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エゴン・シーレ展 東京都美術館(10)

シーレの表現の変遷(下)
 1918年、第一次世界大戦も終わりに近付いた時に、クリムトによる第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開した。そこでそれまであまり知名度の高くなかったシーレの作品群は一躍注目を集めることになった。シーレの絵の価格は高騰し、相次いで絵の買取りの依頼が舞い込むようになった。同年7月、シーレは富裕層の住むウィーン13区ヒーツィング・ヴァットマン通り6番地に新アトリエを構えた。
 やはりシーレの最晩年のヌード作品として「横たわる女」(1917)がある。

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 広がった白いシーツの上で、長い茶色の髪を持つ裸の女性が横たわっている。彼女の調和のとれたメランコリックな顔立ちは、シーレの後期作品の中では最も美しいものである。曲げた腕と脚は互いに対称になっており、画面は性的な緊張で満たされている。この作品は、シーレが生涯の終わりの時期に起こした進化の典型として、美的でバランスの取れた構成を示している。
 最初のバージョンでは、女性の性器が露出していたと推測できる。シーレはおそらく、1918年の春に行われた分離派の展覧会に考慮して、修正を加えたのだろう。全体の描写と表現も、一部の性的な主張を除いては「カール・グリュンヴァルトの肖像」と同様に、かなり自然な雰囲気のものに変遷している。シーレが様々な絵画を発表したこの展覧会は、ウィーンにおいて初めて大成功を収めた。
 高級住宅地で成功した画家としての大きな一歩を踏み出したシーレであったが、妻エーディトが大戦前後に流行していたスペインかぜに罹患し、シーレの子供を宿したまま、10月28日に死去した。
シーレも同じ病に倒れ、妻の家族に看護されたが、3日後の10月31日に亡くなった。
 義姉アデーレ・ハルムスによると、臨終に際してシーレは「戦いは終わった。もう行かなければならない。私の絵は世界中の美術館で展示されるべきだ」と語ったとされている。エゴン・シーレと妻エーディトは、最後の住居のあったウィーン13区のザンクト・ファイター共同墓地に葬られた。半世紀後の1968年、義姉のアデーレ・ハルムスが78歳で死去し、エゴン・シーレと妻エーディトの墓に加えられる形で埋葬された。
 卓越した描写技能を持つ画家が、観る者の期待や感情を度外視して、激しい意図と意欲を持って自分が表現したいように真剣に描いたら、結果はこのような絵となった、というような作品ばかりである。それは19世紀までの、発注者の意向に応えるような絵画とはまったく異なる。観る者の視線を忖度していないとも思えるし、あるいは自分の作品を愛おしんでいないのではないか、とさえ思ってしまうような出来栄えにも見える。それでもやはり気になる、少しひっかかる側面があり、なんどか見つめ直して、時間をかけてよく見つめると、実に丁寧に精緻に描いていることがわかるのである。観始めたときに醜くみえた画面が、奇妙な、さらには輝かしい美しさを顕わすようになる。シーレの作品は、とても奥行きが深い。
 そのように思い始めると、シーレはそこまで根を詰めて、エネルギーを注ぎこんで、まさに身を削ってあまりに激しく絵を描き続けてしまったからこそ、とうとう早く死んでしまったのだろうか、ともふと思った。
 非常に印象の深い、忘れられない鑑賞であった。

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