに醜くみえた画面が、奇妙な、さらには輝かしい美しさを顕わすようになる。シーレの作品は、とても奥行きが深い。
 そのように思い始めると、シーレはそこまで根を詰めて、エネルギーを注ぎこんで、まさに身を削ってあまりに激しく絵を描き続けてしまったからこそ、とうとう早く死んでしまったのだろうか、ともふと思った。
 非常に印象の深い、忘れられない鑑賞であった。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(9)

シーレの表現の変遷(上)
 オーストリアでシーレより少し前から活躍していた画家に、オスカー・ココシュカ(1886~1980)がいる。
2_20230525073301  ココシュカは、シーレとともにウィーンの表現主義を代表する画家であった。ココシュカは少年時代をウィーンで過ごし、1909年までウィーンの工芸学校で学んだ。20歳代には、建築家ヨーゼフ・ホフマンの主宰した「ウィーン工房」に参加し、画家、版画家、詩人、劇作家として活動した。また、挿絵入り詩集を発表し、当初は画家というよりは詩人、装飾美術家として知られていた。
 1910年、表現主義の雑誌『シュトルム』(嵐)の発行人であり、同名の画廊の経営者でもあったヘルヴァルト・ヴァルデンの招きで一時ベルリンに滞在し、『シュトルム』誌の同人にもなっている。当初、ウィーンではあまり評価されないどころか、反感を買っていた。
 作曲家グスタフ·マーラーの未亡人と恋愛関係となるが、彼女と別離した後に自暴自棄となり、陸軍に入隊し重症を負う。その後、ドレスデンの美術アカデミーで教鞭とり、後進を育成した。人間の内面を鋭くえぐるココシュカの作品は、激しい情念を投影するかのような大胆な筆致と分厚く塗り重ねられた絵具を特徴とする。
 オスカー・ココシュカの「ハーマン・シュヴァルツヴァルト2世」(1916)が展示されている。Photo_20230525073701
 シーレの晩年の作品に「カール・グリュンヴァルトの肖像」(1917)がある。
 カール・グリュンヴァルトは繊維業を営む美術愛好家であり、第一次大戦中にシーレが兵役に従事したときの理解ある上官であり、後にはパトロン(後援者)にもなった人物である。
 この作品では、虚飾をそぎ落とした鋭く力強いデッサンと渋みのある色彩によって、人間の内面まで浮き彫りにしようとしている。しっかりと組み合わせた両手と、落ち着いた表情が印象的な肖像画である。モデルが腰を掛けている椅子は暗い背景に溶け込むように描かれ、人物そのもの存在が際立って見える。シーレはさまざまな角度からのデッサンを行ったうえで、最終的にはモデルを正面からではなく俯瞰するような視点から描いた。
 この作品では、それまでのシーレの表現主義的な難解さは少し後退し、自然主義的な写実性が出ている。シーレはこの作品を描いた1年後、28歳の短い生涯を閉じることになる。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(8)

シーレの結婚と女性像(下)
 「母と二人の子ども」(1915)がある。Photo_20230524053701
 この作品は、シーレの母性に対する態度の変化をあらわしているようだ。少なくともここに描かれている女性は、これ以前に描かれた母親の絵画とは異なり、死んではいない。シーレの家族間の関係は改善して、母親(この作品のモデルとなった人物)を、思いやりを持って見るようになっていたことが反映している。
 さらに前年の1914年、妹ゲルティとシーレの親友アントン・ペシュカとの間に甥が生まれたこともこの作品に関係している。この甥は、描かれている二人の子どものモデルとなった。しかしそれにもかかわらず、この作品は家族の肖像とはみなしがたい。
 この作品は、画家の個人的な状況から制作されたものだが、彼の描き出した寓意は決して自伝的とはいえない。
 一見すると、シーレが多く描いてきた「母と子」という二人組とは異なる「母と二人の子」という三人組を描いた作品に見える。しかし、作品の重要なメッセージを担っているのは、母ではなく、二人の子どもの方なのである。彼らは結局のところ、生命に対する二つの対照的かつ補完的な反応を示すプロトタイプ的な寓意なのである。左側の子どもは眠っており目を開けていない、受動あるいは死を表す存在である。右の子どもは能動的であり、生きて目覚めており「観察者」となっている。
Photo_20230524053702  それに比べて母親は、背景に溶け込んでしまうようである。彼女はおそらく死んではいないが、疲れ切っている。すでに母として重要な役割を果たして来た彼女は、残された自分の人生をただ全うするのみの、意欲の無い存在として描かれている。
 1915年6月17日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにあるオーストリア福音主義教会のルター派シュタット教会でエーディト・ハルムスとの結婚式が執り行われた。花嫁エーディトの父ヨハン・ハルムスは北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派であった。カトリックが圧倒的であったウィーンにおいて、ハルムス家の属する少数派のルター派教会で結婚したのである。しかしカトリック教徒の母マリアは、この結婚式に出席しなかった。シーレと母マリアの間に緊張が強まった結果、シーレはハルムス家とその姉妹により一層密接につながっていく。ハルムス家の妹エーディトと結婚したのだが、義姉のアデーレとも密接な関係を持った。下着姿の義姉アデーレをモデルにした作品「紫色の靴下をはいて座っている女」(1917)があるが、この時期にシーレとの性的関係があったことを義姉アデーレが告白している。
 「エーディト・シーレの肖像」(1915)がある。
 彼の花嫁のこの肖像画は、結婚した年の8月に完成した。エーディトの姿勢は不格好である。彼女はあたかも支えられた人形のように見える。シーレのアトリエのカーテンから作られたストライプのドレスを身に着け、正面を見せ、腕をだらりと下げたエーディトは、人間味に欠けた装飾的な側面に注意を惹きつける。丸めた手と、傷つきやすそうな視線だけが激しく感情的な親密さを露わにしている。
 結婚のわずか3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレはオーストリア・ハンガリー帝国軍に召集された。作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてみればこの出来事はシーレの飛躍に繋がるチャンスとなった。
 チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレが上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。彼は主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイデアの制作に打ち込んだ。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(7)

シーレの結婚と女性像(上)
Photo_20230523053901  1914年、ウィーンに戻ったシーレは、通りを挟んだ向かい側に住んでいた中産階級職人の娘、ハルムス家のエーディトとアデーレ姉妹と知り合った。シーレはどちらかと結婚することを考えたうえで、エーディトを選択した。シーレによれば社会的に許される人間を選んだとしているが、実際のところはエーディトと恋人ヴァリの両方を繋ぎ留めたいと考え、年に1回それぞれと2人でバカンスに行くなどの妥協案を2人に提示したが、当然ながらそんなことが受け入れられるわけもなく、またヴァリは2人の前から去った。ショックを受けたヴァリは二度とシーレの前に現れなかった。シーレはこの時の経験を「悲しみの女」(1912)として、絵画に描いている。その後ヴァリは従軍看護婦としての訓練を受け、クロアチアに派遣されたが、1917年に派遣先で23歳の若さで病死した。その「悲しみの女」(1912)が展示されている。
 この作品のモデルは、1911年から15年にかけてシーレの恋人であったヴァリ・ノイツェルである。クローズアップで描かれた女の肌は青白く、頬はこけ、大きな瞳は涙でうるんでいる。いびつに描かれた黒いスカーフの向こうには、神経質そうな表情の男の顔がかいまみえる。彼女の思考がこの男で占められていて、彼女の悲しみの原因がこの男にあることが示唆されている。当然、この男はほかならぬシーレ自身であり、不穏な描写に二人の複雑な関係があらわれている。ふたりの人物を重ねて描きこむことで、属性の入替で心理を描写しているのである。
Photo_20230523053902  「母と子」(1912)がある。
 画面の構図設定としては、キリスト教絵画の伝統的な聖母子像を思わせる母と子の絵である。しかし、目と口をしっかりと閉じた母親の表情は冷たく暗く、世界との断絶、あるいは死を感じさせる。一方、目と口を見開いたこどもは恐怖心をあらわにしている。シーレの母子像は、平和や愛情の象徴というより、むしろ死や不安をほのめかす作品が多い。この作品においてシーレは、明らかに筆ではなく敢えて指を使って描いていて、一部に指紋が残っている。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(6)

シーレの風景画
 自画像や女性を描いた作品が多いシーレだが、風景画作品もある。Photo_20230522072601
 「吹き荒れる風の中の秋の木」(1912)がある。先に述べたように、シーレは1911年の秋から、恋人ヴァリとオーストリアの小さな美しい町、ノイレンバッハに住んでいた。その風景は、シーレの母の出身地、チェコのクルマウのように、シーレに印象的な風景画を描かせた。
 この作品では、樹木というよりもブドウの蔓のようにきゃしゃな植物を描いている。枝は灰色がかった空から現れ、絵の表面全体に広がっている。
  ルドルフ・レオポルドは「このように不釣り合いな多量のグレーで描かれ、繊細なニュアンスを備えた優しさを持つ作品は前例がない」と述べ、空の独特の色彩効果に注目している。
 自由度の高い構成は、自然をほぼ抽象的な構造に変換してしまっている。同時に細い枝の激しい動きは、シーレの擬人化された自然観を反映している。
Iv  シーレは、しばしば自然界における人間の特性を観察していた。たとえば1913年に書かれた手紙で、彼は次のように書いている。
 「植物は、人間の体と同様の動き、喜びや悲しみと類似の感情を彷彿とさせる」
 その2年後には「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)」(1914)という作品を制作している。クルマウ(現在のチェコのチェスキー・クルムロフ)は、シーレの母親の故郷であり、シーレも何度か訪れた町であった。この作品では高い視点から、家々がひしめく町全体を平面的にとらえている。小さな窓やアーチのある壁に、帽子のような屋根を頂く家並みは、そこはかとなく中世の風景を連想させる。シーレの風景は押しなべて静謐で、暗い色調の作品が多いらしいが、この作品は構図や色彩にリズムがあり、おとぎの国のような軽快な雰囲気が漂っている。Photo_20230522072701
 シーレではないが、彼に深く影響を与えたグスタフ・クリムトの風景画が展示されている。「シェーンブルン庭園風景」(1916)である。
 グスタフ・クリムトこそは、ウィーン世紀末美術のもっとも重要な画家とされる存在である。保守的なウィーン画壇に対抗すべくウィーン分離派を創設し、官能的な女性像や、建築や工芸といったジャンルを超えた表現を通して、新しく自由な芸術を模索し続けた。1907年ころにシーレと知り合ったクリムトは、若い画家を理解し、自身のコレクターたちに彼を紹介した。1908年から1909年ころのシーレの作品には、正方形のカンヴァスや、背景の装飾的な表現などに、クリムトの影響がみてとれるといわれている。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(5)

性の表現への挑戦
 当時、裸体や性を描くこと自体は問題視される傾向がやや減りつつあったが、シーレの描く表現は非常に過激だと受け取られた。それでもシーレは倫理的に問題視されるような描写も怯まず作品に取り入れていった。Photo_20230521053701
 これも自画像ではないかとされる「座る裸の男」(1910)がある。
 シーレの自画像は、描かれた頻度だけでなく、その表現方法においても普通ではない。この作品は、西洋美術史においては前代未聞の、非常に露出度の高いポーズでのエロティックな男性自画像となっている。
 赤い目が光り、変形した脚はその尖端がなく、身体が完全に露出しているが、羞恥心を示唆しているとまでも思えないが、顔が部分的に隠れていて、激しく恐ろしげな姿を作り出している。
Photo_20230521053702  当時シーレが取り組んでいた表現主義の特徴として、線と輪郭、過酷な環境にさらされてすり減った肉体を表現することで、不安を表現しているらしい。
 1911年、シーレは自らの裸体モデルを務めていたハチミツ色の金髪と青い目をもつ17歳の少女ヴァリ・ノイツィルと同棲を始めた。彼女はクリムトから紹介されたモデルであるとも、街中でシーレが声をかけた女性とも言われているが、知り合った経緯は定かではない。
 「黄色の女」(1914)は、モデルはヴァリだと思われる。
 親しい間柄となった2人はウィーンの喧騒を離れて母方の故郷であるチェコのチェスキー・クルムロフ市へ移住している。2人の関係は隠し立てされたものでもなかったが、シーレの母の一族が住んでいたにも関わらず閉鎖的な田舎町は彼らを歓迎しなかった。シーレの家に娼婦などが出入りしてヌードモデルをしていることを近隣の住民が知るところとなったからで、やがて2人は町から追い出されるようにしてウィーンへと舞い戻った。
 そして今度はウィーン近郊のノイレングバッハにアトリエを開いて活動したが、下町の子供を誘い込んで絵のモデルにしたり、庭で女性モデルを裸にしてデッサンを描くなどしたため、再び近隣住民から追い出されるように町を後にすることとなった。
 1912年4月、14歳の少女がシーレの家で一夜を明かしたと警察に告げ、警察が逮捕の為に踏み込むと大量の猥褻な絵が出てきた。その後シーレは、24日間にわたって拘留された。シーレ自身の手記によれば、彼は家出少女に宿を貸しただけで何らやましいことはないと書き残している。しかし裁判所はシーレの絵を猥褻物として押収し、そればかりか裁判官のひとりは目の前にあった蝋燭で絵を燃やすという挑発行為まで行ったという。Photo_20230521053801
 「頭を下げてひざまずく女」(1915)も、これらのヌード作品のひとつである。
 伝統的な裸婦像は立っているか、あるいは横たわるポーズをとっていることが大半だが、シーレの裸婦の多くは体を極端にひねったり、うずくまったり、膝を抱え込んだりと、伝統からいちじるしく逸脱してバラエティに富んでいる。この作品では、女性がひざまずいた状態から突然前屈みになったその瞬間がとらえられている。ふわりと膨らんだスリップと、露わになった太腿は、シーレらしいエロティックな演出であるとともに、画中に運動感をもたらしている。
 太ももに描きこまれた痣のようなピンクや、なにか汚れか影か緑っぽい灰色など、一見粗雑にみえる色も、よくみると丁寧にしっかり描きこまれていることがわかる。すべての部分が緻密に描かれている結果として、絵全体が独特の風格を醸し出すのである。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(4)

アイデンティティーの探求
 20歳を過ぎて1911年ころから、シーレは表現方法が大きく変貌した作品を、相次いで制作した。Photo_20230520054401
 人体に関する研究も、単に人体構造を作品に反映させるだけでは飽き足らず、性の表現などタブー視されていた事象も作品に積極的に取り込もうとした。死や性行為など倫理的に避けられるテーマをむしろ強調するような作品を制作したのである。
自画像として「抒情詩人」(1911)がある。
 画面の中心に左腕があり、痛々しく節くれだった手を開いている。顔を不自然なまでに右に倒して、深い苦悩をあらわしている。下半身には、赤く色づいたペニスがある。あえてこれを描いたのは、生命あるいは欲望の儚さの表現なのだろうか。描かれた自画像は、かなり極端にデフォルメされて、全体の印象は美しさよりもグロテスクな印象だが、近づいてよくみると、ある意味汚く描かれた顔の細部、額、目元、鼻、頬などのいずれもが、驚くほどに緻密かつ丁寧に描きこまれている。技術が稚拙なために絵が汚く見えるのではなく、きわめて高度な技量で丁寧に汚く見える表現を実現したとでも言おうか。
 Ii 「自分を見つめる人II(死と男)」(1911)がある。
 中央の赤・緑・黒と複数の複雑な色彩で表わされた人物は、画家自身のようだが、目を閉じて瞑想にふけっているかのようである。背後に迫る人物の顔は、手前の人物の顔とは対照的に蒼白で、まぶたは窪み目もよくわからず、頬はこけている。まるで死人のような顔である。画家は自分自身が、近づいてくる自分の死の運命と対峙しているのをあらわしている。世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパでは、生と死をテーマとする作品が数多く制作された。シーレもまた、自分自身の姿を重ねこの主題をたびたび取り上げたが、シーレが21歳という若さで、普遍的な死の表現に到達しているという点できわめて興味深いと言える。
 

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 そしてその翌年、シーレのひとつの代表作とされる「ほおずきの実のある自画像」(1912)が制作された。この作品は、シーレの自画像のなかでもっともよく知られた作品とされていて、今回の展覧会のポスターともなっている。クローズアップで描かれた画家は、頭部を傾け、鑑賞者を睨んでいるかのようだ。シーレのまなざしは挑発的にも、いぶかしげにも、あるいは何かに怯えているようにも見える。青白い顔には赤、青、緑のごく細いラインが、まるで浮き上がった血管のように、繊細かつすばやい筆致で描きこまれている。高さの不揃いな人物の肩と、ほおずきの蔓がおりなす構図からは、この絵の主張を支える独特の緊張感が生み出されている。生涯にわたり自画像を描き続けたシーレは、世紀末のウィーンという多様な価値観が交錯し対立する世界に生きながら、自画像を通して自己のアイデンティティーを模索し続けたのであった。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(3)

シーレの進化の時代(下)
 もうひとり、やはりシーレに影響を与えた画家がいた。リヒャルト・ゲルストル(1883 - 1908)は、オーストリアのウィーンに、ユダヤ人の裕福な商人の父と、非ユダヤ人の母のもとに生まれた。15歳にしてウィーン美術アカデミーに入学し、頑固で気難しいことで知られるクリスティアン・グリーペンケールに師事した。
 ゲルストルは、ウィーン分離派のスタイルに飽きたらず、独自の絵画を模索したが、周囲からはなかなか受け入れられなかった。Photo_20230519055701
 ゲルストルは音楽への関心が高く、頻繁にコンサートに通っていた。1907年ころ、同じ建物に住んでいた作曲家のアルノルト・シェーンベルクとアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーとに知り合った。ゲルストルとシェーンベルクは、互いに才能を認め合い、親しくなった。ゲルストルは、シェーンベルクやその妻マティルデのほか、ツェムリンスキー、アルバン・ベルクの肖像画を描いたりもした。その作品は、ドイツ表現主義を予告するものであった。
 ゲルストルとマティルデは、次第に親密になり、1908年の夏、マティルデは夫と子を置いて、ゲルストルとともに出奔した。当時シェーンベルクは、妻に捧げる弦楽四重奏曲第2番を作曲しているところであった。マティルデは結局、その年の10月ゲルストルから去って夫のもとに帰った。
 マティルデに去られた悲しみと、絵画界での孤立、芸術的な不成功に追い詰められたゲルストルは、1908年11月アトリエで、全ての手紙を燃やし、多くの作品をこの時破壊したと考えられている。ゲルストルは、アトリエの鏡の前で首を吊り、かつ刃物で自らを刺して自決した。彼の死後、作品は長らく封印されていたが、1931年に初めて展覧会が開催され、再び注目されるようになった。
 ゲルストル「半裸の自画像」(1902)が展示されている。青い背景に浮かび上がるこの自画像は、自らを受難のイエス・キリストであるかのように描いたようにも思える。強烈な自意識のもとに自己をナルシスティックに描くシーレの自己表現に先んじる作品とも位置づけられる。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(2)

シーレの進化の時代(上)
Photo_20230518054501  アカデミーの制約を離れたシーレは、展覧会の刺激で創作意欲を駆りたてられ、自由を謳歌するかのように、自らの創作の枠を大きく飛躍させることを目指して、精力的に試作を繰り返した。
 このころの作品に「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」(1908)がある。この作品には、クリムトからの影響が強く感じられる。正方形のカンヴァスや背景に金や銀を用いる手法は、明らかにクリムトのものであり、絵画の装飾性、平面性を高める効果を果たしている。中心に据えられた花と葉も、大胆な色面で表わされ、シーレの以後の作風を先取りしている。ほんの少し前の「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」との絵画のイメージの変貌は、実に顕著である。Photo_20230518054502
 このころ、クリムト以外にシーレに影響を与えた画家にコロマン・モーザーがいた。コロマン・モーザー(1868 - 1918)は19世紀末から20世紀始めにウィーンで活躍したデザイナー、画家であった。絵画、インテリア、家具、ステンドグラス、本の装丁、ポスター、ファッションデザインなど多彩な分野で活躍し、この展覧会では「万能の芸術家」と紹介されている。ウィーン分離派をクリムトとともに創設し、機関誌『ヴェル・サクルム』のデザインを担当した。1903年にはウィーン工房を設立した。
 コロマン・モーザーの絵画作品のひとつ「キンセンカ」(1909)が展示されている。この作品のように花をモティーフとする装飾的な作品も得意としていた。

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エゴン・シーレ展 東京都美術館(1)

 東京都美術館で「エゴン・シーレ展」が開催されていたので、鑑賞してみることにした。きっかけは、せっかく東京まで出たのでここで観られる展覧会を観てみようというもので、これまでにエゴン・シーレについてほとんど知識はなかったし、特段の期待もなかった。
 美術館に来てみると、開場のすぐあとということもあって、混雑というほどではなかった。

エゴン・シーレの幼少期からクリムトとの出会いまで
 エゴン・シーレ(1890 - 1918)は、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウに生まれた。父アドルフ・シーレは帝国鉄道の鉄道員であり、母マリア・ソウクップ・シーレはチェコ系オーストリア人であった。
 シーレ家は北ドイツが出自で、ルター派教会牧師、官吏、軍人、医者などを輩出した中産階級の家であった。祖父が鉄道技師としてオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したため、オーストリアに移ってきたのであった。ローマ・カトリック教会信徒が圧倒的多数のオーストリアにあって、父方のシーレ家は少数派のルター派オーストリア福音主義教会に属していた。ただ当時オーストリアでは、芸術、文学、建築等でプロテスタントの活躍が目立ちはじめていた。ボヘミアの富裕な建築業者の娘であったシーレの母親マリアは、敬虔なカトリック教徒であったため、エゴン・シーレ自身がカトリック教徒であったと推定する伝記研究者もいる。
 幼少期に初等教育をウィーンの北、クロスターノイブルク市へ移住して学んだシーレは、そこで美術担当の教員から美術の早熟な才能を認められた。しかし15歳の時に父が性病の梅毒で病没したことは、経済的打撃のみならずシーレの心に大きな衝撃を与えたらしい。「性と死」のテーマが、シーレの作品の通奏低音となっていく。
 未成年のシーレを引き取った叔父レオポルドは、シーレの芸術への強い熱意を理解し、支援してくれたようだ。シーレは16歳の時に、グスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校に学んだ。さらに美術の高い才能を認められて、飛び級でウィーン美術アカデミーへ進学した。Photo_20230517053801
 そのころの作品として「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」(1907)がある。正統的な画法で緻密で高度な描写技術は、誰の眼にもあきらかである。
 しかしウィーン美術アカデミーの教育方針に、シーレは失望した。シーレから見れば、保守的で時代錯誤な古典主義を継承・遵守するアカデミーには、価値を感じられなかった。シーレは、工芸学校時代の先輩であったグスタフ・クリムトに弟子入りを志願した。クリムトは熱意あふれる後輩を可愛がり、貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてやるなど、さまざまな援助を惜しまなかった。またクリムトは自身の分離派をはじめ、象徴派や表現主義など新しい作風を模索する作家達が組織した「ウィーン工房」にシーレの入会を推薦した。
 1909年、シーレはアカデミーを退校して、アカデミーを離脱した仲間達とも交流した。クリムトが開いたフランス印象派の絵画展に出会って、シーレは大きな衝撃を受けた。その展覧会でフィンセント・ファン・ゴッホの作品を目の当たりにし、多大な影響を与えられた。またやはりゴッホの影響を受けていたドイツ表現主義の画家達、ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンクなどの絵画も展示されていて、彼らからも強い影響を受けた。

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高槻ジャズストリート2023(5)

【2日目】再び高槻城公園の芸術文化劇場南館へ
 山中千尋のセッションが終わると、ただちに桃園小学校グランド会場を出て、再び高槻城公園にとって返し、家人と合流するため芸術文化劇場南館大スタジオに向かった。Photo_20230516054001
 幸い順調に移動できて、目的の「SOA New Quintet with friends」のセッションに間に合わせることができた。
SOA New Quintet with friendsは、リーダーのヴォーカルSOA、サックス武藤浩司、ギター伊藤シュンペイ、ベース澤田浩輔、ドラム鈴木大瑛のSOA New Quintetに加えて、ピアノ/キーボード杉山悟史、トランペット横尾昌二郎、ヴァイオリン高橋真央、チェロ竹中裕深の4人を加えた9人編成の大ユニットとなっている。
 前日の別のタイトルのセッションでたまたまヴーカルのSOAが共演していて、一部ではあったが歌声を披露したのを聴いて、このヒトの歌をもっと聴きたい、と思ったのである。
 歌手・ソングライターのSOAは、音楽に関心の深い両親の影響で幼少期よりピアノを、15歳より本格的なヴォイストレーニング・作詞作曲を始めた。大阪芸術大学音楽学科に入学し、在学中に二度NYへ単身留学し、NY・Blue Noteでのジャズ歌手Dianne Reevesのステージに感銘を受け、JAZZへの関心が深まったという。
 2016年よりSOAとして本格的にJAZZ LIVEを始めた。現在は、国内外に幅広くライブ活動をするとともに、ヴォイストレーナーとして、幅広い年代の人たちに歌を教えている。
Soa_20230516054001  たしかに彼女のヴォーカルは、女性としては低めのキーの発声だが、音域は十分で発声そのものがごく軽く、なんら力みがなく豊かな声が出る。ヴォーカルとしてのコントロールが自在で、伸びやかで心地よいヴォーカルを聴かせてくれた。
 楽曲としては、オリジナルのアルバム「讃」からの「風光る」、「To Love」、「Terradante」などが演奏された。エレキベースの澤田浩輔が、まったくピックを使わず、指で繊細な演奏をしているのにも感銘を受けた。

 第25回目の高槻ジャズストリートは、今年春ようやく落成なった新しい芸術文化劇場の施設を、一部なりとも入場して体験できたこともあり、一層感慨あるひとときを過ごすことができた。このような美しく快適で優良な文化施設が高槻に追加されたことは、市民として誇らしく嬉しい。

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高槻ジャズストリート2023(4)

【2日目】高槻市第一中学校グランドから高槻市立桃園小学校へ
 2日目は少し遅く、高槻市第一中学校グランド午後3時開演の「前田サラ& The Funky Crew」のFunky音楽から聴き始めた。The-funky-crew
 リーダーでサックスの前川サラは、プロテスタント教会牧師かつ音楽家の父、音楽好き母の間の、6人兄弟の長女として誕生した。小学4年生のとき神戸に移りドラムの演奏を始め、父の教会で演奏を勤めた。
Photo_20230515055901  中学生時代からサックスを始め、16歳で東京に移り、高校に進学せずアルバイトで家計を助けながらサックスの演奏に専念し、家族とともに教会やストリートで演奏するようになった。17歳のころから東京のライヴ・ハウスのセッションに積極的に参加し、さまざまなミュージシャンとの交流を重ねた。19歳で、自身がリーダーとなってバンドを結成し、プロとして活動を始めた。教会のイベントで渡米したときに、世界的なサックス・プレイヤーのロン・ブラウンと知り合いサックスのレッスンを受け、さらに帰国後もSkypeを通じてのレッスンを2年間受けたという。Photo_20230515060001
 演奏は、ヴォーカルのシャウトのような感じで、全身で情熱的に演奏する。エネルギッシュで、なかなか迫力がある。通奏低音のリズムが聴く者の心臓周期に近いことは、情緒的にも共鳴しやすく、訴える力が増すように思えることを実感した。
 その後、10分余り速足で歩いて、今度は高槻市立桃園小学校グランド会場に移動した。
Photo_20230515060002  ここは毎年FMcocolo765が提携している会場で、メディアに頻出する有名な演奏者がしばしば登場する野外会場である。この日も、私が訪れた会場のなかでは、もっとも混雑していて、後から来た私たち新参者は、聴衆エリア周辺の土間の上に座り込んで、大勢の聴衆の頭の隙間から舞台を見つめることになった。
 ここでは、「山中千尋トリオ」のピアノ中心のバンドを聴いた。
 山中千尋は、福島県郡山市に生まれたが、中学卒業までの幼少期を群馬県桐生市に過ごしたためか、自身の故郷を群馬として、コンサートを「八木節」で締めることを習慣化しているという。桐朋学園音楽大学を卒業後、バークリー音楽院に留学、主席で卒業してプロデビューした。まもなく活動をアメリカに拡大し、全米ジャズチャートでトップとなった。世界的にトップレベルの評価を得ているジャズピアニストである。Photo_20230515060201
 演奏は、「イパネマの娘」から始まり、「Summer time」などのスタンダードが続いて、いつものように聴衆の合いの手を求めての「八木節」で締めた。ただ、最後に少し時間があると言って、ニューヨークの自身のコンサートでの実話に基づく短いオリジナル曲が演奏された。ある難病の幼い女の子が、山中千尋の生演奏を聴くことができたことを「今日は特別の日」と言ってとても喜んでくれたことを「Today’s another day」というタイトルの短編楽曲に制作したのであった。
 山中千尋の演奏は素晴らしかったが、伴奏のギターやドラムはアンプで音量を上げれば十分通用しても、さすがに高音域の成分が音のキレに影響するピアノの場合は、大型スピーカーではどうしても高音域の伸びが抑制されてしまうのか、よく言えば音がまるくなる、厳しく言えばせっかくの演奏のキレがなくなる、ということはやむを得ないと思う。やはりピアノの真骨頂は、室内演奏が望ましいのだろう、と素人なりに思った。

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高槻ジャズストリート2023(3)

【1日目】大スタジオから太陽ファルマテックホールへ
 この後、セッション合間の休憩時間の明るい照明のお陰で家人をみつけることができて、後の演奏は一緒に鑑賞できた。
 大スタジオでは、ポップスの篠原良知の演奏が続いた。篠原良知(しのはら よしとも)は、大阪芸術大学舞台芸術学科講師を務めるアーティストで、18歳よりシンガーソングライターとして、本格的なプロ活動をスタートした。これまでに後進への指導として、桐谷健太(俳優)、山本彩(NMB48)など、多数の若手歌手を育てているという。
Photo_20230514054601  「MaMaMee」という女性3人組のポップスの演奏がつづき、その後「西村琴乃Quintetto」のサックス中心のジャズがあった。西村琴乃(サックス)、佐藤勇作(ピアノ)、井野アキラ(ギター)、西野寛之(ベースギター)、塩入基弘(ドラム)のクインテットである。
 西村琴乃は、京都府出身のサックス奏者である。大阪音楽大学音楽学部器楽学科を卒業、いくつかのコンクールで受賞し、スムースジャズに憧れてアドリブの勉強を始めたという。
 メリハリの明瞭なすっきりと落ち着いた、上品で心地よい演奏であった。とくに「笹舟」というオリジナルでは、ソプラノサキソフォンで尺八を連想させるかのような繊細な和風の雰囲気を醸して、あたたかな優美な演奏であった。
 会場を、隣接する太陽ファルマテックホールに替えて、曽根麻央のジャズを聴いた。Photo_20230514054602
 太陽ファルマテックホールは、昭和28年(1953)印刷用インクの製造会社であった「太陽インキ製造株式会社」から発祥して、ハイテク/エレクトロニクス用化学材料・部品へ事業拡大してきた太陽ホールディングス株式会社がスポンサーとなっているホールである。
 「木のぬくもりを感じさせる205席のコンサートホール」を謳い、壁面を囲む木ルーバー、サイドバルコニーからは公園の緑が見え、木の色と質感を重視したシックな雰囲気のリラックスできる空間を実現している。ソロやアンサンブル、とくにピアノ独奏などのこじんまりした演奏会、小規模な舞台公演、講演会など、誰もが利用しやすい規模のホールを目指しているという。
 曽根麻央は、両親が音楽家、父方の祖母は三味線奏者、母方の祖母はジャズ喫茶の元オーナーという家庭に、1991年生まれた。幼少期よりピアノを始め、8歳でルイ・アームストロングに憧れてトランペットを始め、9歳から地元たる千葉県流山市周辺で音楽活動をスタートした。18歳でバークリー音楽大学より全額奨学金を授与されて留学のため渡米し、2016年同大学の修士(Master)課程の第1期生として首席(summa cum laude)で卒業した。
Photo_20230514054701  トランペッター、ピアニスト、作曲家として活動している。また、トランペットとピアノの同時演奏という独特なスタイルでも知られている。「小曽根真、上原ひろみに続く逸材」とも評価されているそうである。
 「酒とバラの日々」からはじまり、ガーシュインのナンバーなど数曲が、いきなり始まった。いずれも、繊細で丁寧で、音量が大きくなくともしっかりエネルギーを感じる素晴らしい演奏である。そして「Always and Forever」という楽曲を、持参してきたトランペットをピアノ演奏とともに演奏する、という楽器の二刀流を聴かせてくれた。こんな大変なことを、ひとりでいちどにやってしまう、という感動は、最近のMLB大谷翔平選手と同様なものだろう。
 MCトークがほとんどなく、手短に楽曲名を告げるのみで、ほとんどの時間を演奏に費やしたこともあり、とても密度の濃い充実した時間であった。

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高槻ジャズストリート2023(2)

【1日目】城北通から高槻城公園芸術文化劇場へ
 城北通を経て、高槻城公園に向かう。道幅が狭い城北通は、私は意外に日常的には通る機会が少ないが、高槻ジャズストリートの開催中はひとつの目玉的なメインストリートとなる。実際なかなかの賑わいである。一足先に家を出発していた家人が、先に行っている、と言っていた高槻城公園の芸術文化劇場付近にまず行ってみることにした。Photo_20230513054101
 従来の「高槻現代劇場」は、今年3月から「高槻城公園芸術文化劇場北館」と名称が変わった。高槻市立第一中学校の西側の土地は、今年3月までながらく工事が進められ、ここに新しく「高槻城公園芸術文化劇場南館」として4つの芸術ホールが新設されたのである。
 私たちが知っていた旧館にあたる高槻城公園芸術文化劇場北館の近くから、家人にLINEで連絡を試みたが、会場に電波規制があり連絡がとれないようだ。道すがら辛うじて受信したLINEメッセージに「大スタジオに居る」とあったので、とりあえずそこを目指した。
 私にとって「高槻城公園芸術文化劇場南館」は、初めて見る建物である。高槻市立第一中学校を東隣に、旧大阪府立島上高校の改編による槻の木高校を南隣にして、真新しい大きな建物が建っていた。高槻城公園というにふさわしく、建物の北側には城の掘の様式の水回りを配して、クラシックで落ち着いた美しい建造物である。
Photo_20230513054301  南館の新設ホールのひとつ「キルアフィルムステージ大スタジオ」にたどりついた。入口で会場管理スタッフに訊くと、意外にもすぐに入れそうだ。スタッフさんが「とりあえず急いで」というので、ともかく階段を下り、スタジオ入口にたどり着いて、真っ暗な演奏中の会場に入った。同じ会場内に家人が居るのだろうが、暗くてわからない。とりあえずかろうじて空いていた座席にすわって、演奏を鑑賞することにした。Featsoa-with-shy
 新設なった大スタジオは、京都のCG(コンピューターグラフィック)のIT企業キルアフィルムがスポンサーとなった施設で、黒を基調とした大スタジオは、168席の段床(ひな壇)の客席を常設した、高槻初の本格的な演劇・ダンス公演に適したホールである。スタジオ上部には、ギャラリー空間や音響・照明機材を備え、高い上演機能と自由度の高い空間を実現しているという。
 ここで最初に聴いたのは「キクチタケシfeat.SOA with SHY」というポップスのバンドであった。ピアノ/ヴーカルのキクチタケシ、ギターの山本晃平、ドラムの橋爪拓のトリオメンバーに、特別招待メンバーとして紅一点ヴーカルのSOAを追加した構成である。主にキクチのオリジナルが演奏されたが、SOAの歌唱が素晴らしく、印象に残った。

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高槻ジャズストリート2023(1)

【1日目】阪急高槻市駅高架下会場
 高槻ジャズストリートは、私たち家族が高槻を離れて首都圏に暮らしていたときの1999年に始まり、今年25回目を迎えるという。2020年度と2021年度は、コロナ騒動のために中止となり、昨年から3年ぶりで再開し、ことしはコロナ騒動明けを祝うような位置づけとなった。まだコロナ騒動がおさまりきらなかった昨年に比べ、観衆の賑わいは一層高まり、さらに高槻城公園の芸術文化劇場が竣工し、新しい息吹が加わった。Gori
 午後から家を出て、芥川桜堤公園のこいのぼりフェスタの休日の賑わいをちょっと覗き、ゆっくりJR高槻駅に向かった。JR高槻駅北口には、アクトアモーレ・プロムナード・ステージがあり、ここで高槻ジャズストリートの公式パンフレットをいただいた。この会場では、ちょうど演目がひとつ終わってバンドの入替の合間となっていたので、JR高槻駅を経て阪急高槻市駅へ歩いた。
 阪急高槻市駅の高架下広場では、ちょうど「松田GORI広士スペシャルカルテット」の演奏がはじまるタイミングであった。このバンドは、通常はドラムの松田広士、サックスの里村稔、エレクトリック・ピアノの小林理沙のトリオで活動しているが、このセッションではギターの清野拓巳を招いてスペシャルカルテットとした、との紹介があった。
 歯切れの良いリズミックかつダイナミックな素晴らしい演奏で、私にも久しぶりのジャズ生演奏の醍醐味がよみがえった。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(7)

さまざまなコラージュあるいは造形
 今回展示されていたもののなかには、これまであまりみたことがないようなコラージュ作品があった。Photo_20230511055701
 たとえば「果報」野村磨結がある。絵画の額縁を土台にして、黒色の針金で造形を立体的に構成している。
 背景は漆喰のような白色のみで、その上に黒一色の針金が這い回っている。「果報」というポジティブなタイトルなのだが、全体の雰囲気としては、そこはかとない不気味さあるいは不安が醸し出されている。ただの針金というには、動きも強かさも、それなりのエネルギーも感じられ、みごとな造形だと思う。
 Photo_20230511055801  なんめん よしこ「鳳凰」も目についた。かなり大きな造形だが、古新聞紙で造られているという。
 この力強さ・勢いと繊細さと存在感は、観る者に強いインパクトを与える。なかなかおもしろい作品だと思った。
 以上、ここで取り上げたもの以外にも、一見花瓶のように見えて、実は口がなくて花も水も入れることができない陶器の造形や、布と造花とのコラボレーションによる生け花風の造形、夜光貝をはめ込んだ絵、などなどいろいろ興味深い、おもしろい作品があった。
 私がいつも観ている個展あるいは特集展と異なったのは、作品のヴァラエティが大きかったことと、一方でかなり特異な、しかし同時に比較的わかり易いものが多かったことであった。
 日本の若手アーティストたちが、元気で活発に活動していることをあらためて実感できた、という点でも芸術界の活気を感じる楽しい鑑賞となった。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(6)

「弥勒龍」宝香
 「弥勒龍」宝香という不思議な印象の仏画?がある。Photo_20230510053701
 これも、展示作品の前に作者の宝香(ほうか)さんがおられて、少しお話しを聞いた。
 宝香さんは、千葉県香取市で生まれ育ったので、香取の「香」をとって「宝香」の銘で作品を創作しているという。
 今回展示された作品は、東日本大震災と、さらに最近日本を襲ったコロナ騒動に動機を得て描かれた。下方を占めているのは、地震など災害を連想させる暗い紺の荒波、その上にかならずしも「日本的」でない容姿の仏様が日本的な龍に護られ持ち上げられ、明るい空と光に向かって飛び立つ様子が描かれている。
 現在宝香さんは、仙台を拠点として寺院の仏画を、現代的感覚で制作されているそうである。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(5)

「憐れなり」御代川舞花
Photo_20230509055501  コスプレの作家自身が作品のなかに登場して、その横に書が添えられるというユニークな作品が「憐れなり」と題された作品である。
 この作者自身が、この展示作品の前におられて、少しお話しを聞くことができた。
 いただいたパンフレットによると、作者御代川舞花(みよかわまいか)さんは、東京に1992年生まれた若い女性アーティストである。幼少期から書道を習い、書印会に入会、さらに古代中国より伝わる書方についても学んできた。2_20230509055501
 学校では化粧品の研究開発について学び、化粧品メーカーで、舞台・テレビ・映画に用いる化粧品に関わった。その後、専門学校講師や小学校アフタースクール教師も経験した。現在は、アーティストとして作品制作に専念しているそうである。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(4)

書の作品
 日本的な書の作品も、何点か展示されている。Photo_20230508054101
 「盈虚(えいきょ)」小野亭良がある。
Photo_20230508054102  「盈虚」とは、盈(満)ちていることと虚しいこと、との意で、「栄枯」「盛衰」「得失」などに類似した言葉である。
 この作品では、有名な平家物語の冒頭部分が添えられて、わかり易い構成となっている。
 この他にも、イギリスの世界的ロックバンドであったビートルズをテーマとした「夢中」椋本寿水などがある。今回の展示の範囲では、とくに外国人に対してわかり易いことを配慮したのか、だれにもわかり易い表現と、具体的な説明が作品のなかに取り入れられているように思った。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(3)

RBA役員の作品
 「ひまわり」という作品がある。これはメグ・ダットンというイギリスの水彩画・版画作家の作品である。Photo_20230507054001
 メグ・ダットンは、チェルシー美術学校で絵画を学び、ロンドンを拠点として、絵画・線画・版画・エッチングの制作を続けている。自然界と人工的世界の模様・ディテールへの強い関心を特徴とする。版画作品に水彩絵具を追加する、あるいはさまざまな線画や写真をコラージュすることもあるという。
 メグ・ダットンは、王立画家版画家協会(RE)の会員・元副会長であり、また英国王立美術家協会(RBA)の会員であり、現在の副会長でもある。海外の展覧会への出展に積極的なことでも知られている。
 彼女以外にも、数人のRBA会員の作品の展示があった。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(2)

「サンデーサイレンスの贈り物」
 高校同窓生である高見沢道子さんの作品である。Photo_20230506055801
 1989年アメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)とさらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなど、G1のうち6勝する大活躍により、エクリプス賞年度代表馬に選ばれたアメリカ伝説の名馬サンデーサイレンスの曽孫にあたるのが、この絵の現役白毛馬ソダシである。ソダシは父サンデーサイレンスの子として突然変異で生まれた白毛馬シラユキヒメの娘、ブチコの娘なのである。
 この絵は、ソダシが2022年ビクトリアマイルでG1に優勝した時のシーンをモデルにして描いたという。
 大レースの、ダイナミックでエネルギッシュな息詰まる一瞬の様子が、力強く迫力をもって描かれている。鍛え抜かれた競走馬の逞しさと美しさと、なによりその生身の生き物としての生命感の表現が素晴らしいと思う。

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MINERVA2023展覧会 京セラ美術館(1)

RBAとMINERVA
 友人の招待により、英国王立美術家協会役員アーティストによる美術作品展を、家人とともに京都に鑑賞した。
 英国王立美術家協会The Royal Society of British Artists (RBA)は、ちょうど200年前の1823年、27人の発起人により設立されたイギリスの美術家協会である。初代会長は、アメリカに生まれ、ロシアやヨーロッパに活動した耽美主義の画家であったジェームズ・マクニール・ホイッスラーであった。ホイッスラーは、ヨーロッパの美術のみでなく、日本の近世後期の木版画に強い関心を持っていたという。Minerva
 1971年英国芸術家連合の本拠地として、ロンドンにマル・ギャラリーズが、エリザベス2世の開館宣言により設立されたが、RBAはその創立に参加し、以来RBA組織の本拠地として機能している。協会メンバーは、現在115人である。
 MINERVA(ミネルヴァ)は、詩・知恵・工芸などを司るギリシア神話の女神ミネルヴァの名のもとに、多彩な芸術作品を対象として書籍の刊行、展覧会の開催などを多様にプロモートしている日本のプロジェクトである。
MINERVAは、2016年以来RBAと提携して親交を深め、日本の現代アーティストの作品とともに、RBAメンバーの作品を併設展示して、日英アーティストによる競演展覧会を実現してきた。今年も京都市での今回の展示ののち、来る7月にはロンドンでも展示会を開催するという。
 日本画、書、西洋画、彫刻、コラージュなど、多彩な現代作家による作品が、かなり広範囲に展示されている。出展作品の制作者たちも、胸に「出展者バッジ」を着けて、かなりの数来場している。

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佐倉散策(4)

旧堀田邸
Photo_20230504054401  3軒の武家屋敷を見学したあと、国道296号線成田街道に出て、少し坂道を上ったり下ったりしつつ30分ほど東方向に歩き、南面の斜面にある「さくら庭園」の北側に建つ「旧堀田邸」に向かった。
 この邸宅は、佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫(ほったまさとも)が、明治初期に建てた屋敷である。Photo_20230504054501
 明治維新の後、明治4年(1871)廃藩置県で東京在住を命ぜられて佐倉を離れた堀田正倫は、明治20年(1887)宮内省から華族の地方移住が認可されると、すぐに旧領地の佐倉に戻り、地元の農業と教育の新興に尽力した。この地に邸宅を構え、明治23年(1890)邸宅周辺に堀田家農事試験場を造営した。学問振興のための奨学会を創り、当時の佐倉中学校(現在の県立佐倉高校)への寄付を行った。
1691  堀田邸は、堀田正倫の私邸として明治23年(1890)竣工した。明治43年(1910)には湯殿が増築された。現在は、主屋、門番所、土蔵などの建物と庭園が残されている。
 主屋は、木造平屋が主で一部が2階建ての5棟から成り、伝統的な和風様式である。明治期の旧大名家邸宅として、全国的にも希少な現存する建築物であり、平成18年(2006)重要文化財に指定された。1695
 旧堀田邸の主屋は、玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、台所棟、湯殿から成っていた。現在は台所棟の大部分が解体されている。全体として、身分や格式を意識した造りとなっている。たとえば、5カ所(現在残るのは3カ所)の出入り口は、それぞれ出入りする時期やひとの違いによって細かく使い分けがされていた。多数の部屋の床の間の後ろごとにトイレがあり、部屋ごとに厳格に使いわけがされていた。壁土や釘隠しも、場所ごとに使いわけがある。
Photo_20230504054601  丘陵斜面に建つ屋鋪の南面は、高崎川や対岸の台地を見降ろして借景とし、芝生、松・サルスベリなどの樹木、景石や灯篭などが美しく配されている。平成27年(2015)国の名勝に指定された。
 半日の散策であったが、道は傾斜が多く、散策はかなりタフであった。近世の日本史を少し勉強した私にとって、徳川時代を通じてもっとも多数の老中を輩出した譜代佐倉藩は、やはり興味があり、いちどは佐倉を歩いてみたかったのである。佐倉城跡は、この2日前に訪れた駿府城公園と異なり、建物がいっさい残っていない公園ではあったが、それでも跡地の景観から、私なりにお城の雰囲気が多少は理解できたように思えて、満足できる散策であった。

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佐倉散策(3)

武家屋敷
Photo_20230503054301  佐倉城跡公園を出て、南東方向に歩く。「大手門跡」の石碑がある三叉路を南に折れてしばらく行くと「ひよどり坂」という竹林の小径がある。うっそうと茂る竹林のなかを緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが配され、坂の途中には縁台もあり、江戸時代の雰囲気を今に伝えている。説明にあるとおり、たしかに季節が変われば雰囲気も変わるだろうから、その変化も楽しめそうな小路である。この坂を登り切ると、大聖院という寺院の横に出る。このあたりは、かつて武家屋敷のならぶ地域であった。やがて「武家屋敷」と書いた幟が眼に入る。現在、3件の江戸時代の武家屋敷が公開されている。
 佐倉藩では、武家屋敷の多くが藩の指導により、材料も規模も必要最小限に造られていたという。武家屋敷の規模や様式は、その住人たる個々の武士の身分の象徴でもあった。佐倉藩でも、天保4年(1833)の藩による居住の制が残っていて、それぞれの身分に応じて建坪、門構え、玄関の仕様、長押の様式、畳の仕様、など細かく規定されていた。Photo_20230503054302
 公開されている3つの武家屋敷は、旧河原(かわら)家が300石の上級武士で大屋敷の例、旧但馬家が150石の中級武士で中屋敷の例、旧武居家が90石の中下級で小屋敷の例となっている。
Photo_20230503054401  佐倉の武家屋敷は、道路に面する部分を正面とし、門を設け、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けていた。屋敷の裏側には菜園などをつくり、屋敷の境界には木を植え、背後の斜面は竹藪などとしていた。
 入場料の受付があるのは河原家で、いちばん大きな家である。河原家は、天保6年(1835)ころに当地とは別の鏑木小路の地に移転してきて、弘化2年(1845)ころまでにこの住宅を建てたと推測されている。平成2年(1990)保存と展示のために、この場所に移築復元されたものである。建築様式と構造、部材の風食などに古い建物に特徴的な要素がみられ、佐倉に残る武家屋敷のなかでは、最も古いものと考えられている。Photo_20230503054501
 使用人や出入り農民は、河原家のひとと同じ出入口通路が許されず、庭を通らず、マキの生垣の外側を迂回して裏側にある畑に出入りできるよう通路が設えられている。庭も、実のなる食物用のエリア、茶や野菜の畑、竹林、鑑賞用植物の庭、などに分類されている。
 旧但馬家住宅は、文政4年(1821)から天保8年(1837)の間に建てられたものと推測されている。この住宅にはじめて入居したのは、誠心流槍術師範であった井口氏で、その後岡田氏の所有となり、明治8年に但馬氏が購入したとの記録がある。平成4年(1992)に現在の姿に整備され、公開されるようになった。
Photo_20230503054502  旧武居家住宅は、「天保の御制」と呼ばれる居住の制度において、100石未満の藩士が住む小屋敷の規定に準拠していることが確認されている。幕末期ここに住んでいた田嶋伝左衛門は、90石の禄高であったこともわかっている。建築年代は史料がなく明らかではないが、構造と建築手法からみて幕末期と推定されている。
 平成9年(1997)に移築・整備工事がされて、当時の小規模な武家屋敷の典型例として貴重なものである。
 そうは言っても、下級武士には50石以下や給人扶持の者も多数いたであろうから、90石はまだしもかなり上級の武家ではないかとは思う。

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佐倉散策(2)

佐倉城跡公園
佐倉城跡
 佐倉城跡公園には、建物はなにも残っていない。しかし本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。Photo_20230502054201
 佐倉城の本丸御殿は、将軍御成りのときの宿所として専ら用いられ、それ以外には年始や五節句の行事に使用されるのみで、通常は使用されなかったようだ。佐倉に残る記録文書「古今佐倉真佐子(ここんさくらまさこ)」によると、家康公が本丸御殿で御休憩されて以来、恐れ多くて他の者が常用することが憚られたと伝える。「徳川実記」によれば、家康は慶長19年(1614)と元和元年(1615)の2回、鷹狩のとき佐倉に立ち寄ったとされる。
Photo_20230502054301  佐倉城の歴代藩主は、本丸御殿ではなく、二ノ丸御殿に住んでいた。二ノ丸御殿は、のべ413畳の広さがあったという。多くの家臣が詰め、勤めをしていた場所でもあり、まさに佐倉城の中枢であった。幕末期に老朽化したので、三ノ丸に新御殿が建設され、以後はそこが藩主の住処となったようだ。幕末に老中を勤めた藩主堀田正睦(ほったまさよし)は、その三ノ丸御殿で亡くなっている。Photo_20230502054401
 城郭は石垣を用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部に利用し、石垣の代わりに土塁を用いた。
 また、水堀も少なく、空堀が多く用いられている。
佐倉城の天守は、2段の土塁の上に片側を掛ける造りであったと伝える。そのため下方の本丸側からは4階建て、上方の反対側(搦め手)がわからは3階建てに見えた。
 その天守は、文化10年(1813)火災により焼失し、その後再建はされなかった。現在は天守台が残るのみである。
Photo_20230502054402  明治維新になって、廃城令により建物のほとんどが破却された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、さらに歩兵第57連隊(通称「佐倉連隊」)の駐屯地として用いられた。
 昭和37年(1962)3月佐倉市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建ち、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示される「佐倉城址公園管理センター」がある。
 佐倉城跡公園には、現在かなり多くの種類にわたる多数の桜が植えられていて、春の桜のシーズンには、とても快適な花見の名所であろうと推測する。

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佐倉散策(1)

 かつて私は製造業会社勤務先の転勤で、20年弱を首都圏に過ごした。ただ、住処が神奈川県であったこともあり、かなり歩き回ったように思っていたものの大部分は東京より西側で、東京より東の千葉、茨城についてはとんと不案内であることにふと気づいた。この度東京方面に小旅行するにあたり、佐倉市街を歩いてみたいと思った。ずいぶん以前、国立民俗歴史博物館ができて間もないころ、博物館は訪問した記憶がある。とは言っても、なにを見たのか今となってはほとんど覚えてはいないのだが。
 ともかく朝ホテルを発って、午前9時ころに京成佐倉駅に降り立った。さっそく観光案内所に立ち寄り、アドバイスと散策マップをいただいた。


Photo_20230501053801

 ざっと京成佐倉駅からいくつかの地点に立ち寄りつつ、半日でJR佐倉駅まで散策するというプランである。関東平野の町ではあるが、佐倉市はあらまし北高南低の地理的条件となっていて、標高が少し高い立地にある佐倉城跡公園からはじめて、次第に南下して武家屋敷や元藩主家たる堀田氏の旧邸を見学しようというものである。


佐倉城跡公園
佐倉城の概要
 京成佐倉駅を出発して、歴史民俗博物館方面に向かう。かつての佐倉城の一部に博物館が建てられたので、このあたり全体がお城の高台なのである。佐倉城本丸は、標高30メートルほどの鹿島山の西端部に築かれた。西側と南側は鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、北側は印旛沼に至る低湿地が広がっていたらしい。Photo_20230501053901
 佐倉城のなかの「椎木曲輪(しいのきくるわ)」とよばれた侍屋敷が集積していた地区に歴史博物館が建っている。博物館から城跡公園に向かう途中に、かつての佐倉城は、地理的条件と創建された時代との関係から、石垣がなく土塁だけで守られた構造の珍しい城である、との解説板がある。いわゆるお堀、すなわち水のある水堀もこの城の場合は少なく、「空堀(からぼり)」と呼ばれる水のない溝(塹壕)が多用される構造となっている。
 戦国時代、佐倉付近を支配していた千葉親胤が鹿島幹胤に命じて築城を試みたが、親胤が暗殺されて工事は中断した。千葉邦胤の代にも工事が試みられたが邦胤の暗殺によってまたも頓挫した。いつしか築城予定地は鹿島幹胤にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになった。
 天下を掌握した徳川家康は、慶長15年(1610)土井利勝に命じて築城を再開させてようやく佐倉城が完成し、以来佐倉藩の藩庁が置かれた。家康の天下泰平達成の後の、戦争のためではなく大名領統治のための城としてスタートしたことが、石垣や堀を用いない、あるいは多用しない構造となった大きな要因であると考えられる。
 歴代城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、また初期は城主の入れ替わりも多かったが、江戸初期に城主であった堀田正信の弟堀田正俊の孫堀田正亮が11万石で再入封してからは、安定した藩の経営が行われた。

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