デザインとアート展 中之島美術館(4)
異端児・赤瀬川原平(上)
赤瀬川原平(1937~2014)は、昭和12年(1937)鹿児島県出身で転勤族の倉庫会社勤務サラリーマンの子として神奈川県横浜市で生まれた。原平は幼稚園時代から大分県大分市で育った。小学校3年生の時に敗戦したが、父親は職を失い、母親の内職を一家で手伝うという経験もした。中学時代の転校生には、のちにソ連問題の専門家になった木村汎(山村美紗の弟)がいた。
5歳上の兄・赤瀬川隼と磯崎新が旧制中学の同級生で、磯崎が赤瀬川家によく遊びに来ていた。原平が中学生の時、磯崎が創立した絵の同好会「新世紀群」に参加し、そこで4歳年上の吉村益信と知り合った。やがて吉村益信の勧めで、吉村が進学した武蔵野美術学校油絵科に進んだ。
昭和31年(1956)、上京していた姉と一緒に住み、姉の誘いで砂川基地反対闘争に参加した。
「心はいつもアヴァンギャルド」と言って、第10回読売アンデパンダン展に初出品以後、1964年に同展が終了するまで出品を続けた。
昭和35年(1960)吉村の誘いで「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加した。
昭和38年(1963)高松次郎・中西夏之とともにハイレッド・センターを結成。名称は3人の頭文字(高・赤・中)から命名したという。このグループで「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行った。赤瀬川は個人としては、扇風機などの身の回りの品物を包装紙で梱包する「梱包作品」を制作した。今回は、「風」(1963)が展示されている。このコンセプトは最終的に、缶詰のラベルを缶の内側に貼って、宇宙全体を梱包したと主張する「宇宙の缶詰」に至った。この頃、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、横尾忠則らと知り合った。「とくにパイクは、ハイレッド・センターのよき理解者だった」と赤瀬川は書いている。
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