デザインとアート展 中之島美術館(10)
デザインとアートの境界を超えて(上)
倉俣史朗(1934~1991年)は、昭和9年(1934)東京都の本郷にあった理化学研究所の社宅に生まれた。桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科で学び、昭和31年(1956)卒業した。世界的に影響力のある建築専門誌イタリアの『ドムス』誌を通じてイタリアデザインに出会って感動し、この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになったという。7年間ほど株式会社三愛宣伝課に籍をおき、主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わった。その後、2年弱ほど株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおいた後、昭和40年(1965)クラマタデザイン事務所を設立した。やがて前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめるようになった。
昭和44年(1969)に自らの作品を持ちイタリアの『ドムス』誌を訪れた結果、その時の作品が『ドムス』に掲載された。
1970年の日本万博博覧会(EXPO'70) に参加した。このころ、変形の家具など収納家具を多く発表した。
1981年、イタリアの高名な建築家でありデザイナーであったエットレ・ソットサスの誘いで1980年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加した。
昭和58年(1983)年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作った。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生んだ。
平成元年(1989)の作品が、展示されている「Miss Blanche(ミス・ブランチ)」である。ミス・ブランチを象徴する造花を、アクリル樹脂のなかに埋め込んだ透明なイスである。ミス・ブランチは戯曲「欲望という名の電車」のヒロインであるが、その存在は虚偽であり、その人生は虚無である、ということから、倉俣はその象徴たる花は造花でなければならない、と主張する。この作品は、中之島美術館所蔵であり、少し前に中之島美術館開館記念展覧会で観たが、今回は上から十分な光で照明して、アクリルのなかの造花のシルエットが鮮明に見えるように展示されている。
倉俣は、欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく、日本固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど。国際的に高い評価を受けた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。倉俣はインテリアデザイナーとして商業空間、家具・照明など手がけたが、あくまで自らの美学と感性を表現した。たとえば家具デザインについては「自分の思考の原点において確認するための手段」と考え180点余りの優れた家具デザインを遺しているが、焼けこげた黒光りするスチールを編んで作った椅子「ビギン・ザ・ビギン」などはお世辞にも機能的ではなくアートとしか言えないとしても過言ではないため、商業デザイナーとしてなのかアーティストとしてなのか倉俣の評価が分かれるそうだ。平成3年(1991)に亡くなった後は、日本のポストモダニズムの代名詞のように語られてきた存在でもある。

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