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エゴン・シーレ展 東京都美術館(1)

 東京都美術館で「エゴン・シーレ展」が開催されていたので、鑑賞してみることにした。きっかけは、せっかく東京まで出たのでここで観られる展覧会を観てみようというもので、これまでにエゴン・シーレについてほとんど知識はなかったし、特段の期待もなかった。
 美術館に来てみると、開場のすぐあとということもあって、混雑というほどではなかった。

エゴン・シーレの幼少期からクリムトとの出会いまで
 エゴン・シーレ(1890 - 1918)は、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウに生まれた。父アドルフ・シーレは帝国鉄道の鉄道員であり、母マリア・ソウクップ・シーレはチェコ系オーストリア人であった。
 シーレ家は北ドイツが出自で、ルター派教会牧師、官吏、軍人、医者などを輩出した中産階級の家であった。祖父が鉄道技師としてオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したため、オーストリアに移ってきたのであった。ローマ・カトリック教会信徒が圧倒的多数のオーストリアにあって、父方のシーレ家は少数派のルター派オーストリア福音主義教会に属していた。ただ当時オーストリアでは、芸術、文学、建築等でプロテスタントの活躍が目立ちはじめていた。ボヘミアの富裕な建築業者の娘であったシーレの母親マリアは、敬虔なカトリック教徒であったため、エゴン・シーレ自身がカトリック教徒であったと推定する伝記研究者もいる。
 幼少期に初等教育をウィーンの北、クロスターノイブルク市へ移住して学んだシーレは、そこで美術担当の教員から美術の早熟な才能を認められた。しかし15歳の時に父が性病の梅毒で病没したことは、経済的打撃のみならずシーレの心に大きな衝撃を与えたらしい。「性と死」のテーマが、シーレの作品の通奏低音となっていく。
 未成年のシーレを引き取った叔父レオポルドは、シーレの芸術への強い熱意を理解し、支援してくれたようだ。シーレは16歳の時に、グスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校に学んだ。さらに美術の高い才能を認められて、飛び級でウィーン美術アカデミーへ進学した。Photo_20230517053801
 そのころの作品として「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」(1907)がある。正統的な画法で緻密で高度な描写技術は、誰の眼にもあきらかである。
 しかしウィーン美術アカデミーの教育方針に、シーレは失望した。シーレから見れば、保守的で時代錯誤な古典主義を継承・遵守するアカデミーには、価値を感じられなかった。シーレは、工芸学校時代の先輩であったグスタフ・クリムトに弟子入りを志願した。クリムトは熱意あふれる後輩を可愛がり、貧しいシーレがモデルを雇う代金を立て替えてやるなど、さまざまな援助を惜しまなかった。またクリムトは自身の分離派をはじめ、象徴派や表現主義など新しい作風を模索する作家達が組織した「ウィーン工房」にシーレの入会を推薦した。
 1909年、シーレはアカデミーを退校して、アカデミーを離脱した仲間達とも交流した。クリムトが開いたフランス印象派の絵画展に出会って、シーレは大きな衝撃を受けた。その展覧会でフィンセント・ファン・ゴッホの作品を目の当たりにし、多大な影響を与えられた。またやはりゴッホの影響を受けていたドイツ表現主義の画家達、ヤン・トーロップ、エドヴァルド・ムンクなどの絵画も展示されていて、彼らからも強い影響を受けた。

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