デザインとアート展 中之島美術館(1)
中之島美術館開館1周年記念展として「デザインに恋したアート、アートに嫉妬したデザイン」という長たらしいタイトルの展覧会が開催された。
日常生活のまわりにあふれている「デザイン」と「アート」という言葉にかんして、「デザイン」とは、「アート」とは、はたして何なのか。違いはどういうもので、その境界はどこにあるのだろうか、との問題提起がこの展覧会のモチーフであるという。
辞書によれば、デザインとは、意匠、設計、図案などがあげられる一方で、アートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動である、との記述がある。
とはいえ、デザインにもアートにも、自ら主体的に関わっていない部外者の私にとっては、そのように問いかけに応える意欲も能力もない。平たく言って、そんなことはどうでも良いことである。
それはともかく、さきの大戦の後の1950年代から、現代の最中の2020年代までの、デザインとアートの作品例を、とくに作者にとってのできるだけ初期の作品を鑑賞することで、いつもと違う視点から眺めてみよう、ということらしい。
商業デザインの近代化─早川良雄と亀倉雄策
冒頭には、早川良雄の「第七回秋の秀彩会」(1951)の近鉄百貨店のポスター作品がある。
早川良雄(1917~2009)は、大正6年(1917)大阪府に生まれ、大阪市立工芸学校(現・大阪市立工芸高校)図案科を昭和11年(1936)卒業した。敗戦後は、三越百貨店の広告部のデザイナーを経てグラフィックデザイナーとして独立し、主に大阪など関西を拠点に活動した。海外の国際的なデザインプロジェクトなどにも精力的に関わった。
今日では伝説的ともいえるような、当時としては先端的・斬新なポスターや広告を多数製作し、戦後日本のモダニズムを牽引した。1960年代以降は、東京の企業ポスターや書籍の装丁デザインをも手掛け、日本のグラフィックデザイン界全体に影響を与えたとされている。
晩年は、東京アートディレクターズクラブ評議員、日本グラフィックデザイナー協会会員、国立国際美術館評議員会評議員などを務めた。
早川とほぼ同年代に、関西の早川に並行して東京を中心に活躍した商業デザイナーが、亀倉雄策であった。
亀倉雄策(1915~1997)は、大正4年(1915)新潟県西蒲原郡吉田町(現在の燕市)に生まれ、11歳のとき東京府北多摩郡武蔵野村境(現・東京都武蔵野市境)に転居した。旧制日本大学第二中学校(現・日本大学第二高等学校)の学生だったとき、フランスのグラフィックデザイナーであったカッサンドルのポスターを見て衝撃を受け、グラフィックデザイナーを志すようになった。日大二中は3年途中で退学して、新建築工芸学院に進学し、そこでバウハウスの構成理論などを学んだ。昭和13年(1938)日本工房に入社し、アートディレクターとして雑誌「NIPPON」、「カウパープ」などのアートディレクションやエディトリアルデザインを手がけた。戦後は総合アメリカ研究所のアートディレクター、さらに日本宣伝美術会(日宣美)の創設メンバーとなり、ニッポン放送のロゴマークや通商産業省(現・経済産業省)のグッドデザイン賞のロゴマークをデザインした。昭和35年(1960)日本デザインセンター創立に参加し専務に就任、昭和39年(1964)東京オリンピックの公式ポスターを制作した。
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