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佐倉散策(2)

佐倉城跡公園
佐倉城跡
 佐倉城跡公園には、建物はなにも残っていない。しかし本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。Photo_20230502054201
 佐倉城の本丸御殿は、将軍御成りのときの宿所として専ら用いられ、それ以外には年始や五節句の行事に使用されるのみで、通常は使用されなかったようだ。佐倉に残る記録文書「古今佐倉真佐子(ここんさくらまさこ)」によると、家康公が本丸御殿で御休憩されて以来、恐れ多くて他の者が常用することが憚られたと伝える。「徳川実記」によれば、家康は慶長19年(1614)と元和元年(1615)の2回、鷹狩のとき佐倉に立ち寄ったとされる。
Photo_20230502054301  佐倉城の歴代藩主は、本丸御殿ではなく、二ノ丸御殿に住んでいた。二ノ丸御殿は、のべ413畳の広さがあったという。多くの家臣が詰め、勤めをしていた場所でもあり、まさに佐倉城の中枢であった。幕末期に老朽化したので、三ノ丸に新御殿が建設され、以後はそこが藩主の住処となったようだ。幕末に老中を勤めた藩主堀田正睦(ほったまさよし)は、その三ノ丸御殿で亡くなっている。Photo_20230502054401
 城郭は石垣を用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部に利用し、石垣の代わりに土塁を用いた。
 また、水堀も少なく、空堀が多く用いられている。
佐倉城の天守は、2段の土塁の上に片側を掛ける造りであったと伝える。そのため下方の本丸側からは4階建て、上方の反対側(搦め手)がわからは3階建てに見えた。
 その天守は、文化10年(1813)火災により焼失し、その後再建はされなかった。現在は天守台が残るのみである。
Photo_20230502054402  明治維新になって、廃城令により建物のほとんどが破却された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、さらに歩兵第57連隊(通称「佐倉連隊」)の駐屯地として用いられた。
 昭和37年(1962)3月佐倉市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建ち、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示される「佐倉城址公園管理センター」がある。
 佐倉城跡公園には、現在かなり多くの種類にわたる多数の桜が植えられていて、春の桜のシーズンには、とても快適な花見の名所であろうと推測する。

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