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2023年8月

デザインとアート展 中之島美術館(10)

デザインとアートの境界を超えて(上)
 倉俣史朗(1934~1991年)は、昭和9年(1934)東京都の本郷にあった理化学研究所の社宅に生まれた。桑沢デザイン研究所・リビングデザイン科で学び、昭和31年(1956)卒業した。世界的に影響力のある建築専門誌イタリアの『ドムス』誌を通じてイタリアデザインに出会って感動し、この本に認めてもらうようなデザインをしようと思うようになったという。7年間ほど株式会社三愛宣伝課に籍をおき、主に店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わった。その後、2年弱ほど株式会社松屋インテリアデザイン室に嘱託として籍をおいた後、昭和40年(1965)クラマタデザイン事務所を設立した。やがて前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめるようになった。
 昭和44年(1969)に自らの作品を持ちイタリアの『ドムス』誌を訪れた結果、その時の作品が『ドムス』に掲載された。
1970年の日本万博博覧会(EXPO'70) に参加した。このころ、変形の家具など収納家具を多く発表した。
 1981年、イタリアの高名な建築家でありデザイナーであったエットレ・ソットサスの誘いで1980年代前半を席巻する事になる革命的デザイン運動「メンフィス」に参加した。Kiss-blanche
 昭和58年(1983)年、工場で大量に出るくずガラスを人工大理石に混ぜ「スターピース」という素材を作った。また、エキスパンドメタル(金網材)を内装や家具に全面的に使い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」など傑作を生んだ。
 平成元年(1989)の作品が、展示されている「Miss Blanche(ミス・ブランチ)」である。ミス・ブランチを象徴する造花を、アクリル樹脂のなかに埋め込んだ透明なイスである。ミス・ブランチは戯曲「欲望という名の電車」のヒロインであるが、その存在は虚偽であり、その人生は虚無である、ということから、倉俣はその象徴たる花は造花でなければならない、と主張する。この作品は、中之島美術館所蔵であり、少し前に中之島美術館開館記念展覧会で観たが、今回は上から十分な光で照明して、アクリルのなかの造花のシルエットが鮮明に見えるように展示されている。
 倉俣は、欧米の追随に陥らず日本的な形態に頼るでもなく、日本固有の文化や美意識を感じる独自のデザインによってフランス文化省芸術文化勲章を受章するなど。国際的に高い評価を受けた。そのあまりの独創性ゆえ「クラマタ・ショック」という言葉まで生まれた。倉俣はインテリアデザイナーとして商業空間、家具・照明など手がけたが、あくまで自らの美学と感性を表現した。たとえば家具デザインについては「自分の思考の原点において確認するための手段」と考え180点余りの優れた家具デザインを遺しているが、焼けこげた黒光りするスチールを編んで作った椅子「ビギン・ザ・ビギン」などはお世辞にも機能的ではなくアートとしか言えないとしても過言ではないため、商業デザイナーとしてなのかアーティストとしてなのか倉俣の評価が分かれるそうだ。平成3年(1991)に亡くなった後は、日本のポストモダニズムの代名詞のように語られてきた存在でもある。

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デザインとアート展 中之島美術館(9)

既存のファッションデザインを覆した三宅一生(下)
 パリで4年修行した後、1969年アメリカ・ニューヨークへ移り、既製服の経験を積んだ。
 日本に帰国後の昭和45年(1970)「三宅デザイン事務所」を設立した。以来日本から世界に挑み続けることを40年間に渡り続けた。一貫して世界で戦うための術として意識してきたのが「常に現場に身を置くこと」と、商品を提案するための「戦略」であった。
 1973年、日本人デザイナーとして先陣を切って「イッセイ・ミヤケ秋冬コレクション」でパリ・コレクションに初参加した。1970年代初頭から一貫して、日本の伝統素材と、先端テクノロジーによる合成繊維とをデザインで融合させるクリエーションに挑んだ。
 三宅はファッションに関する西洋の信念に一貫して挑戦し、女性の服は体の輪郭に合わせてのみデザインされるべきであるという考えを否定し、オーバーサイズでジェンダーレスなフィットを提唱していった。三宅は、テクノロジーとアートの分野を自身の作品に取り入れることの価値を誰よりも早く理解していた。三宅の服作りのコンセプトは、可能な限り「一本の糸、一枚の布」から衣服を生産することで、このような服作りは従来のオートクチュールとは根底から発想が異なる「別の方法」であり、それを初期から支えたのが日本の合成繊維の技術革新であった。衣服の原点である「一枚の布」で身体を包み、西洋でも東洋でもない衣服の本質と機能を問う「世界服」を創造したい、と。布と身体のコラボレーションというべきスタイルの確立は、1978年発表の 「Issey Miyake East Meets West」で集大成された。コンパクトに収納できて着る人の体型を選ばず、皺を気にせず気持ちよく身体にフィットする、というのが基本的なコンセプトであった。

Pleats-please-issey-miyake

 今回展示されている1993年に発表された代表作「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」はこれらの延長線上にある。展示の左端の幅の大きな合成繊維の服は、生地がプリーツ加工されることで、その右手にあるように人体にフィットする寸法の衣服となる。フォルムを保ちつつも、体を縛らず、平たく折り畳める服を開発したのである。洋服でも和服でもないデザインは、年齢や体形に関係なく楽しめて、女性に喜びを与えた。しかも、世界中の誰もがわかる形と、実用性と個性を生かせる美しさを兼ね備えた服は、多くの女性の支持を得た。「プリーツ・プリーズ」はどこの国のファッションの歴史にも属さない三宅独自のカテゴリーであった。
 三宅の偉大な革新は、この他にもさまざまなものがあったが、「プリーツ・プリーズ」はそのうちの代表的なもののひとつであった。広い視野で社会を俯瞰した物作りは、多様性を重視する今日の社会にもフィットした。三宅は、世界で最も先駆的なデザイナーの一人として称賛されたのである。

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デザインとアート展 中之島美術館(8)

既存のファッションデザインを覆した三宅一生生(上)
 三宅一生(1938~2022)は、広島県広島市に生まれ、7歳の小学生のとき被爆した。小学校高学年のときの担任が絵の先生で、絵を描く楽しさを教えられた。姉が洋裁学校から『ヴォーグ』や『ハーパーズ バザー』などのアメリカのファッション雑誌を持ち帰り、その写真を筆と墨で模写したりした。また、イサム・ノグチ設計の平和大橋のデザインに感銘を受けたという。
 三宅は、多摩美術大学図案科に進んだ。姉からの影響で衣服に強い興味を持っていて、多摩美でグラフィックデザインを学びつつ、服飾デザインを始めた。当時軽く見られがちだった「ファッション」を時代や文化を象徴する重要なものとして捉え、その上でファッションデザインに関わる自分たちのレベルアップが必要だと考えた三宅は、文化服装学院や桑沢デザイン研究所に在籍していた学生たちにも声をかけ、有志の研究グループ「青年服飾協会」を立ち上げた。「青年服飾協会」は、服の作り方だけでなく、デザインの歴史や文化的な背景を学び研究したので、文化服装学院などの学生だった高田賢三やコシノジュンコ、松田光弘、金子功らが集まってきた。
 三宅は、衣服は時代と共に移ろう「ファッション」として存在するのではなく、より普遍的なレベルで私たちの生活と密接に結びついて生まれる「デザイン」であると考えて、既成の枠にとらわれない自由な発想のもと、独自の素材づくりから始まる創作活動を目指した。Photo_20230829055201
 三宅は大学在学中から、第10回装苑賞、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞して頭角を現した。
 しかしファッションを独立したデザイン分野と認知しない当時の環境に苛立ち、1965年パリに渡り、オートクチュール組合学校「École de la chambre syndicale de la couture parisienne(サンディカ)」で学んだ。折しも1968年のパリ五月革命に繰り出す人々を見て「こういう人たちの服を作りたい」「わずかな人ではなく、多くの人への服作りをしたい」と思ったという。三宅は「ブルジョワbourgeoisのために服をつくりたいと思ったことはない。ファッションは上流社会やオートクチュールだけのものではない。何か、今までにないもので、気安く、値段も高くなく、日常生活に入っていけるものを目指そうと決めた」と述べている。
 体にフィットしたヨーロッパの高級な服より、インドのサリーのように一枚の布を身にまとう方が普遍的な姿だと考え、さらに「生地をできるだけ捨てずに使うこと」を自らに課した。三宅は森英恵と共にオートクチュールの文化を肌で学び知る数少ない日本のファッションデザイナーであったが、三宅は振り返って「私はオートクチュールを学びました。それは私にとって非常に良い教育でしたが、彼らはすでにそれを完成させていました。私はそれを超えることができなかった。だから私は何か新しいことをするためにニューヨークに行った。ヨーロッパのファッションとは違う何かを考えなければならなかった」、「西洋の遺産の欠如が本当に利点になり得ることを発見した」、「服を作るにはスケッチをして、布があって、切って、縫って、それで服になると思われている。それはいい方法だけれど、伝統的な方法だ。少し反抗的かもしれないけれど、“別の方法”を見つけるのは楽しいよ」などと話し、それは三宅が一生をかけて追いかけるもの作りのテーマとなっていった。

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藤井啓祐『驚異の量子コンピュータ』岩波科学ライブラリー

 竹内繁樹『量子コンピュータ』2005を先ず読んで、量子コンピュータのコンセプトとカラクリについては基本的なことはひとまずわかったが、その実現状況についてはもっと最近の本が要るだろうと、この本を読んだのであった。
 この本の第1章から第5章までの研究の歴史と原理の解説については、竹内氏の本が充実していて、とくに付け加えることはなかった。私にとっては、後半の第6章から第10章の、最近の開発動向こそがこの本の要であった。Photo_20230828054301
 量子コンピュータ実現への大きな壁のひとつが、ノイズとの闘いである。これについては、量子エンタングルメント(量子もつれ)という、2つの量子が確率振幅を相関させて独立できなくするという現象がある。いちどエンタングルした量子は、別の量子とエンタングルできないという性質があり、ノイズとのエンタングルである量子エラーは、すでにエンタングルしている量子には関われないため、意図的な量子をエンタングルさせてノイズ耐性を高めることができ、また意図的にエンタングルさせたペアーが同一性を失ったことの検証からエラーを受けたことを検出できるという。ただ私自身は現時点では、この量子エンタングルメントという事象をよく理解できてはいない。
 1995年ショアが、エンタングルメントを利用して量子ビットのアナログエラーを克服する「量子誤り訂正符号」を発明した。それをもとに、有限の誤りを包含する構成要素からなる量子コンピュータが、許容できるノイズによる誤りのしきい値が設定できて、それをクリアーできる限りは計算結果を改善できるという定理が証明された。理論的に、量子コンピュータ実現のためのノイズの壁を克服する筋道が開かれたのである。当初は0.0001%であった許容ノイズのしきい値は、改良が進んで1%ほどになり、量子コンピュータの現実性が高まった。こうして1900年代末から2000年代前半にかけて量子コンピュータ研究の第一次ブームが起こった。ちなみにこの本の著者藤井啓祐氏は、量子誤り訂正の専門家だそうだ。
 しかしながら、量子コンピュータの実現を阻む原理的要因はなさそうだと見込めるようになったものの、量子ビットの操作も容易でなく、許容ノイズレベルも低く、進歩は停滞気味であった。実現できる量子ビット数も1~2からなかなか増えず、量子ビットの演算精度も向上しなかった。ただこの期間中にも、密かなブレークスルーの種がまかれていた。量子重ね合わせ状態が安定に保持されやすい「トポロジカル秩序」が提案された。1998年に東京工業大学のグループが理論的に提案した「量子アニーリング」が、ヒューリスティックにイジングモデル的な最適化を近似的に導く手法として提案された。
 2010年代に入って、ブームは再び盛り上がった。グーグルはNASAと協力して、量子アニーリングの研究者たちや超伝導量子ビット研究者たちを招聘して、量子AI研究センターを創設し、IT産業界に大きなインパクトを与えた。そのなかから、2014年には量子誤り訂正のしきい値要求をクリアーする超低雑音の超伝導量子ビットが、わずか5量子ビットではあるが実現した。いよいよ理論的検討だけでなく、本格的なエンジニアリング開発が叫ばれるようになった。こうして、グーグル、IBM、マイクロソフト、アリババなどが先行して、政府を巻き込んだ大規模投資にもとづく開発の時代が始まった。
 2019年10月グーグルが、新たに開発した量子コンピュータが量子超越に到達したと学術誌ネイチャーで発表した。量子超越とは、量子コンピュータが古典コンピュータより高速に計算できることを、たとえ特定の範囲内であっても定量的に実証することを意味する。グーグルの量子コンピュータは、53量子ビットを搭載し、プログラム可能で一定度の汎用性があり、数学的にきちんと計算ルールを記述することができるという。まだ量子ビットの規模が小さいものの、いよいよ量子コンピュータ実用化への可能性の第一歩が開かれたとされている。
 専門外の読者を配慮したためと思われるが、解説がたとえ話に偏重して理解しにくいところが多い。それでも最近の研究開発の動きの概要はわかった。

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竹内繁樹『量子コンピュータ』講談社ブルーバックス

 近年、科学技術館分野のみならず、経済、さらには国家安全保障の話題にまで、「量子コンピュータ」が登場するようになっている。その一方で、私はその「量子コンピュータ」なるものについて、ほとんど具体的な知識がない。そこで大学工学部の教員ネットワークをもつ友人に相談して、素人にも理解できそうな入門書を探してもらった。このひとつがこの本である。以下にその概要をまとめる。Photo_20230827055401
 スーパーコンピューターをはじめ、これまでのコンピュータはすべて、ここでは「古典的コンピュータ」と位置づけられているが、それは「古典的ビット」を基礎的情報単位として、ノットとアンド(あわせてNAND)があれば、すべての演算処理可能である、とするものである。ディジタル・コンピュータとはいうものの、演算の実行過程では、アナログ情報たる電圧を用いて、たとえば3ボルト以上を「1」、2ボルト以下を「0」と解釈して、演算操作はディジタルで電気的に実行している。ここではある瞬間には最小単位のビット情報をひとつひとつ演算する。
 これに対し「量子コンピュータ」では、「量子ビット」として量子波(確率波)の確率振幅とその位相と、その重ね合わせ状態をひとつの基礎的単位として複数の情報を担わせ、その回転(位相角の変更)と制御ノット(特定条件で反転する)があればすべての演算を処理できる、とするものであり、原理的に超並列処理を特徴とする。とくに量子波の確率振幅の「重ね合わせ状態」による並列処理性がキーポイントである。
 1980年ころから、アメリカのノーベル賞物理学者ファインマンは、その広い関心から、世界で最も正しい物理が量子力学なのだから、量子物理に従う計算方法がもっとも強力なはずだ、と唱えていた。しかし1985年イギリスの物理学者ドイッツェが、重ね合わせこそが重要と主張するようになった。よって著者竹内氏は、このドイッツェこそが量子コンピューティングの発案者である、としている。
 この本では、量子コンピュータの基本概念の解説として、「量子ビット」を用いた論理的思考実験として、3つの例を取りあげている。
 ひとつ目は、ドイッツェ-ジョサの「均一ビット列」と「等分ビット列」を並列処理で迅速に判別するアルゴリズムである。ここでは「量子回路」の例を説明している。
 ふたつ目は、グローバーの検索アルゴリズムで、「量子データベース回路」と「確率振幅増幅」を説明している。
 三つ目は、ショアの、暗号制作・解読に深く関わる素因数分解アルゴリズムで、フーリエ変換の量子コンピューティングによる並列計算(量子フーリエ変換)を解説している。
いずれも専門的に詳細な解説というわけではないが、論理的には飛躍がない、わかり易い優れた解説である。
 この量子コンピュータの実用に向けてのインプリメントだが、基本要素の「量子ビット」を構成する方法がまず問題である。「量子」現象を顕わすものとして、最初に実験に用いられたのが「光子」であった。光子は、周囲から擾乱を受けにくいという特徴があり、その意味ではノイズに強く好適だが、個々の量子を扱えるためには「単一光子」であることが必要であり、そのためきわめて微弱な光である必要があり、受光装置はかなり手の込んだものが必須となる。周囲から擾乱を受けにくいことは、半面では回転や反転などの量子ビット処理が容易ではない。微小共振器のなかの希薄セシウムガスを使った量子位相ゲートなどが提案されている。著者の研究グループは1998年、偏光と干渉光学系の経路差を用いた単一光子の実験セットを構成して、4ビットのドイッツェ-ジョサ・アルゴリズムの実証実験に成功したという。
 この他にも、電子スピン、核スピン、シリコン中の原子核スピン、超伝導量子(クーパー・ペア)などの試みがあるという。
 今後の実用に向けてのポイントは、基本的には量子波の重ね合わせ状態の維持であり、これを破壊する「デ・コヒーレンス」との闘いである。量子ビット構成要素のエネルギーが大きいと量子の変化が早いので、それはコヒーレンス維持時間が短縮されることにつながるため、できるだけ低いエネルギー、低温で演算処理することになる。また、この問題はノイズとの闘いに直結している。
 この本が発刊されたのが、2005年2月であり、20年近くも昔であるため、最近の研究開発動向にかんしては、情報がない。しかし、量子コンピュータの基本的な概念と基礎理論の入門書としては、とてもしっかりした書籍である。
ブルーバックスといういかにも軽そうな装丁で、かつ新書版、270ページ足らずというごく小さな本なのだが、読んでみるととても充実した良書であった。

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デザインとアート展 中之島美術館(7)

インターメディアから布張り彫刻そして環境芸術へ 山口勝弘の展開(下)
 これらの作品は、ニューヨーク近代美術館の「新しい日本の絵画と彫刻展」(1965年)に選出されるなど、世界的にも高い評価を受けた。1965年以降はアクリル樹脂を素材とした光の彫刻作品へと移行し、さらなる新境地を切り拓いた。そこでは、新しいテクノロジーの象徴としての新素材が巧みに造形表現に取り入れられ、「環境芸術」という新たな概念を提示する試みとして注目された。Tenderly
 1970年に開催された日本万国博覧会では、三井グループ館の総合プロデューサーを務めた。その手腕は、パビリオンの建築計画からマルチメディア・コンテンツの演出、鑑賞装置の設計など、様々な場面において発揮された。同時期、次第にビデオによる芸術表現に注目するようになった山口は、1971年に小林はくどう、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、松本俊夫、萩原朔美など、アーティスト仲間と共にグループ「ビデオひろば」を結成した。そこではビデオメディアを、従来の映像メディアとは異なる「社会的なメディア」として捉え、その新たな可能性を展望しながら様々な実験的試みが展開された。これ以降、ビデオメディアを中心とした表現活動を行っていくこととなり、以後数十年にわたって日本のビデオアートの第一人者として活躍した。またアーティスト活動を行う傍ら、1977年に筑波大学の教授に就任し、芸術専門学群総合造形領域において後進の指導にあたった。
 作品制作と並行して、1950年代からアートとテクノロジーについての研究・評論活動を行ない、膨大な数の記事や論文を発表している。また、これまでに10冊の著書を出版している。2000年には「電子的環境に包まれた今日社会の環境を見つめ直し、専門分化された芸術・デザインの領域を総合的な視点で再検討する」ことを目標に掲げ、自らが発起人となって「環境芸術学会」を設立し、初代会長を務めた。
 インターメディアあるいは環境芸術としては、内田デザイン研究所を主宰する内田繁の作品もある。「TENDWERLY」は、室内照明でのアートを展開している。

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デザインとアート展 中之島美術館(6)

インターメディアから布張り彫刻そして環境芸術へ 山口勝弘の展開(上)
 山口勝弘(1928~2018)は、昭和3年(1928)東京府荏原郡大井町で生まれた。幼少期から勉強家で多くの本に囲まれて過ごし、時には難しい哲学書や洋書を読んだりして周囲の大人を驚かせたという。船や飛行機などに興味をもち、その構造を研究したり絵に描いたりしていた。昭和20年(1945)日本大学工学部予科に入学し、後に日本大学法学部法律学科に進んだ。Photo_20230825055101
 芸術に関しては、大学等での専門的な教育を受けておらず、学生時代に大学内のサークルで作品を制作したり、学外の美術講習会に参加したりしながら、独学で学んでいた。戦後まもなくGHQによって設置されたCIE図書館に足繁く通い、そこでモホリ=ナギやジョージ・ケペッシュらの著書を読んで最新の造形思想に触れ、前衛芸術に関する知識と関心を深めていった。そして、大学在学中の昭和23年(1948)に開催したグループ展で、初めて抽象絵画を発表し、アーティストとしての活動を開始した。
 大学卒業後、詩人・瀧口修造の下に集まった北代省三、武満徹らとともに、インターメディアの活動を目的とするアーティスト集団「実験工房」を結成した。それは新たなテクノロジーを積極的に導入しながら、音楽・美術・文学など芸術の諸領域の融合を目指す活動で、当時の芸術表現の最先端をいくものであり、山口はその中心メンバーの一人として活躍した。「実験工房」は、バレエの上演やピアノの演奏会、オートスライドによる映像上映、電子音楽や造形的インスタレーションなど多角的な活動を展開したが、山口個人としては同時期、光学的原理に基づくオリジナルな構造を持った造形作品「ヴィトリーヌ」シリーズを制作した。この「ヴィトリーヌ」は山口の初期の代表作と言えるもので、そこには今日のインタラクティブアートにも通じる極めて先進的な思考が反映されていた。
 「実験工房」の活動は1957年頃には下火となり、山口も自身の新たな表現の方向性を模索するようになっていった。一種の閉塞感が漂う中で、1961年10月から1962年1月にかけて、ヨーロッパ(イタリア、スイス、スペイン)およびアメリカ(ニューヨーク)への旅を行った。そのとき、とくにニューヨークで出会った様々な作品やアーティストとの交流は、山口に大きな影響をもたらした。「ヴィトリーヌ」に別れを告げた山口は、それからは立体的な彫刻作品の制作を始めた。「布張り彫刻」と呼ばれる作品では、天井や壁面を用いた環境的な展示方法を考案した。展示されている「作品(ハート)」(1963)もそのひとつである。

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デザインとアート展 中之島美術館(5)

異端児・赤瀬川原平(下)
 同じ昭和38年(1963)「千円札の表だけを一色で印刷したもの」(模型千円札)に手を加えたものを作品として発表した。Photo_20230824054401

 さらに千円札を詳細に観察し肉筆で200倍に拡大模写した作品「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」を制作し、読売アンデパンダン展に出展した。同年、平岡正明・宮原安春らの「犯罪者同盟」が発行した単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』により、平岡らが猥褻図画頒布で逮捕されたとき、同著に赤瀬川の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、赤瀬川の作品は警察の知るところとなり、曲折の後、昭和40年(1965)「模型千円札」が通貨及証券模造取締法違反に問われ、起訴された。弁護人には瀧口修造といった美術界の重鎮たちが名を連ねて話題となったが、昭和42年(1967)6月東京地方裁判所の一審で「懲役3月、執行猶予1年、原銅版没収」の判決が出され、控訴ののち執行猶予つきの有罪が確定した。その後、源平は前衛芸術からは身を引くようになった。このころの作品が、今回展示されている「大日本零円札」(1967)である。
 この後源平は、漫画家、随筆家、作家としても活動を広げていった。

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デザインとアート展 中之島美術館(4)

異端児・赤瀬川原平(上)
 赤瀬川原平(1937~2014)は、昭和12年(1937)鹿児島県出身で転勤族の倉庫会社勤務サラリーマンの子として神奈川県横浜市で生まれた。原平は幼稚園時代から大分県大分市で育った。小学校3年生の時に敗戦したが、父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝うという経験もした。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎(山村美紗の弟)がいた。
 5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立した絵の同好会「新世紀群」に参加し、そこで4歳年上の吉村益信と知り合った。やがて吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進んだ。Photo_20230823054701
 昭和31年(1956)、上京していた姉と一緒に住み、姉の誘いで砂川基地反対闘争に参加した。
 「心はいつもアヴァンギャルド」と言って、第10回読売アンデパンダン展に初出品以後、1964年に同展が終了するまで出品を続けた。
 昭和35年(1960)吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加した。
 昭和38年(1963)高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センターを結成。名称は3人の頭文字(高・赤・中)から命名したという。このグループで「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行った。赤瀬川は個人としては、扇風機などの身の回りの品物を包装紙で梱包する「梱包作品」を制作した。今回は、「風」(1963)が展示されている。このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って、宇宙全体を梱包したと主張する「宇宙の缶詰」に至った。この頃、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、横尾忠則らと知り合った。「とくにパイクは、ハイレッド・センターのよき理解者だった」と赤瀬川は書いている。

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デザインとアート展 中之島美術館(3)

絵画の革新を目指して─三上誠と池田龍雄(下)
 池田龍雄(1928~2020)は昭和3年、佐賀県西松浦郡二里村(現・伊万里市二里町)に五男二女の長男として生まれた。
 小学校時代から児童スケッチ大会で三等銅メダルを受賞するなどしたが、幼少期には『子供の科学』に親しみ、自然科学に関心を持っていたという。Photo_20230822080901
 昭和16年(1941)佐賀県立伊万里商業学校へ入学したが、昭和18年(1943)には海軍航空隊に入隊し、第13期海軍飛行予科練習生として鹿児島海軍航空隊に配属された。
 昭和20年(1945)2月、飛行練習生過程を修了し、岩国航空隊へ移った。同年4月特攻隊員として、霞ヶ浦航空隊へ移動した。しかし8月には終戦となり、除隊して佐賀へ戻るという経験をした。
 戦後は、昭和21年(1946)長崎県佐世保の進駐軍キャンプ設営地で働いた後、昭和23年(1948)上京して多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)へ入学した。同級生には桂川寛、森正洋らがいる。独学で油絵を学んでいたが、同年秋には学友に誘われ岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、アバンギャルド(前衛芸術)の道を歩むこととなった。
Photo_20230822080902  昭和25年(1950)朝鮮戦争から社会意識を強め、絵画においても実際の事件・政治問題に取材したルポタージュの可能性を探るようになった。昭和29年(1954)読売アンデパンダン展に内灘闘争を描いた「網元」を発表した。
 1950年代には小型ペン画の制作をはじめ、1950年代末ころには大型ペン画を集中して制作した。展示されている「見知らぬ機械」(1955)、「企業」(1955)は、このころの作品である。
 大型ペン画制作に関して、池田はアンフォルメル運動に影響され、抽象化に傾く当時の流れに対して事実の外側の世界を取り込み造形化する意識を持っていたと発言している。
 60年代以降は、政治的主題を離れ宇宙や時間など物理学的なテーマへ移り、「百仮面」「楕円空間」「玩具世界」「BRAHMAN」「万有引力」「場の位相」シリーズなど風刺や諧謔を交えたペン画のシリーズを制作した。

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デザインとアート展 中之島美術館(2)

絵画の革新を目指して─三上誠と池田龍雄(上)
 三上誠(1919~1972)は、大阪市に生まれ、幼少期から移転した福井市に育った。Photo_20230819053601
 昭和15年(1940)京都市立絵画専門学校(絵専、現・京都市立芸術大学)日本画科予科に入学し、昭和19年(1944)絵専本科を卒業し、同校副手となった。
 終戦後は、"パンリアル"という名称を発案し「パンリアル美術協会」を結成し、その中心的メンバーであった。パンリアルとは「汎リアリズム」の意味で、日本画、洋画、陶芸とジャンルを問わない総合的なグループから成り、伝統を引きずる日本画の素材、技法、内容を革新し、抽象やレリーフ、コラージュなどモダニズムを採り入れた実験的な日本画を目指す、前衛日本画グループである。
 三上誠の「作品」(1956)が展示されている。色彩は無彩色に近いが、表現やテーマなどは、ほとんど洋画のものに見える。

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ジャニーズ性被害問題にかんして

 ジャニーズ事務所の元所属タレントなどから前社長たるジャニー喜多川氏による性被害の訴えが、ジャニー喜多川氏の死後、それも最近になって相次いでいる。これについて外部の専門家による再発防止のための特別チームが会見を開き、今後の調査の方針や活動内容について説明した。元所属タレント2人は自民党の会合に出席して、子どもの性被害を防ぐため、児童虐待防止法を改正するよう求めた。ジャニーズ事務所では、再発防止策の策定などのため法律や性被害などの外部の専門家による特別チームを設置した。
 この問題も、かなり複雑な要因が絡んでいるようだ。
 まず性被害の事実があれば、ジャニー喜多川氏の犯罪は明らかなのだろう。
 しかしこの問題が、ジャニー喜多川氏の死後、しかもかなり時間が経過して表面化してきたこと、すくなくとも広く知られるようになったことの事情が分かりにくい。マスコミの忖度、音楽業界の忖度、なども考えられるが、なにより被害者だと訴え出る若者たちの行動にも、なにがしかの疑問がぬぐえない。
 デビ夫人の「ジャニー氏は半世紀に渡って日本の芸能界を牽引し、スターを育ててきた。昨今の流れは偉大なジャニー氏の慰霊に対する冒涜、日本の恥である」などとジャニー氏を擁護し「ジャニー氏が亡くなってから、我も我もと被害を訴える人が出てきた。死人に鞭打ちではないか。本当に嫌な思いをしたのなら、その時なぜすぐに訴えない。代わって(現在のジャニーズ事務所代表たる)ジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか」というコメントも、全面的に否定されるものではなく、一分の理がある。
 ジャニーズ事務所からの正式な謝罪が足りない、という非難もあるが、組織の犯罪とできるか否かも不分明である。ジャニー喜多川氏自身が組織のトップであり、犯罪の当事者なのだから、組織として、上司の犯罪に組織の部下が責任をどこまで引き受けるべきかについては、議論の余地がある。株式会社なのだから最高決定機関の取締役会に全責任がある、という論理もあろうが、問題が経営そのものではなく、トップの個人的・道徳的問題であり犯罪なのだから、簡単には断定できない。
 このような性的犯罪は、これほど大規模でなければ、さまざまなところで発生している可能性があると推測する。「立場上、拒否することは不可能だった」というが、すべてがそうであったとは想定しがたい。今回訴え出ている「被害者」たちの全部とは言わないまでも、そのうちの幾ばくかは、自分の目的達成のための手段として覚悟して被害者になった者もいると推測する。「被害者」側も、自分の身を護るためにとるべき方法・手段があった可能性はある。
 明確だと推定できる範囲では、加害者たるジャニー喜多川氏が死んでしまっているので、いまから犯罪を訴求することは難しいと思う。LGBTQを尊重すべき、という風潮になりつつある以上、男性の男性に対する性的欲望も正当として肯定されるべきだから、その性的暴力を性犯罪の一部としてまともに取り組むことが必要である。性的犯罪は、とりわけ個人的でプライバシーに深くかかわる側面がある。これから免れるためには、外部の法律に依存するだけでなく、自分自身を護る努力と覚悟と「自己責任」が重要かつ必要である。

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日本大学アメリカンフットボール部の不祥事にかんして

 日大アメリカンフットボール部といえば、2018年5月に他大学との試合において、危険なタックルで相手側チーム部員に負傷させた事件が大問題になった。それからわずか5年で、今度は違法薬物騒動を起こしたことで「反省のなさ」にマスコミやネットでは批判が続出している。「また日大アメフト部か」「廃部にするしかない」「大麻を使っているなら、今度こそ日大アメフト部は廃部だろ」などと厳しい声が相次いでいるようだ。
 たしかに同じ組織が相次いで問題を引き起こしていることは目立ってしまうので、感情的な非難が過激化することは理解できないでもない。
 しかし、問題の性格と位置づけはやはり曖昧にすべきではない。
 今回の問題は、クラブのメンバーの違法薬物にかんする法律違反であり、基本はあくまでも個人的な犯罪である。危険タックル事件は、クラブのコーチや監督の暴力行為の教唆・指示であり、明確に組織的問題であった。それに対して、今回の事件は組織としての犯罪と確認されたわけではない。犯罪の発覚を知ってから警察への報告が遅れたことが問題とされるが、それが「犯罪的」とまで認定できない限り、犯罪者個人の問題という原則が尊重されるべきである。副学長の弁明に「教育的配慮としての時間的猶予」との説明があったが、これを単純に「隠ぺい」と決めつけるのも一方的である。
 構成員から犯罪者が出たことで「廃部にすべき」という「連帯責任論」は、あきらかに過剰攻撃である。「犯罪者の学生よりも、周囲のまともな学生を護るためにすぐ警察に届けるべき」という大学ジャーナリストという人物のコメントもあるが、犯罪者の存在が直ちにまわりの正常な学生に伝染するわけでもない。
 今回は、クラブ活動の停止も早々に回避され、「連帯責任」がひろがらなかったのは幸いであった。犯罪として確認できることには厳正に徹底的に対処すべきだが、感情的に問題を押し広げるようなことは、外部の人間としては努めて慎重であるべきだと思う。

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デザインとアート展 中之島美術館(1)

 中之島美術館開館1周年記念展として「デザインに恋したアート、アートに嫉妬したデザイン」という長たらしいタイトルの展覧会が開催された。
 日常生活のまわりにあふれている「デザイン」と「アート」という言葉にかんして、「デザイン」とは、「アート」とは、はたして何なのか。違いはどういうもので、その境界はどこにあるのだろうか、との問題提起がこの展覧会のモチーフであるという。
 辞書によれば、デザインとは、意匠、設計、図案などがあげられる一方で、アートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動である、との記述がある。
 とはいえ、デザインにもアートにも、自ら主体的に関わっていない部外者の私にとっては、そのように問いかけに応える意欲も能力もない。平たく言って、そんなことはどうでも良いことである。
 それはともかく、さきの大戦の後の1950年代から、現代の最中の2020年代までの、デザインとアートの作品例を、とくに作者にとってのできるだけ初期の作品を鑑賞することで、いつもと違う視点から眺めてみよう、ということらしい。

商業デザインの近代化─早川良雄と亀倉雄策
 冒頭には、早川良雄の「第七回秋の秀彩会」(1951)の近鉄百貨店のポスター作品がある。Photo_20230816064001
 早川良雄(1917~2009)は、大正6年(1917)大阪府に生まれ、大阪市立工芸学校(現・大阪市立工芸高校)図案科を昭和11年(1936)卒業した。敗戦後は、三越百貨店の広告部のデザイナーを経てグラフィックデザイナーとして独立し、主に大阪など関西を拠点に活動した。海外の国際的なデザインプロジェクトなどにも精力的に関わった。
今日では伝説的ともいえるような、当時としては先端的・斬新なポスターや広告を多数製作し、戦後日本のモダニズムを牽引した。1960年代以降は、東京の企業ポスターや書籍の装丁デザインをも手掛け、日本のグラフィックデザイン界全体に影響を与えたとされている。
 晩年は、東京アートディレクターズクラブ評議員、日本グラフィックデザイナー協会会員、国立国際美術館評議員会評議員などを務めた。
 早川とほぼ同年代に、関西の早川に並行して東京を中心に活躍した商業デザイナーが、亀倉雄策であった。
Photo_20230816064002  亀倉雄策(1915~1997)は、大正4年(1915)新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に生まれ、11歳のとき東京府北多摩郡武蔵野村境(現・東京都武蔵野市境)に転居した。旧制日本大学第二中学校(現・日本大学第二高等学校)の学生だったとき、フランスのグラフィックデザイナーであったカッサンドルのポスターを見て衝撃を受け、グラフィックデザイナーを志すようになった。日大二中は3年途中で退学して、新建築工芸学院に進学し、そこでバウハウスの構成理論などを学んだ。昭和13年(1938)日本工房に入社し、アートディレクターとして雑誌「NIPPON」、「カウパープ」などのアートディレクションやエディトリアルデザインを手がけた。戦後は総合アメリカ研究所のアートディレクター、さらに日本宣伝美術会(日宣美)の創設メンバーとなり、ニッポン放送のロゴマークや通商産業省(現・経済産業省)のグッドデザイン賞のロゴマークをデザインした。昭和35年(1960)日本デザインセンター創立に参加し専務に就任、昭和39年(1964)東京オリンピックの公式ポスターを制作した。

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京都国際写真祭2023(10)

【3】二条城二の丸御殿 台所・御清所(下)
高木由利子 PARALLEL WORLD
 高木は、つぎのような文章を残している。
 私の旅の最大の楽しみは、大自然の中で、それもとても過酷な台地に身を委ね、まだ日常的に伝統的な衣服を着ている人々と出会うことだ。なぜなら彼らは私たち都会人がいつしか失ってしまった「私はここにいる」といった風情を身に纏っているから。Parallel-world5
 もうひとつの衣服の世界、すなわちファッションデザイナー/クリエーターたちが創造する世界も、やはりそれを着て活動するヒトが主役であり重要である。クリスチャン・ディオールは次のような言葉を残している。
 美しいドレスを完成させるには、そのドレスが実際にどのように動くのかを想像し、デザインに取り入れる必要があります。
 また、高木はディオールの次の言葉に出会って、写真をやっていてほんとうに幸せだと思えたという。
Parallel-world6  ディテールとは、好奇心が導くアングルや予期しない光加減の結果として、アーティストの筆遣いやカメラの客観的なレンズを通して奇跡的に誕生するものなのです。
 衣服と言えば、おしゃれの意識も乏しく、その多くはシーズンの終わりころに格安価格となったものを購入してとりあえず身に纏い、地味に会社勤めをしてきた私のような者には、衣服やその意匠に対してなにかを言う資格は皆無だが、それでも衣服に関わってきたこれらの人びとの言葉とその写真とは、私の心に響いた。
 今回は、私にとってはじめての国際写真祭であった。比較的よく観ている絵画などとは異なり、かなり前衛的あるいは実験的な作品が多く、私にとってわかり易い展示ではなかったが、それだけに新鮮なおもしろさは楽しめた。はからずも京都市街にあるのに日ごろなじみがなかった心地よい文化施設の空間を初めて訪ねる機会ともなり、貴重な一日となった。

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京都国際写真祭2023(9)

【3】二条城二の丸御殿 台所・御清所(上)
高木由利子 PARALLEL WORLDParallel-world1
 高木由利子は、東京に生まれ、武蔵美術大学でグラフィックデサインを学び、さらにイギリスのTrent Polytechnic でファションデザインを学んだ、フリーランスデザイナーかつ写真家である。ヨーロッパでの活躍が知られ、撮影地は日本を拠点に、アシア、アフリカ、南米、中近東に及び、現在も撮影旅行を続行しているという。写真家として独自の視点から、衣服や人体を通して「人の存在」を撮り続けている。
Parallel-world2  今回の展示のタイトル「PARALLEL WORLD」とは、民族衣装で生活する人々とファッションデザイナー/クリエーターたちが創生する新しい価値を身に纏う人々との同時並行という意味である。
裸で地上に発生した人類は、神によって身体を包み込み護る布と衣服を創る技を与えられた。衣服は、やがて民族・性別のアイデンティティとなり、社会的地位を象徴する重要な存在ともなった。
 民族衣装は、民族の象徴として、また生活様式や技法に直結するものとして蓄積され、衣服の原点、インスピレーションの源となった。しかし、民族という意識が国家という大きな規模になり、あわせて生活形式が変容していくと、民族衣装を日常的に着る人々は急速に減少してしまった。
 その一方で、ファッションデザイナー/クリエーターたちは常に新しい試みに挑戦を続け、素材も美も機能性も著しく進歩した。人類の新しい夢を創生した。このふたつの並行する世界PARALLEL WORLDの動きは、いずれも必然性があり、いずれもかけがえのない大切なものである。このふたつの世界に入たり出たりしながら、ヒトと衣服の関係を通じて、衣服を纏う人間という存在、ヒトにとっての、とくにその幸福感について改めて考えてみたい、とするのが高木由利子の展示のメッセージである。Parallel-world3
 高木は、カラー写真を好まず、モノクロ写真にこだわっている。どうしてもカラー写真で、と要請されたら、暗室でモノクロを焼いたプリントの上に、手で色をのせて、人工着色写真で対応する、と言っている。高木のモノクロ写真は、観る者にみずから色彩を掘り起こさせるのか、ともかく魔法のように美しいのである。私は、昭和30年代までの日本のモノクロ映画にも、同じような美を感じることを連想した。
 コスチューム・アーティストひびのこずえは「服は着る人にとってもうひとつの肌である」という。高木の写真を見ていると、日ごろ衣服に無頓着な私でさえ、まさにその通り、と思う。高木が撮った世界各地の生活する人たちとその民族衣装を眺めると、民族衣装がそれを着るヒトに溶け込みへばりつき、まさに皮膚となって融合している。それを着るヒトは、必ずしも物質的に豊かでなく、必ずしも幸福そうでもないけれども、その地域に生きるという強い意志とエネルギーに満ちて、しずかな誇りと内面からにじみ出る美しさを感じさせる。

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京都国際写真祭2023(8)

【2】堀川御池ギャラリー
ガレス・フィリップス Ligatures of Ivy
 イギリス・ウェールズの写真家ガレス・フィリップスは、主にフォトブックやマケット(模型、雛型)の形で作品を発表している。フォトブックをオブジェや彫刻あるいはインスタレーションとして捉え直すことで、フォトブックの現代的な再定義を試みている。1_20230811054701
 今回の作品は、彼の実父の闘病生活を長年にわたって撮り続けてフォトブックにしたものである。
 フィリップスの父は、1980年代のイギリスの脱工業化の波のなかで事業に失敗し、家族を経済的に支え保護することがかなわなくなったことで自らの殻に閉じこもるようになり、失敗への恐怖心と家長としての無力感に30年間にわたって苦悩しつづけ、ついにうつ病を発症した。さらに最近になって、生死に関わる重病の診断を受けた。
 フィリップスは、この父親の苦悩と変化を、30冊のフォトブックにしている。父親の自宅での日常生活、家の周囲の自然環境を克明に捉え、より広範な社会的・経済的背景のニュアンスを伝えている。
2_20230811054701  フォトブックによるインスタレーションという形式によって、鑑賞者がページの奥深くへ分け入り、現代社会の状況に対して個人的レベルにまで思いを巡らせることができるので、この作品はフォトブックの領域を押し広げている、とされる。このプロジェクトは、まだ現在進行中であるという。
 Ivyは蔦、ligatureは拘束との意なので、Ligatures of Ivyというタイトルは「がんじがらめ」というようなニュアンスなのだろうか。
 なんらかのやむにやまれぬ問題提起があるのかも知れないが、自分のもっとも身近な肉親であり大切な人物である父親の深刻なプライバシーを、公表の対象にできるということが、私のような凡人には理解しにくいのが、率直な感想である。

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京都国際写真祭2023(7)

【2】堀川御池ギャラリー
レオナール・ブルゴワ・ボリュ the liquid bodies
1_20230810054901  レオナール・ブルゴワ・ボリュは、フランスのパリとスリジエという町で活動する前衛アーティストである。アイデンティティの問題に関心を持ち、ヒトの顔、身体、時間、記憶などをテーマに、実験的な作品を制作している。事故や偶然などをも取り入れて、常に変化し続ける現実の姿を可視化することを目指している。2_20230810054901
 たとえばアナログ写真を撮り、その上に独自に調合した薬品を塗り付ける。その薬品は、乳剤から表現される画像の定着を阻害する。こうして写真の物質性を解体すると、オリジナルの「ネガフィルム」に封じ込められていた形は、別の形に変化する。予想外の反応もあり、流動的な絵画的な作品ができる。私たち人間の記憶も、ディテールはやがて失われるから、ある意味自然なことでもあるといえる。こうして、液体のように変化する作品ができる。
 この他にも制作技術として、ベントやソラリゼーションもよく活用するという。

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京都国際写真祭2023(6)

【2】堀川御池ギャラリー
Photo_20230809054401  京都芸術センターを出て、そのすぐ前の室町通を御池通まで北に上がった。室町通は歴史的に由緒ある通りなのだが、さほど広くはない。10分ほどで御池通に突き当たり、左に折れて堀川通に向かった。御池通と堀川通との交差点北東側角に、堀川御池ギャラリーがある。これは京都市立京都堀川音楽高等学校の施設で、音楽や美術などの催しに利用できるきれいな建物である。
 さきの大戦後の昭和23年(1948)京都市立堀川高校に音楽課程が設立され、まもなく専攻科を設置して、昭和27年(1952)京都市立音楽短期大学となった。この短大は、現在京都市立芸術大学の一部となった。もとの音楽課程は、平成9年(1997)堀川高校から独立して京都市立音楽高等学校となった。2010年この地に新築移転して、校名を京都市立京都堀川音楽高等学校に変更したのであった。

西村祐馬 Savepoint
 西村祐馬は、2018年日本大学学芸学部デザイン科を卒業したアーティストである。個人の存在を未来まで遺すためのアートを目標とする。未来学者であるケビン・ケリーやレイ・カーツワイルなどから影響を受けて、人類の進歩とテクノロジーの進歩がどのようなメリット・デメリットをもたらすのか、漠然とした未来像から写真を通して日常の光景へと投射する。外身と中身の構造を考察することで、ヒトがクローンやAIなどによって精神と肉体の関係から解放されるなら、その次のヒトの在り方を訴えることを目指す。Daily-life-in-the-bottle
 影響を受けたとされる未来学者は、いずれも科学進歩に楽観的な人たちなので、おそらく彼の未来に対する見方も、悲観的ではないのだろうと想像する。
Touched-skin  今回の展示では、①Daily life in the bottle,②Touched (Skin)のふたつである。
 Daily life in the bottleは、作者が愛した日常の光景を、明るい未来に遺すためにその写真を瓶詰にする、というものである。作者の想いと願は写真のうえに凝縮され、精神へと返還される。瓶は肉体が亡くなった後も、その精神を護り続けるメッセージ・ボトルとなる、という。
 Touched (Skin)は、作品たる写真に直接手でふれて鑑賞する。触る、触れるという行為は、人類の存続に必要不可欠であり、触らせることでメディアと身体との物理的境界を取り払い、人類が忘れてはいけない親と子、愛する人々と触れ合う感覚を写真として遺すのである。
 これまでにも、とくに盲人を対象として、触らせるアートはさまざまに存在していて、コンセプトそのものは特段新しいものではないだろう。ただ、写真の素材の質感を工夫して、接触感覚を創生したのが新しいのかも知れない。台紙はごく薄いようだが、実際にその質感から荒れた皮膚の感触を感じることができるのは興味深い。

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京都国際写真祭2023(5)

【1】京都芸術センター会場
前田珈琲 明倫店
 京都芸術センターの展示を観て、ちょうど昼食ころとなったので、同じ建物のなかにある前田珈琲明倫店に立ち寄ってみた。Photo_20230808055301
 京都芸術センターの木造の建物の一室なので、入口はまったく他の部屋と変わらず、板ガラスをはめ込んだごく普通の伝統的な古い木の引き戸である。なかに入ると、店内は芸術センターにふさわしいシックな感じの良い内装であった。意外に大勢の客がいたが、幸い空席があって、待たずに昼食にありつけた。
 ランチメニューから適当に選んだが、さすがに老舗の珈琲店なので、美味しいカフェラテをあわせていただくことができた。思いがけず心地よいひとときを味わうことができた。

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京都国際写真祭2023(4)

【1】京都芸術センター会場
李卓媛 If Tomorrow never comes
 李卓媛Sharon Leeは、1992年香港に生まれた、写真を中心に多面的に活動するアーティストである。歴史、文化、アイデンティティに関する記憶をテーマに、イメージ、オブジェ、テキストを制作する。1_20230807054702
 If Tomorrow never comesすなわち「もし明日がこなかったら」をテーマとして、作者自身の家族や友人を被写体としている。
 もし明日が来なかったら、その時は今日をがんばろう。明日からあなたを忘れないために、私はカメラに変身する。あなたがくれた昨日の名残り。あなたのために、私はこれで、ポートレートを撮る。明日につながる一枚を。
 撮影者・カメラ・そしてモデルという三者が生み出す力学を、解体させたい。そのために、レンズを使わず露光時間が著しく長いピンホールカメラで、信頼、眼差し、そしてコミュニケーションにもとづく関係性のポートレートを生み出したい。決定的瞬間などというものを避けるために、長い露光時間は有効である。
2_20230807054701  最初は、なぜこんなビンポケの写真を、と率直に当惑したが、被写体の外観に拘束されずに、その人格、その相手との関りと思い出、自分との関係性、時間の積み重ね、などなど多様なものを個人的記憶の一部ないし手段として記録するアプローチと捉えるなら、きわめて主観的で個人的な作品という限りにおいて、こういう表現方法もあり得るかも知れない、と思った。
 この作者がいる香港は、まさにアイデンティティの大きな危機を迎えているのだろうから、この作者のアクションも切実な響きを持っている。

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京都国際写真祭2023(3)

【1】京都芸術センター会場
小池貴之 シベリア鉄道
1_20230806055701  小池貴之は、北海道に生まれ、立命館大学工学部を卒業の後、写真メディアに関わった写真家である。時間や場所の歴史あるいは記憶を、モノに定着させようとする作品を目指しているという。写真技術としては、ゼラチンシルバー、鶏卵紙、湿板写真などのアナログ技法にこだわりを持つ。
 今回展示している「シベリア鉄道」は、2018年ウラジオストックからモスクワまで6000キロメートルを、一度も途中下車せず6泊7日で移動した記録である。2_20230806055701
 写真はすべてモノクロームで、ライカというドイツ製カメラにロシア製のレンズを装着し、アメリカ製のフィルムを使って、日本人の小池が撮影している。この撮影行動には、かつての戦争での宿敵同士の融和・和平の意味を込めているという。概して、このアクションは、ロシア人などの外国人に好評であったという。
 列車のなかには、当然ながら老若男女、さまざまな国籍・人種の多様な人々が居合わせた。
 彼がこの鉄道の旅で出会った人たちは皆気さくで、初対面にも関わらず、国籍・人種が異なっても仲良くなれたそうである。ロシアが、多民族国家であることも関係しているかも知れない、と。
3_20230806055801  シベリアは夏の日中は半そででも暑いが、夜は10℃以下まで下がりずいぶん寒い。でも明け方の車窓からの景観は、霧が風景を覆いつくして、とても美しい。
 2022年からロシアのウクライナ侵略戦争が始まっていて、日本とロシアの関係も簡単ではない。それでも、ロシア人すべてが邪悪なわけでないことは、小池が言うまでもなく当然のことである。その一方で、ロシア国家と、その侵略行為の政治責任はまた当然ながら免れるものではない。

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京都国際写真祭2023(2)

【1】京都芸術センター会場
世界報道写真展
Photo_20230805054301  2014年以来、イスラム教武装組織フーシ派とサウジアラビア主導の連合軍との内戦で、イエメンは、ユニセフが「世界最大の人道危機」と叫ぶまでもなくひどく荒廃している。飢餓、経済崩壊、基本的なライフラインなど公共的サービスの劣悪化などのきわめて厳しい状況のなかで、女性の失業率は男性を14%も上まわっている。村を破壊されつつも、9人の子供たちを養うため地元に戻り、漁業を続ける女性の姿を撮影した写真がある。
 イスラム国インドネシアで、「ワリア」と呼ばれるトランスジェンダーの女性たちが、トランスジェンダーを認めないイスラムに対して抗議する写真もある。ソマリア連邦政府に反抗しているアルカーイダは、女性のスポーツ参加を認めないが、そんななかで、命がけでバスケットボールの練習をする女性の写真もある。Photo_20230805054302
 報道写真に携わる写真家は、どのような写真を撮り、どのように伝えれば世界のひとびとに認識が広まり、解決に向かうのだろうか、と常に考えている。写真のアイコニック化(象徴化)など、視覚への強烈な訴求を追求する。さらに写真という主観的メディア、感情に訴えかけるメディアに対して、その背景や重要性を理解してもらうために、工夫を凝らしたキャプションを加えることも多い。
 それらは大切な工夫でありまさにアートであるが、その効果・インパクトの半面では、たとえばかつてベトナム戦争のとき著しいインパクトを与えて有名になった泣き叫ぶ貧しい裸の少女の写真、脱炭素化運動に貢献した氷山が砕け落ちる映像やちいさな流氷の上に孤立するかのような白熊の写真など、誇張と偽作にもとづく意図的なアジテーションの弊害もある。
 また、LGBTQの問題提起も、最近では拡大して老人の老化への自認拒否の自由の主張など、普通の感覚に受け入れられにくい問題拡散の傾向もある。

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京都国際写真祭2023(1)

 たまたま見たテレビ番組で、京都国際写真祭2023という催しの存在を知った。コンセプトは音楽での高槻ジャズストリートと多少似ていて、京都市内の数十カ所に分散して会場を設け、ガイド情報を見て興味に応じて会場に行く、というものである。
 ただ、ウエブの案内がいささかアーティスティック過ぎて、具体的にどこに行ってどうすればいいのかわかりにくく、さりとて会期も終了に近づいてきたので、ともかく一部だけでも見ておこうと、五月晴れの絶好の快晴のなか、京都に出かけた。

【1】京都芸術センター会場
世界報道写真展Photo_20230804060101
 最初訪れたのは、京都芸術センター会場である。阪急烏丸駅からごく近いのだが、たどり着くのに意外に手間取った。
 しかし行ってみると、落ち着いた雰囲気の良い建物である。
 入場してすぐの小ホールのようなフリースペースと名づけられたところでは、世界報道写真展が「レジリエンス(再起力)」というタイトルで行われていた。世界各地での女性や少女、さらにそのコミュニティでの問題と闘い、そして再起への取り組みを取りあげ、世界に問題提起と解決を訴えようとするものである。World Press Photo Foundation(世界報道写真財団)とオランダ王国が、2000~2021年の間に行われた世界報道写真コンテスト授賞作品のなかから、この課題にかんする秀作として13カ国17人の写真家の作品を選出したのである。
Photo_20230804060102  女性の権利、LGBTQの権利、黒人差別、ジェンダーバランスなどが問題提起されている。
 女性差別にかんしては、ラテンアメリカ諸国の「キンセアニューラ」という、少女の15歳誕生日を大人の女性への通過儀礼として祝う習慣を取りあげ、またコロンビアの革命武装組織の女性兵士が戦闘のためになんども強制妊娠中絶を強いられた事実を取りあげている。同じ兵士でも女性のみ妊娠中絶手術という非人道的で命にかかわる悲劇を押し付けられるのは不公平だという指摘である。

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佐伯祐三展 中之島美術館(17)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
エピローグ 郵便配達夫
 モラン村からパリへ戻った後の3月、祐三は風邪をひどくこじらせていた。モラン村で雨の中でもずぶぬれになって制作を続けたのが原因だったかも知れない。床に臥せっていたとき、佐伯家に郵便を配達に来た立派な白髭の郵便配達夫と、モデルに使って欲しいと扉を叩いたロシア亡命貴族の娘がいた。この二人をモデルとした人物画を描いた。Photo_20230803054101
 さらに、わずかに体力が回復したとき、戸外に出て2つの扉の絵を描いた。これらが佐伯祐三の絶筆となった。
 郵便配達夫(1928)がある。
 病床に臥せりながらも、祐三は偶然自宅を訪れた郵便配達夫に創作意欲をかきたてられたらしく、彼から絵のモデルを依頼したという。日をあらためて再訪問した郵便配達夫を前にして、祐三はその日のうちにグワッシュ1点(戦争で焼失)、半身像1点、そしてこの作品を描いた。祐三の絵としては、少し特異な直線を多用した構図だが、とても力強い筆致である。

Photo_20230803054201  全体で140点余りと作品展示数は少なくない。しかも展示された作品はすべてきわめて興味深く、とても魅力に満ちていた。
いったいなぜ佐伯祐三の絵が魅力的なのか、私にもよくわかっていないが、学生のときから目立つほど卓越していたデッサン力、ヴラマンクも絶賛した色彩の巧みな使い方、作品制作にあたっての明確な方針、そして先輩画家のアドバイスを素直に聴いてわがものとし、しかし迎合しない優れた柔軟性、など素人の私にさえわかるような側面はある。
あまりの早世はほんとうに残念なことで、もし彼が長生きしていたら、たとえばエドヴァルド・ムンクのような国を代表しかつ世界的にも高名な偉大な画家となったかも知れない。それでも30年間のごく短い生涯で、彼なりにやるべきことはやりつくしたのも事実だろう。
 鑑賞しているあいだは、絵の魅力に取りつかれて疲労を覚える暇がなかった。しかし鑑賞を終えて帰途についてみると、一気に疲労感に襲われた。
 佐伯祐三という画家の作品を、散発的に観る機会はなんどかあったが、今回その作品をまとめて、しかも画家としての成長と変遷を時系列に理解できる個展を観て、あらためて彼のすばらしさ、魅力、偉大さを深く感じた。

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佐伯祐三展 中之島美術館(16)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
モラン村での作品
Photo_20230802055201  第二次パリ留学時代に入ってわずか4カ月ほどの短いあいだに、祐三は大きな挑戦と大きな進歩をとげたことは間違いない。しかし感覚的で刹那的な画面を埋めつくし、壁面から乖離して中空をさまよって飛翔した後、彼の筆は震えることをやめ、再び明確な構築性を求めるようになった。Photo_20230802055401
 新しい画題を求めて、祐三はパリを離れ田舎での制作を思い立った。1928年2月、パリの東約40キロメートルにある小さな村、ヴィリエ・シュル・モランでの写生旅行を敢行したのである。後輩画家の荻須高徳、山口長男、大橋了介、横手貞美、そして米子と彌智子が同行した。ポスターも広告の派手な文字も、華やかな色彩もない田舎は、祐三にはその素朴さが新鮮な魅力にあふれているように見えた。祐三は、新たな挑戦に燃え上がり、午前に1枚、午後に1枚と自らノルマを課して、思うように進まないときは夕方から描きにでかけることもあった。
 モランの寺(1928)という作品がある。
Photo_20230802055501  この村では、ごく素朴な様式の建物ながら力強い教会建築に深く魅せられたらしい。村の中心に位置するこの田舎の教会堂を、少しずつ異なる構図で15点制作した。モランでの制作活動の半数近くを占めることになる。
 装飾のない白い石壁は、とても簡素だがそれだけに重厚で、どの角度から見ても異なる堂々とした造形を示すのであった。この絵では、太く黒い線で全体の輪郭を取り、筆の勢いによるのかデフォルメが建物の存在感を強調している。
 同じタイトルだがもうひとつの「モランの寺」(1928)を観る。2_20230802055601
 ヴィリエ・シュル・モランの北西3キロメートルほどのところにある別の教会の絵である。実際の教会には、時計のある塔の真下に小さなふたつの礼拝堂があり、画面左手前には菩提樹があるのだが、祐三はそれらを省略して、もっぱら建物を描いている。塔の垂直性と本堂の水平性を強調した、より簡潔な造形に仕上げられている。
 モランでの作品は、繊細さ、揺らぎ、感覚的な要素などはすべて削ぎ落され、対象の存在感が力強い線と明快な色彩で表現されて、画面構成はより堅固なものへと変貌をとげた。
 しかし祐三は、なおも自分の作品に満足できなかったようである。厳しい寒さの中にもかかわらず、自らを追い込むような創作態度をかたくなにとりつづけ、それは彼の体力を確実に削いでいった。しかし自分の衰弱を感じ取り、残る時間が限られていることを自覚するほどに、ますます自分を追い込んだようである。この地での30数点にのぼる作品は、まさに命をけずりながら創りあげた珠玉の作品集となった。

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佐伯祐三展 中之島美術館(15)

4.第二次パリ留学時代: 1927~1928年
レストラン
 レストラン(オテル・デュ・マルシュ)がある。Photo_20230801053401
 1927年11月ころ、祐三は自宅近くのポール・ロワイヤル大通りにあるカフェ・レストランを、角度や距離を変えて何枚も描いた。これはそのうちのひとつだが、祐三が描いたレストランには、人物がほとんど登場していない。祐三は、看板やポスターで埋め尽くされた店先や、テーブル、椅子などのテラスの後景に専ら着目していたためだろう。
 テーブルも椅子も広告の文字も、リズムと勢いのある線で描かれ、まるで踊っているかのようである。画面下方のサインですら、まるで作品の一部のように画面に溶け込んでいる。
Photo_20230801053402  祐三は、「カフェ・レストラン」(1928)として、やはりレストランを約1年後の最晩年に描いている。
 ここでは、人物が自然に登場し、また広告の文字が現れていないが、椅子やテーブルの形の表現には、やはりリズムと動きが感じられる。
 とくになにが、ということはよくわからないが、いずれもとても魅力的な美しい絵である。

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