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佐倉散策(3)

武家屋敷
Photo_20230503054301  佐倉城跡公園を出て、南東方向に歩く。「大手門跡」の石碑がある三叉路を南に折れてしばらく行くと「ひよどり坂」という竹林の小径がある。うっそうと茂る竹林のなかを緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが配され、坂の途中には縁台もあり、江戸時代の雰囲気を今に伝えている。説明にあるとおり、たしかに季節が変われば雰囲気も変わるだろうから、その変化も楽しめそうな小路である。この坂を登り切ると、大聖院という寺院の横に出る。このあたりは、かつて武家屋敷のならぶ地域であった。やがて「武家屋敷」と書いた幟が眼に入る。現在、3件の江戸時代の武家屋敷が公開されている。
 佐倉藩では、武家屋敷の多くが藩の指導により、材料も規模も必要最小限に造られていたという。武家屋敷の規模や様式は、その住人たる個々の武士の身分の象徴でもあった。佐倉藩でも、天保4年(1833)の藩による居住の制が残っていて、それぞれの身分に応じて建坪、門構え、玄関の仕様、長押の様式、畳の仕様、など細かく規定されていた。Photo_20230503054302
 公開されている3つの武家屋敷は、旧河原(かわら)家が300石の上級武士で大屋敷の例、旧但馬家が150石の中級武士で中屋敷の例、旧武居家が90石の中下級で小屋敷の例となっている。
Photo_20230503054401  佐倉の武家屋敷は、道路に面する部分を正面とし、門を設け、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けていた。屋敷の裏側には菜園などをつくり、屋敷の境界には木を植え、背後の斜面は竹藪などとしていた。
 入場料の受付があるのは河原家で、いちばん大きな家である。河原家は、天保6年(1835)ころに当地とは別の鏑木小路の地に移転してきて、弘化2年(1845)ころまでにこの住宅を建てたと推測されている。平成2年(1990)保存と展示のために、この場所に移築復元されたものである。建築様式と構造、部材の風食などに古い建物に特徴的な要素がみられ、佐倉に残る武家屋敷のなかでは、最も古いものと考えられている。Photo_20230503054501
 使用人や出入り農民は、河原家のひとと同じ出入口通路が許されず、庭を通らず、マキの生垣の外側を迂回して裏側にある畑に出入りできるよう通路が設えられている。庭も、実のなる食物用のエリア、茶や野菜の畑、竹林、鑑賞用植物の庭、などに分類されている。
 旧但馬家住宅は、文政4年(1821)から天保8年(1837)の間に建てられたものと推測されている。この住宅にはじめて入居したのは、誠心流槍術師範であった井口氏で、その後岡田氏の所有となり、明治8年に但馬氏が購入したとの記録がある。平成4年(1992)に現在の姿に整備され、公開されるようになった。
Photo_20230503054502  旧武居家住宅は、「天保の御制」と呼ばれる居住の制度において、100石未満の藩士が住む小屋敷の規定に準拠していることが確認されている。幕末期ここに住んでいた田嶋伝左衛門は、90石の禄高であったこともわかっている。建築年代は史料がなく明らかではないが、構造と建築手法からみて幕末期と推定されている。
 平成9年(1997)に移築・整備工事がされて、当時の小規模な武家屋敷の典型例として貴重なものである。
 そうは言っても、下級武士には50石以下や給人扶持の者も多数いたであろうから、90石はまだしもかなり上級の武家ではないかとは思う。

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