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2023年6月

「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(8)

クレーの宇宙(下)
 「ジンジャー・ブレッドの絵」(1925)がある。Photo_20230630054501
 描かれているのはクリスマスの伝統菓子ジンジャー・ブレッドであり、独特の生姜の香が漂ってきそうで、なんとなく子どもたちも喜びそうな、親しみやすい絵である。画面全体に凹凸のある茶色い壁紙が貼られ、絵画でありながら手工芸的な感じもする。しかし、クレーは当初この作品に「植物の祭り」というタイトルを付けたという。クレーは、バウハウスで「ダイナミックな躍動」のモティーフを講義しており、その講義録に、この絵のような花や回転する風車があって、祭りの賑わい、活気、リズム、躍動感、そしてユーモアの要素が満載である。
Photo_20230630054601  「モスクの入口」(1931)がある。
 抽象的な表現、色彩の諧調表現、モティーフのさまざまな組み合わせ、方形の色面を格子状にならべた「方形画」などを経て、1931年からは「いわゆる点描すること」に集中的に取り組み、多くの点描画を描いた。この作品では、3,400を超える小さな枡目のひとつひとつに水彩絵具で色付けが行われている。クレーは、この実に骨の折れる祖業のために、スタンプのような専用の道具を考案して制作に勤しんだという。点描の暖色と寒色、明と暗のコントラストが、規則的で平面的であるはずの画面に、きらめきに満ちた奥行き感を実現している。
 ピカソの作品群を見た後にクレーをみると、やはり絵のタイプがまったく違うことがよくわかる。ピカソもクレーも、制作において考え抜いて描いていることは共通であるが、観る者への訴え方が違う。ピカソは自由な表現を追及し実行するものの、結局は観た者の視覚に訴え、まず感覚に作用する。クレーは、もっと内向的というか、思索的というか、観る者の視覚は経由するが、ターゲットは観る者の頭脳であり、論理であり、思考を促す。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(7)

クレーの宇宙(上)
 ベルクグリューンは、1936年にドイツを離れるまではクレーという画家の存在を知らず、移住先のサンフランシスコの美術館で初めて知ったという。しかしそれ以来、彼はクレーの芸術に深く感銘を受け、愛着を持ち続けた。ベルクグリューン美術館のコレクションにおいて、パウル・クレーはピカソとならんでもう一つの柱となった。Photo_20230629055901
 パウル・クレー(1879~1940)は、20世紀のスイスの画家、美術理論家であり、ワシリー・カンディンスキーらとともに「青騎士(ブラウエ・ライター)」を結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。
 クレーの作品は、ピカソの作品とはかなり違う様式や雰囲気のものだが、クレーは同時代の芸術家のなかでビカソに最も強く関心を持ち続け、とくにピカソのキュビスムから大きな影響を受けたとされている。
 「黄色い家の上に咲く天の花(選ばれれた家)」(1917)という作品がある。
 簡素な家の切妻屋根から空に向かって大きな花を咲かせる植物が伸びている。無機物たる建物が有機物たる植物に連続的に変容しているかのような自由な発想は、クレーの特徴でもある。この作品が制作されたのは、第一次世界大戦中で、クレーが兵役に服務していたときであった。クレーはこの作品を「飛行機用亜麻布」の上に描いたと書き残している。戦時中、航空学校に配属されていたクレーは、破壊された軍用機の翼の亜麻布をしばしば制作に用いた。天を衝くような青い植物は飛行機の、簡素な建物は彼が過ごした兵舎の、それぞれのイメージにつながる。黄色い色の家の上に描かれた「K」の文字は、クレー自身をあらわしており、厳しい現実世界から天へと伸びる植物に、生命の解放への希望を託したのだろう。
Photo_20230629055902  「知ること、沈黙すること、やり過ごすこと」(1921)という作品がある。
 この作品では珍しく人物が登場するが、モデルの人間そのものを表現する絵ではなく、人間の知的行動や心理などの内面を抽象的にイメージする絵のようである。このような抽象的表現による形而上学的、あるいは哲学的な絵画が、クレーのひとつの特徴であろう。このころから10年間ほど、クレーはドイツのバウハウスで教鞭をとった。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(6)

ピカソの新古典主義時代からゲルニカまで(下)
 ピカソ「緑色のマニキュアをつけたドラ・マール」(1936)がある。Photo_20230628073701
 ビカソは多くの女性たちとつきあい、一緒に生活することも多かった。それらの女性たちは、それぞれに彼の作品に大きな影響を与えた。1936年から1943年にわたってピカソの恋人であった写真家ドラ・マールは、この時代のピカソ作品のなかでもひときわ強い存在感を放っている。
 また、1920年代後半から大胆なデフォルメが加えられるようになっていったが、とくに女性やヌードでは、ピカソ自身の女性観や不穏な時代の雰囲気が反映して、ますます多様な形式に展開していった。
Photo_20230628073702  「黄色のセーター」(1939)がある。
 この絵のモデルもドラ・マールだというが、その面影には1927年以来の恋人であったマリー・テレーズが重ねられているという見かたもあるらしい。肘掛椅子に堂々と座る女性の姿は、玉座につく女王を思わせる。正面向きと横向きの目鼻が組み合わされた頭部やごつごつとした両手の表現は、ピカソ独特の分解と再合成の手法が採用されている。目を引く黄色いセーターは、緻密な網目模様が装飾的な美しさを表していると同時に、自由な身動きを阻む鎖の網のようにも見える。先の世界大戦の開始直後に疎開先の町ロワイヤンで描かれたこの作品は、ピカソとドラ・マールが体験した不安や恐怖が顕われている。
 ひときわ大型の作品「大きな横たわる裸婦」(1942)が展示されている。

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 これは1940年6月から1944年8月にわたったナチス・ドイツによる占領下のパリで制作された重要な大作のひとつである。「横たわる裸婦」という伝統的なテーマでありながら、その本来の特徴たる女性美や官能美は徹底的に拒否されている。独房のような閉ざされた部屋のなかで横たわる女性の身体はねじ曲がり、両脚は不自然に交差して死を意味する骨の十字の紋章のようである。女性は眼を閉じて眠っているかのようだが、両手は固く握りしめられ、片時として苦痛から解放されない様子である。これらは、孤独、苦痛、絶望といった戦争の時代の感情の象徴であり、時代を超えて観る者に訴えかけている。ピカソの最も困難な時代を象徴する作品である。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(5)

ピカソの新古典主義時代からゲルニカまで(上)
Photo_20230627053801  「座って足を拭く裸婦」(1921)がある。このパステル画は、1915年にはじまるピカソの「新古典主義時代」の典型的な作品であるとされる。
 静かな海辺を背景に、ひとりの豊満な裸婦が腰かけて足を拭いている。片足をあげて座るポーズは、ローマ時代の古代彫刻「棘を抜く少年」に見られる古典的なもので、ピカソが敬愛した印象派のルノワールもまた同様のポーズをした裸婦を描いている。ピカソは、そのルノワールの絵画を購入しており、この作品を描くときの参考にしたとも推測できる。ピカソの裸婦像に見られる手足を大きく誇張して描く手法は他の作品にも見られ、この時期のピカソのモニュメンタルな身体表現とも考えられる。身体に比べて大きい手足の他、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻筋などが特徴である。
 しかしすでに中年になっていたピカソは、彼を先駆者と仰ぐ若いシュルレアリストたちとの接触に刺激を受け、1920年代後半からは残酷なまでに変形された人間のイメージを、作品に取り入れるようになった。古代神話の世界も、人間の衝動や欲望を映し出す題材になっていったのである。「ピカソのシュルレアリスムの時代」とも呼ばれる。
 このころの作品として「踊るシレノス」(1919)がある。Photo_20230627053901
 シレノスとは、ギリシア神話の半人半馬の種族である。サテュロスにも似ているが、そちらは半馬でなく半山羊である。水の精で予言の力を持つとされる。神話の登場人物としてはデフォルメが激しいこと、欲望の自由な表現があからさまなこと、が明らかである。
 そしてスペイン内戦の勃発で、有名な大作「ゲルニカ」が登場する。この「ゲルニカ」の数か月後に描かれた作品が「サーカスの馬」(1937)である。
Photo_20230627054001  赤い服を着て鞭を手にした恐ろしい形相の男が、抵抗する馬の手綱を引いている。背景の観客たちは、左上端に顔が見える女性を除いて、なにやらグロテスクで威嚇的に見える。サーカスは明るくて陽気なはずなのに、この場面は混沌とした不穏な雰囲気が渦巻いている。この暴力性や野蛮さは、ピカソが1930年代に繰り返し描いた闘牛のテーマとも共通している。ピカソがここで描く馬はか弱い犠牲者として登場し、この馬も暴力による受難の象徴とみなせる。ただ、この鞭の男の脇腹には黒いシミのようなものが見え、これが流血だとすると、男と馬のいずれもが被害者でありかつ加害者であるともとらえられ、さまざまな解釈ができる。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(4)

ピカソのキュビスムまで(下)
 ピカソ「裸婦(「アビニョンの娘たち」のための習作)」(1907)という作品がある。Photo_20230626054001
 ここでは、縦長で上下に尖った顔の輪郭、長く伸びた鼻筋やハッチングの多用が同様に目立ち、さらに黄色や青の原色の使用は、オセアニアの造形物との関連が推測されている。
 1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、「プロトキュビスム」(初期キュビスム)が確立され始めた。ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、「セザンヌ的キュビスム」と呼ばれることもある。1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのち、スペインのカタルーニア地方にある村オルタ・デ・エブロへ向かった。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに、作品を精力的に制作した。
Photo_20230626054002  ピカソ「丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)」(1909)がある。結晶の塊のような幾何学的フォルムによる景観の表現となっている。
オルタ・デ・エブロに滞在中に、同行したフェルナンド・オリヴィエをはじめ、多数の人物画も描いた。パリにもどってからオルタ・デ・エブロで描いたフェルナンドの頭部をもとに立体的彫刻も制作しており、その展示もある。
 キュビスムの絵画は、ピカソとジョルジュ・ブラックの共同作業によって進められた。描く対象をシンプルなヴォリュームとして捉えることからはじまり、次にカットグラスのように面によって分割された対象を、周りの空間と融合する。さらに、画面に文字を書き込む、あるいは壁紙や新聞紙などの断片を画面に貼り付ける「パピエ・コレ」という技法を利用する、などそれまでの絵画の常識を壊すような新しいアイデアが次々に取り入れられた。キュビスムは現実と芸術作品との間に新しい関係を開き、20世紀の美術に大きな革新をもたらした。Photo_20230626054101
 第一次世界大戦の勃発によってブラックが出征してしまうと、ピカソはひとり新たなキュビスムの方向性を模索していた。戦争前の時代には、詩的で装飾的な作品が多かったのに対して、戦争中のビカソは、より明快で構成的な造形へと向かった。
 「グラス、花束、ギター、瓶のある静物」(1919)がある。中央にギターを配したこの作品のように、縦長の大画面に黒や青などの暗い色調の平面を組み合わせたモニュメンタルな静物画を多く描いた。キュビスムの特徴のなかの幾何学的な表現は少し和らげられて、次第に有機的な形が取り入れられるようになっていった。
 第一次世界大戦からその終戦後の数年間は、フランス社会に保守的な空気が広がり、美術においても「秩序への回帰」と呼ばれる傾向が出ていた。このなかでピカソはいちはやく伝統的な芸術に注目し、大戦末期から1920年代初めころには古代彫刻や古典絵画に着想を得たような作品を多く制作した。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(3)

ピカソのキュビスムまで(上)
Photo_20230625054501  最初に出てくるピカソの絵は「青の時代」の末期ころの写実的な作品で「ジァウメ・サバルテスの肖像」(1904)である。サバルテスはピカソの秘書を勤めていた。深い青を基調として、かすかに金色にきらめく胸元のタイピンと唇の赤みがアクセントとなっている。ピカソの写実技術の高さ、緻密さがいかんなく現れている。
 サバルテスとピカソは、1899年にスペインのバルセロナで出会い、バルセロナとパリを行き来しながら新たな表現を模索していた若き芸術家グループの仲間として、青春時代をともにしていた。
 1904年のパリ定住の後、ピカソの絵画は次第にやわらかなバラ色へと変化していく。ピカソは新しい恋人フェルナンド・オリヴィエと知り合い、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描きはじめた。Dsc01774
 「座るアルルカン」(1905)が展示されている。画面の基調は一気に明るくなり、背景の赤色がインパクトを与える。ピカソ研究者たちから「薔薇色の時代」と呼ばれる時代である。
 しかしそれも長くは続かず、1906年半ばころからは、ピカソはアフリカや古代イベリアの彫刻、さらにオセアニアなどの原始的美術に強い興味を持ちはじめた。
Photo_20230625054601  「女の頭部」(1906)というテンペラとインクで描かれた素描のような絵がある。古代イベリア彫刻の影響からか、アーモンド型の上下に尖った縦長の顔、長く伸びた鼻筋、彫刻のように様式化された眉や目鼻立ちの特徴ある造形表現が印象的である。これまでと比較して、急激にめだって立体を強調した表現になっているのがよくわかる。描写に、これまでになかったハッチング技法が多用されていることも注目される。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(2)

セザンヌ ─近代芸術家たちの師
 ポスト印象派のコレクションの大部分を売却したベルクグリューンであったが、セザンヌの数点だけは最後まで手許にとどめていた。そのひとつが、「セザンヌ夫人の肖像」(1885)である。Photo_20230624073201
 セザンヌの創造的な絵画は、19世紀末から若い画家たちの重要な指針となり、20世紀の美術に大きな影響をもたらした。マティスもピカソもクレーも、異口同音にセザンヌの偉大さを認め、尊敬し、師と仰ぐ言葉を残している。
 描かれているのは、セザンヌの妻マリー・オルタンスである。セザンヌとは1869年に出会い、3年後に子供を授かったのだが、実業界の成功者だったセザンヌの父が反対したため、長い間関係を隠していた。この作品は、ようやく正式に結婚したころのものである。このころセザンヌは、印象派の色彩表現を卒業して進化させ、独自の様式を確立したころであった。人物の頭部を丸みのある簡潔な立体としてとらえ、色彩のグラデーションと対比を活かしている。セザンヌを師と仰ぐジャコメッティがこの作品を模写した作品が、あわせて展示されている。
Photo_20230624073202  セザンヌ「庭師ヴァリエの肖像」(1906)という作品もある。これはセザンヌの最晩年の作品で、同じ画題で何枚か制作した作品のひとつである。
 セザンヌは、エミール・ベルナールへの書簡で「全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにする。(中略)水平線に平行な線は広がりを、垂直の線は深さを与える。(中略)私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在する。そのために赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばならない。」と述べているというが、この絵ではまさにそれらの要素が円熟して導入されていることがよくわかる。
 この絵を描いた1906年、9月21日のベルナール宛書簡で「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている」と書いていた。その10月15日、野外で制作しているとき大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(1)

ベルクグリューン・コレクション
Photo_20230623074401  大阪市中之島の国立国際美術館で「ピカソとその時代」というタイトルで、ベルリン国立ベルクグリューン美術館所蔵作品による展覧会が開催された。タイトルはピカソだが、中身は同時代の高名な画家たち、クレー、マティス、ジャコメッティの作品も含まれている。
 この美術館の創設者であるハインツ・ベルクグリューン(1914~2007)は、ベルリンにユダヤ人の子として生まれ、ナチス政権から1936年に逃れてアメリカに渡り、評論や美術界に働き、さきの大戦の後パリで画廊を経営し、世界的な画商となった。ピカソ、マティスなどの芸術家や文学者たちと親交を深め、作品蒐集を進め、膨大で個性豊かなコレクションを形成した。1990年代までは、セザンヌ、ゴッホ、スーラなどのポスト印象派の作品も多く所蔵していたが、その大半は、晩年にコレクションの対象を20世紀に特化するために売却した。2000年にドイツ政府とベルリン市の支援を得て、主要作品はベルリン・ナショナルギャラリーに収蔵された。2004年に彼のコレクションは、ナショナルギャラリー内で国立ベルクグリューン美術館として独立した。Photo_20230623074501
 ピカソ、クレー、マティス、ジャコメッティの4人の巨匠を中心として、個性的なコレクションとなっているそうだ。
 展覧会の冒頭に登場するのはピカソの「眠る男」(1942)である。これは紙の上に墨で書いた絵で、ベルクグリューンにとっては1950年、初めて入手したピカソの作品だという。

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東海道の美・駿河への旅(4)

第二章 東海道が育んだ美術(下)
 円山応瑞「花鳥図」文化元年(1804)がある。Photo_20230622060201
 円山応瑞(まるやま おうずい、明和3年1766~文政12年1829)は、円山応挙の長男で、円山派の2代目であった。寛政2年(1790)の内裏造営の際に応挙一門として障壁画の制作に加わった。文化10年(1813)ころに出版された『平安画工視相撲』では、松村景文、原在正、原在明、土佐備後介、土佐左近将監などと共に行司役として載っている。
Photo_20230622060301  狩野山雪「猿猴図」がある。これは、全国的にも有名な山雪の名作である。
 狩野山雪(かのう さんせつ、天正18年1590~慶安4年1651)は、江戸時代初期の狩野派の絵師である。京狩野の狩野山楽の婿養子で後継者であった。九州肥前国に生まれた。実父に従い大阪に移り住んだが、慶長10年(1605)に父は亡くなった。彼に画才があることを知っていた叔父の僧は、当時豊臣氏の絵師として活躍していた狩野山楽に弟子入りさせた。弟子となった後は頭角を表し、山楽の長男・光教が早世すると代わりに後継者となった。元和5年(1619)までに山楽の娘竹の婿となり、遅くとも30代半ばには山雪と名乗っていたと推定されている。正保4年(1647)九条幸家の命により、東福寺所蔵の明兆筆三十三身観音像のうち、欠けていた2幅を補作し、その功績により法橋に叙せられた。
 司馬江漢「長沼村富士眺望図」文化年間(1804-18)がある。これは、洋画ではなく絹本淡彩の日本画だが、司馬江漢らしく独特の遠近法なのか、奥ゆきの感じられる作品となっている。
 展示作品には、これらの他に地元駿河の豪農などが京・江戸などの画家や文人と交流を持ち、経済的支援をしたり作品を譲り受けたりしたことの紹介もあった。静岡に来る機会が少ない私には、それなりに興味深い展示であった。

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 ただ、少し不満だったのは、展示場の照明が少し暗すぎて、作品の色彩がよくわからないこともあった。作品の保護は重要だが、他の美術館の状況を考えても、もう少し照度を上げても良いのではないか、と思った。
 この美術館は2010年開館というから、まだ開館から10年余りの新しい建物でもあり、設備も行き届いていて、快適な施設であった。

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東海道の美・駿河への旅(3)

第二章 東海道が育んだ美術(上)
 続いては、江戸時代の駿河にちなんだ画家の紹介である。Photo_20230621053901
 白隠慧鶴「曲馬図」延享~宝暦前期(1744-53)がある。白隠らしい軽妙洒脱な絵である。
 白隠慧鶴(はくいん えかく、貞享2年1686 - 明和5年1769)は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧であった。駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)の商家の三男として生まれた。15歳で松蔭寺の単嶺和尚のもとで得度し、慧鶴と名付けられた。諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験するも、増長して信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)に「あなぐら禅坊主」と厳しく指弾され、弟子入りして指導を受け、老婆に箒で叩き回されて悟りを得た。禅修行のやり過ぎで禅病となったが、白幽子という仙人から「内観の秘法」を授かって回復したという。さらに修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成した。
 地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。
 現在も、臨済宗十四派は全て白隠を中興としているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦する。
円山応挙「山水図小襖」寛政6年(1794)がある。


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 円山応挙は、生まれも主な活動も京都であったが、駿河の景色を描いた作品もあった。
狩野栄信「琴棋書画図屏風」(右隻、文化13年⁻文政9年(1816-26)がある。
 琴棋書画とは、「四芸」と称して琴=音楽、棋=将棋、書=書道、画=絵画という風流人の嗜みのことで、古くから中国の絵画の題材として取り入れられてきた。

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 狩野栄信(かのう ながのぶ、安永4年1775~文政11年1828)は江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。狩野養川院惟信の子として江戸に生まれ、天明5年(1785)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802)に法眼に叙せられた。文化5年(1808)父惟信が死ぬと家督を継いだ。朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁を勤め、自身も2双を制作した。文化13年(1816)に法印となった。画才に恵まれ、現存する作品は秀作・力作が多いとされている。中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成することで新画題を作る手法を確立し、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある独自の画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法などを積極的に摂取取り入れた。この作品も、色彩が鮮やかである。

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東海道の美・駿河への旅(2)

第一章 描かれた東海道─風景画
 杉谷行直筆 深田正韶賛「富士三保清見寺図」弘化3年(1846)がある。

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 これは、雪舟が室町時代に描いたと伝える絵に、駿河の清見寺が冨士山を背景にして描かれていたことを知った清見寺の住持が、画家杉谷に依頼して写させたものであるという。寺院の顕彰を目的とした住持の活動・努力の例である。
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 村松以弘「白糸瀑図」がある。江戸時代山水画の題材として、渓流や滝の題材として、駿河富士宮にある「白糸の滝」に人気が集まり、全国的にも有名な景勝となった。そして多くの絵に描かれた。この作品もそのひとつである。広い範囲にわたって、白糸のように流れ落ちる景観は雄大かつ繊細で、たしかに印象の強い美しい景勝であったろう。
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 東海道の駿河国と言えば、何と言っても富士山である。原在正「富士山図巻」(部分)四巻、寛政8年(1796)がある。
Photo_20230620073402  東海道五十三次の道程の景観は、まず葛飾北斎が文化年間(1800年代初頭)に連作し、後に歌川広重が天保年間(1830年代)に連作を残している。ここでは同じ場所「駿河の原」を描いたものを並べて展示している。Photo_20230620073401
 いずれ劣らぬ名作だが、葛飾北斎は朝鮮通信使の一行が原の付近を通行しているところを描き、人間に肉薄しているので、背景の冨士は裾が見えるだけである。
 一方の安藤広重は、背景の冨士山を主役に描いていて、東海道を旅行くひとびとは、景観の一部としての位置づけとなっている。このような処から、北斎は人物を中心に、かたや広重は景観を中心に描くという、二人の画家の個性の違いが窺える。

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東海道の美・駿河への旅(1)

 静岡市の駿府城を散策した後、帰途に静岡市美術館があったので、立ち寄ることとした。「東海道の美・駿河への旅」というタイトルの展示会を開催していた。
 東海道がさまざまに描かれた日本画や屏風などと、駿河で描かれた近世の画家の作品とが、81点にわたって展示されている。

第一章 描かれた東海道─屏風
 静岡県指定文化財「東海道図屏風(マッケンジー本)」江戸時代、がある。

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 東海道の江戸日本橋から京の三条大橋までの道程が六曲一双の屏風に描かれている。絵は屏風に三段に描かれている。右隻の上段右に江戸日本橋が描かれ、東海道を左に進み、そのまま左隻上段右端に移り、左隻上段左端から右隻中段右端に飛ぶ。以下、上段と同様に右隻から左隻に進み、右下段を同様に右隻から左隻に進み、左隻下段左端で京三条大橋終点となる。保存状態の良好な美しい屏風である。
 横に細長い画面に、よく工夫して景観をまとめている。照明が少し暗すぎて見にくいが、よく見れば細かいところで色彩も凝っているようだ。


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 狩野宗信「東海道五十三次図屏風」六曲一双がある。これも二隻からなり、マッケンジー本と同様の進み方だが、ここでは内容が上段と下段の2層構成の絵である。
 この屏風では色彩が明るく、縦に幅もあるのでより詳細に景観が描かれている。

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 「駿府城下行列図屏風」がある。東海道は大名行列も頻繁にあり、これは元和~寛永ころの江戸時代初期の行列を描いたものと推定されている。

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小笠原文雄『なんとめでたいご臨終』小学館

 これは6年前の2017年に、小笠原文雄先生がはじめてまとめた在宅看取りについての詳しい書である。私は、この書の後継版である今年2023年3月発刊の小笠原文雄『最期まで家で笑って生きたいあなたへ』を先に読んだので、在宅医療・在宅緩和ケア・在宅看取りの最近の進歩とその仕組みについては、すでに学んでいた。そこでこの6年前の前著『なんとめでたいご臨終』では、私には、主に「人間にとって死ぬこと、臨終とは」「ヒトの死ぬ時の生理と心理」について学ぶことが多かった。
 人間はかならず死ぬ。しかしながら、死ぬことについて落ち着いて真摯に考える機会は、通常の生活の中にはほとんどない。そして死が現実のものとして迫ってきたときに、どうしていいかわからなくなりがちだろうと思う。この本にあるように「自然の摂理のなかで、自分の意志で、希望死・満足死・納得死ができる」ためには、まず「死」を自分のものとしてよく考えて理解し、冷静に死に向き合うことが必要であり、まわりの家族や関係者もそれを理解することが大切であることが具体的に丁寧に説明されている。
 私自身も含めて、まだこのようなことにかんする知識は充分には普及していない。後期高齢者に向かっている私にとっては、とくに大事な本である。

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第99回白日会関西展

 

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 白日会(はくじつかい)は、大正12年(1923)中沢弘光が命名し、川島理一郎とともに創設した写実を重視・標榜する美術団体である。中沢弘光は、明治33年(1900)東京美術学校を卒業し、黒田清輝に師事し、白馬会に創立以来参加していた、明治時代後半から昭和前期にわたって活動した西洋画家であった。第1回展覧会が大正13年(1924)東京日本橋で開催され、今年で第99回目となっている。
 ネオアカデミズムから脱却して、鮮明に「写実」を標榜し、見えるものを通して、見えないものを描くことを理念として「写実の王道を歩む白日会」を謳っている。Photo_20230617075202
 私は、出展者の出水翼さんから招待状をいただいて、鑑賞する機会を得た。
 さっそく出水 翼「初秋の安らぎ」を観た。
 とても緻密で行き届いた絵である。漁網にくるまれたあるいは波に打ち上げられたらしいさまざまなモノがあり、網を手繰る綱がひろがる。漁舟もひとときの安らぎを得て、ひっそりとたたずんでいる。それらに戯れる猫たちの長閑な表情も安らぎを感じさせる。背景の集落の家々も、とても丁寧に描写されて、平穏である。初秋の空気感、温度、浜辺の湿気まで自然に感じられる。私としては、あと初秋の光のメリハリが、たとえばなかほどにある水面などに表現されれば、一層インパクトのある絵になったような気がする。それにしても、落ち着いた美しい作品である。
2022915  ほかにも目についた展示作品があった。
大下和利「果てしない空へ」は、空に青色を敢えて使わず、人物にも、流木にも思い切って青色を基調とする色彩表現を導入して、印象の強い作品となっている。
 増田哲「増毛町2022.9.15」は、色彩ではなく大胆な構図で画面の広がりを見事に表現している。
 これらの他にも、宮下陽子「水ぬるむ」、福井欧夏「茜に懐かれて」、手嶌かよ「マジョラムの香り」など、いずれも「写実」を謳う白日会を代表するかのように、緻密でしっかりした描写が印象的であった。

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ガーシー事件と国民の自己責任

 2022年7月参議院選挙で、東谷和義(ガーシー)は「47都道府県にちなんで、47件の芸能界の裏事情を暴露する」ことを「選挙公約」として立候補し、さらに当選しても国会の会議には出る気はないとすでに宣言していた、ともされている。
 果たして有権者から28万票余りを獲得して当選し、国会には一度も出ず、議員としての成果がほとんどないまま国外逃亡の末、議員資格剥奪・逮捕された。
 ガーシーを非難する声が多いのは当然だが、本件の最大かつ真の責任者は選挙で彼に投票した有権者である。いうまでもなく選挙は民主主義政治の根幹にかかわる重要なシステムであり、ここで立候補者を選択することはとても重要なことである。国民は選挙において立候補者を自由に選択できるが、その投票の結果に対して責任がある。その結果発生した事件は、ガーシーに投票した人たちの「自己責任」である。
 近年、マスコミや言論で、「自己責任」というコトバが極端に否定的に拡大・主張され、国民の「自己責任」を徹底的に否定し、自らはできるだけ責任を負わず、できるだけ多くの責任を政府に負わせたい、という風潮がある。私は、これは間違いであり、危険な傾向であると思う。「自由」の裏付けには「責任」がともなう。有権者たる国民が「自己責任」を自覚して権利を行使して、はじめて民主主義が成り立つ。主権者たる国民が責任を担うのが民主主義である。
 わが国をはじめ、民主主義の国では、思想・言論・信教の自由を尊重し保証する。マスコミがなにを報道しようと、その自由は保証される。朝日新聞が従軍慰安婦問題で虚偽の報道をして非難されたが、その虚偽について法的に問題があれば罰せられるべきだが、その報道姿勢については自由が尊重されるべきであり、国家権力で制限されるべきではない。統一教会事件についても、法的に追及される範囲を除いては、宗教に国家権力が介入すべきではない。最近蔓延った、無知なのか、悪意なのか、視聴率目当てなのか、さまざまな稚拙で好ましくないコロナ騒動にかんする有害とも思える報道が飛び交ったが、これも同様にその報道の自由は護られるべきである。
 それらに対して、情報の受容者たる国民は、マスコミを決して鵜呑みにしてはならない。国民は、自己責任でマスコミを評価し判断して行動しなければならない。ときには、マスコミを厳しく批判することも必要である。これらは、国民の自由にともなう責任である。国民が賢くならなければ、賢い政治は実現しない。
 国民が「自由」に伴う「責任」を引き受けることを拒むならば、政府あるいは政治権力はその「責任」を引き受ける代わりにより大きな「自由」を政権で独占し、国民の自由を制限するだろう。マルクス主義国家あるいは社会主義国家の政権が、国民から広範囲の「責任」を引き受ける代償としてより強力な「自由」を独占して国民を抑圧し、権威主義国家、独裁国家になっていったことは、歴史事実が証明している。
 ガーシー事件が発生したことは、決して望ましくないのは自明だが、その一方で、こうした事象がたまに発生することは、日本の社会と政治が比較的まともである、との証左でもある。民主主義国家が機能するには、国民ひとりひとりが自由を行使して政治に真摯に堂々と参加し、責任を分担しなければならない。人間はかならずしも賢くも完全でもない。それでも些少な失敗を経験しつつも、少しずつ賢明になるのであれば、今回の経験も少しは意味があるだろう。

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駿府城とその周辺(9)

静岡浅間神社
 浅間通りは大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)の鳥居が終点となっていて、ここから境内に入る。
 神社の背景には、賎機山(しずはたやま)の茂みが見え、浅間神社がこの山の麓に建っていることがわかる。Photo_20230615060501
 この神社の登記上の宗教法人名称は神部神社(かんべじんじゃ)・淺間神社(あさまじんじゃ)・大歳御祖神社の三社からなり「静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)」は総称なのである。三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。式内社は神部神社・大歳御祖神社の二社で、駿河国総社が神部神社である。三社合わせての旧社格は「国幣小社」で、現在は神社本庁の別表神社に位置づけられる。
 三社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきた。明治21年(1888)三社別々に国幣小社に昇格し、戦後は神社本庁の別表神社となったが、現在は一つの法人格となっている。
社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なもので、計26棟が国の重要文化財に指定されている。この社殿群は文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造された。
Photo_20230615060502  境内には昭和50年(1975)から令和3年(2021)まで、静岡市に関する歴史資料を保管・展示する静岡市文化財資料館があった。閉館後は、資料館が果たしてきた役割や展示品は、駿府城公園の隣にできた静岡市歴史博物館に引き継がれ、資料館跡の建物は2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送に合わせて「大河ドラマ館」として整備されている。さらに、神部神社と浅間神社は令和3年(2021)11月から令和7年(2025)3月まで、大規模な保存修復工事が行われている最中であり、今はかなりの範囲が工事の幕で覆われて拝観できない。
 鎮座地の賤機山(しずはたやま)は、静岡の地名発祥の地としても知られ、古代より神聖な神奈備山(かんなびやま)としてこの地方の人々の精神的支柱とされてきた。6世紀のこの地方の豪族の墳墓であるとされている賤機山古墳も、浅間神社の境内にある。また、静岡市内には秦氏の氏寺である建穂寺(たきょうじ)、秦久能建立と伝えられる久能寺など当社の別当寺とされる寺院があり、その秦氏の祖神を賤機山に祀ったのが浅間神社の発祥であるともいわれている。Photo_20230615060601
 当地に鎮座して以来、浅間神社へは朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏の尊崇厚く、宝物の寄進、社領の安堵などが行われた。
 とくに徳川家康は、幼少時に今川氏の人質として浅間神社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていたころから、生涯に渡って浅間神社を篤く崇敬していた。
 家康は、弘治元年(1555)14歳の時、浅間神社で元服を行った。そして天正10年(1582)三河遠江の戦国大名となった家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞たる賤機山城を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの請願を立てたうえで、社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の壮大な社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の慶長12年(1607)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽を奉納した。
 以来この神社は、徳川家康崇敬の神社として歴代将軍の祈願所となり、神職社僧の装束類も幕府から下賜されるなど、徳川将軍家から手厚く庇護された。明治初年に至るまでの社領等の総石高は2,313石にも及んでいた。
静岡市には、かつて仕事に関係して何度か訪れていたが、こうして市街を散策する機会はなかった。半日ほどを散策してみて、この地のひとびとの徳川家康に対する、また江戸時代にたいする郷愁と誇りを、そこはかとなく、しかしたしかに感じることができた。

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駿府城とその周辺(8)

浅間通り
Photo_20230614053901  「家康公の散歩道」は「四ツ足御門跡」で終わり、左折して御幸通りに出て、すぐY字路を右の浅間通りに入る。この道は、浅間神社への参道であり、また静岡市のセンター街的な商店街である。おりしもNHK大河ドラマ「どうする家康」にあやかって、ところどころに大河ドラマの幟や「てくてく家康たび」などの標識が立っている。
 浅間神社までの道の途中、商店の前に「山田長政像」がある。
 山田長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物である。通称は仁左衛門(にざえもん)であった。
Photo_20230614053902  このブロンズ像の碑文には、天正18年(1590)ころにここ駿府馬場町の紺屋に生まれた、とある。しかし生地については、他に駿河国の富厚里、または伊勢国や尾張国とする説もあるらしい。
 沼津藩主大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後慶長17年(1612)朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。その後、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わって頭角を現し、アユタヤの日本人町の頭領となった。アユタヤ国王より「オークヤー・セーナピモック」という高い官位を得て高官に任せられ、王女と結婚したという伝説まで生まれたが、シャム側の記録に該当する人物は見あたらず、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。
 長政は、所願成就を感謝して、静岡浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納したという。

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駿府城とその周辺(7)

家康公の散歩道
 東御門をくぐって城から出て、浅間神社に向かう。堀沿いの道を巽櫓の外側の角を曲がると、駿府城公園の石垣を背景に、「家康公の散歩道」と石に刻んだ道標が建っている。この道の途中には、いくつかの歴史的な石碑が立っている。Photo_20230613080601
 「わさび漬け発祥の地」というモニュメント的な碑がある。昭和43年(1968)静岡県山葵漬工業協同組合が建てたと碑文にある。420年ほど前の徳川幕府草創期のころ、安倍川を上流へ30キロメートルほど遡った標高500メートルほどの山間部の有東木(うとぎ)という地で山葵(わさび)の栽培が始まったという。以来、山葵の茶葉の改良のために、土壌改良が着々と進められた。そして江戸時代中期のころ、駿府のわさび商人によってわさび漬けが考案され、駿府城下のひとびとに受け継がれ、改良・進歩・発展してきた。明治維新の後は、交通機関の発達によりわさび漬け産業は大きく発展し、全国的に普及するようになった。
 さらに道を進むと、道の反対側に自然石に「静岡学問所之碑」と刻んだ石碑がある。
 明治維新で江戸城から駿府城に移ってきた徳川家(府中藩)は、早くも明治元年(1868)藩の人材養成を目的として、元定番組頭屋敷(現静岡市民文化会館付近)に「府中学問所」を創設した。明治2年(1869)には、「駿府」が「静岡」に改められたことから名称は「静岡学問所」となり、さらに四ツ足門の元定番屋敷(現合同庁舎一帯、この碑があるあたり)に移った。
Photo_20230613080801  維新直後には、駿府藩は崩壊した旧江戸幕府の元幕臣たちを中心にして構成されていたが、開成所など旧幕府の教育機関に所属していた学者たちも駿府に移住し、旧幕府の蔵書も移された。こうした旧幕府の知的遺産が漢学、国学、洋学を総合した静岡学問所の原動力となり、当時おかれた「沼津兵学校」と並び、高度な水準の教育が実施された。学問所頭には漢学者向山黄村と洋学者津田真一郎(真道)が就任し、『西国立志編』や『自由之理』を翻訳した中村正直(敬宇)は一等教授に就任した。
 明治4年(1871)にはアメリカ人の理化学の学者エドワード・ワレン・クラークが招かれて、物理・化学、さらに哲学や法学などまでも教授したという。
 その後、廃藩置県を経て、明治5年(1872)5月の学制発令施行とともに廃校となり、わずか4年間でその教育活動を終えた。なお、学問所にあった江戸幕府旧蔵書は、現在「葵文庫」と呼ばれて静岡県立中央図書館に保管されている。

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駿府城とその周辺(6)

紅葉山庭園と茶室
Photo_20230612072001  駿府城公園の紅葉山庭園は、駿府城跡の歴史的遺構を背景に、新しく造営された大名庭園のようである。
 入場券を購入して玄関門を入ると、四阿(あずまや)周辺の「里の庭」がある。牡丹、飛び石で巡る梅林があり、八つ橋周辺の花菖蒲と続く花園である。庭園も水辺が近いというのは、やはり潤いがあって気分が落ち着く。
 さらに進んで池の方を見下ろすと、「海の庭」のエリアとなる。箱根越えの石畳を思い出させる玉石の延段と、伊豆の代表的な風景である城ヶ崎・七滝・石廊崎・堂ヶ島・三滝・大瀬崎を池の石組みで表現した荒磯周辺の景観が広がる。州浜が広がる松原周辺は、伸びやかで悠々としている。Photo_20230612072101
 茶畑に見立てたサツキの畝と芝に囲まれた築山は、駿河の国の象徴たる富士山を擬している。紅葉山庭園の中心をなす中腹の展望台からは、庭園全体が見渡せる。また築山足元のゴロタ州浜は、穏やかな安倍川の流れを表現したものとなっている。このあたりは山から里へ、高低の変化も楽しい「山里の庭」である。
 Photo_20230612072102 築山中腹からの斜路は、ツタのからまる樹木が茂る山間の小径へ進む「山の庭」である。この細道を、曲がりくねって落ちる川の流れと紅葉谷を眺めながら行くと、奥には可愛らしい滝がある。Photo_20230612072301
 山の庭の近くに、数寄屋造りの茶室「雲海」がある。日本建築の伝統的様式に則ったこの空間は、現在は茶の湯をはじめ、生け花や句会など、伝統文化に親しむ場として多目的に利用されているそうだ。
玄関を入ると「寄付」「次の間」「広間」と、襖をへだててつながった座敷があり、広間の奥の床の間には、「雲海」と揮毫した掛軸がかけられて、荘重な雰囲気がある。
Photo_20230612072302  3つの座敷の横の入側縁(いりかわえん)からは、ゆったりとした広い庭園から陽光が差し込む。
 入側縁奥に進むと、廊下は細くなり、その奥に「静月庵(せいげつあん)」と名づけられた小さな茶室がある。五畳半の正統的な小間で、時を超えて佇む草庵のような趣がある。
南北に細長い「雲海」の建物の、最南端に少し細長い「立礼席(りゅうれいせき)」の小部屋があり、一般訪問客に対して御茶を振舞っている。私も、お抹茶を一杯いただいた。

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駿府城とその周辺(5)

駿府城跡天守台発掘調査
Photo_20230611080401  駿府城では、寛永12年(1635)の大火で天守が焼失した後は天守台(天守の下の石垣造りの土台)だけが残っていたが、駿府城が廃城になった後の明治29年(1896)天守台も取り壊され、その土砂で本丸堀が埋め立てられた。
Photo_20230611080502  静岡市では、かつて天守が建っていた跡地の整備方針を決定するため、事前に天守台の正確な位置や大きさ、石垣の残存状況などの学術的データを得ることを目的に、発掘調査を行うこととした。発掘調査は、平成28年(2016)8月に開始し、令和2年(2020)3月まで掘削による調査を行った。令和2年(2020)4月からは、出土した遺物の整理や調査報告の作成を行っている。
Photo_20230611080601  駿府城の大きな特徴のひとつは、天正期から慶長期へと、天守台が次第に大型化されていったことである。
天正期の天守台は 、発掘調査の結果と「家忠日記」の記述から、37メートル×33メートルの大天守と、20メートル×20メートルの少天守の、大小のふたつの天守が渡櫓でつながれた連結式天守であったと推定されている。その築城技術の特徴から、秀吉の関与があったのではないかと考えられている。
 慶長期の天守は、61メートル×68メートルと、天正期の規模をはるかに上まわる、全国的にも例をみない壮大な規模の天守が建てられたようである。
 また、石垣の積み方についても時代による変遷が見られる。
 天正期(1580年代)の天守台では「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる、自然石を加工せずに、大きな石と小さな石を適冝組み合わせて積み上げる方法が用いられた。石積みの崩れを防ぐため、石垣の勾配は比較的緩やかにならざるを得なかった。
 慶長期になると、石積み方法にヴァラエティーが増えた。「打込接(うちこみはぎ)」と呼ばれる、荒く削られた石をまず積み上げ、その隙間に小さな石を詰めて行く方法、「切込接(きりこみはぎ)」と呼ばれる、四角く切って成形した石をきれいに隙間なく積み上げる方法、「算木積み(さんきづみ)」と呼ばれる、横長の石を交互に積み重ねて、石垣の隅を崩れにくくする方法、の3種類の積み方が用途に応じて採用された。このような改良の結果、かなり急な勾配の石垣を作ることができるようになったのである。

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小笠原文雄『最期まで家で笑って生きたいあなたへ』小学館

 私も74.4歳となり、すでにいわゆる「終活」を少しずつ始めている。その一部として、どのように臨終を迎えるか、という難しい問題がある。
 私は、自分なりにできるかぎり生命を大事にして、生活を大切にして、残された日々を少しでも充実して生きていきたいとは思っている。これまでの人生でさまざまな未達のことがあるにしても、まあ私なりには懸命にこの年齢まで生きてこられたので、やり残しの「終活」を完成するための僅かな時間さえ与えられるなら、死を落ち着いて迎えたいと思っている。とくに長寿を求める気持ちはない。
 そして私も個人的には、自宅で最期を迎えたいと思っている。しかし、何歳でアタマが動かなくなり、何歳でカラダが動かなくなり、何歳で生命が尽きるのか、知るすべもない。今は自宅で死にたいと思っていても、死を迎えるときにアタマが機能していないとしたら、臨終はどこでも同じかもしれない。そもそもカラダが動かなくなったら、私は家人より大柄なので、家人は持て余して扱いに途方に暮れるだろうことが目に見えている。もう半世紀も昔だが、祖母が死んだとき、祖母の身の回りの世話をする付添婦を雇ってはいたものの、主婦たる母の身体的・心理的負担は厳しいものであった。
 そんななかで、たまたまこの本の存在を知ったので、さっそく読んでみた。とても希望を感じさせる、励まされる内容であった。
 小笠原先生は、大学卒業の後、十数年間病院の循環器系の勤務医であったが、開業してから33年間「在宅医」として終末患者の自宅での看取りを支援されてきた。すでに1800人以上の在宅看取り(うち120人は一人暮らし)を経験されている。
 在宅医療にかんしても近年の技術と制度の進歩は著しく、数十年前には到底不可能であった在宅での終末医療を、リーゾナブルなコストで一人暮らしを含む誰もが受けることができるようなった、というのである。この本には、その実例が20件以上掲載されていて、とてもわかり易く説得性がある。なによりも、患者にとって大切な最後の日々を、より癒されて、自由に、朗らかに、充実して過ごすことの大切さと、その実現可能性が詳しく記されている。本のタイトルも「笑って逝きたい」ではなく「笑って生きたい」たる所以である。
 看取りまでの在宅医療は、「在宅医」、訪問看護師、ケアマネージャー、介護士、そして家族のチーム連携で実施する。プロジェクトチームをつくって親密に協議を重ね、分担を明確にして家族への負担を軽減する、というものらしい。費用的にも、健康保険に加えて介護保険を、プロジェクトチームの実践のために有効な形で活用するという。家族がいない、あるいは遠距離で介護が困難な場合でも、解決手段はあるという。入院による治療では、伝統的な医療倫理の影響もあり、どうしても患者本人の意志・感情よりも、生命の維持・延長に偏重する傾向があり、患者に大きな負担がかかり患者本人の「やすらかに逝きたい」という希望に沿わないことが多いという。その救済手段として、この進歩した在宅医療があるというのである。
 私も、この本を読んでみて、そんなにうまくいくのだろうか、といささかの疑念も残るのが実感だが、自宅で臨終を迎えることについて希望が湧いてきた。おそらくこのアプローチを実践してくれる「在宅医」の獲得がキーポイントだろう。私自身の具体的なアクションにはまだ時間があると思うが、これからこういう選択肢を真剣に考えて終末に備えたいと思った。

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駿府城とその周辺(4)

坤櫓(ひつじさるやぐら)
Photo_20230609054301  坤櫓は、駿府城の二ノ丸の南西の方角に位置している。坤(ひつじさる)という名は、「南西の方角」に由来している。
 坤櫓の外見は屋根が二重だが、内部は二層三階構造となっている。1階と2階は7間四方、3階は5間四方の広さがある。2階には掘側に石落としを設け、敵の侵入を防ぐ工夫がされている。
 櫓は矢蔵(やぐら)とも書かれ、平時は武器庫として使用されていたことに由来する。戦の時には物見として、さらに攻めて来る敵に対する攻撃拠点としての役割も果たした。1_20230609054301
 安政元年(1854)の大地震で崩壊したままであったが、平成26年(2014)の復元工事においては「駿府御城惣指図」(寛永9年~永宝4年、個人蔵)」のほか「駿府御城内外覚書」3冊(個人蔵)などを参考に、伝統的な木造建築工法にしたがって可能な限り忠実に復元作業を実施した。

1_20230609054401  2階と3階は、構造的にも建築工法的にも、もとの古い建築を踏襲した結果、現代の建築基準法をクリアーできず、一般入場者が立ち入ることができず、見学は1階のみ可能となっている。ただ見学者のために、天井を貼らず、床の一部を高強度硝子板として、天井上と床下の木組み構造がわかるようになっている。(つづく)

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駿府城とその周辺(3)

本丸跡と本丸掘
Photo_20230608052701  東御門から公園内に進むと「駿府城御玄関前御門跡」との解説板がたっている。それによると、お城の中枢である本丸への出入口として、南側に御玄関前御門、東側に御台所御門、北側に御天守台下御門の3カ所があった。そのなかでもここ玄関前御門は、正面玄関として最も主要かつ重要な門であった。この門は、二ノ丸から木橋を渡って高麗門をくぐり石垣にかこまれた桝形内を東に折れて本丸に入る構造で、敵が容易に進入できない構造となっていた。
 本丸跡と東御門の間に、かつての内堀の一部が残っている。駿府城の三重掘の一番内側の掘で、かつては本丸を取り囲んでいた。幅23~30メートル、深さは、かつては5メートルほどであった。石垣は荒割した石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方が用いられ、角の部分は「算木積み」という積み方で、横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしたものであった。
 本丸跡は、いまは平坦な広場となって、河津桜が植え込まれ、早春を告げて開花している。Photo_20230608052702
寛永12年(1635)城下の火災が燃え広がり天守や本丸御殿を含む御殿が焼失した。これ以後、天守は再建されず、創建以来の25年で役目を終えることとなった。本丸御殿は、再建はされたが、将軍上洛時の宿館としての機能にしぼって再建され、側室が生活する空間は設けられなかった。政務機構は城代屋敷へ移行され、本丸御殿の縮小が進められた。
 家康ゆかりの聖地として、天守以外の建物は大切に管理され、宝永4年(1707)大地震の後も、東海道の復旧普請とともに、大名の手伝い普請として迅速な復旧が実施された。
 それから150年後の安政元年(1854)安政大地震では、建物のほとんどが全壊し、三ノ丸石垣の6~7割が崩壊した。このころになると、幕府の権威も低下して、財政的な理由もあり、本丸御殿、東御門、巽櫓、坤櫓などの再建はされなかった。
 このように、徳川幕府の権威の低下と支配力の衰退は、如実に建物に現れているのである。

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駿府城とその周辺(2)

東御門と巽櫓
 静岡駅から駿府城公園までは、歩いて15分ほどである。静岡駅を北側に出て、道路の横断を避けるため地下道を少し通って地上に上ると、御幸通りの松坂屋横に出る。ここから御幸通りを5分ほど歩くと、大きな交差点があり、右折して北街道という大きな道に入るとすぐ左手にお城の掘が見える。左折して掘に沿って進み、案内道標に従って右折すると、左手に静岡市歴史博物館の新しい大きな建物がある。大勢の学生が集合して入館していた。私は時間の都合もあり、博物館の見学はせず、まっすぐ東御門へ進んだ。Photo_20230607053901
 現在は、この東御門が駿府城公園のメインゲートとなっているようだ。東御門のすぐ左手には、再建された巽櫓が聳える。
 東御門は平成8年(1996)伝統工法に即して復元され、資料館として公開された。平成元年(1989)に復元された巽櫓は、全国にある城の櫓建築でも希少なL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中では防御に優れた櫓であった。建物の構造としては、東御門の2階をなす回廊を通じて東御門と巽櫓とは連結されていて、東御門の北側にある階段から巽櫓に入れるようになっている。この連結された二つの建物のなかで、駿府城にかんする詳細な展示パネルによる説明がある。
 元和9年(1623)家光が三代将軍就任の後、駿河・掛川両国の領主であり「駿河大納言」と呼ばれ駿府城主であった家光の実弟徳川忠長は、自身の処遇への不満から乱行を重ね、寛永9年(1632)秀忠の死の後改易となり、寛永10年(1633)自決した。この後、駿府城は幕府直轄の城となり、大権現家康ゆかりの城として多くの武士の崇敬と警護に護られる聖地となった。

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駿府城とその周辺(1)

 この度、東京・千葉方面へ小旅行をするにあたり、東京への移動途中に静岡で途中下車し、半日ほど駿府城を軸に散策することとした。以前から近世のひとつの重要な城として、さらにたまたま今年は、NHK大河ドラマで「どうする家康」というタイトルの番組が放送されていて、私自身は視聴していないものの、静岡市の地元は観光誘致に鋭意注力して活気づいているだろう、と推測したこともひとつのきっかけであった。
 午前10時半ころ静岡駅に着いて、いつものように観光案内所に立ち寄ってアドバイスをいただき、マップを入手して、さっそく出かけた。

駿府城の概要
 駿府城の前史として「今川館」がある。室町時代に駿河守護の今川氏が、今川領支配の拠点として「今川館」を建てた。文明8年(1476)今川義忠が戦死すると、後継者の龍王丸(後の今川氏親)の後見人であった伊勢盛時(後の北条早雲)と一門の小鹿範満が対立し、文明19年(1487)伊勢盛時は範満を排して龍王丸(後の今川氏親)を今川館の主に据えた。Photo_20230606073801
 天文5年(1536)「花蔵の乱」で氏親の子である今川義元が今川館の主となった。今川氏は隣接する甲斐の武田氏、相模の後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで義元が戦死すると、甲斐を中心に領国拡大を進めていた武田氏との同盟関係は消失した。
 永禄11年(1568)武田信玄が駿河に侵攻して、今川氏真の今川館は焼失した。この今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無い。むしろ昭和57年(1982)の駿府城二ノ丸跡の発掘調査で見つかった戦国時代の遺構は、その規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられることから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったと推測されるが、具体的な位置については現時点では不明のままである。
 今川氏真が掛川城に去った後、この地が武田領国化されると、この今川館は武田氏の支配拠点のひとつとなったが、武田氏は天正10年(1582)織田・徳川勢力により滅亡した。今川遺領をめぐる家康と武田勝頼との争奪戦の後に、駿河は徳川家康が領有することになった。天正13年(1585)から徳川家康は、駿府城を近世城郭として築城し直した。この時に初めて天守、すなわち「天正の小天守」が築造されたと推測されている。そして翌天正14年(1586)家康は、自身が17年間過ごした遠江国浜松城から駿府城に移ってきた。その後天正18年(1590)豊臣秀吉による後北条氏滅亡の後、家康は関東移封され、徳川領国と接する重要拠点たる駿府城には、豊臣系大名の中村一氏が入城した。
 関ヶ原の戦い、大阪城冬の陣・夏の陣と戦乱を勝ち抜いて、徳川政権を確立した家康は、徳川秀忠に将軍職を譲り、慶長12年(1607)当時駿府藩を治めていた内藤信成に代わって駿府に隠居した。それにより駿府藩は一時的に廃藩となった。
Photo_20230606073802  家康は政治的影響力を持ち続けて「大御所」と呼ばれるようになった。駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である三重掘を持つ輪郭式平城が完成した。この大修復の背景には、先行する織田信長の安土桃山城がある。それまでの戦国時代の城は、専ら戦いのための山城であったが、信長は統治のために支配者の力を顕現し、被支配者を威圧する「見せる城」を実現したのである。信長は寺院に用いられていた石垣や瓦を城に流用し、軒瓦に金箔を貼った「金箔瓦」を採用した。色彩豊かで政治性の強い天守を持つ城を築いて見せたのであった。これらの要素は、多少形態を変えつつも、家康の駿府城に取り入れられることとなった。現在の駿府城公園は、三重堀の中掘内をほぼその範囲としている。
 慶長12年(1607)に、城内からの失火により、完成して間もない本丸御殿を焼失したが、その後直ちに再建工事が開始され、慶長15年(1610)完成した。天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級の規模であった。天守曲輪は、7階の「慶長の大天守」が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
 慶長14年(1609)に家康の十男徳川頼宣が50万石で入封し駿府藩が復活したが、寛永10年(1633)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり、駿府城代が置かれた。
 現在は、本丸跡と二ノ丸跡が駿府城公園として整備され、東御門の南東側の三ノ丸には官庁や学校などの公共施設が立地し市街地化している。三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存しない。中堀は現存するが一部の石垣は過去の地震によって崩落したまま土塁のようになっている。また内堀は、明治時代に陸軍歩兵第34連隊の駐屯地となったときに埋められたが、部分的に発掘され保存されている。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(9)

19世紀フランスの牧歌的恋愛とロマン主義の悲劇(下)
 ウジェーヌ・ドラクロワ「アビドスの花嫁」(1852)がある。Photo_20230605054001
 ドラクロワは、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家である。この作品の主題は、イギリスの詩人バイロンが1813年に発表した「アビドスの花嫁」に基づいている。オスマン帝国時代、パシャ(高官)の娘ズレイカと、その兄(実は従兄)である海賊の首領セリムの恋仲を死が引き裂く悲恋物語が描かれている。画面では、二人が洞窟の前で何やら揉めている。ズレイカは父から政略結婚を決められたことを打ち明けたのだが、セリムはそれに反対し、愛するズレイカを守ろうとする。しかし父が娘を取り返そうと放った軍隊がすぐ背後に迫っており、まさに多勢に無勢。波打ち際まで追い詰められ、死に瀕しつつも応戦しようとするセリムを、ズレイカが必死に引き留める。こうしたドラマティックな場面が、豊かな色彩表現と激しい筆致で想像力をかき立てるように表現されている。このドラクロワの筆致には、あきらかに近代的なタッチを感じることができる。
Photo_20230605054002  アリ・シェフェール「ダンテとウェルギリウスの前に現れたフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊」(1855)がある。
 14世紀イタリアの詩人ダンテの叙事詩『神曲』は、フランスでは19世紀前半、ロマン主義の時代に流行し、なかでも「地獄篇」に登場するパオロとフランチェスカの悲恋は人気を博した。古代ローマの詩人ウェルギリウスの案内で地獄を巡るダンテは、不義の恋の末に断罪され、永遠に地獄を漂うパオロとフランチェスカの亡霊に出会う。ラヴェンナの城主の娘フランチェスカは政略結婚でリミニの城主に嫁いだが、夫の弟パオロと恋に落ち、嫉妬した夫によって二人とも短刀で刺し殺されてしまった。ロマン主義の画家シェフェールは、パオロとフランチェスカの官能的な裸体を対角線上にドラマティックに配置した。悲しげに目を閉じた二人は、固く抱き合ったまま地獄の風に吹かれている。画面右ではウェルギリウスとダンテが物思いに沈んでそれを見ている。シェフェールはこの主題に早くから取り組み、複数のバージョンを制作したが、この作品はその一点である。

 こうして16世紀から19世紀までの「愛を描く」古典的絵画を観て、あらためて感じたのは、基本的にはマニエリスムの定式化されていた様式のなかでも、「寓意」という仕掛けを駆使して多様な「愛」がさまざまなに描かれていたことを、あらためて知ったことである。一見して古風で面白みに欠けるかに思える絵画が、じっくり寓意を考えながら見つめると、意外な含意に気づいて新たな感動を得ることができる。
 しかしである。この同じ日の午前中に、私は「エゴン・シーレ展」を観ていた。これらの古典的絵画の「定式化のなかの寓意」の洗練は、たしかに素晴らしいものではあるものの、自ら人生をかけて絵画を制作しようとする新鋭の若い、近代の画家たるシーレから見れば、あまりに様式に拘束された退屈な世界に思えたのも無理はない、とも理解する。シーレが見てきた、すでに確立された、しかし乗り越えなければならないものこそ、これらの古典絵画だったのだろう、と納得した。
 全体で70点余りの多すぎない構成で、疲労し過ぎることなく、私なりに大いに楽しめた鑑賞であった。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(8)

19世紀フランスの牧歌的恋愛とロマン主義の悲劇(上)
 いよいよこの展覧会のポスターを飾った、フランソワ・ジェラール「アモルとプシュケ、またはアモルの最初のキスを受けるプシュケ」(1798)である。Photo_20230604054601
 愛の神アモル(キューピッド)とプシュケの恋は、古代ローマの哲学者アプレイウスの小説で語られている。美貌で知られた王女プシュケは、これを妬んだ女神ヴィーナスの策略により、醜悪な生き物と結婚するという恐ろしい神託をアポロンから下される。そこで、プシュケに恋をしたアモルは、彼女を自分の宮殿に運び、自分の姿を見ることを固く禁じつつ、夜間だけ彼女とともに過ごす、という奇妙な結婚生活を送ることにした。しかしある晩、プシュケは眠る夫の姿をランプの灯りで見てしまい、怒ったアモルは飛び去ってしまう。その後さすらいの旅に出たプシュケは、数々の試練を乗り越えてアモルと再会し、最後は天界で結婚式をあげることができた、という物語である。
 この物語は古代以来、彫刻や絵画になんども表現されてきたが、フランスではとくに18世紀末に流行した。新古典主義の画家ジェラールが1798年のサロンに出品し、注目を集めた。若く美しいアモルがプシュケの額にそっとキスするロマンティックな瞬間が描かれている。当時の批評家たちは、目が見えていないようなプシュケの表情や、思春期を思わせる身体の表現に、初めて愛を意識した無垢な少女の驚きを読み取った。彼女の頭上に蝶が舞っているのは、「プシュケ」がギリシア語で「蝶」と「魂」を意味するためである。当時アモルとプシュケの恋は、プラトン主義の解釈に基づき、神の愛に触れた人間の魂が試練を経て幸せを知る物語と解されていた。
 登場するプシュケもアモルもとても美しく、結果がハッピーエンドでもあり、とても悲劇の絵には見えない。
Photo_20230604054701  クロード=マリー・デュビュッフ「アポロンとキュパリッソス」(1821)がある。
 アポロンと美少年キュパリッソスの愛の神話は、19世紀フランスの新古典主義の美術でしばしば取り上げられた。可愛がっていた牡鹿をうっかり投げ槍で殺してしまったキュパリッソスは、生きる気力を失い、永久に嘆き続けたいと神々に哀願した結果、糸杉に変身してしまう。この作品では、牡鹿にもたれるように横たわったキュパリッソスの頭を、かがみこんだアポロンが優しく支えている。筋肉の凹凸の表現が抑えられたキュパリッソスの優美な裸体は両性具有的に感じられるが、おそらく当時の人々にとっては、子どもと大人のはざまにある思春期の若者の理想的な身体表現であった。作者のクロード=マリー・デュビュッフ(1790-1864)は、神話画と宗教画を手がけつつ、パリのブルジョワ階級の趣味に応じた肖像画でも人気を博した画家であった。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(7)

神ならぬ人間のもとに─誘惑の時代(下)
 フランソワ・ブーシェ「褐色の髪のオダリスク」(1745)がある。Photo_20230603054201
 18世紀フランスの巨匠ブーシェは、しばしば神話画において女神ヴィーナスやディアナの美しいヌードを描き、官能的な表現を展開した。しかしこの「褐色の髪のオダリスク」は文学には依拠していない。ブーシェは18世紀のヨーロッパの人々がイスラム世界のハーレム(後宮)に抱いた幻想を下敷きにしながら、エロティックな人物そのものの表現を追求している。ほんのりバラ色に染まる白い肌を露わにした女性が、当時トルコ風と呼ばれていたソファーに腹ばいになり、誘うような眼差しをこちらに送っている。構図のまさに中央に彼女のふくよかなお尻が配され、挑発的なエロティシズムが極限にまで強調されている。
 ギヨーム・ボディニエ「イタリアの婚姻契約」(1831)がある。
Photo_20230603054301  19世紀フランスの画家ギヨーム・ボディニエは、27歳のときにイタリアを訪れると、この土地の人々の風俗に大いに魅了されたという。ここで描かれているのは、ローマ近郊アルバーノの裕福な農民一家で、婚姻契約が執り行われているところである。美しい丘陵を背景に、公証人は契約書の起草に没頭し、その手前では、結婚する男女が向かい合って座っている。男が真っ直ぐに許嫁を見つめる一方で、美しい衣装で着飾った娘は恥ずかしげに目を伏せている。その横では、母親が娘の手を優しく握っているが、背後にいる父親は、宴席の準備をする美人の召使いの女性にすっかり目を奪われているようだ。さまざまななかたちの「愛」が見え隠れする陽気で微笑ましい光景であり、描かれた人々に対する画家の愛情も感じられる。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(6)

神ならぬ人間のもとに─誘惑の時代(中)
 ニコラ・ランクレ「鳥籠」(1735)がある。
Photo_20230602054601  18世紀のフランスでは、理想化された美しい田園で繰り広げられる羊飼いや農民の恋を綴ったパストラル(田園詩)が流行した。前出のヴァトーと同時代の画家ニコラ・ランクレによるこの作品は、こうした文学や戯曲の潮流を反映したものである。のどかな牧歌的風景の中で、演劇の衣装に身を包んだ若い男女が楽しげに見つめ合っている。女性は一羽の鳥の入った鳥籠を小脇に抱えている。当時、若い女性が鳥籠を持つ図像は、恋のとりことなる幸福の寓意として知られていた。また、伝統的に鳥のモティーフはエロティックな意味と結びつけられ、飛び立つ鳥は失恋、鳥の死は処女喪失のメタファーとして描かれることがあった。
 ジャン=オノレ・フラゴナール「かんぬき」(1777)がある。
18世紀のフランスでは、自由奔放な性愛の快楽を肯定する「リベルティナージュ」という思想や生き方が、上流社会の一部の知的エリートの間で流行していた。「リベルタン」と呼ばれた彼らのこうした態度の裏には、それまで人々の道徳観の土台をなしてきたキリスト教的な知や宗教的権威への批判精神があったともいわれる。リベルティナージュの風潮は、文学や美術にも反映された。その流れを汲む傑作のひとつが、18世紀後半に活躍したフラゴナールの代表作「かんぬき」である。「かんぬき」はもともと、キリスト教主題の絵画「羊飼いの礼拝」と対をなしていた。近年の研究では、これら二作品をフラゴナールに注文した美術愛好家のヴェリ侯爵は、おそらくリベルタンであったと考えられている。Photo_20230602054801
 暗い寝室のなか、スポットライトのような光に照らされた一組の男女が描かれている。二人は優雅にダンスをしているかのようだが、女性は男性から顔をそらしている。彼女は情熱と欲望に駆られた男性の誘いを拒もうとしたものの、彼が扉にかんぬきをかけた瞬間、身をゆだねたのだろうか。それとも当時のリベルタンの恋愛作法に則って、抵抗を演じているだけなのだろうか。戸惑いとも陶酔とも受け取れる女性の表情は、一瞬の心の微妙な動きを映し出しているようにさえ見える。画面には、かんぬき=男性性器の暗示と、壺とバラの花=女性性器・処女喪失の暗示と、乱れたベッドなど、ことごとく濃密な性愛の営みをほのめかす事物が描き込まれている。一方、ベッドの脇のテーブルに置かれたリンゴは、人類最初の女性であるエバの誘惑と原罪を連想させるモティーフである。
 官能的な愛の戯れの賛美なのか、道徳的警告なのか、あるいはその両方なのか。一義的には解釈できないこの豊かな曖昧さこそ、「かんぬき」の最大の魅力とされている。悦楽が一瞬にして暴力に転じかねない性愛の繊細さ、複雑さを、フラゴナールはみごとに描き切っている。これは、あからさまな表現よりも、はるかに想像を描きたてるエロティシズムである。

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ルーブル美術館展─愛を描く 国立新美術館(5)

神ならぬ人間のもとに─誘惑の時代(上)
 ハブリエル・メツー「ヴァージナルを弾く女性と歌い手による楽曲の練習、または音楽のレッスン」(1659)がある。Photo_20230601054501
 ハブリエル・メツーは、17世紀オランダの画家で、私もこの作品を含めなんどか観たことがある。
 ともに音楽を奏でる男女は17世紀後半のオランダで流行した画題の一つで、多くの場合、愛に関する寓意が託されている。ライデンに生まれ、アムステルダムを活動地としたハブリエル・メツーの本作品では、ブルジョワ階級の小奇麗な家の室内で、洗練された身なりの女性がヴァージナルを弾いている。彼女は背後に立つ男性と楽譜について話し合っているようだ。おそらく二人は恋人同士なのだろう。目を合わせたり触れ合ったりはしていないが、同じ楽譜を見つめる彼らの調和した姿には、愛の絆を読み取ることができるというのである。
Photo_20230601054502  サミュエル・ファン・ホーホストラーテン「部屋履き」(1655)がある。
 17世紀オランダの画家サミュエル・ファン・ホーホストラーテンは、美術理論家としても活動していた。オランダ市民の家の室内を描いたこの作品には、彼が精通した遠近法が巧みに用いられており、見る者の視線は自然に絵画空間の奥へと導かれる。戸口の向こうに3つの部屋が連なっていて、住人の姿がどこにも見えず、奇妙な感覚にとらわれる。しかしよく観察すると、意味ありげなモティーフに気付く。ひときわ目を引くのは、慌てて脱ぎ捨てられたかのように床に散らばる部屋履きである。また、奥の扉の錠前には鍵が差し込まれたままになっている。この家の女主人は自分がすべきことを途中で投げ出し、どこかで不謹慎な愛の誘惑に身をゆだねているのだろうか。そこはかとない密やかなエロティシズムが、独創的な画面構成と相まって、見る者の好奇心をそそる。しかし寓意もここまでくると、我々一般の凡人は、見逃してしまいそうである。

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