2024年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
フォト
無料ブログはココログ

« 2023年8月 | トップページ | 2023年10月 »

2023年9月

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(11)

壁画への道 壁画の完成
Photo_20230930082401  壁画の構成要素として、地域の風景を検討する一方で、登場する人物、とくに軍人や兵士の描写についてもさまざまな試行と準備を進めた。大正13年(1924)から昭和8年(1933)にかけて、「無題(兵士)」というタイトルの何枚もの試作があり、また重要な人物については「戦場カメラマン」の視点のような、兵士に近づいてすぐ後ろからのシーンを描いてみるなどして、戦闘をいかにリアルに表現するか、さまざまな工夫を重ねている。Photo_20230930082402
 壁画制作の委嘱にあたっては、明治神宮奉賛会から壁画の参考図ともいうべきものとして、二世 五姓田芳柳制作による「考証図」と、詳細な参考資料が配布されていた。大正15年5月「明治神宮外苑奉献概要報告」(明治神宮奉賛会編)によると、壁画奉献に際しては「構図は画家の自由なるべきも、解説及び考証図を参考とし史実を失はざる様注意すべきこと」とあり、天皇の事績を描くにあたっては、さまざまな条件・制約が定められていた。こうして9年の歳月を経て完成した壁画は当然展示できないが、その下絵のひとつが展示されている。
 歴史画であるため「平壌」という場所を示す大同江、大同門を描く必要もあり、それらを縦長の画面に収めるのに苦心したことがうかがえる。大胆に画面の半分は空が描かれているが、17世紀オランダの風景画の構成が参考とされたようで、ヨーロッパ絵画を体験した金山の面目躍如と言えよう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(10)

壁画への道 壁画への意識
Photo_20230929054201  聖徳記念絵画館の壁画制作をきっかけとして、金山は画面の舞台たる朝鮮を4回訪れている。大正7年(1918)、大正14年(1925)、昭和11年(1936)と昭和16年(1941)である。
 大正14年(1925)の朝鮮訪問は、とくに壁画制作のために重要な位置付けとなった。東京から神戸、下関を経由して釜山、ソウル、平壌に至った。
 「朝鮮風景」(1926)は、金剛山付近の景観である。風景画には珍しく縦長の画面としている。Photo_20230929054301
 かなり多くの人物が描かれるが、労働者たちは風景の一部であり、人格や個性を主張するものではない。戦争場面の舞台としての、朝鮮の風景や雰囲気の把握が目的であった。
 朝鮮に行く前に訪問した中国では、「蘇州の石炭運び」(1924-32)を描いた。ここでは、縦長の画面を上下に分割し、上半分に建物を中心とする風景を、下半分に労働者の群像を、それぞれ描いている。これは委嘱を受けた壁画と共通する構成であった。この作品は、壁画完成の前年たる昭和7年(1932)第13回帝展に出品され、展覧会の評価を得たことは金山にとっては、壁画完成に向けての最終確認となったのかも知れない。壁画の画面構成・設計を模索する一貫としての準備の最終過程だったのだろう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(9)

壁画への道 壁画への意識
 金山平三「祭り」(1915-34)も、明らかに壁画を意識した作品である。横長の画面に輪になって踊り、また球技に興じる人々が描かれている。

Photo_20230928054201


 それぞれの人びとの動きの表現は的確だが、絵の奥行きが浅く、全体にリアルさよりも装飾性を重視した印象となっている。普通の絵画としては横に長すぎるので、なんらかの建物の室内装飾画として注文を受けていたのかも知れない。この絵の出来栄えは、金山自身が満足していたらしく、この絵の完成が委嘱を受けた壁画「日清役平壌戦」への挑戦の弾みとなったのかも知れない。

Photo_20230928054202


 この「祭り」をさらに洗練させたのが、下諏訪の冬を描いた「雪と人」(1931-33)のように思える。これらはいずれも、明らかに聖徳記念絵画館の壁画制作に大きくかかわるものである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(8)

壁画への道 象徴性と装飾性の追求
 大正13年(1924)金山平三は、新築される明治神宮聖徳記念絵画館を飾る壁画の委嘱を受けた。明治天皇の事績を顕彰する壁画80面のひとつとしての「日清役平壌戦」という画題の壁画であった。Photo_20230927054501
 はじめ金山は、自分は遅筆でかつ自分の画風から考えて不適任であるとの理由で壁画制作を辞退していた。しかしその後、具体的な画題として「日清役平壌戦」を提示されると、がぜん取り組む気になったという。金山の胸中に、ヨーロッパ滞在中に見たさまざまな壁画が去来したのかも知れない。
 明治神宮聖徳記念絵画館は、明治天皇と昭憲皇太后の事績を顕彰するために明治神宮外苑に建設された建造物で、大正8年(1919)着工し、途中関東大震災による中断を経て、大正15年(1926)竣工した。私も、中学1年生のとき、はじめて上京して東京見物を「はとバス」で巡ったとき、この建物が見学対象になっていたことを思い出す。
 金山は、大正13年(1924)神戸市から献納画制作の委嘱を受けてから昭和8年(1933)完成させるまで、実に9年間の歳月をかけて制作に取り組んだのであった。明治天皇が神戸市に行幸されたとき、ちょうど日清戦争で平壌戦勝利の報を得たことが縁となり、神戸市の献納画の画題となったのであった。縦3メートル、横2.5メートルの大画面で、日清戦争における明治27年(1894)9月15日の平壌での戦いが描かれることになったのである。
Photo_20230927054502  壁画が、それまでに金山がてがけていた絵画と大きく異なる要素は、壁画らしい象徴性と装飾性であった。これを満たすために、金山は新しい工夫をさまざまに試みた。未完成の作品であるが「無題(群像)」(1915-34)というかなり大きな絵がある。それまで金山は、象徴的なものを描くことはせず、専ら対象の美をいかに具体的に表現するか、形や面、とりわけ色彩や光を重点的に追及してきた。しかし壁画の場合は、単なる具象画ではなく、顕彰の象徴性と壁を飾る装飾性が求められる。
 装飾性ということでも、金山は満谷国四郎の作品に注目したようだ。満谷国四郎「木々の秋」(1923)がある。非自然的な描写は、それまでの金山にはなかった要素だったので、背景をパターンで埋め尽くしたような満谷国四郎の表現は、大いに参考になったと推測される。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(7)

良きライバルとしての新井完
Photo_20230926081501  洋画家の新井完(1885~1964)は、兵庫県姫路市に生まれ、東京美術学校を卒業し、第5回文展に発出品した。大正7年(1918)金山とともに朝鮮・満州を、さらに翌年には金山や柚木久太とともに広島県を尾道から大崎下島を経て御手洗を訪れた。大正9年(1920)新井はヨーロッパに留学し、帰国後の大正12年(1923)からは帝展審査員となった。
 それ以後も昭和10年(1935)の帝展改組とその後の洋画家たちによる第二部会の結成および内紛を経て、中央画壇から距離を置き、以降は奈良・西宮・姫路を中心に活動した。新井と金山は、ともに東京美術学校卒、ヨーロッパ留学を経験し、官展の常連であり帝展では審査員を務め、帝展改組以後はともに中央画壇から距離を置くなど、経歴が金山ときわめて相似している画家であった。Photo_20230926081502
 第10回文展に金山が「夏の内海」を出したとき、新井は「豚と豚の仔」(1916)を出していた。
 新井は、後に「鹿の本生譚」(1927)という寓意的な作品を発表している。
 モチーフたる鹿は画面の上方に象徴的に描かれ、画面右手には鹿を射ようとする人間が描かれ、画面中央には裸体の祈りを捧げている女性が大きく描かれている。あらゆる表現が象徴的となり様式化されているのである。折しも、このころ金山は、神戸市の委嘱により聖徳記念絵画館壁画『日清役平壌戦』を手掛けていたのであった。新井と金山は、なんらかの影響関係があったとも推測されている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(6)

帝展審査委員任命と中国旅行 中国での活動
Photo_20230925054101  大正8年(1919)帝国美術院が創設されて、同院主催の帝国美術展覧会(帝展)が開催されることになると、金山は36歳にして帝展審査委員に選ばれた。同年10月の第1回帝展には『雪』『花』を出品した。またこの年に牧田らくと結婚・入籍し、東京市小石川区大塚坂下町(現在の文京区大塚6丁目)に転居した。
 金山は、ヨーロッパ滞在時代はひとりで写生のために旅行することが多かったが、帰国後はしばしば仲の良い画家と一緒に旅行した。大正13年(1924)の中国旅行は、満谷国四郎と一緒で、途中から児島虎次郎が加わった。Photo_20230925054202
 同じ風景を金山と満谷国四郎とが、それぞれの個性を顕わして描いた作品がある。金山平三「江南水郷」(1924)と満谷国四郎「石橋」(1926)である。かねてより満谷国四郎は金山の注視の的であり「センパイがこう描くなら、オレはこう」と張り合う気持ちがあり、「胸を借りる」というような意識をもっていたようだ。ここでは満谷国四郎がより写実的に形を重視して描くのに対して、金山は形の重視ではなく、色彩と面を重点に描いているようだ。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(5)

帝展審査委員任命と中国旅行 文展初入選
Photo_20230923054401  帰国して神戸に住むようになってからも、金山は各地に写生のために旅行を頻繁に行った。大正5年(1916)小豆島で描いた「夏の内海」を第10回文展に出品すると、初入選かつ特選第二席となり文部省に買上となった。
 金山がヨーロッパで研鑽してきた色彩表現がいかんなく現れている。空と海面と雲を大胆かつシンプルに描き込んで、しかも画面構成に緻密さが感じられる。たしかに当時インパクトがあったろうことが容易に推測できる。
 翌大正6年(1917)には同年1月上旬に長野県下諏訪で描いた「氷辷り」が第11回文展の特選第一席になった。以後毎年、冬は長野で制作するようになった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(4)

ヨーロッパでの制作 ヨーロッパ各地・アトリエ
 ヨーロッパ滞在2年目には、ヨーロッパ各地を巡る大旅行を敢行した。Photo_20230922054201
 滞在3年目には、夏に柚木久太とスイスに旅行し、エレボーンという村に滞在して「エボレーンの女」(1914)を描いた。この作品では、形を精緻に表現するより、面と色の効果を強調したような画風に少し変化している。描かれた黒い帽子と首の赤い布は、この地の女性たちが普通に身に着けているものだそうだ。この作品は、金山の自信作のひとつとなったと言われている。
 ヨーロッパ滞在中は、金山は気に入った風景を探し求めて写生することを中心にしていたようだが、屋外での写生に適さない冬の間は、パリのアトリエでモデルを使って人物画にも研鑽を積んだ。同一のモデルで何回も描くこともあった。
Photo_20230922054202  「習作(男裸像)」(1913)では、黒い背景に対して浮かび上がる白い裸体の肌を際立たせ、その量感を意識して描いている。この他にも何点かの男性ヌードの絵があり、その出来栄えにはかなり自信を持っていたらしい。
 「習作(男女坐像)」(1913-15)は、ソファに並んで座る男女を描く。絵としては、女性は未完のまま放置されたようだが、男性の方はしっかり描き込まれ、目を逸らした不機嫌そうな癖のある表情が表現されている。このように人物の表情や感情が描かれた人物画は、金山の場合は非常に珍しいという。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(3)

ヨーロッパでの制作 パリへ
Photo_20230921054401  金山は、卒業すると東京美術学校西洋画科研究科に進み助手となった。しかし2年を待たず明治44年(1911)2月退学し、神戸へ帰った。そして翌明治45年(1912)1月、日本郵船平野丸で神戸港を出発して、パリに3月到着した。 それから28歳から31歳までの3年半にわたって、パリを拠点にヨーロッパ各地へ写生旅行に赴く生活で過ごし、100点あまりの作品を残した。大正4年(1915)10月マルセイユ港から乗船して11月に神戸港に帰国した。そして神戸市花隈町の自宅に戻った。Photo_20230921054501
 フランスに到着すると、ルーブル美術館に通って多数のヨーロッパ絵画をじっくり鑑賞し、模写し、夏にはブルターニュのケルグロエという海に近い村に滞在して「無題(ベランダの人)」(1912)や「無題(老婆)」(1912)を描いた。
 「無題(ベランダの人)」では、印象派の影響なのか明るい光のコントラストが活かされて、フランスの夏の空気感が鮮やかに表現されている。「無題(老婆)」は、画面は暗いがよく眺めると、衣服の色彩のグラデーションと、折り重なりのメリハリが美しい。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(2)

東京美術学校卒業まで
Photo_20230920053801  「塋門(えいもん)」(1908)は、墓の門のことだが、同郷岡山の先輩満谷国四郎を慕って上京し、20代には東京美術学校の聴講生として学んだ柚木久太(ゆのき ひさた、1885~1970)の作品で、第7回太平洋画会への出品作である。金山は、柚木らと写生旅行にでかけて画架を並べて制作するなど、親交があったという。
 金山は、東京美術学校の卒業制作として「自画像」・「秋の空」・「漁夫」・「大原女」の4点を制作・提出し、最高点を獲得して主席卒業生となった。Photo_20230920054001

 このうち「大原女」は残っていないが、「無題(木陰の道)」に近いものではなかったか、とする研究者もいる。ここでは印象派の光表現が感じられる。その一方で、自画像では、眼鏡をずらしてこちらを見据える眼が印象的な顔が明るく描かれるのに対して、背景は暗いが、これは「戦の話」の明暗のコントラストを強調した満谷国四郎の影響とも思える。これらの作品から、かなり幅広く西洋画の伝統を研究し、自作に取り入れようとする姿勢がうかがえる。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

金山平三と同時代の画家たち 兵庫県立美術館(1)

 没後60年になろうとする金山平三を特集とした展覧会が兵庫県立美術館で開催された。金山平三は、この兵庫県立美術館の前身であった兵庫県立近代美術館の創設の機会ともなった神戸出身の画家であった。

東京美術学校卒業まで
Photo_20230919054001  金山平三(かなやま へいぞう、明治16年1883~昭和39年1964)は、明治末から昭和前期にかけて、わが国の西洋画界を牽引した画家のひとりであった。現在の神戸市元町に金山春吉、ひさの第四子として生れた。明治38年(1905)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科本科に入学して、主任教授である黒田清輝らに師事した。明治42年(1909)東京美術学校西洋画科を卒業した。
 金山が東京美術学在学中に交流し、影響を受けた画家たちの作品が展示されている。Photo_20230919054101
 「戦の話」(1906)は、満谷国四郎がフランス留学後の充実期に描いた作品で、おそらく日露戦争にまつわる話を知人たちに語る軍人を描いているのだろう。金山より9歳年長の満谷国四郎(みつたに くにしろう、1874~1936)は、岡山県総社市に生まれ、幼少より画才を認められ、上京して五姓田芳柳や小山正太郎に師事し、苦学力行の末に制作・出展した油彩「林大尉の死」が明治天皇の目に留まり、賞賛を得て世に出た、という数奇な運命をもつ画家であった。太平洋画会の中心的人物となっていた満谷国四郎を、金山はセンパイとして尊敬し、親しくつきあったそうである。明暗の対比を用いたドラマティックな表現は、金山の卒業制作である「漁夫」あるいは「自画像」にも影響が窺える。なお、太平洋画会は、日本で最初の洋画団体であった明治美術会が解散したあと、金山の師であった黒田清輝たちが率いた白馬会とは異なる画風の人たちが参加した会であり、若い金山は共感するものがあったらしい。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

杉森久英『大風呂敷』集英社文庫

政治に挑戦した先見性に秀でた事業家の人間像
 著者の杉森久英という名は、どこかで見たことがあると思ったが、数年前に見た『天皇の料理番』というテレビドラマの作者であった。
 少し前に北岡伸一『後藤新平』中公新書 を読んだが、それにかんしてある友人から、後藤新平の伝記本としておもしろいのがあるよ、と紹介してもらったのがこの本であった。文庫本で上下2巻計700ページほどのボリウムがある。
 北岡伸一『後藤新平』が政治学者による後藤新平の政治家としての評伝・評論で、それなりに興味深い好書であるのに対して、こちらはいわゆる伝記小説で、資料と調査による詳細な情報にもとづきながらも、後藤新平の人間性、すなわち心理・感情・息遣いまでを、小説のストーリーとして表現しているという違いがある。幼少期から成人し、活躍して死ぬまで、詳しくかつ生き生きと描いていて、読んでいてとてもおもしろい。政治家としてだけでなく、生身の人間として、後藤新平がどのような人格、性格、才能などを持ち合わせていたか、が丁寧に描かれている。卓越した才能をベースとして、強烈な情熱、それにもとづくずば抜けた発想力・創造力・集中力で難関に挑戦し克服して行く一方で、奔放・粗雑・わがままな側面を持ちつつ、その人間臭さもあいまって多くの敵とともに、熱狂的なファンを虜にした、稀代の人物像がいかんなく描かれている。
 後藤新平は、著者も言うとおり、優れた政治家というよりは、困難な政治的問題に果敢に挑戦した優れた事業家であった。優れた事業家の特性は、将来を長いスパンで見通すこと、すなわち先見性である。一般民衆は、そんなことはしないしできない。民主主義・議会主義であるかぎり「民意」を尊重すべきだが、民意が後藤の先見性と大きく食い違うことがしばしば発生する。そのとき後藤は、民のためと信じて民意を棄て、自分の構想の実現に邁進する。後藤が多数派主義の政党制、普通の意味での「民主主義」を嫌ったのも、理解できないではない。
 たとえば現代の日本の政治においても、マスコミの記者、「識者」、「専門家」、コメンテーターなどを名乗る連中が、ろくに知識も知性も思考もないまま無責任に言いつのることが「世論」を誘導し、悪しき集団ヒステリーが発生して、ほとんど意味の無い、ときに有害な「民衆の声」が蔓延したりすることがある。そうであっても最終的には、チャーチルが言うように「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」ということが真理であり、民主主義を尊重せねばならない。
 それにしても、「政治」という営みはとても複雑怪奇で難しいものであることが描かれている。この後藤新平にしても、卓越した事業家であり政治家であったことは間違いないが、彼の判断と行動がどこまで正しかったのか、果たしてどこまでが良い判断・行動・成果であったのか、長い時間が経過したからこそようやくわかるような範囲も多々ある。政治は、論ずるは易く、実行するのは難しいと、あらためて思う。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(13)

もの派の登場 李禹煥
 「もの派」のもうひとりの牽引者李禹煥の「現象と知覚A」(1969)が展示されている。
 李禹煥(イ・ウーファン、1936~)は、大韓民国慶尚南道に生まれ、ソウル大学校美術大学校を経て、昭和36年(1961)来日して日本大学文理学部哲学科に学んだ。
A_20230916053701  以後、美術創作と並行して美学評論を発表し、「もの派」の理論的主導者となった。
 平成22年(2010)直島に安藤忠雄とのコラボレーションによる李禹煥美術館を開館。釜山市立美術館敷地に「李禹煥ギャラリー(Space LeeUFan)」を開設している。多摩美術大学名誉教授でもある。

 今回この展覧会を鑑賞して、率直なところなかなか難解であった。8年間に9回の企画展が開催され、そのたびに開催の趣旨と要約が文章化されているけれども、芸術の変化はアーティストごとに錯綜していて当然だし、時間に直線的に進行するものでもない。したがって、説明や要約も重複や逸脱がどうしても発生する。作品も、創作されてから直ちに展示されるわけでもない。結果として、鑑賞する側からすると、それぞれの企画展の内容と、アートの変遷のほんとうの経過とが同期しない。さらにあとで気づいたことだが、作家の活動内容がジャンルを超えて進められているなかで、たとえばそのうちの絵画のみが紹介されていると、作家のほんとうの変遷がわかりにくいといったこともある。
 結局、今回の鑑賞は3回繰り返して鑑賞して帰ったが、そのままではよくわからず、帰宅してからネットでそれぞれの作家の過去の変化を追いかけてみて、はじめて理解できたということがあった。
 なんにしても、これらのアーティストたちはそれぞれ懸命に自分が目指すことに最大限の努力を傾注したのであり、ある種の活気にあふれた1960年代の美術の最先端をなんとか理解することができた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(12)

もの派の登場 関根伸夫
 今回の展覧会にも出展しているアーティストである柏原えつとむの「造ることへの反逆者たち」というエッセイから引用する。
 かつて「物」を使って表現することの美術があった。それは芸術家が「物」を自分のものとして個人化しようとする幻想であったとも言える。しかし「物」はやはり「物」、作者とはあくまで別の存在であると気づいたとき、その幻想は破れた。そしてこんどは科学技術やテクノロジーを武器に、「物」への征服を試みたのである。それは造ることであり、アポロ計画よろしく、人は懸命に造ることで「物」へ挑戦したのであったが、今、それも単なる幻想ではなかったかと、反問する作家たちが登場しはじめた。造っても造らなくても「物」は「物」、すなわち造るということは、作者の偏狭的解釈の中へ「物」を閉じ込める自己満足に過ぎないと、造ることを否定した反逆者たち数名が、現代美術の動向展へ出品した。No5
 これがその後「もの派」と呼ばれるようになったアーティストたちの活動であった。その先駆者のひとりが関根伸夫であり、その作品のひとつ「位相No.5」(1968)が展示されている。
 関根伸夫(せきね のぶお、昭和17年 1942~令和元年 2019)は、埼玉県大宮市に生まれ、多摩美術大学油絵科で斎藤義重や高松次郎に師事した。
 高松次郎のイリュージョニスティックな絵と立体作品は当時の東京のアートシーンで中心的な存在だった。その影響を受け、関根の初期作品には視覚を惑わす傾向が見られる。1968年には「位相No.4」、さらに今回展示されている「位相No.5」という壁掛けの立体作品を出品した。これらは、見る角度によって筒状の作品の全体が現れたり一部が隠れて断片的になるというトリックアート的な作品である。
 昭和43年(1968)須磨離宮公園での第一回野外彫刻展に出品した「位相-大地」が、関根のターニングポイントになった。「位相-大地」は、大地に深さ2.7m、直径2.2mの円柱型の穴をうがち、掘り起こした土を穴と同じかたちに固めて隣に置いただけの作品である。この作品を関根は、位相空間による認識方法による「思考実験」だと考えていると表明した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(11)

新しい素材とテクノロジー・アート ヨシダミノル
 ヨシダミノルの「Just curve '67 Cosmoplasitic」(1967)が展示されている。水槽のなかに透明着色のプラスチックの造形があり、センサーで鑑賞者が近づくのを検出すると、スピーカーから音を出して動き始める。
 ヨシダ ミノル(本名:吉田 稔 よしだ みのる、昭和10年 1935~平成22年 2010)は、大阪府に生まれ、小学4年生の時に原爆による終戦を受けて大きなショックをおぼえ、人間の精神的な部分にまで入り込むテクノロジーに衝撃を受けたという。
Just-curve-67-cosmoplasitic  京都市立美術大学西洋画科を卒業してモダンアート協会に入会し、絵画を発表した。昭和39年(1964)京都市内に自宅を兼ねたアトリエを建築した。昭和40年(1965)から、京都府在住者では唯一の会員として具体美術協会に所属した。
 具体美術協会は、吉原治良が他人の真似ではなく新たなものを創れというモットーを会員に課し、野外などのさまざまな空間を用いて、既成概念を打ち砕く未知の芸術を創造しようとする意欲的な取組が高く評価された「前期」のあと、フランス人美術評論家ミシェル・タピエによってアジアにおけるアンフォルメルの旗手として世界に紹介され、国際的な美術家集団として名を挙げた一方で、移動や売買が容易な絵画などに表現が一元化されて「具体らしさ」が損なわれたとも評価された「中期」を経て、昭和40年(1965)第15回具体美術展を契機にアンフォルメル風の抽象表現のマンネリ化からの脱却を図った「後期」に入っていった。ヨシダミノルはこの後期の具体を代表するアーティストとして、頭角を現した芸術家の一人であるとされている。
 ヨシダミノルは、昭和42年(1967)プラスチックやプレキシグラスなどの新たな素材を用いた立体作品を制作するようになり、ブラックライトを用いた空間演出や、動力を取り入れた動く作品やサイケデリックな色使いなど、21世紀のテクノロジーを感じさせるような作品をあいついで発表した。今回展示されている作品は、そのひとつである。
 ヨシダミノルは後期の具体に新たな方向性を示し、「テクノロジー・アートの先駆者」と呼ばれた。1960年代後半に注目されるようになった環境アートを代表するアーティストともされている。
 ヨシダミノルはこの後、アメリカに渡り、新たな身を張ったパフォーマンスを相次いで発表し、京都にある自宅アトリエの建物を「大空ライブ美術館」と名付けて開館し、昭和53年(1978)帰国の後、ヨシダミノルは日本でも積極的にパフォーマンスを行うようになり、この頃から関西を中心に「パフォーマンスアート」という言葉が使われるようになったとされる。後年はプロデューサーとしても活動し、舞台で「美・詩・音・舞」を総合的に取り入れたイベントをプロデュースしたり、重要文化財であり近代化産業遺産でもある舞鶴赤レンガ倉庫群そのものの空間と現代アートのコラボレーションを演出して、光をテーマに文化や地域性を問いかける作品展示を行うなど、地域アートにも関心を寄せたりしていた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(10)

新しい素材とテクノロジー・アート 吉村益信
 吉村益信(よしむら ますのぶ、昭和7年 1932~平成23年 2011)は、大分県の大正初期創業の医薬品卸売を生業とする吉村薬品の御曹司という裕福な環境で育った。大分第一高等学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)在学中17歳のとき、河北倫明が著した青木繁の画集を見て美術にのめり込むようになったという。昼は学校の美術室、夜は地元大分の画材店キムラヤの美術サークル「新世紀群」で活動した。ここには同郷の磯崎新、赤瀬川隼(両者は同じ高校の1年先輩で赤瀬川原平の兄)、風倉匠らが集っていた。吉村は当時から鷹揚で人をひきつけ、親分肌で面倒見がよくスポーツ万能のスター的存在で、在学中は自治会長も務めていたという。Queen-semiramis
 武蔵野美術学校油絵科(現在の武蔵野美術大学)を昭和30年(1955)卒業し、読売アンデパンダン展に出品を始めた。父の遺産を元手に新宿区百人町に小さな土地を購入し、磯崎新に設計を依頼して住居兼アトリエを建てた。この家は、その白いモルタルの壁から「新宿ホワイトハウス」と呼ばれ、のちにネオ・ダダの拠点となった。
 昭和35年(1960)第12回読売アンデパンダン展初日の晩、「新世紀群」の後輩の赤瀬川原平、風倉匠、そして 篠原有司男らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成した。篠原が後年のインタビューで、グループ名を発案し名付けたのは吉村だったと明かしている。メンバーは他に荒川修作、石橋別人、豊島壮六、上田純らがいた。
 昭和35年(1960)7月、吉村のアトリエ「新宿ホワイトハウス」で開かれた第2回ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ展では、単に「ネオ・ダダ」と自称し、岸本清子、田辺三太郎、田中信太郎、吉野辰海がメンバーに加わった。同年9月、東京の日比谷公園内にある日比谷画廊の屋内外で第3回展ネオ・ダダ展を開催した。美術作品らしいものはいっさいなかったが、グループは展覧会の有無にかかわらず連日マスコミの取材を受け、群がるカメラ陣を前にアナーキーな破壊的パフォーマンスを行った。
 昭和37年(1962)吉村は突然「新宿ホワイトハウス」を売却して渡米し、4年間ニューヨークに滞在した。その間、石膏によるオブジェシリーズを制作し、また、シュルレアリスム風のオブジェ「月時計」、「硬貨」などを制作した。そしてまたも突然、昭和41年(1966)ビザのトラブルのために帰国した。
 帰国後は、ネオン管などを使ったライト・アートを制作するようになった。このころ発表した作品のひとつが、今回の展示作品である。
 昭和45年(1970)万国博覧会では、多数の施設のプロデュース、ディスプレーを手掛けた。1970年代後半にはアーティスト・ユニオンの事務局長を務め、アーティストの社会的自立に貢献するなど、常に人々の先頭に立ってリーダーシップを発揮し続けた。既成の枠にとらわれない自由な活動と、実験精神にあふれ、変容を続けた作家であった。晩年は神奈川県秦野市にアトリエを構えて過ごした。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(9)

多様性の成長・発展 松本陽子
 松本陽子「作品Ⅴ」(1965)がある。
 松本陽子(昭和11年 1936~)は、昭和35年(1960)末にニューヨークに渡り、本格的に絵画に取り組み始めて、抽象表現主義をはじめとしたアメリカの絵画に強い影響を受けた。そこで当時としてはまだ珍しかったアクリル絵画との出会いにより、水彩の軽やかさと鮮やかさと透明感を活かした独自の抽象絵画を確立した。反芻する水と筆、その偶然の出現を捉え表現される「ピンクの絵画」は、松本の代表的なシリーズ作品として高い評価を得た。Photo_20230912053501
そのころの作品である展示作品も、眺めてみるとやはりピンクが主人公である。
 平成17年(2005)からは念願であった緑色の油彩画の制作を開始した。ピンクが無意識の精神の深奥の色であるのに対し、緑は自然の緑を連想しやすい概念化された色であり、心惹かれながらも困難な色としても認識していた松本は、目に見えない自然を通した、広い意味での人間の魂や生命体を描きたいと「自立した緑の絵画」を模索してきた。その瑞々しい深淵の緑の絵画は、現在では松本を代表する新たなシリーズ作品として評価されている。
 近年は、日常の風景や具体的なモチーフの緑にイメージを重ねた作品が見られるようになるなど、自らが理想とする緑の絵画の実現に近づきつつあるのかもしれない。
 80歳代後半となった現在も、現代日本を代表する画家として第一線で活躍を続けている作家である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(8)

多様性の成長・発展 関根勢之助
 関根勢之助「彼方へ」(1964)が展示されている。Photo_20230911054501
 関根勢之助(せきね せいのすけ、昭和4年 1929~平成15年 2003)は、東京に生まれ、京都市立美術専門学校西洋画科研究科を修了した。昭和29年(1954)第22回独立展に出展して初入選している。以降昭和37年(1962)第30回展まで出展したが、以後は退会し、無所属で活動した。1960年から仲間とグループ「ゼロの会」を結成し、1971年まで展覧会を開いて活動した。昭和38年(1963)から京都市立美術大学工芸科非常勤講師を務め、上野伊三郎、リチ夫妻主催のインターナショナルデザイン研究所でも教鞭をとった。
 そのころに発表したのが、この展示作品である。勁直な描線と浮遊しているような色面からなる、特徴ある作品である。
 以後、京都市立美術大学助教授、教授、学生部長などを歴任し、新たに設けられた構想設計研究室の基盤をつくるのに貢献した。京都工芸繊維大学、立命館大学国際関係学部など京都の他大学でも教え、平成9年(1997)京展審査、京都アートセンター検討委員、京展委員なども務めた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(7)

多様性の成長・発展 中馬泰文
 中馬泰文(ちゅうま やすふみ、昭和14年 1939~)は、大阪に生まれ、大阪市立工芸高等学校美術科日本画専攻を卒業の後、金沢美術工芸大学にすすみ、引き続き日本画を専攻した。大学在学中に第4回新象作家協会展に出品し、佳作賞を受賞した。658-02 1960年代はじめの中馬は「不器用な線をあえて求めた」と自らが言うとおり、高校、大学を通じて身につけた繊細な線描を特徴とする日本画の伝統から離れようと試みていた。細くしたローラーを使っての線引き、マンガのコマ割りを彷彿とさせる画面構成、ビニールパイプや針金にインクをつけてプレス機にかける技法など、独自の表現方法に取り組んだ。
 今回の展示作品は、まさにこのころの作品である。自由で繊細で伸びやかな、未来を感じさせる作品である。
 1960年代後半になるとリトグラフの、やがてはシルクスクリーンの技法を身につけ、手描きのタッチのなまなましさを避けて版画の制作をはじめた。それらは1980年代以降の、シルクスクリーンと手描きが融合した作品へと結実していった。
 50余年の作家活動のなかで40回を超える個展を開催するなど、精力的に作品制作するのみならず、夙川学院短期大学美術・デザイン学科教授を経て現在は大阪芸術大学デザイン学科客員教授として後進の育成にも尽力している。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(6)

境界の超越 中西夏之
 中西夏之「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」(1963)が展示されている。大量の洗濯バサミが、大小7枚のカンヴァス上に無秩序にうごめいている。この一風変わった作品は、昭和38年(1963)最後の読売アンデパンダン展に現れた。当時の展示では、洗濯バサミの大群がカンヴァスの枠を越え、周りに展示されていた下着や卵のオブジェにまで拡がっていたという。鑑賞者が床に散乱した洗濯バサミを何気なく拾って、洋服につけたまま帰ってしまうこともあったようだ。美術館に置かれた洗濯バサミという「芸術品」は、こうして「攪拌運動」を続け、ごく普通の日常生活に密かに侵入していったのである。
 中西夏之(なかにし なつゆき、昭和10年 1935~平成28年 2016)は、東京市品川区大井町に生まれ、東京都立日比谷高等学校を経て、昭和33年(1958)東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業した。大学時代の同窓に高松次郎・工藤哲巳・磯辺行久などがいる。
 昭和37年(1962)高松次郎・川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行い、その翌年に、第15回読売アンデパンダン展に出展したのがこの展示作品である。これは、中西の自身の代表作とされている。

Photo_20230908053901


 この年、高松次郎・赤瀬川原平らと「ハイレッド・センター」(高・赤・中と3人の名前の頭文字を並べて銘々している)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイベントを実践した。
この後、舞踏家・詩人・演劇人などと親交を育み、舞台美術・装置などでも活躍した。
 東京藝術大学にて後進の指導にも注力し、東京藝術大学名誉教授、女子美術大学客員教授、元倉敷芸術科学大学教授などを歴任した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(5)

境界の超越 三島喜美代
 三島喜美代のコラージュ作品「Work-64-I」(1964)が展示されている。
 三島喜美代は、昭和7年(1932)大阪の十三に生まれ、高校生のときに油彩を始め独立美術協会の画家に師事した。後に夫となる画家の三島茂司の薫陶を受け、当初静物画など具象画を描いていたが、徐々に抽象画に移行していった。茂司はアトリエモンターニュという画塾をしており、そこに喜美代も加わった。茂司は、戦前は伊藤継郎、戦後は吉原治良に師事していて、哲学にも詳しく、京都大学の聴講生をしていたインテリだったという。ふたりとも身近に、吉原が創設した具体美術協会の同世代の作家達がいて交流していたが、ついに協会の一員になることはなかった。Work64i
 三島はカンヴァスで実験を始め、雑誌や新聞を絵にコラージュし始めた。後にカンヴァスにシルクスクリーンも併用した。茂司が通っていた競馬の馬券が家にどんどん貯まっていたので、それもコラージュに利用したというエピソードがある。
 ある日コラージュで使っていた新聞がアトリエの床に丸まって転がっているのを目にとめ、彫刻のアイディアが浮かんだという。絵画コラージュに限界を感じていたこともあり、なにかおもしろい素材はないかと、ガラスやプラスチックなどで試作を始めた。ある日、焼き物だったら落としたら割れると気づき、こわれる緊張感をはらんだ彫刻はおもしろいのではと、陶で作る彫刻の研究を始め、1970-71年ころ、陶による新聞の立体作品を試作した。
 当時、各種新聞に加えファッション、芸能、グラフ誌等ありとあらゆる雑誌が大量に創刊され、人々は貪欲に最新情報をもとめていた。その結果、新聞や雑誌が大量に捨てられ、情報は知識としてではなく一過性のエンターテイメントとして消費された。三島はそれに恐怖感を抱き、割れさえしなければ永遠に存在する陶の姿に新聞を生まれ変わらせた。それは同時に、壊れる儚いものとして大事に扱わなければならないものでもあった。そこがその作品の重要な点であった。
 昭和47年(1972)個展で初めて陶による新聞の立体作品を出品した。つぎに、当時海外の現代美術を積極的に日本に紹介していた南画廊の志水楠男との出会いがあり、昭和49年(1974)同画廊で個展を開催した。床に陶でできた新聞などをごろごろ転がしていたところ、来客のなかにはまだ展示作業中だと誤解した人もいたという。1980年ころ、今度は陶で制作した新聞等の立体をスケールアップすることを思いつく。現在兵庫県立美術館の山村コレクションにはいっているのは、現物大の陶で制作された電柱や工事現場の柱である。また、巨大な新聞の立体作品は三島のトレードマークになった。
 私も10年ほど前に現地で観たが、直島のベネッセハウスミュージアムの敷地内に設置されるのは、5mの高さに拡大したゴミ籠である。陶の籠にはいっているのは、やはり陶でできた巨大ごみだ。三島は日常のミカン箱や、バナナの箱なども陶の作品として制作するので、日常品を本物そっくりにつくる陶芸家だと誤解されることもある。しかし、実際はゴミをめぐるさまざまな素材を使用し、サイズを変え、形式をかえた幅広い内容の仕事をしてきている。火山灰や、産業廃棄物を高温で処理することで建材として再生利用される溶融スラグ、煉瓦の素材や新聞紙そのもの等である。三島の制作プロセスのなかでは、廃棄物も含めた様々な素材がリサイクルされ再生される過程も取り込まれ、そのなかで作品が生まれていく。溶融スラグで制作された立体作品のなかには、産業廃棄物をそっくりに再現したものもある。人間の欲望と功利主義が生み出したものが朽ちてゴミになっていく、その過程のなかから素材を拾い上げ制作し続けてきた。2020年の新作展では、90年代に火山灰で制作された作品が、廃棄された車の部品等と融合し新しい立体コラージュやレリーフ作品として生まれ変わった。
 自分の作品を「情報の化石」と呼ぶ三島喜美代は、現在も88歳の現役アーティストである。三島の土岐市にある広い敷地を持つアトリエでは、長年収集し堆積しているありとあらゆるゴミが、時を経て芸術作品として甦るのを待っている。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(4)

境界の超越 宮脇愛子
 宮脇愛子「作品12」(1962)が展示されている。
Photo_20230906054101  宮脇愛子(みやわき あいこ、昭和4年 1929~平成26年 2014)は、熱海の資産家の一人娘として生まれ、幼少期より病弱であったという。さきの大戦直後の昭和21年(1946)小田原高等女学校(現在の神奈川県立小田原高等学校)卒業後、日本女子大学文学部史学科へ入学した。このころから東京大学西洋史学科の学生だった宮脇俊三との交際が始まり、在学中に俊三と結婚した。
 昭和28年(1953)文化学院美術科に学び、夫の実姉で画家の神谷信子を介して知り合った画家の阿部展也(阿部芳文)や齋藤義重に師事した。昭和32年(1957)米国へ短期留学して絵を学び、昭和34年(1959)東京で初個展を開催した。そして今度はヨーロッパに渡り、瀧口修造の助言によりミラノに落ち着き、1961年に同地で個展を開催した。私生活では昭和40年(1965)に、宮脇俊三と離婚している。
 パリ、ニューヨーク滞在を経て昭和41年(1966)帰国し、銀座で開催した個展で2番目の夫となる建築家の磯崎新と知り合った。昭和47年(1972)磯崎と再婚したが、すでに宮脇姓で彫刻家として成功していたため、再婚後も宮脇姓で活動を続けた。
 1960年代後半には、主に真鍮のパイプを使った彫刻作品を制作した。積み重ねたパイプの後ろから来る光によって、真鍮に含まれる銅の色が反映する微妙な効果が生み出されるような作品である。その後ワイヤを使って流れるような曲線を表現した「うつろい」の世界を生み出した。このように、宮脇は彫刻家が本業ともいえるアーティストであった。マン・レイ、北杜夫(前夫宮脇俊三の友人でもある)らとも親交があった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(3)

境界の超越 田中敦子
 1963~1965年ころのもうひとつの著しい傾向として、アートの境界の超越ということが挙げられる。具象画と抽象画にはじまり、やがて絵画という表現形式と彫刻など他の表現形式との境界も超えようとする動きとなった。
 田中敦子「Work '63」(1963)が展示されている。Work-63
 田中敦子(たなか あつこ、昭和7年 1932~平成17年 2005)は、大阪府に生まれ、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)中退の後、大阪市立美術館付設美術研究所に学んだ。同研究所に通っていた金山明(後の夫)の助言により抽象画に興味を持つようになり、昭和27年(1952)金山明、白髪一雄、村上三郎らと抽象芸術の団体「0会」を結成して、しばらくは布に数字を書き、一旦裁断し再びつないだような、すでに絵画という枠を逸脱した作品を創っていた。
 昭和30年(1955)吉原治良が主導する具体美術協会に、金山明、白髪一雄、村上三郎らと共に入会し、やがて同協会の主要メンバーになった。
壁際の床に2メートル間隔で置かれた20個のベルが順に鳴り響く立体的作品「ベル」、電球と管球を組み合わせ明滅する光の服に見立てた「電気服」などを発表した。昭和32年(1957)には、大阪市の産経会館で開催された「舞台を使用する具体美術」展で、田中は実際に「電気服」を舞台で着用するパフォーマンスを行い、話題を集めた。
 今回展示されている作品は、絵画ではあるが、「電気服」などのオブジェと同様、色彩豊かな円と曲線が絡み合う前衛的な作風である。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(2)

美術の様式の拡大(下)
 やはり抽象絵画として、宇佐美圭司「アクション・フィールド」(1964)が展示されている。
 宇佐美圭司(うさみ けいじ、昭和15年 1940~平成24年 2012)は、大阪府吹田市に生まれ、はやくから和歌山市へ移住し、小中学校期を過ごした。Photo_20230904054501
 昭和28年(1953)家族とともに大阪市に転居し、大阪市立田辺中学校、大阪府立天王寺高校卒業を経て、東京藝術大学を受験するが不合格となり、東京に居をかまえ独学で創作を開始した。
 昭和38年(1963)東京日本橋で初めて個展を開催の後、昭和40年(1965)「新しい日本の絵画と彫刻」展(MoMA、NY)に出品した。今回の展示作品は、このころの彼にとっては初期の作品である。
 この後、国際的にも認められ、昭和45年大阪の万国博覧会では、鉄鋼館の美術監督を勤めた。多摩美術大学助教授、武蔵野美術大学教授、京都市立芸術大学教授などを歴任した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

Re:スタートライン 1963-1970/2023展(1)

 京都国立近代美術館が開館した昭和38年(1963)から昭和45(1970)年まで、毎年開催された「現代美術の動向」展(1964年から「現代美術の動向」展に改名)は、定点観測的なグループ展シリーズであった。国公立の美術館がまだ少なかった1960年代に、日本の現代美術の中堅・若手作家を紹介する希少な展覧会として大きな注目を集めていた。全9回におよぶ「動向」展が取り上げた作家・作品は、素材や形式も実にさまざまであった。
 戦後の高度経済成長期に入った1960年代は、社会や人々の生活の急激な変化を背景に、絵画や彫刻といった既成の区分の逸脱と、形式・素材の多様化が進むのみならず、美術の概念そのものを刷新する動きが活発化した時代でもあった。抽象絵画、ネオ・ダダ、ポップ、キネティック、コンセプチュアル、ハプニング、もの派など、今日の「現代美術」の表現言語の多くは、まさにこの時期に生み出された。
 「動向」展は、美術館がこうした目まぐるしく変貌する美術の状況と向き合い、若い世代のアーティストや鑑賞者との共感にもとづく実験場となるべく創始された。美術館の建物を用いたその場限りのインスタレーションやハプニングなど、関係者の記憶や記録写真だけが頼りの作品もかなりあった。
 今回の展覧会では、全部で293組の出品作家の中から66組をとりあげ、出品作あるいは関連作、記録写真、展覧会に関するアーカイヴ資料などを紹介しながら、1960 年代当時の美術館とアーティストが切り結んだ美術の現場のスタートラインをあらためて検証しようとする企画だという。

美術の様式の拡大(上)
 戦後の復興から高度成長期に入り、アートの分野でも雰囲気が高揚し加速し、表現様式や画風が拡大した。19世紀からの描写形態もあれば、抽象表現も普及してきたし、さらに「ネオ・ダダ」のような運動まで画家たちの真摯な活動として実施されるようになった。とくにわが国には、日本画と洋画の伝統的区分が習慣的に残存していたことも様式の幅を広くする要因のひとつであったろう。しかし一方では一般の人々の目には様式の多岐多彩が、一種の混乱として見えたことも事実であった。
 元永定正「作品」(1961)が展示されている。Photo_20230902054001
 元永定正は、元永定正(もとなが さだまさ、大正11年 1922~平成23年 2011)は、地元の三重県上野商業学校を卒業後、大阪に転居し機械工具店に就職した。当初は漫画家を志して、漫画作品の投稿もしていたという。
 その後日本国有鉄道(国鉄)に転職し、関西各営業所で勤務を経て昭和19年(1944)生誕の地であった三重県上野町に帰郷し、同郷の洋画家濱邊萬吉に師事した。昭和15年(1940)大阪市にあった中之島洋画研究所(現在の専門学校中の島美術学院)でも洋画を学んだ。さきの大戦後、昭和21年(1946)師の濱邊が局長を務めていた上野愛宕町郵便局に就職したころから本格的に油彩画を開始した。
 地元の各種文化活動にも積極的に参加して入選などを経験しながら、また同時期に雑誌などに漫画連載を持っていた。
 昭和25年(1950)弟がいた兵庫県神戸市に転居し、西宮美術教室で絵を学びつつ、西宮市や芦屋市の美術展に絵画や写真を出展した。やがて展覧会を主宰していた吉原治良に認められ、具体美術協会に参加するようになった。昭和28年(1958)ころからは日本画のたらし込み技法にヒントを得て、キャンバス上に絵の具を流した絵作りも開始した。
元永は、この経歴からわかるように、漫画にまでおよぶ独自の広い視野からの創作活動を通じて、最初から洋画・日本画の枠にとらわれない自由な画風を貫き、さらに具体美術運動を経て、新しい表現の境地を築いたと言えよう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

デザインとアート展 中之島美術館(11)

デザインとアートの境界を超えて(下)
 日比野克彦(1958年~)も、わが国の代表的な日本の現代美術家であり、デザインとアートの境界を超える活動で知られるが、出自はやはりデザインの専門課程の履修者であった。
 昭和33年(1958)岐阜県岐阜市に生まれ、多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科に進学したが、1年在学した後、東京芸術大学美術学部デザイン学科に再入学して、昭和57年(1982)卒業した。1980年代から領域横断的でかつ時代を映す作風で注目されてきた。作品制作の他、身体を媒体に表現し、自己の可能性を追求し続けた。Pants
その初期のころの作品が今回展示されている「PANTS」(1981)である。描くことにも、伝統的な彫刻にもこだわらず、敢えてで段ボールを使って造形している。「美はモノとモノの間の隙間に宿る」との言葉を残しているという。
 近年では、館内の展示室だけでなく、さまざまな地域の人々と共同制作を行いながら、受取り手の感受する力に焦点を当てたアートプロジェクトを展開し、社会で芸術が機能する仕組みを創出している。2003年大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレにて「明後日新聞社文化事業部」を設立、同時に「明後日朝顔プロジェクト」を開始した。2005年の水戸芸術館「HIBINO EXPO」、2006年の岐阜県美術館「HIBINO DNA AND」、2007年の金沢21世紀美術館「 ホーム→アンド←アウェー」方式、熊本市現代美術館「HIGO BY HIBINO」などでの個展、などを開催している。2022年から東京芸術大学学長に就任している。
 今回の展覧会は、そもそもタイトルからして私には意味不明で、率直なところ展覧会の企画者の意図に沿った鑑賞はできなかったように思う。ただ、アートかデザインかはさておき、日ごろなかなか目にする機会がなさそうな種類の作品を観ることができたのは、私にとっても収穫があった。たとえば、三宅一生にかんする展示などは、私の通常の展覧会鑑賞の範囲ではありえなかったのかも知れない。こういう機会も良いものだと思う。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2023年8月 | トップページ | 2023年10月 »