デザインとアート展 中之島美術館(8)
既存のファッションデザインを覆した三宅一生生(上)
三宅一生(1938~2022)は、広島県広島市に生まれ、7歳の小学生のとき被爆した。小学校高学年のときの担任が絵の先生で、絵を描く楽しさを教えられた。姉が洋裁学校から『ヴォーグ』や『ハーパーズ バザー』などのアメリカのファッション雑誌を持ち帰り、その写真を筆と墨で模写したりした。また、イサム・ノグチ設計の平和大橋のデザインに感銘を受けたという。
三宅は、多摩美術大学図案科に進んだ。姉からの影響で衣服に強い興味を持っていて、多摩美でグラフィックデザインを学びつつ、服飾デザインを始めた。当時軽く見られがちだった「ファッション」を時代や文化を象徴する重要なものとして捉え、その上でファッションデザインに関わる自分たちのレベルアップが必要だと考えた三宅は、文化服装学院や桑沢デザイン研究所に在籍していた学生たちにも声をかけ、有志の研究グループ「青年服飾協会」を立ち上げた。「青年服飾協会」は、服の作り方だけでなく、デザインの歴史や文化的な背景を学び研究したので、文化服装学院などの学生だった高田賢三やコシノジュンコ、松田光弘、金子功らが集まってきた。
三宅は、衣服は時代と共に移ろう「ファッション」として存在するのではなく、より普遍的なレベルで私たちの生活と密接に結びついて生まれる「デザイン」であると考えて、既成の枠にとらわれない自由な発想のもと、独自の素材づくりから始まる創作活動を目指した。
三宅は大学在学中から、第10回装苑賞、第11回(1962年)と2年連続で現在の佳作にあたる賞を受賞して頭角を現した。
しかしファッションを独立したデザイン分野と認知しない当時の環境に苛立ち、1965年パリに渡り、オートクチュール組合学校「École de la chambre syndicale de la couture parisienne(サンディカ)」で学んだ。折しも1968年のパリ五月革命に繰り出す人々を見て「こういう人たちの服を作りたい」「わずかな人ではなく、多くの人への服作りをしたい」と思ったという。三宅は「ブルジョワbourgeoisのために服をつくりたいと思ったことはない。ファッションは上流社会やオートクチュールだけのものではない。何か、今までにないもので、気安く、値段も高くなく、日常生活に入っていけるものを目指そうと決めた」と述べている。
体にフィットしたヨーロッパの高級な服より、インドのサリーのように一枚の布を身にまとう方が普遍的な姿だと考え、さらに「生地をできるだけ捨てずに使うこと」を自らに課した。三宅は森英恵と共にオートクチュールの文化を肌で学び知る数少ない日本のファッションデザイナーであったが、三宅は振り返って「私はオートクチュールを学びました。それは私にとって非常に良い教育でしたが、彼らはすでにそれを完成させていました。私はそれを超えることができなかった。だから私は何か新しいことをするためにニューヨークに行った。ヨーロッパのファッションとは違う何かを考えなければならなかった」、「西洋の遺産の欠如が本当に利点になり得ることを発見した」、「服を作るにはスケッチをして、布があって、切って、縫って、それで服になると思われている。それはいい方法だけれど、伝統的な方法だ。少し反抗的かもしれないけれど、“別の方法”を見つけるのは楽しいよ」などと話し、それは三宅が一生をかけて追いかけるもの作りのテーマとなっていった。
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