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エゴン・シーレ展 東京都美術館(8)

シーレの結婚と女性像(下)
 「母と二人の子ども」(1915)がある。Photo_20230524053701
 この作品は、シーレの母性に対する態度の変化をあらわしているようだ。少なくともここに描かれている女性は、これ以前に描かれた母親の絵画とは異なり、死んではいない。シーレの家族間の関係は改善して、母親(この作品のモデルとなった人物)を、思いやりを持って見るようになっていたことが反映している。
 さらに前年の1914年、妹ゲルティとシーレの親友アントン・ペシュカとの間に甥が生まれたこともこの作品に関係している。この甥は、描かれている二人の子どものモデルとなった。しかしそれにもかかわらず、この作品は家族の肖像とはみなしがたい。
 この作品は、画家の個人的な状況から制作されたものだが、彼の描き出した寓意は決して自伝的とはいえない。
 一見すると、シーレが多く描いてきた「母と子」という二人組とは異なる「母と二人の子」という三人組を描いた作品に見える。しかし、作品の重要なメッセージを担っているのは、母ではなく、二人の子どもの方なのである。彼らは結局のところ、生命に対する二つの対照的かつ補完的な反応を示すプロトタイプ的な寓意なのである。左側の子どもは眠っており目を開けていない、受動あるいは死を表す存在である。右の子どもは能動的であり、生きて目覚めており「観察者」となっている。
Photo_20230524053702  それに比べて母親は、背景に溶け込んでしまうようである。彼女はおそらく死んではいないが、疲れ切っている。すでに母として重要な役割を果たして来た彼女は、残された自分の人生をただ全うするのみの、意欲の無い存在として描かれている。
 1915年6月17日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにあるオーストリア福音主義教会のルター派シュタット教会でエーディト・ハルムスとの結婚式が執り行われた。花嫁エーディトの父ヨハン・ハルムスは北ドイツ出身の機械工のマイスターでルター派であった。カトリックが圧倒的であったウィーンにおいて、ハルムス家の属する少数派のルター派教会で結婚したのである。しかしカトリック教徒の母マリアは、この結婚式に出席しなかった。シーレと母マリアの間に緊張が強まった結果、シーレはハルムス家とその姉妹により一層密接につながっていく。ハルムス家の妹エーディトと結婚したのだが、義姉のアデーレとも密接な関係を持った。下着姿の義姉アデーレをモデルにした作品「紫色の靴下をはいて座っている女」(1917)があるが、この時期にシーレとの性的関係があったことを義姉アデーレが告白している。
 「エーディト・シーレの肖像」(1915)がある。
 彼の花嫁のこの肖像画は、結婚した年の8月に完成した。エーディトの姿勢は不格好である。彼女はあたかも支えられた人形のように見える。シーレのアトリエのカーテンから作られたストライプのドレスを身に着け、正面を見せ、腕をだらりと下げたエーディトは、人間味に欠けた装飾的な側面に注意を惹きつける。丸めた手と、傷つきやすそうな視線だけが激しく感情的な親密さを露わにしている。
 結婚のわずか3日後、第一次世界大戦が勃発すると24歳のシーレはオーストリア・ハンガリー帝国軍に召集された。作品制作も中止に追い込まれたが、結果としてみればこの出来事はシーレの飛躍に繋がるチャンスとなった。
 チェコ地方のプラハ駐屯部隊に配属されたシーレが上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重してシーレを前線勤務に就かせなかった。彼は主に後方のプラハで捕虜収容所の看守を務めつつ、戦争という経験の中でスケッチや作品の構想を続けることができた。更に1917年に首都ウィーンに転属すると作品制作を再開できるようにもなり、暖めていたアイデアの制作に打ち込んだ。

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