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2023年7月

佐伯祐三展 中之島美術館(14)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
広告と文字への関心
1925  第一次パリ留学時代のマチエールへの腐心の後退に比べて、祐三の文字への関心はますます強化されたようだ。秋の深まりにともない、これらの文字は判別不可能なリズミカルな線となり、壁などの構造物のマチエールを凌駕する勢いで画面全体に躍動するようになった。佐伯祐三芸術の代名詞ともされる「画面を飛び跳ねる繊細な線」が最大限に展開されたのがこのころであった。
 「門の広告」(1927)がある。Photo_20230731054801
 この場面と同じ場所は、第一次パリ留学時代の1925年に「広告のある門」(1925)として、ほぼ同じ構図ですでに描いていた。1925年の作品では門や柱が構造物として立体的に表現されているのに対して、ここでは奥行きがなくなり、貼られたポスターのみならず扉や塀の形から舗装道路まで、現実のあらゆるものが平面的に還元されて線で表現されている。さらにポスターやその文字を除いて、空も道路もあらゆるものが無彩色に近い灰褐色で描かれるなかに、点在するポスターの赤、緑、黄色が鮮やかな色彩で描かれて際立っていて、抽象絵画に近づいた印象がある。
Photo_20230731054901  「ガス灯と広告」(1927)がある。
 これは佐伯祐三の第二次パリ留学時代を代表する作品のひとつとされている。画面は赤・黄・緑などの鮮明な色彩をあしらった、ほとんど文字ばかりのポスターで占められている。素早い筆さばきで書きとられたと思われる文字は、もはや判読不可能な線描の連鎖となり、複雑で繊細なパターンと化している。壁の存在ももはや希薄で、躍動する線が浮かび上がり飛び跳ねているかのようだ。右上のサインも勢いある筆致で描き込まれ、動きのある画面に同化している。横長の構図を引き締めているのは、右側に立つガス灯の黒くまっすぐな線である。この力強い縦の線は、一時帰国時代の模索から得られた視点なのかも知れない。

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佐伯祐三展 中之島美術館(13)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
マチエールからリズムへ
Photo_20230730053201  独自の構成、独自の表現に自信をもって、急角度の遠近法を用いて奥行を表現する、正面向きの壁と奥行きのある道を組み合わせる、壁に正対する、など祐三が得意とする視点でいくつのも街の情景が描きだされた。ただ、第一次パリ留学時代のようなマチエール(材質感、画面の肌)へのこだわりは後退して、線やリズム、あるいは場面の空気感などが前面に出てくる。さらに対象に存在しているポスターや看板の文字への関心は、ますます強くなる。
 「カフェタバ」(1937)がある。この絵は、第一次パリ留学時代の作品と比べると、上記のような新しい方向への変化の結果としての、空気感、軽快さと画面のリズムが感じられる。
 2_20230730053301 オプセルヴァトワール附近(1927)がある。これは、佐伯祐三一家と親しく交流していたヴァイオリニストの林龍作の部屋から街を俯瞰して描いた作品である。モンパルナス大通りが画面左下から右奥へと走り、その通りに面した左から7番目の建物に祐三のアトリエがあった。画面のほぼ中央手前には、大通りの交差点があり、通りに面するさまざまな建物が落ち着いた色調で量感をもって表現されている。建物の表面には黒い線が走り、落葉した街路樹も同じような黒の細く鋭い線で描写されている。街灯、道路を走る車、歩道のベンチ、銅像、そして歩くヒトなど、風景の細部までとらえ、いずれも繊細な細い線で表現されている。
 第一次パリ留学時代の静止的な表現と比べると、ここでは静かながらも動きの表現が導入されていることがわかる。

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佐伯祐三展 中之島美術館(12)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
線のパリ
Photo_20230729054801  29歳になっていた佐伯祐三は一家で、1927年(昭和2年)7月末、東京から下関まで汽車に乗り、そこから関釜連絡船、シベリア鉄道と乗り継いで、8月21日パリに到着した。10月上旬、モンパルナス大通りの新築のアトリエに落ち着き、第二次パリ留学時代がはじまった。
 かねてからもう一度パリの壁や広告を描いてみたい、という強い気持ちがあって、祐三は猛烈な勢いで制作を再開した。
 秋を迎えたパリ天文台のあるオプセルヴァトワールやリュクサンブール公園の絵がある。街路樹は紅葉し、やがて落葉する。ここでは、第一次パリ留学時代のような面の描写よりも、梢の有機的な形態とその変化を、細い線で繊細に表現している。これらは、一時帰国時代の「下落合風景」や「滞船」で蓄積してきた電柱や帆柱などの線の表現の展開とも思われる。
 「リュクサンブール公園」(1927)がある。Photo_20230729054802
 ここでは、リュクサンブール公園へと導くマロニエの並木道が描かれている。マロニエの枝先が直線的に整然と並び、秋空をV字型に切り出して奥行きを表現している。マロニエは落葉して梢はあらわになり、黒く太くうねるような線で描かれた力強い幹にまとわりつくかのように奔放な筆致で重ねられる。歩道の歩くヒトも描かれてはいるが縦に引き伸ばされて濃緑・赤・黒などの色の線となり、ほとんど木々と一体化してしまっている。構図の基本設計は幾何学的にきっちり決めながら、表現は有機的な印象の線描で実現する、という方針のようだ。

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佐伯祐三展 中之島美術館(11)

3.一時帰国時代の日本での作品: 1926~1927年
滞船のシリーズ
1927  祐三がこの一時帰国の間に描いた題材として興味深いものに滞船のシリーズがある。滞船とは、荷物の積み込み・積み下ろしあるいは乗客の乗り降りなど、なんらかの事情で港に停泊している状態の船舶のことで、つまりは疾走しているわけではない、じっと停止する船のことである。船は、その下には海あるいは河川の水面があり、上には空が拡がり、それらを背景として航行への合理的機能性から設計された独特の美しい船体がある。さらに帆船なら帆柱と帆があり、動力船なら煙突やデッキに聳える旗柱がある。これらが全体としてとても美しいのは、私もいつも感じる。港湾の景観が美しいのは、すくなくとも半分はそこに集まる船の美であると思う。
1926  祐三は、大阪では、住宅ではなく、専ら安治川などに係留された船を題材に絵を描いたようだ。祐三は、すべて真横から、ときには数隻の船が重なった形での船体を描いた。いずれも、奥行のとぼしい画面のなかに、説明的要素を省いて、船そのものの美に集中して、緊張感のある作品を制作した。
 「滞船」(1926)がある。
 これは「滞船」シリーズのなかでもとりわけ多数の帆柱とローブを描き込んだ作品である。中央の船の左右に、よく見ると2隻の船が確認できるが、真横からとらえた船体に奥行きがなく、空に向かって伸びる帆柱とそこから引かれた帆網は、いったいどの船のものなのか判別できないほど、画面上で一体化してしまっている。定規で引かれたような細くて真っすぐな線は、空中に複雑に織り重なって幾何学的模様を形成している。

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佐伯祐三展 中之島美術館(10)

3.一時帰国時代の日本での作品: 1926~1927年
ガードの風景
 「下落合風景(ガード)」(1926)がある。Photo_20230727054801
 祐三は、パリでも風景の題材として鉄道線路のガードを取りあげていた。自然あるいは人口の造形のなかに、新たな空間を空けるというその構成に興味を惹かれたのだろうか。高田馬場駅から目白駅側に少し進んだところにある、山手線の鉄道高架を描いている。画面としては、左下から右上に向う放射状のひろがりが、斜め下から見上げた土手と、少しずつ角度を変えた電柱と電線とによって幾何学的に構成されている。土手のみどりの外形も敢えて人工物であるかのような幾何学的単純化がされている。祐三にとっては、この景観がパリの風景を彷彿とさせたのかも知れない。
Photo_20230727054802  「ガード風景」(1926)がある。
 これは新橋のガード下を描いたものである。ここでは、ガード下をくぐった先に四角い開口から、向こう側の街の賑わいが覗いていて、画面の奥行きが強調されている。煉瓦と石でできたガードという建築物は、祐三にとって当時の日本での希少な都会的構成要素の例だったのかも知れない。

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佐伯祐三展 中之島美術館(9)

3.一時帰国時代の日本での作品: 1926~1927年
下落合風景
 佐伯祐三一家は、1926年3月約2年間のパリ滞在から帰国し、下落合のアトリエに戻った。以後1年半ほどの一時帰国時代に、祐三が描いたのは、主に「下北沢風景」と「滞船」であった。Photo_20230726054301
 下北沢では、祐三は西洋的な建築が増えてきた住宅地ではなく、土の道に日本式家屋が並ぶような昔ながらの、あるいはまだ開発途上の場所を選んで題材とした。構図としては、第一次パリ留学時代の作品との共通性もみられ、自己の作風でなんとか日本の風景を表現しようとする意図と努力がうかがえ、その実現のためのいくつかのパターンの試行や繰り返しが見られる。下落合の土地は、高低差があり坂道も多い。その地理的条件の特徴を把握して、見上げる、見下ろす、といった視点の変化が加えられている点が興味深い。道の土や生垣などの描写のために、荒々しい重厚な筆致も描写に活かされている。
 「落合風景」(1926)がある。
Photo_20230726054302  この場所は、現在の西武新宿線中井駅北側の「一の坂」から「四の坂」のいずれかの坂だろうと推定される。道の両側にある台形状の地形は、坂の途上に宅地造成するための盛土と思われる。これらの住宅地開発途上の一時期に出現する幾何学的造形が、祐三の興味をひきつけたらしい。右側の壁のような盛土と左手の少し低めの台形状の盛土との間の画面中央に2本の電柱を配置することで、幾何学的構成のバランスをとっている。表現方法は第一次パリ留学初期のセザンヌの手法にならった幾何学的構成に似ているとも思える。また、盛土や土道の表現に、パリの石壁や道路で用いたような、絵具の厚塗りの手法が現れているようだ。
 「下落合風景」(1926)がある。これは祐三のアトリエからほど近いところにある細い通りを描いている。この通りは、画材として気に入っていたようで、この同じ場所を数点の作品で描いている。この絵の主役は、電柱のようだ。近くにも遠くにも数本の電柱が描かれ、微妙に傾きを変えて奥行を充実させている。配置と傾きに工夫を凝らした電柱の存在感を際立たせるために、おそらく意図的に電線は描かれていないのだろう。これらの電柱と両脇の背の高い樹木が、空の空間を充実させている。

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佐伯祐三展 中之島美術館(8)

2.第一次パリ留学時代: 1924~1925年
第一次パリ留学時代の終結
「ノートルダム(マント=ラ=ジョリ)」(1925)がある。Photo_20230725074201
 マント=ラ=ジョリは、パリの西50キロメートルほどに位置する古都である。1925年10月、仕事でフランスに来ていた兄の祐正とともに、祐三はこの地やヴェルサイユを訪れた。そのとき、マントのノートルダムを、正面からのほぼ同じ構図で数点描いた。この展示作品は、とくに教会の堂々たる姿と巨大さが強調されていて、石造りの重厚さを絵具の塗り重ねで表現している。
 この作品は、祐三自身から母校の大阪府北野中学時代の恩師に寄贈され、以後長らく大阪府立北野高等学校が所蔵していた。
 このときの兄祐正の訪問は、祐三の健康を心配した母の意向で、祐三に帰国を強く促す目的もあったようだ。
 結局、1926年1月、佐伯祐三一家は日本に一時帰国するためにパリを離れ、祐三の第一次パリ留学時代は終わった。
Photo_20230725074301  展示されている「パストゥールのガード」(1925)は、パリ出発の朝、祐三がフランスに滞在していた作家芹沢光治良(せりざわこうじろう)のもとを訪れて渡した2点の作品のうちのひとつである。芹沢は祐三の兄祐正と同じ船で渡仏したことがあり、その縁で祐三とも知り合っていたのであった。作品を贈ったのは、祐三が帰国の道中の資金援助を求めたのに対して、芹沢が作品を譲ってほしいと頼んだことによる。
 この絵は、鉄道の高架橋を画面中央に横一線に描き、その向こうに赤や黄色の明るい広告をとらえている。「LION NOIR」(黒いライオン)は靴磨きクリームの看板である。

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佐伯祐三展 中之島美術館(7)

2.第一次パリ留学時代: 1924~1925年
独自の壁の境地へ
Photo_20230724054101  「コルドヌリ」(靴屋)(1925)がある。この作品では、壁の表現に文字を利用している。白い壁の上にCORDONNERIEの鮮明な文字を際立たせることで白壁のコントラストを強調し、対して室内や右側の鉄扉は濃い影とし、明と暗の対比が静かな画面のなかにも緊張感を生み出している。
 祐三は、興味を抱いた対象に執着して、同じテーマの作品を何点も制作することがあった。靴屋の店先、もっと限定して言えば靴屋のファサードもそうした題材の一例であった。同じ構図の別の作品も展示されているが、その絵では全体のタッチを荒くして形態はやや不明瞭とし、かすれた線描や混じり合った絵具が目をひくような表現となっている。Photo_20230724054102
 「壁」(1925)は、そのように壁に書かれた文字を丁寧に写し取り、ひとつの建物をクローズアップして真正面から描き出すという、第一次パリ留学時代に佐伯が確立したスタイルの代表作ともいえる作品である。このころに至って、祐三はヴラマンクの厳しい批判を乗り越え、ユトリロの影響からも抜け出したといえる。この絵の「DEMENAGEMENTS」は「引越」を、「MAISON ANCIEN FONDE 1860」は「1860年創立の老舗」という意味である。この絵には、画家の署名に、佐伯祐三作品としては珍しく、完成した日付1925年10月5日(LE5OCT.1925)が記されていて、画家本人にとって特別な思い入れがある作品であったことが窺える。

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佐伯祐三展 中之島美術館(6)

2.第一次パリ留学時代: 1924~1925年
壁のパリ15
 祐三は1924年末にパリ郊外のクラマールからパリ15区の下町のアトリエに転居した。この後は、ヴラマンクの強い影響による荒々しい郊外の風景画から離れ、パリの都会的な街並みへと徐々に対象をシフトした。このころ彼が影響を受けたのは、静謐な詩情の市街風景画で知られるモーリス・ユトリロであった。祐三のアトリエがあったリュ・デュ・シャトーは庶民的な店の建ち並ぶ場末の街であったが、その薄汚れ年季の入った酒屋・宿屋・引越し屋、洗濯屋などの建物が、つぎつぎと魅力的な画題として祐三の眼前に立ち現れたのであった。
Photo_20230723054301  やがてその眼は、建物をクローズアップしてとらえるようになっていった。通りに面して石の壁が連なり、遠近法的な空間をもつ構図から、建物を正面からとらえ、ひとつのみ取り出した建物、あるいは壁のみで構成された画面へと、祐三の関心は建物そのもの、もしくは壁のみに向けられるようになり、周囲の空間もヒトもなく、奥行をともなう空間さえほとんどない、そこにはただ画家と壁、その峻厳な対話のみがあるような作品となっていった。
 文字通り壁に向き合い、絵具を塗り重ね、カンヴァス上で混ぜ合わせ、ときには引っ掻くなどして、独自のマチエールを創生した。こうして到達した圧倒的でエネルギッシュな物質感、独創的なマチエールは、佐伯祐三が達成した独創的な境地であった。

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佐伯祐三展 中之島美術館(5)

2.第一次パリ留学時代: 1924~1925年
ヴラマンクとの出会い(下)
 ヴラマンクの他にも、日本ではほとんど見ることができなかった著名な作家の作品を積極的に見てまわった。ドラン、ゴーギャン、ルソー、とりわけセザンヌに深い感銘を受けたという。Photo_20230722054401
 「パリ遠景」(1924)がある。この作品は、幾何学的な表現要素や平面的な色使いにセザンヌの影響が見出される。
 「オーヴェールの教会」(1924)がある。オーヴェール・シュル・オワーズは、ゴッホ終焉の地として知られている。祐三は、ヴラマンクとの衝撃的な出会いの翌日に、ゴッホ兄弟の墓を詣で、ガシェ博士が所蔵する20点余りのゴッホ作品を見学することができた。この絵は、そのオーヴェールを再び訪れたときに制作したものであった。絵は、ゴッホの最晩年の作品とほぼ同じアングルと構図で教会堂を描いている。その一方色鮮やかなゴッホの表現と異なり、独自性を意識して茶色や濃緑を多用している。ゴッホへの共感と敬意を示しつつ、自らの独自な造形を模索する姿勢がうかがえる。ゴッホ「オーヴェールの教会」(1890)と比較すると、それらの相互関係がよくわかる。
Photo_20230722054501  パリ郊外風景(1924)がある。
 ヴラマンクの教えは、光で変化する表面的な色彩ではなく、物質が持つ固有の色の重視であり表現であった。ヴラマンクとの出会いの後、祐三のパレットの色は一変したという。最初の出会いから1年弱後に再会したとき、ヴラマンクは祐三に「物質感はナマクラだが、大変優れた色彩家だ」と褒めてくれたという。この絵では、ヴラマンクに倣って重厚な筆致で郊外の風景を描いている。濃緑・濃紺・黄土色・黒などを動員して木や壁を描き、黒や茶色の重々しい色彩に白を混ぜて厚く塗り重ね、土の質感を表現している。

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佐伯祐三展 中之島美術館(4)

2.第一次パリ留学時代: 1924~1925年
ヴラマンクとの出会い(上)
 祐三は大正12年(1923)美術学校を卒業した。卒業後は美術の本場パリに留学することを決めていた。実家から渡航費の支援を受け、フランス語も学び始めていた。渡欧目前の9月1日に関東大震災が発生し、準備していた荷物が全焼するなどの不運はあっものの、11月末には妻子をともなって神戸港からパリに出発することができた。Photo_20230721060001
 佐伯祐三のパリ時代は、1924年1月からの約2年と、一時帰国の1年半の後の1927年8月からバリに客死するまでの約1年の2期に分けられる。最後の5か月間は病の悪化のため制作活動がほとんどできなかったので、祐三のパリでの創作期間は全部でわずか2年7か月ほどであった。しかしこの短い時間は、パリの街を題材とする佐伯芸術を確立させた濃密で凝縮された時間であった。
 1890 1924年1月留学生活をスタートさせた佐伯にとって、大きな転機となったのは6月末のヴラマンクとの邂逅であった。モーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)は、パリ生まれの19世紀末~20世紀のフランスの画家、文筆家であった。徹底した自由主義者で、自分の才能以外の何ものも信じず、何ごとにも束縛される、あるいは服従することを嫌った。こうした性格から、絵画についてもあらゆる伝統や教育を拒否し、少年時代に多少絵の手ほどきを受けた程度以外は、ほとんど独学であったという。アンドレ・ドラン、アンリ・マティスと親交があり、ファン・ゴッホを尊敬し影響を受けたと自ら表明している。
 祐三はパリでヴラマンクを訪ね、自信作の裸婦像を見せたところ、ヴラマンクから「このアカデミック野郎」と罵倒されたのであった。その衝撃は、それまでの学びや拠り所など一切を吹き飛ばすほどであった。これ以降、祐三は画風を一変させ、自分独自の表現をひたすら追求し模索することとなった。最初の半年あまりは、なんとかヴラマンクの色彩と視点を追いかけ倣おうとし、やがて煩悶と格闘の末、独自な境地を拓くこととなった。

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佐伯祐三展 中之島美術館(3)

1.画家になるまで
美術学校学生時代の作品
Photo_20230720054401  祐三は美術学校時代の作品としては、東京での住居近辺の景観を描いたものや、実家があった大阪および大阪府内の親族に縁のある場所を描いたものがある。
 「目白自宅付近」(1922)がある。美術学校に通うため、檀家の親戚宅に下宿したり、米子と結婚してからは中落合にアトリエ付きの家を新築したりしたという。そんな時期に描かれたと思われるのが、当時の東京郊外を描いたこの絵である。大正時代は東京も、こんな原生林がたくさん残っていたのだなあ、と思う。
 颯爽とした清々しい筆致だが、後の祐三の独特の表現はまだない。
Photo_20230720054501  「河内燈油村付近」(1923)がある。
 祐三は、パリへ出航する前の1923年10月、渡欧の挨拶のため大阪府四条畷市の光圓寺住職を勤めていた伯父浅見慈雲を訪問した。そのときに現在の交野市燈油村の景色を描いたのがこの作品である。遠景に空を赤く染める夕日があり、その光を反映する蔵王池の輝きを白絵具で大胆に描写している。このころは、まだフォヴィスムのヴラマンクに逢う前なのだが、瞬間を素早く描きこもうとするこの絵の荒々しい筆致は、ヴラマンクからインスピレーションを得ることになる運命を予感させるものがある。

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佐伯祐三展 中之島美術館(2)

1.画家になるまで
美術学校入学と結婚
Photo_20230719053701  祐三は、20歳で美術学校に入学したが、毎月のデッサンコンクールでいつも上位に入選するなど早くから実力を顕わした。しかし私生活では、従兄、父、弟の相次ぐ早世に遭遇し、自身も結核の不安を抱えて、常に死への恐怖に苛まれていた。
Photo_20230719053702  学生時代の22歳のとき、かねてから恋愛関係にあった銀座の貿易商の娘池田米子と、父が死の床から許したことで結婚することができた。24歳のとき、長女彌智子(やちこ)が生まれた。このころは、祐三がもっとも幸せを感じたころと思われるが、そのころに「ライフマスク」を制作している。
 米子像(1927)がある。これは幼い一人娘彌智子とともに夫の第一次パリ留学に同行した後の、一時帰国のときの作品である。
 比較的少ないサッと引かれた線で面立ちを的確にとらえている。米子は、この後再びパリに渡ったが、祐三の病状が悪化し、同じく結核を発症した彌智子とのふたりの看病に奔走する生活となった。彼らを精神的にも体力的にも支えた米子の気丈さが、この肖像画にもうかがえる。Photo_20230719053801
 留学先で夫も娘も病没する不幸に見舞われた米子は、帰国の後、洋画家として二科展や二紀展で活躍した。
 「彌智子像」(1923)がある。誕生してようやく1年を迎えようとする、かわいい盛りの愛娘の肖像画である。2歳になる以前から両親とともに渡仏した彌智子は、フランス語を上手に話すようになり、佐伯の友人たちに可愛がられたという。しかし、祐三が死去してわずか2週間の後、父と同じ結核でわずか6歳にしてその生涯を閉じた。

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佐伯祐三展 中之島美術館(1)

 大阪中之島美術館に、佐伯祐三展を鑑賞した。佐伯祐三は高名な画家なので、私もその作品を少しは観た覚えがあるが、たしかにいい絵であったと思うものの、特段の印象はなかった。そういうわけで、さほど大きな期待もなく出かけたのであった。

プロローグ 自画
Photo_20230718055601  佐伯祐三(さえき ゆうぞう、明治31年~昭和3年、1898~1928)は、大阪府西成郡中津村(現在の大阪市北区中津二丁目)の光徳寺という浄土真宗寺院に、次男として生まれた。住職であった父からは医師になることを期待されたが、祐三は早くから画家を目指した。従兄が水彩画を得意としていた影響もあったらしい。大正6年(1917)東京の小石川(現在の文京区)にあった川端画学校にて藤島武二に師事して絵を学んだ。旧制北野中学(現在の大阪府立北野高等学校)を卒業した後、大正7年(1918)東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事した。大正12年(1923)東京美術学校を卒業したが、東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、今回その卒業制作が展示されている。
 この絵の特徴として、やや左向きのポーズをとり、顔の右側を明るく照らし、流れるようなやわらかなタッチで描くなどが注目される。これは、祐三が大学時代住んでいた下落合にアトリエを構えていた画家中村彝(なかむらつね、明治20年~大正13年、1887~1924)の影響が指摘されているという。
Photo_20230718055602  中村彝(なかむらつね)は、茨城県に生まれ、陸軍幼年学校中退の後、結核療養で転地した千葉県北條湊(現在の館山市)で絵画の研鑽を積み、新宿中村屋の相馬愛蔵夫妻の知遇を得て支援を受け、画業を営んだ画家であった。彼には、アジア各地を放浪していた盲目のロシア詩人ワシーリー・エロシェンコを描いた代表作がある。佐伯祐三は、近所に住んでいた中村彝に共感を抱いていたとされ、この「エロシェンコ像」(1920)が祐三の卒業制作に影響を与えたとされている。ただ、祐三がこの地に居たころは、中村彝はすでに結核末期で臥せっており、直接の交流はなかったものとみられている。
 佐伯祐三は、学生時代から多数の自画像を残していて、今回の展覧会でも10点もの作品が展示されている。

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原派ここにあり─京の典雅 京都文化博物館(5)

原在照
 原在照(はら ざいしょう、文化10年~明治4年 1813~1872)は、原在中、原在明と続く原派の三代目である。
 山科家の雑掌(貴族や武家に仕え,雑務に携わった者)の小林家の出身であった。在明の実子在兼は、地下官人右馬寮大嶋家を継ぎ、大島友集と名が変わったため、在照が在明の娘幸(こう)の婿養子となって原家を継ぐことになった。
 在明が天保5年(1834)「春日絵所」の株を買い取ったとき、在明は直ちにその名義を在照とした。天保8年(1837)25歳で正六位下・内舎人、近江介となった。さらに弘化2年(1845)33歳で正六位上、内匠少允に昇進した。
 弘化3年(1846)常御殿修復と孝明天皇即位に伴う屏風制作を行った。なおこの時在照は、多忙で御用を申し付けられても間に合わないと常御殿修復だけを出願していた。しかし後日造営御用掛から、なぜ三代に渡って御用を務めているのに今回は出願がないのかと問い詰められ、在照は急遽即位御用も出願した。期限はとっくに切れていたにもかかわらず出願は認められた。同様の例は寛政5年(1793)の円山応挙にもあり、弘化3年時点で原家が円山家と肩を並べる存在になったと推定できる。
 こののちも終生にわたり禁裏の御用画ばかり手掛けたため、その絵が世に流れることは多くなかったと言われている。

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 『安政度御所障壁画下絵』が展示されている。御所納入の作品だから本体はなく、下絵のみが原家に残されているのである。
 これまで全く知らなかった原派という派閥の作品を観た。作品はそれぞれ欠点もないが、特段の特徴もないように思える。
 そのおもな理由は、京都で朝廷や公家、あるいは富裕商人に納入する作品を制作するグループであるため、顧客の意向や要求が絶対であり、元来画家の芸術的欲求を発現する絵画ではない、ということだろう。優れたアーティストである以前に、優れたアルチザンたることこそが絵師のレーゾンデートルなのだ。冷静に考えれば、それも当然で自然なことである。
 絵画の世界にも、多面性があるということをあらためて考えた。

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原派ここにあり─京の典雅 京都文化博物館(4)

原在明
 原在明(はら ざいめい、安永7年~天保15年 1778~1844)は、原在中の次男であったが、兄在正が勘当されて相続権を喪失したのを受けて、原派二代目となった。
 兄の原在正が早熟で画技に優れていたこともあり、在明は寛政3年(1791)までに縫殿寮史生の地下家(清涼殿に昇殿を許されない下級官人の家)であった伊勢家に養子に出された。養家で正七位下に叙され、さらに若狭目に任じられ、寛政12年(1800)従六位下に進んだ。文化3年(1806)兄在正の勘当にともない、在明が原家の二代目を継いだ。まもなく養家の家名も伊勢から原に変えた。
 文化4年(1807)江戸や日光へ下っており、同年8月の永代橋落橋事故では、近くにいたが幸い難を免れたという経験もした。天保4年(1833)東大寺別当勧修寺門跡 済範入道親王の近習として、正倉院開封に立ち会い、宝物の記録図制作に従事した。Photo_20230716060101
 天保5年(1834)正六位下に叙され、内舎人に任じられた。同年在明は、春日大社の式年造替で御用を務める「春日絵所」職の株を、同じ京絵師・勝山琢山から第三者の手を経て買い取った。この「春日絵所」職は、在明以後も原家に引き継がれた。翌6年(1835)大和介を兼任、さらに天保7年(1836)には内匠大允も兼ね、同11年(1840)孝明天皇立太子に伴い啓内舎人に補され、同13年(1842)正六位上にまで進んだ。有職故実を松岡辰方と山田以文に学び、故実に精通していた。
 この原在明の作品として、『新嘗祭図』が展示されている。私が一見した印象としては、とても生真面目で丁寧な筆致とおもうのだが、解説によると、新嘗祭の参加者がそれぞれ立場、地位、式典での役目に応じて衣装の細かい差異があり、それが丁寧に描写に反映されているという。原派を特徴づけるのは、まさにこの有職故実にのっとった様式であり表現である。在中以降、息子の在正、在明はそれぞれ多くの絵手本を受け継ぎながら古代の紋様や装束についての知識を備えた。このような努力の蓄積もあって、徐々に原家は特異な立場を築き、江戸時代以降の京都画壇で大きな力を有した、という。

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原派ここにあり─京の典雅 京都文化博物館(3)

原在正Photo_20230715055301
 原在正(はらざいしょう)は、初代原派たる原在中の長男であった。ただなんらかの事件があり、勘当されてしまったため、原派の継承者とはならなかった。
 しかも早世したといい、作品は多くない。
 そのなかで、貴重な作品として『滝図』がある。
 高さ3メートルにもおよぶ大作で、流れ落ちる滝の躍動的な力強さがいかんなく表現されている。
 もうひとつ貴重な原在正の作品として『孔雀図』がある。
 これは重要文化財となっている旧三井家下鴨別邸の杉戸に描かれた大型の色彩絵であり、短い画家としての活動期間のうちに、富裕な商家から受注していたこと、その画力が優れていたことがよくわかる。Photo_20230715055302

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原派ここにあり─京の典雅 京都文化博物館(2)

原在中の作品
 『四季花鳥図屏風』が展示されている。

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 金の地という点はあっても、鳥や草花の表現は比較的おとなしく、たしかに応挙の影響が少ないと言われてみればそうか知れないとも思う。まあしかし、しっかり描きこんだ屏風だとは思う。
 比較的後期の作と思われる『馬図』が展示されている。
 これは十面の紙本墨画淡彩で色彩は地味で装飾的要素はないが、力強くしっかり表現されていることがわかる。

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原派ここにあり─京の典雅 京都文化博物館(1)

 近世の京には、有名な狩野派、土佐派、円山派、四条派などの他に、原派(はらは)といういささか新興ながら何代にもわたって朝廷や寺社から認められた絵師集団があった。
 江戸時代中期に初代の在中(1750~1837)が創始した原派は、宮中や春日大社などの仕事を引き受け、代々絢爛豪華で細密な世界を描き出した。京都府内には、いまでも原派による障壁画が数多く残っている。それらは天皇をはじめ院家や公家に受け入れられ、また裕福な町人も作品を求めたのであった。Photo_20230713060801

原派の創始者 原在中
 原 在中(はら ざいちゅう、寛延3年~ 天保8年 1750~1837)は、江戸時代後期の絵師であり、原派の創始者である。
 先祖は若狭国小浜出身であったが、在中は京都の医師の子として生まれた。在中が絵師となったことで、彼の代以降の原家は絵を家業とするようになった。絵の師は石田幽汀あるいは円山応挙とも、あるいは両者を折衷して初め幽汀に学び一時兄弟子の応挙についたとする説もある。『古画備考』によると、応挙の没後、在中は、自分は応挙の弟子ではないと主張した。しかし応挙の門人帳を調べると、在中が自筆で入門と名簿に記してあったともいう。
 一方で、在中の画風に応挙の影響は強くは認められず、応挙一門が総力をあげた二度にわたる大乗寺障壁画制作にも、在中は参加していない。今日にまで多くの大作を残す在中が応挙の弟子ならば、当然師弟関係を示す資料がもっと多く見出せるはずで、応挙十哲の一人にも数えられたであろうことを踏まえると、どちらとも断じ難いらしい。また、仏画を山本探淵に学んだともいう。
 在中が26歳のときに当たる安永4年(1775)版『平安人物誌』には、応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、望月玉仙、呉春、曾我蕭白などと併記して、原在中の名が載せられていて、当時すでに確立した画家として認められていたらしい。寛政2年(1790)の禁裏造営にも、狩野派や土佐派の絵師や、応挙、源琦、長沢芦雪、岸駒、田中訥言らと共に障壁画制作に参加している。文化10年(1813)出版された『平安画工師相撲』では、一方の大関・岸駒に続いて関脇に位置付けられており、当時の京都画壇の中心的存在であったことが推定される。文化文政期には、大寺社の障壁画を多く揮毫しており、それらの多くは中国や日本の古画に倣っている。晩年の作品も残っているが、それらは細密な筆致と明麗な彩色がなされていて、老いても筆力の渋滞や衰えを感じさせない。
 江戸後期の多くの絵師がそうであったように、原在中も、寺々を訪ねて元、明の古画や、狩野元信や永徳らの名画を勉強し、また土佐派の細密な色彩や同時代の応挙の写実的表現を積極的に取り入れて、原派と呼ばれる一派を形成するに至ったようである。長寿だったこともあって作品がよく残り、画域も広い。山水、人物、花鳥、走獣などを、漢画と大和絵など多彩な画法で描きこなした。仏画、神像、肖像、絵馬なども巧みで、障壁画の大作でも画面を破綻なくまとめている。とくに有職故実を深く研究して絵に取り入れ、心学者の手島堵庵とも親しく交流したという。

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2023年七月大歌舞伎 松竹座

 3月からほぼ4カ月ぶりに、大阪松竹座で「七月大歌舞伎」を観た。
 今回は、夜の部に片岡仁左衛門が演じるのは最後となるだろうといわれている「俊寛」が予定されていたが、さすがに人気が高すぎて、私たちには昼の部しか切符が取れなかった。それでも内容はなかなか充実していた。
 最初の演目は「吉例寿曽我 鶴ヶ岡石段・大磯曲輪外」である。Photo_20230712054301
 これは私には初見の演目である。鎌倉幕府の草創期、平重盛の家人から源頼朝の寵臣となった工藤祐経(くどうすけつね)がこの舞台の主役である。工藤祐経の家臣近江小藤太と八幡三郎が、主君たる工藤祐経の武運長久を祈るために夜中に鶴ヶ岡八幡宮に参詣にきていた。そのとき八幡三郎は近江小藤太に「見てもらいたい書がある」と持ち掛けた。それは謀反の密書であり、それを感づいた近江小藤太は「中身を見ないでとりあえず私に譲ってほしい」と返事した。八幡三郎は「ほしいなら譲らぬでもないが、まず私が中身を読んでからだ」と返す。これで二人は激しく刀を交わすことになった。大きな八幡宮の石段を舞台に、華やかな立ち回りが演じられる。近江小藤太を中村隼人が、八幡三郎を中村虎之介が演じる。若い伸び盛りの二人の機敏な立ち回りはなかなか美しい。舞台の石段も、ゆっくりせりあがって場面が交代するようなカラクリとなっていて、なかなか興味深い。
 そのカラクリが幕間なくただちに舞台を大磯の曲輪へと変える。源頼朝の寵臣に成りあがっていた工藤祐経は、富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられ、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎などの取り巻きが祝いに駆け付けていた。そこへ朝比奈三郎が二人の若者を連れてくる。それはかつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父を殺した相手に面会できたことを知った兄弟は、とくに血気盛んな曽我五郎が仇討ちを意識してはやるが、朝比奈がなだめ、工藤は巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与えて、双方再会を期して別れる。工藤祐経をはじめ、登場人物一同が、疑心暗鬼の探り合いとなり、「だんまり」と呼ばれる舞台となっている。工藤祐経を坂東弥十郎が、曽我十郎を片岡千之助、曽我五郎を市川染五郎が演じている。「だんまり」の舞台様式については、私にはよくわからなかった。
 二番目の演目は、京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)で、竹本連中と長唄囃子連中の伴奏による舞踊の舞台である。私は、この演目を観るのはたしか2度目だと思う。
 鐘供養のために所化(しょけ:修行僧)が集まる紀州の道成寺が舞台である。そこへ美しい地元の白拍子花子がやってくる。所化たちが訝しんで所用を訪ねると、なんとしても鐘を拝みたい、と。舞を奉納することを条件に白拍子に入場を許すと、白拍子は熱い恋心を込めて艶やかな踊りを披露するうちに、形相も衣装も変化し、最後には鐘に登って取りついてしまう。1時間近くにおよぶ壮麗でエネルギッシュな舞踊が、尾上菊之助によって披露された。ときには動きの速い踊りに加えて、伴奏にきっちり合わせながら自ら鼓や小太鼓を演奏する。まことに見事としか言いようがない素晴らしい舞踊であった。
 最後の演目は「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)沼津」である。
 裕福な江戸の呉服商十兵衛は、縁あってある武士が敵討ちから逃れるために九州相良に落ち延びる手助けのために沼津まで来ていた。そこでひょんなことから貧しいが人柄の良い老人雲助平作から、駄賃仕事がないので荷物運びをさせて欲しいとせがまれ、荷物を運ばせる。ところが平作は老いぼれていて荷物運びの役に立たないばかりか、足を怪我してしまう。可哀そうに思った十兵衛は、偶然持ち合わせた評判の妙薬を印籠から出して施薬してやると、薬効てきめんに傷は癒えた。そのあと偶然平作の娘お米と行き合わせ、お米の美貌に惹かれた十兵衛は、平作・お米のあばら家に立ち寄り、一宿することになる。お米は、実は元吉原の「瀬川」と名乗った高名な花魁であったが、ある武士と結婚していて、その夫は鎌倉円覚寺で果し合いに敗れて負傷し療養していた。夫の回復のために「妙薬」を手に入れようとして十兵衛の印籠を盗もうとしたお米は、十兵衛に取り押さえられてしまうが、平助とともに平謝りして十兵衛から許しを得た。そんなこともあり、十兵衛は夜明け前であったが、すぐに平助の家を出て、千本松原に向かって旅立った。残された印籠に付随していた書付から、平助とお米は、実は十兵衛が平助の実子でありお米の兄であることを確信する。さらに、その印籠が、お米の夫に傷を負わせた武士のものらしいことをも発見した。十兵衛がその仇の消息を知っているかも知れないと感づいたお米は、平助とともに十兵衛を追った。
 なんとか十兵衛に追いついて、仇の武士について聞き出そうとした平助は、律儀な十兵衛から断られ、とっさに十兵衛の脇差を引き抜いて自刃する。驚いた十兵衛は、近くにお米が潜んで聴き耳を立てていることを知りながら、死にゆく平助への言葉として仇の武士の消息を教えたのだった。
 人情劇とはいえなんとも複雑なストーリーで、私には全容がすぐには把握できなかった。その複雑さの遠因として、この物語は、沼津に実際にあった仇討ち事件、しかも高名な荒木又右衛門にも関わる有名な事件を下敷きにしたものであるという。
呉服商十兵衛を中村扇雀、平作を中村鴈治郎、お米を片岡孝太郎がそれぞれ演じる。
 回り舞台だけでなく、背景が目の前でするりと入れ替わる新しい舞台装置を導入し、場面の展開が迅速なことに驚いた。そのため、一幕の舞台ながら1時間半余りの、内容の濃い長丁場である。先述の石段のカラクリもそうだが、私が歌舞伎を観るようになったこの20年ほどの間にも、舞台装置も少しずつ変化・進化しているのだろう。
 舞台に登場する役者も、確実に世代交代が進む。高名なベテランの役者を見慣れたひとには、若手役者に物足りなさを感じてしまうのかも知れないが、若手も確実に育っている。
 今回は、休憩を2回含むが、全体で4時間以上にわたる長い公演で、ここ3年間余りのコロナ騒動で、開催されても全体で2時間から3時間弱と短かったのが、ようやくかつての公演なみに復活していて、その意味でも嬉しかった。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(7)

東洋文庫の歩み
 東洋文庫の基礎は、大正6年(1917)年に三菱財閥の第3代総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンが所蔵していた中国に関するヨーロッパ文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まる。岩崎久弥はモリソン文庫に加えて和書・漢籍をはじめとする東洋諸言語文献を収集し、日本を含めた東洋全域を網羅するコレクションを構築したうえで、大正13年(1924)東京本駒込の地に民間の図書館兼研究所である財団法人東洋文庫を設立したのであった。
 初代理事長には、同年まで大蔵大臣だった井上準之助が就任している。設立後、久弥自身は文庫の運営に一切関わろうとはしなかったが、必要な図書費や研究費の支援は惜しみなく実施した。三菱の海外支店を介して代金の支払いが確実になされたため、世界中の書店が先を争って文庫に購入を持ちかけたという。Photo_20230711054201
 東洋文庫はこうして東洋学関係図書の収集、研究書の出版、国際交流などを行ってきたが、第二次世界大戦後の混乱期には支援者である三菱財閥の解体により経営が困難となり、蔵書は散逸の危機に瀕した。この窮地の昭和22年(1947)理事長に就任した幣原喜重郎元首相の尽力により、国会が支援に乗り出し、東洋文庫は昭和23年(1948)やはり三菱財閥の支援下にあった静嘉堂文庫とともに、発足したばかりの国立国会図書館の支部となった。これにより国会図書館は東洋文庫内に支部東洋文庫を設置し、文庫の図書館部門の閲覧業務を請け負うことになった。
2009年3月支部契約は終了し、特殊公益増進法人に認定された財団となり、その必要資金は自己資産や三菱グループからの寄付金及び国等の補助金でまかなわれている。
 戦争に対する所蔵文書の仙台疎開や、地震・台風などの災害への対処などの苦労も一部展示されていた。このような膨大かつ貴重な資料がこうして大切に保管・維持されてきたことに深く敬意を感じる。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(6)

日本とヨーロッパ
 最後のセクションは、日本とヨーロッパとの関りである。
 江戸時代中期の天明5年(1785)には、林子平が『蝦夷国全図』というかなり大型の地図を幕府に献上している。展示品をみると、横長の楕円形で、北海道の地図としてはずいぶん違和感があるけれども、ロシア東部がしっかり描きこまれ、彼が対ロシアの国防意識からこれを作成して訴えたものであることはとてもよくわかる。幕末には、伊能忠敬の事業を継承した高橋景保などが完成して将軍に献上した『大日本沿海実録図』(文政4年1821)が展示されている。この地図の精確さは、これまでみてきたヨーロッパ諸国の地図とくらべても際立っている。Photo_20230710054601
 その高橋景保も連座したシーボルト事件で有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、長らく日本に滞在して日本の自然を科学者として観察し、やはり今回展示されている『日本植物誌』『日本動物誌』などを残し、さらに日本の風土・文化を記録した『日本』(1832ころライデン刊)などを制作した。
 これらの他にも、日本の物語『竹取物語』(明治13年1880)、『日本昔噺ドイツ語版』(明治18年1885)、『源氏物語』(昭和3年1928)、『枕草子』(昭和42年1967)などが展示されている。とくに明治13年の『竹取物語』、明治18年の『日本昔噺ドイツ語版』など、日本が維新を経て開国したのちのわずかな後に、このような日本の「古典」を探し出して自国語に翻訳する外国人がいたことに、私は感銘を受けた。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(5)

西洋と東洋の交わり
Photo_20230709060101  大航海時代以降は、ヨーロッパもアジアへの関心が高揚し、さまざまなアジア関係の書物や情報が普及したが、そのひとつの代表的なものとして13世紀末のヴェネツィア商人マルコ・ポーロによる『東方見聞録』の普及がある。この東洋文庫所蔵のみでも、80種以上の『東方見聞録』が所蔵されているそうだ。
 この他、17世紀イギリスの外交官ポール・リコーによる『トルコ史』、18世紀のダニエル・デフォーの名作『ロビンソン・クルーソー漂流記』の刊本、18世紀フランス人天文学者が天体観測のためにシベリアに滞在したときの記録『シベリア旅行記』などがある。
 一方、中国の側でも16世紀明代の経世済民の儒学者羅洪先(らこうせん)による『広輿図』が展示されている。これは「方格図法」という、地図を正方形の区画ごとに区切って構成する図法で、のちにメルカトール図法などが普及してくる以前には、広く採用されていた図法であったという。
Photo_20230709060201  オランダと中国との交流の記録としては17世紀のアムステルダム刊『マテオ・リッチと徐光啓』が展示されている。徐光啓が翻訳して発刊した『幾何原本』の表紙絵である。
 徐光啓(じょ こうけい、嘉靖41年~崇禎6年1562~1633)は、明代末期の中国の暦数学者で、有名なキリスト教徒であった。上海に生まれ博学多才のひとで学問に専心し、郷試に首席で合格した後、1599年にマテオ・リッチ(利瑪竇)の名を聞いて南京に行って教えを受け、1603年にジョアン・ダ・ロシャ(ポルトガル語版)(羅如望)の手で洗礼を受け、キリスト教徒となった。進士にも及第し、翰林院庶吉士となり、リッチとの交際が深まるとともに、洋学の知識もより深めた。天文学・地理・物理・水理・暦数などについてのリッチの口授を翻訳・筆記・公刊した。とくに『ユークリッド原論』を訳した『幾何原本』6巻(『四庫全書』に収める)が、有名である。
 日本に大きな影響を与えた『農政全書』など、著書や翻訳書は多数あり、中でも有名なものとしてイエズス会士アダム・シャール(湯若望)の協力によって刊行した暦法書『崇禎暦書』、『測量全義』などがある。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(4)

東南アジア
Photo_20230708055701  東南アジアは、ヨーロッパからみるとインド・中国を中心とするアジア市場への進出のための結節点として、大航海時代から関心をおおいに高めていた。
 16世紀初頭期のイギリス人トメ・ピレスによる『東方諸国記』、17世紀初期のオランダ人ネックによる『東インド航海記』、同じくオランダの『東インド諸島図』、シンガポール建設の立役者であった英国人トーマス・ラッフルズによる『ジャワ誌』(1817)、などが展示されている。
 ベトナムの婚礼と葬送の風俗を描いた『越南婚葬行列図』(部分)(19世紀末ころ)がある。当然ながら、婚礼にかかわるひとびとの衣装は明るい色彩の晴れやかなものが多く、対照的に葬儀の衣装は無彩色主体のしめやかなものとなっている。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(3)

朝鮮と日本との交流
Photo_20230707053901  朝鮮半島では、中国にならってかそれぞれの王朝で、代が変わると新しい王はそのすぐ前の代の王の事績を正史としてまとめて残した。鄭麟趾(ていりんし)編纂による『高麗史』が展示されている。この展示品は15世紀の李氏朝鮮時代の刊本を幕末に勝海舟が所有していた木箱入りセットのもので、後に東洋文庫が入手したものだという。
 江戸時代後期の絵『朝鮮風俗図』が展示されている。
 この他、江戸時代に12回にわたって行われた朝鮮通信使(朝鮮聘礼使)の日本への来航時の行列の様子を描いた『朝鮮聘事』(正徳元年1711)という絵図も展示されている。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(2)

中国の書体と王羲之
Photo_20230706060101  紀元前91年ころの司馬遷『史記』、18世紀のイギリス人ジョン・ヘンリー・ミラーによる写生図『万里の長城』、11世紀の司馬光の『資治通鑑』の明治10年(1885)の刊本などがある。気になったのは王羲之による『蘭亭序』である。魏晋南北朝時代(184年-589年)の353年(永和9年)王羲之が名士や一族を会稽山の麓の名勝蘭亭(現在の浙江省紹興市)に招いて、総勢42名で曲水の宴を開いたときに作られた詩27編(蘭亭集)の序文として王羲之自身が書いた草稿が「蘭亭序」であった。これを王羲之は、当時としては非公式な行書体で記した。そのころ中国では、正式文書はすべて隷書体で書かれていたが、これ以後楷書・行書・草書の三体がひろく普及したと伝えられている。今見ても、素晴らしい書である。
 書が美しいといえば、今回展示されている「殿試録」(清代、1772)の科挙の答案も実に美しい文字である。これが科挙の答案の一部だというが、模範解答なのか、実際の受験生の答案なのか、よくわからないが、答案にこんなに丁寧にきれいに書くということなどは、私には想像がつかない。日本では、とても成績の良い学生にも、悪筆の者は多々いる。

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「知の大冒険─東洋文庫」展 京都文化博物館(1)

 2月から始まっていた少し異色の展覧会で、気になっていたもののこれまで行けずにいた。いよいよ会期が終わってしまうというので、ともかく観ておきたいと、春の快晴の日京都に出かけた。
 京都の河原町、新京極通り、三条通りと、最近までコロナ騒動でひっそりしていた街の賑わいがすっかり戻っていて、少し嬉しい往路であった。
 東洋文庫(東京都文京区駒込2丁目)は、大正13年(1924)三菱財閥の第三代総帥岩崎久彌によって創設された、東洋学分野のアジア最大級の研究図書館であり、世界五大東洋学研究図書館の一つとなっている。昭和36年(1961)からはユネスコの要請によってユネスコ東アジア文化研究センターが付置され、平成15年(2003)にセンターが終結するまでアジア文化やアジア研究の動向を世界に紹介する業務をも行ってきた。
2011年10月20日、東洋文庫ミュージアムを併設した新本館がオープンした。
 今回は、いつもの美術館での絵画の鑑賞とはいささか異なり、東洋文庫が有する約100万冊の蔵書の中から、国宝、重要文化財をはじめとする所蔵品から、書籍あるいは文書を中心として、さらに一部は美術品を含めた約120件を展示している。

プロローグ
Photo_20230705072901  冒頭にあるのは、古代の「文字の発祥」について、エジプトのヒエログリフの辞典、バビロニアのハンムラビ法典の近代イギリスの復刻版である。
 『中央アジア・東アジアにおける文字のはじまり』いうタイトルの1894年イギリス版の書では、中央アジアや東アジアの古代文字が、象形文字からどのように形成されてきたかを解説している。
 1595年に書写されたという「クルアーン」すなわちコーランの古書もある。Photo_20230705072902
 そしてヨーロッパの大航海時代を経た後の、アジアの地理の知識を獲得したオランダの地図「ウィレム・ブラウ、ヨアン・ブラウ『大地図帳』」(1648-65、アムステルダム市蔵)がある。Asiaというタイトルが付けられ、彼らが知るかぎりのユーラシア大陸に加えて、日本、カリマンタン、スマトラ、東アフリカの一部が描かれている。もちろん形は現代から見ればぎこちないが、航空写真もしっかりした測量機器もない時代に、よくもここまで地理のマクロな概要を把握したものだと、私は驚嘆する。すくなくともトポロジカルには、かなり正しい認識が認められるのである。

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北岡伸一『後藤新平』中公新書

 経済評論家吉崎達彦さんのブログ記事でこの本を知り、さっそく読んでみた。もう35年も前の著作である。
 後藤新平は、幕末の安政4年(1857)、現在の岩手県水沢市に仙台藩の支藩たる水沢藩留守家の家臣の子として生まれた。後藤家の本家筋には、幕末の風雲児高野長英がいて、蛮社の獄により、新平誕生の7年前に獄死していた。新平は少年時代「謀反人の子」と嘲笑されたが、「今日にては宜しく刻意励行、長英を以て期せざるべからず」と、むしろ前向きに考えて発奮したという。高野を親戚に持ったことで、天下国家や西洋文化への関心は、一段と強烈になったともいう。腕白で粗暴でさえあるが、際立った才気煥発の目立つ少年で、明治維新で設置された胆沢県大参事として赴任してきた元肥後藩士安場一平の篤い世話を得て、福島県須賀川に新設なった須賀川医学校に学んだ。しかし元来医者になる気はなく、そのうえ原書による本格的な教育も受けられず、当初は大いに不満であった。しかし支援者から厳しく叱責され、いやいやながら物理学、化学、解剖学、生理学などに触れるうち、近代科学の輝きに開眼して、にわかに猛然と勉強し始めた。20歳までになんどもさまざまな紆余曲折を経験しながら、名古屋で医師開業試験を通過し、名古屋鎮台の病院、愛知県医学校長、病院長などに20歳代前半にして上りつめた。板垣退助が岐阜で凶漢に刺され、自由党とのかかわりを恐れて医師たちが尻込みするなか、板垣を診療したのが後藤新平であった。このとき板垣は、この青年医師が政治家であったなら、と慨嘆したと伝える。
 このような序章を読んだだけでも、きわめて特異な尋常ならざる才能とエネルギーが明らかである。
 後藤の特徴は、まず卓越した集中力と実行力であり、周囲から高い能力を認められる人々でさえ諦めてしまうようなことを、結果的には難なく成し遂げてしまう。ただ、自分自身の能力でできる範囲ではずば抜けていても、その反面で粘り強く周囲を取り込んで組織的な努力をする能力は欠如していて、人々から不信感を招くこともままあったようだ。もうひとつの後藤の特徴は、徹底した現場主義・実践主義で、いわゆる学者的態度の正反対であった。あくまで具体的な実行力を優先し、その反面で抽象的な思想やイデオロギーには無関心・無理解であった。仕事を完遂するために、真に力ある個人に大きな期待を注いで依存もするが、群れや組織を嫌い、政治力とコミュニケーション能力に欠如していた。当時ようやくわが国で定着過程にあった政党政治に対して、とくに多数派依存・多数万能の性格を嫌い、病気の真相を正しく科学的に理解して患者を導く医師のモデルからか、愚かな世論に惑わされぬ絶対的指導者を尊重する態度であった。古代ギリシアのプラトン派がそうであったように、いわゆる「民主主義」の衆愚を憎み「貴族エリートの寡占制」を希求したようだ。
 当時の先端的科学の一部たる医学から入ったためか、徹底した科学的アプローチを貫き「大調査機関」なるものをさまざまな局面で立ち上げ、確認した事実をもとに実行した。独自の科学的見識から「生物学的世界観」を主張し、国家・民族には固有の歴史・伝統・習慣があり、それを尊重しながら漸進的かつ協調的に政治を進めるべきであるとして、きわめて保守的であり、かつ互恵的・ウインウインの相互関係・国際関係しか問題解決の道はない、という理想主義的とも言える主張を貫いた。「統合主義的国際関係観」を唱え、国際関係を力の均衡に基づくゼロ・サム・ゲームでなく、ポジティブ・サム・ゲームとしてとらえるべきだとした。これにしたがい、新興勢力たるアメリカに対して、日本は中国・ロシア/ソ連との共存を重視すべきとして、現実に日本とソ連との協力関係構築などに注力した。
 後藤自身が明確に表明した基本方針としてつぎの3つがあった。
①日本の文明の弱点は都市の無秩序にあり、都市政策が必要。
②日本の政党政治の弱点は多数万能にあり、政治の倫理化運動が必要。
③ 日本の外交の弱点は、生物学的世界観欠如にあり、ヨーロッパ・米国のみでなく、なにより近隣に存在する中国・ロシア/ソ連との共存の重視が必要。
 いくつかの内閣に閣僚・大臣として参画し、実際に大きな貢献もしたが、演説や説明は論理的飛躍が多く難解、もしくはいささか拙劣・乱暴で、多くの敵をつくってしまうことも多々あった。後藤の首相就任を期待する取り巻きもいたが、国家最高責任者が持つべき安定性と堅実さに欠け、ついに首相にはなれなかった。徳富蘇峰は、豪快・痛快・野蛮だが「学問がない=trained mind欠如」と評したという。後藤の女婿たる鶴見祐輔が、後藤新平の性癖を説明するために、その対比として原敬について書いた文章が、この書のなかに引用されている。
原は聡明なる政治家であった。彼は数学者のごとき精確さをもって、人生の現実を凝視して生活してゐる人間であった。ゆゑに困難なる政党首領の地に座し、紛糾錯綜する利害関係と、刻刻変転する時勢の間に処して、誤るところなく裁量し、迷ふところなく断行してゐた。彼にとっての重大関心事は今日であった。明日ではなかった。彼の眺めたる人生は、目前的利害と感情との交錯であった。星の世界に起こる夢のごとき理想ではなかった。
 北岡氏が言う通り、原敬は決して単なる現実対応のみの政治家ではないが、現実離れした壮大なヴィジョンを説く後藤に欠けていた現実性を、原敬が持っていたことは事実であろう。
 ともかく読んでいて痛快で楽しい伝記である。「日本人はどうしてもありきたりの人間ばかり」とありきたりの識者やコメンテーターが言うのをなんども聞いてきたが、後藤新平のようなおもしろい偉大な人物も実在した。多くの人々に愛されたのかは不明だが、多くの人々に多大な貢献をした偉人であった。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(11)

アルベルト・ジャコメッティの人間像
 ピカソもマティスも、第二次世界大戦と戦後に、表現形式の破壊と創造を繰り返した末に、誰にも追いつけない独自の人物表現を見出して20世紀の2大巨匠となったが、この同じ時期に円熟期を迎えたもうひとりの芸術家が、アルベルト・ジャコメッティであった。彼らの作品は、全体主義と二度の世界大戦によって踏みにじられた個人の尊厳の回復という、この時代の本質的な問題に照らして関心を集め、また評価された。Photo_20230703073101
 ジャコメッティは、自分が目で見るままの人間をどう表すか、という課題を徹底的に追及し、敢えて力の無さ、脆さを強調して、それでも空間のなかで確固たる存在感をもつような人間像を生み出した。哲学者ジャン・ポール・サルトルは、ジャコメッティの儚そうな極端にか細い人間像を、「現代における人間の実存を表現したもの」として高く評価している。
 「ヴェネツィアの女 Ⅳ」(1958)が展示されている。1956年のヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館に出品された作品である。ジャコメッティは「ヴェネツィアの女」というタイトルで、15点の石膏像そのうち9点をブロンズ像として連作を制作していて、彼のもっとも重要な作品群となったとされる。
 この展示作品は、それらのうちのひとつで、比較的肩幅が広く、腕と胴体の間にじゅうぶんな隙間が空いているのが特徴である。
 「ヤナイハラⅠ」(1960)という作品がある。
 1950年半ばにフランス留学した哲学者の矢内原伊作は、ジャコメッティと深い親交を結んだ。ジャコメッティは、矢内原をモデルにして作品を制作した。ある年には、矢内原にモデルを務めてもらうためだけに、日本からパリへ矢内原を呼び寄せることもあった。
Photo_20230703073102  ジャコメッティにとって、矢内原伊作の存在は大きかったが、矢内原をモデルとしたブロンズ彫刻のうち、完成に至ったのはたった2作品のみであったという。

 やはりピカソは素晴らしかったが、近年はマティスの作品は、私は見るたびにその魅力を発見するようになってきたように思う。クレーも、かつてはさほど気になる画家でもなかったが、その禁欲的・思索的・哲学的な創作に、だんだん惹きつけられている。
 ピカソの作品を軸に全体で100点余りの展示というのは、キャパシティのちいさな私の鑑賞能力にとって多すぎず少なすぎず、それでも個々の作品はとても見応えがあり、快適な鑑賞であった。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(10)

マティスの安息と活力(下)
Photo_20230702054801  やはり切り紙絵による作品として「ロンドン、テート・ギャラリーの展覧会(1953年)のためのポスター図案」(1952)がある。
 これは1953年ロンドンのテート・ギャラリーで開催されたマティスの彫刻展のポスターとして制作された。切り紙絵による草花のようなモティーフと、筆描きのデッサンによる人物の頭部がふんわりと穏やかに組み合わされている。画面中央下のスペースは、ポスターの文字情報を挿入するための空白のようだ。首をかすかに傾けてほほ笑む人物像は、簡潔に描かれているが、その簡潔さは特定の個々人の相貌から距離を置いて、感情を喚起する表情の純粋化に還元されている。空白の白と筆の黒によるデッサンの単純化された顔と、色彩豊かな切り紙絵との組み合わせは、切り紙絵の造形に豊かな表情を与えることに成功している。Photo_20230702054802
 このような、単純化・簡潔化による表現の豊穣化のアプローチは、「縄跳びをする青い裸婦」(1952)に結実している。こんなに単純で簡潔で、しかも、あるいはそれゆえに、とてつもなくゆたかな表現は、マティスの芸術の醍醐味である。素晴らしい、のひとことに尽きる。

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「ピカソとその時代」展 国立国際美術館(9)

マティスの安息と活力(上)
 マティスも、ベルクグリューンが「現代フランスで最も偉大な画家」と高く評価して、大きな関心を持ち続けた画家であった。彼のコレクションのなかでマティスは、ピカソ、クレーに次ぐ重要な位置にある。ベルクグリューンは美術商時代の初期たる1952年にマティスと知り合って以来、深い関心を持ち続けていたが、彼が遺したマティスの作品の大半は、1990年代からの数年間に取得されたものである。Photo_20230701075801
 マティスはその芸術について、有名なエッセイ『画家のノート』(1908)を残している。そのなかに「均整と純粋さと静穏の芸術」「肉体の疲れを癒す良い肘掛椅子」などとあるらしいが、ベルクグリューンが晩年に蒐集したマティス作品は、まさにこれらのマティスの言葉のとおり、静と動、あるいは安息と活力という対照的な性質を有して、かつ心地よい作品が主となっている。
 「室内、エトルタ」(1920)がある。
 マティスは1920年の夏、妻と娘を連れてノルマンディー地方の海辺の町エトルタに過ごし、この絵を描いた。手前には娘のマルグリットと思われる女性がベッドで毛布にくるまって横になっている。開いた窓からは海と空、浜辺近くの船やひとびとが見える。北フランスの穏やかな光と静謐が、青い室内を満たしている。この絵こそ、マティスのいう「均整と純粋さと静穏の芸術」「肉体の疲れを癒す良い肘掛椅子」にぴったりの作品である。同様な印象の作品として、「ニースのアトリエ」(1929)や「青いポートフォリオ」(1945)があわせて展示されている。
Photo_20230701075901  「雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案」(1943)がある。
 1930年代後半から、マティスは色のついた紙をハサミで切り抜く「切り紙絵」の手法を、雑誌の表紙などの図案に用いた。大胆に踊っているかのような躍動感ある2人の人物が黒の装飾的な図案として描かれ、背景の緑色の上に白の炸裂のような図案と、アルファベットの文字のような図案がちりばめられていて、全体としてリズム感と躍動感が漂っている。黒の人物の胸のあたりに描かれた赤と黄の破裂を暗示させるマークが、観る者に想像をせまる。画面構成全体としては、均整がある。

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