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2023年11月

秋の東北旅行(6)

本堂
 庫裡に入って順路標識にしたがって進むと、本堂に着く。本堂は正面38m、奥行24.2m、棟高17.3m、入母屋造の本瓦葺で、室中(孔雀の間)・仏間・文王の間・上段の間・上々段の間・鷹の間・松の間・菊の間・墨絵の間・羅漢の間の10室から成る大規模な建物である。それぞれの間は、部屋の使用目的にふさわしいテーマに沿って描かれた絵画や彫刻で装飾されていて、それぞれ天井も造りが異なる。昭和28年(1953)国宝に指定された。
 墨絵の間以外の障壁画は昭和60年(1985)から制作が開始された精巧な復元模写が導入されている。本堂の中は、写真撮影が全面的禁止となっている。Photo_20231130060301
 法要が営まれる室中孔雀の間(しっちゅうくじゃくのま)は、本堂の中心となる部屋である。襖絵は仙台藩最初のお抱え絵師 狩野左京による「松孔雀図」で、手前右側より左回りに冬→春→秋と四季の移ろいを描くことで、世俗的な時間を超越した場所であることを表現している。正面の「雲に飛天」の彫刻や虹梁の迦陵頻伽の絵画とともに、この部屋が「この世の浄土」を具現化した空間であることを示している。
 室中の奥に位置する仏間は、本尊の聖観世音菩薩像、初代藩主政宗から12代藩主斉邦までの位牌、瑞巌寺三代開山の木像、歴代住職の位牌が祀られている。襖絵は金地の上に咲き誇る「桜図」で、黄金世界を表現することで浄土を表わしている。須弥壇前面の「牡丹唐獅子図」は、獅子が文殊菩薩の乗り物であることから、仏の智慧を象徴するものである。
 文王(ぶんおう)の間は、伊達家一門の控えの間で、藩主との対面の場である。襖絵は狩野派と共に桃山絵画を担った長谷川等伯の高弟であった長谷川等胤による「文王呂尚図」で、理想の国家とされる周王朝の基礎を築いた文王と名補臣太公望呂尚との出会い、国都洛陽の繁栄、さらに狩猟場面を描いている。
 上段の間(じょうだんのま)は藩主御成の間で、他の部屋より畳面が一段高くなっている。明り取りの火頭窓と違棚が正面奥に、帳台構が右手に設えられている。襖絵「四季花卉図」は平和と豊かさを、床の間「梅竹図」は藩主の理想的資質として求められる「高潔と清操」を、帳台構の「牡丹図」は富貴を、それぞれ表している。さらにこの間には、伊達政宗甲冑倚像復元像がある。これらは平成の大修理完了を記念して制作され、平成30年(2018)の藩祖忌において開眼法要が執り行われた後、ここに安置された。
 上々段の間(じょうじょうだんのま)は、天皇あるいは皇族をお迎えするための部屋である。藩主御成の間よりさらに一段高くなり、付書院、違い棚を設え、天井の格子が花菱格子となっている。違棚の「紅白椿図」に描かれた大椿は、32,000年に一つ年輪を加えるとされ、皇室の永遠の繁栄を願ったものとされている。明治9年(1876) 6月明治天皇の東北御巡幸の際に行在所となり、一夜をお過ごしになった。

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エマニュエル・トッド『我々はどこから来て今どこにいるのか』下巻

「場所の記憶」として永続する家族類型が歴史を規定する
 まずこの本の内容を、ごく大雑把にまとめる。
⑴なぜ人類の下層構造はいつまでも残存するのか ─「場所の記憶
 人類社会の価値観・習俗を規定し、その結果として歴史を規定するのは、教育・宗教・家族から決まる人々の無意識層および下意識層、つまり下層構造である。そのなかでも根源的なのは家族類型である。Photo_20231130145101
 ユーラシア大陸中央部では、農業発生の中心地に近かったため、家族的・社会的形態が経験した時間、すなわちマクロな歴史時間が長く、家族構造がより高度に複合的になり、原初の未分化核家族から外婚制共同体家族、内婚制または一夫多妻制の共同体家族が派生した。
 ユーラシア大陸西周縁部では、相対的にその歴史時間が短く、純粋核家族とその周縁に残存する原初的な未分化核家族となった。
 歴史が進み時代が変わっても、その根源的な習俗が変わらず特定の地域に残るのは、「場所の記憶」として説明される。価値観の継承は、親子・兄弟など家族の枠内のみならず、ひとつのテリトリーすなわち「場所」を共有する大人たちと子供たちとの間でおこなわれる。そして個々の人間が濃密には意識していない信念、いわば「弱い価値観」が、あるテリトリーにおいて、長い年月、ときには果てしなく生き続ける。個々人はフレキシブルに郷に入れば郷に従うが、気軽な、強制を感じない「弱い価値観」こそが、軽やかな模倣や居心地の良さなどを通じて、移住者を、意図することもなく無意識に適応させて「場所の記憶」を根深く維持する。多くの個人がむしろ弱く有している価値観が、集団レベルではきわめて強く頑強で持続的なシステムを生み出し得るのである。
 宗教にかんしても、たとえばパリなどフランス中央部では、かつてはカトリック教が定着していたが、今では人びとの宗教的関心も宗教的慣行も希薄化しているにもかかわらず、カトリック教的な価値観、つまり必ずしも平等主義的でなく権威主義的な性向は根強く残存して、社会・政治・経済の活動に大きな影響を与え続けている。トッドはこれを「ゾンビ・カトリシズム」と名づけている。

⑵民主制はつねに原始的である
 民主主義は、人類学的には原始的現象である。主な成立要因は都市の発生と発展と考えられ、言語や神話から推定すると、ギリシアを2500年遡るメソポタミア・シュメールに民主主義の嚆矢が見出される。互選あるいは合議に基づいてリーダーを選出したのである。古代インド、インカ帝国の地域共同体でも同様のことが見られる。しかしトップの人物は名門一族からという場合が多く、親族グループが未分化であれば世襲はできないが、平等主義的ではない。代表者たちは事実上の寡頭支配集団を構成してしまうので、原始民主制と原始寡頭制の区別は困難である。以後も、民主制と(実質的な)寡頭制とは、つねに近親的である。
 インド・中国・中東よりずっと遅れて、ヨーロッパでは都市化が中世になってようやく進展した。それに先んじて、フランスでは、旧ローマ帝国支配下でローマ風平等主義的核家族の痕跡があり、北フランスでは平等主義的核家族が、イタリアでは父系制共同体家族が出現していた。イギリスでは未分化の原初的に近い絶対核家族が発生し、この原初的民主主義かつ寡頭制の残存が、17世紀に自由主義革命を可能ならしめた。
 16世紀以降のヨーロッパは、「軍事革命」が絶対主義を促進して、権威主義的国家の勃興が続いた。ドイツは、直系家族にもとづく権威主義的かつ不平等主義的家族システムの大国で、イデオロギー的革新は、ずっと後の脱宗教化の時代のナチズムとなった。
 ヨーロッパで、政権交代をともなう自由主義的民主制が容易に実現したのは、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークの核家族システムの国だけだった。
 イギリスでは、絶対核家族のもと、自由主義だが寡頭制的な体制が確立し、産業革命、農地革命と労働者人口増加で有権者比率は収縮したが、不平等への不満は小さかった。
 古代ローマ時代の父系性共同体家族が、帝政時代に平等主義的核家族に変容したフランスでは、「抽象的普遍的人間像」を理念として打ち出したが、その理念は普遍的だが空想的であった。
 アメリカは、イギリスからの独立時、イギリスの権威主義を否定し、普遍的で平等主義的な民主制を造ろうとした。そして人類史の原初的形態に近い絶対核家族の下層の上に、白人たちあるいは白人に後から追加された疑似白人たち(アジア人や最近のインディアン)の平等を実現する一方で、そのために黒人を差別する民主制を達成した。アメリカの「具体的普遍的人間像」は、他者(黒人)との境界線を必要とし、レイシズムと非過分であった。絶対核家族のアメリカの民主制は、人類(ホモ・サピエンス)の原初的類型に近く、あるがままの自然さという意味でより普遍的と言える。
 民主主義的で個人主義的な普遍は、アメリカ、イギリス、フランスのみで存在している。「民主制」は、演繹的・哲学的な理念ではなく、経験主義的・人類学的な事実であり、普遍主義的な性質のものではなく、エスニックで、排他性を必要とし、ナショナリズム、レイシズムをともなうものである。「民主制」は、自らの領土において、自らのために自らを組織化する特定の人民のものである。この集団は、自分たちの領土を護る。人類一般のために物事を決する抽象的な集合体ではないのである。
 当事者たちが気づかない人類学的基底が残存するため、自由主義的民主制が不平等的権威主義体制に変異することがあり得ることは、つねに忘れてはならない。

⑶高等教育による新しい格差と分断
 20世紀初めのアメリカの教育革命以来、まず先進国で、そしてそれを追って開発途上国で教育が普及し、さらに高等教育が普及していった。「識字化」にはじまる教育の普及は、人々の社会の発展に大きく寄与したことは言うまでもない。
 しかし高等教育の拡大・普及は、社会を、そして政治・経済をリードする高度な知識の取得によって、それらを享受した人々のステータスを高め、それは「メリトクラシー」の思想を生んだ。その結果、社会に新たなエリート階層を形成するようになった。アカデミアは、公式イデオロギーはたいていリベラル・進歩主義・左翼だが、客観的にもたらす機能は、平等の破壊をもたらしたのである。
 アメリカでは、黒人を差別することで平等となっていた白人層の内部に、高等教育による分断が加わるようになった。1970年代にアメリカは世界一の高等教育普及率を誇るようになり、1980年レーガン大統領就任ころから、経済的にグローバリズムによる新自由主義の時代、すなわち不平等の時代となり、1980~2015年にはアメリカ全体の最富裕層の所得が激増し、経済的不平等が毎年拡大するようになった。
 グローバリズムは、国際的には富裕国と貧困国との格差をもたらし、国内的には黒人層と新たに教育格差から加わった新しい下層の人びとに大きな経済的打撃を与えた。
 黒人大統領オバマを輩出し、ラテンアメリカ系、アジア系移民に門戸を開け、2010年以降増加する白人以外のアメリカ人の優遇を唱えて、アメリカの優越的地位の継続・発展の夢を唱えて、有権者の多数を掌握するかに見えたアメリカ民主党だが、トランブは、中国に騙され、同盟国(トルコ、サウジアラビア、フィリピン)に愚弄されたアメリカをごまかさずに引受け、グローバリズムのもたらす国民の困窮を指摘して選挙民に向かって世界の現実を述べることができたことで、大統領選挙に勝利した。
 教育の普及は一定度世界的収斂を示すが、発展途上の国々が教育の成果たる頭脳を先進国に略奪されることも恒常化している。アカデミズムは新しい格差を生じるので、社会のイデオロギー的分裂は超克不可能であることも注意すべきである。

⑷直系家族型社会─ドイツと日本
 平等主義的意識が低い直系家族は、社会的規律と個人的内向を同時に強化するが、並外れた効率性とパフォーマンスを発揮するときがある。父から子への継承を重視する直系家族の特徴として、ドイツと日本は、産業・技術の継承・継続に熱心であり、それが産業の成功に貢献している。この2国は、集団的な組織能力、国民レベルのナショナルな集団意識に優れる。たとえば政府が貿易制限を設けなくても、自然に自発的に自国製品の購買を選好する。
 日本は、自ら自分たちは特異だと自覚し主張している。ドイツも日本も、ゾンビ・ナショナリズムが浸透しているのである。これに対してゾンビ・平等主義核家族のフランスは、どの国も皆同じ人間と思うお人好しである。
 ただドイツ・日本の2国は、ともに出生率の低迷に苦しんでいる。この点では、ドイツ・日本の父系の強い直系家族が不利であり、個人主義的・自由主義的・女権拡張的なヨーロッパ的核家族型社会が有利である。すなわちホモ・サピエンスからさほど遠ざかっていない、原初に近い社会のほうが、出生率改善によりよく機能していると言える。
 ドイツと日本が異なるのは、移民に対する方針である。日本は、人口の漸減をも受け入れ、移民を強く抑制しているのに対して、ドイツは近年移民受け入れに積極的となった。しかし移民がドイツに適合できるためには、かなりの時間を必要とする。「場所の記憶」は、郷に入っては郷に従う人類の特性から、じゅうぶんな時間をかけさえすれば出自の性向を脱して、移入した先の場所の習俗に倣うようになるが、短時間に大量に移入すると、移民だけが集合して独自のグループを成し、不満のある時は移入先に対して反乱を起こすことがある。ドイツも、苦い経験を繰り返すと、日本のように移民を閉ざすようになる可能性はある。

⑸ヨーロッパ連合の失敗
 EUは、2つの大きな過ちからスタートした。
①経済の決定力がなにものにも勝るとの誤解
②諸々のネイションのあり方が、消費社会のなかでひとつに収斂していくという誤解
 しかし人類の世界は、そんな単純な仕組みにはなっていない。経済の推移だけでさえも、教育・宗教・家族の影響力という深層に潜む力が支配しているのだ。
 EUは、平等主義核家族のフランス中央部のエリートが提案した、経済統合による共存共栄から加盟国が実質上人々の統合を果たし、「市民とネイションの自由と平等の繁栄」を目指すものであった。まさに平等主義を前提とした理想を追求したものだが、ユーロ圏各国の家族類型を冷静にみると、46%が直系核家族、27%が平等主義核家族で、そもそも直系核家族のドイツが主導権を握る傾向を包含したものであった。さらに、フランスの周縁部はパリのある中央部とは異なり、ゾンビ・カトリシズムの地域で、反宗教改革の延長から権威主義的で不平等主義的な傾向があり、直系家族型に通じる性向を有する。
 家族類型と宗教の影響の複雑な複合の結果、権威主義的な気質がユーロ圏で支配的となっている。ユーロ圏全般に、緊縮経済政策を選好し、トップダウンの権利を歓迎するイデオロギーが存在している。単一通貨ユーロを構想したのは、実はそのようなフランスのエリートたち、1981年政権についたフランス社会党のエリートたちであった。単一通貨ユーロは、人々に仕えるためでなく、人々を支配するためにつくられた通貨であった。かくてEUの管理は、現実には人間不平等の価値観で進められた。
 ユーロのせいで、経済の強い国と弱い国との間の競争がより過酷になった。平価切下げで無理な条件から自国経済を護る手段が失われ、イタリアやフランスの産業は、ドイツやスカンジナビア諸国との競争に耐え得なくなった。すでにフランスは、独自に経済政策を立案・遂行する能力を喪失して、EUに、つまりはドイツに、ほとんど隷従しているのである。ユーロを提案したフランスは、ドイツに敗れ去り自滅したと言える。
 西ヨーロッパと東ヨーロッパの賃金水準の格差が、若い労働力の移動、とくにドイツへの大量流入を惹き起こし、東・南ヨーロッパの人口破壊まで招いている。EUで国ごと併合された旧東側諸国は、低賃金を西側に受益させながら自分はめぐまれないままとなり、精神不安まで発生し、ネイションとして生き残れるかどうかの瀬戸際に瀕しているのである。
 いまやヨーロッパはドイツにしっかり掌握されている。この権威的かつ不平等的なEUに反抗したのが、本来自由主義的価値観を担う核家族型が支配的なイギリスであった。ブレグジットは、合理的で適切な判断であった。

⑹共同体家族型社会─ロシアと中国
 ロシアでは、ソ連崩壊後の1990~2000年の大混乱の後、選挙制度と全会一致的傾向の強い投票行動を組み合わせて安定化を図る権威主義的民主制が台頭した。その背景には共同体家族の価値観がある。権威主義は人民のなかに根を張っていて「場所の記憶」として際限なく再生産される共同体家族の価値観を源泉にしている。
 それは父系制農村の緊密な対人関係、平等主義的な大家族、自主的共同組織、そして権威に対して甚だしく恭順的、という特性をもち、国家主導の社会主義に適合するものであった。スターリンは、それをうまく利用して、抗しがたい集団主義の夢を実現させた。ロシアを支配している権威主義的民主制は、一人の人物とその一派の結果であるよりも、むしろロシア人の政治的体質の表現である。西側からは「独裁者」に見えるプーチン大統領だが、ロシア市民の多くは彼に満足していると思われる。
 クリミア半島奪回、ウクライナ内のロシア系住民の自治権獲得などは、伝統的な人民自決権に照らせば正当な調整と思われる。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツを敗退させ連合国勝利に貢献したこと、そして今の地政学的現実の考慮からは、ロシアに対する西側の脅威は過大評価そのものだ。冷戦の勝利に酔うアメリカがふたたび全世界の支配者を自認し始めるのを阻止し得る唯一の均衡要素として、我々はロシアの存在に感謝すべきである。
 中国は、アメリカをはじめとする西側に、安価な労働力の提供、大きな市場の開放などで、とくに富裕層に貢献したので、きわめて好意的に捉えられた。
 中国は(インドも)父系性へ向かう傾向を示していて、男性の出生を女性より優先しようとしている。強い父系性原則から権威主義に、しかしあわせて平等主義に結びついた共同体家族的価値観の残留がある。中国の価値観に潜在する平等主義は、経済的不平等がいちじるしく拡大する時期には、社会的・政治的システムの均衡にとってひとつの脅威となる。そのため指導者たちは、民衆を恐れる気持ちのなかで生きている。体制硬直化が中国の民衆に重圧をかけているので、体制は民衆の気持ちを逸らすために危険なまやかしの標的を作り上げる。つまり外国人恐怖症的なナショナリズムが中国共産党によって培養されている。その点で、中国共産党はマルクスレーニン主義から遠ざかり、ファシズムに近づいて、それが隣国日本に毒を盛っている。繰り返し南京大虐殺を叫ぶのである。
 世界全体の需要鈍化にぶつかり、それに起因する成長率急落を被り、男女人口の著しい不均衡に苦しみ、平等主義文化の状況下で不平等の台頭に直面している以上、13憶の人口を抱える中国は、世界の不安定化の大きな極のひとつになるだろう。

 以上が、エマニュエル・トッドの述べた内容の梗概である。以下に、私の感想を簡単に書く。
 これまでの多くの論考、歴史書などが、ほとんど「経済面の重視」が目立っていたことは、トッドの言う通りであろう。トッドがもっとも主張したいことは、経済だけでなく、人類の心理の、また歴史の深層に潜む、下層の意識構造を考慮しないと、歴史の進み方、世界のありさまを理解できないというものである。私には、彼の述べることすべてがよく理解できたとまで言えないが、私がこれまで理解できなかった世界情勢や歴史の事実に対して、こういう切り口、こういう理解の仕方があったのか、と考えされられることがあったのは事実である。たとえば、アメリカの軍事・外交の専門家ロバート・ゲイツの書『Exercise of Power』にある、「歴史的事実としては、悪虐 な独裁者を取り除いても、代わって登場する人物もまた大問題の人物となるのが普通だ」という現実に、トッドのいうような事情があると納得できる。

 1990年代末ころに発刊されたアメリカの歴史学者デイヴッド・ランデスが記した『強国論』という本に、国が経済的成功を実現するためには、その国の経済に関する態度、いわば文化のありようが決定的である、との説明があった。私も仕事を通じての直接の経験で、国によってその文化が大きく異なることは体験した。しかしなぜそのような国別の差異ができるのかの説明はランデスの本にはなかった。今回、トッドの本で、かなり理解できたように思う。
 ただその意味では、今回のトッドの本では、イスラム系の人たちの家族類型による行動の特性についての論考がほとんどないのは残念であった。
 最後に、トッドの論考のなかで、とくにロシアに対する評価については、私はほとんど了解できない。私には、理不尽なロシア贔屓にしか見えない。
 すべてが理解できたのでもなく、すべてが納得・了解できたものでもないが、これまで見たことのない斬新な視覚を提供してもらえたことは、とても有難いし感銘もあった。

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秋の東北旅行(5)

庫裡
Photo_20231128055101  庫裡(くり)は「庫裏」とも表記され、仏教寺院における伽藍のひとつで、主として台所の役割を担う建物である。瑞巌寺では、本堂などの館内の拝観は、ここから入場する。正面13.8m、奥行23.6m、切妻造の本瓦葺で、大屋根の上には入母屋造の煙出しがある。
 庫裡は実用本位の建物なので、通常は装飾が施されないが、瑞巌寺では正面上部の複雑に組み上げられた梁と束、妻飾の豪華な唐草彫刻が漆喰上に美しく設えられている。
昭和34年(1959)に国宝に指定さている。

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秋の東北旅行(4)

松島・瑞巌寺
 2日目の朝は、かみのやま温泉の宿を出て、宮城県仙台市の傍を走り、松島湾岸の瑞巌寺に向かった。ここには13年前、東日本大震災の半年前に訪れたことがあった。そのときは、平成20年(2008)11月から平成30年(2018)までを予定していた「平成の大修理」が行われている最中で、拝観ができなかったので、円通院を主に見学したあと、小雨の中を周遊船で松島湾の島々を観たのであった。

瑞巌寺の概要
 道路45号線からほぼ海岸線に直角に瑞巌寺に向かって歩くと、まもなく総門がある。切妻造、本瓦葺の薬医門である。ここから境内に入ると、長い参道がある。Photo_20231127054901
 参道両脇には「忠魂碑」、「鉄道殉職者弔魂碑」などが並ぶ。参道の杉並木も、真っすぐ高く聳えて、壮観である。
 瑞巌寺の正式名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)という。
 平安時代の天長5年(828)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の延福寺であったと伝えるが、事実だという確証はない。
 鎌倉時代、禅に傾倒した鎌倉幕府執権北条時頼は、この寺に来て武力で天台派の僧徒を追払い、法身性西を住職に据え、臨済宗建長寺派円福寺と改め、禅宗寺院に変えたという。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、ついに死に至らしめたともいう。臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。
しかし戦国時代の終わりには、火災によって廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573)ころ、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
Photo_20231127055001  江戸時代に入り、仙台藩を支配した伊達政宗は、自領内の円福寺復興に着手し、慶長9年(1604)から全面改築を行った。慶長14年(1609)5年の歳月を投入した全面的修復工事が完成し、このときから寺の名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改められた。元和6年(1620)から2年を費やして障壁画の制作が行われた。今に伝わる本堂など桃山風の国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営による。
 以後、伊達藩歴代の藩主は、瑞巌寺を厚く保護し、幕末まで隆盛を極めたという。
 しかし、明治維新で、仙台藩(伊達藩)が盟主となった奥羽列藩同盟は戊辰戦争に敗れた。続く新政府の神仏稀釈方針により、瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多くが荒廃した。
 その後の復興としては、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際の下賜金、大正12年(1923)地元民の寄付金、などの支援もあり徐々に修復が進み、さきの大戦後の昭和28年(1953)本堂が国宝に指定された。
 平成20年(2008)11月から、東日本大震災をはさんで、平成30年(2018)まで「平成の大修理」が行われ、平成30年6月落慶法要が営まれた。

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秋の東北旅行(3)

荒川峡と鷹の巣吊り橋
Photo_20231126054701  日本海東北自動車道の荒川胎内ICを出て、国道113号線で東に行くと、景観はそれまでの平野と田園から、山岳と森林とわずかの田園へと大きく変化する。このあたりは、とりわけ過疎化が進んでいる地区であり、また最近は線状降水帯による集中豪雨の被害で、数少ない民家から住人に大きな被害が出たという。復旧に時間を要して、最近ようやく原状に戻りつつあるというが、厳しい環境である。過疎化が進み、産業が期待できない地区なので、行政としても支援が難しいのは理解できる。Photo_20231126054702
 関川村から山形県小国町までの約20kmに渡って続く荒川峡もみじラインと呼ばれる紅葉の名所がある。渓谷のなかの観光スポットとして鷹の巣吊り橋があり、ここでバスから降りて、渓谷を観る機会をえた。ただ、令和5年は吊り橋工事中のため、吊り橋の外観が「工事中」の養生姿となるとともに、通行が制限されている。実際、この橋を渡ると、吊り橋特有の揺らぎに加えて、底板のギシギシという軋み音が聞こえる。少し危なっかしい雰囲気である。
 この鷹の巣吊り橋付近は、新潟県景勝100選に指定されていて、清流荒川、山々の紅葉、さらに風情のあるつり橋を一緒に眺められる絶好の観光スポットであるという。しかし今年は橋の工事中に加えて、今年の夏の猛暑を受けて、紅葉が順調でなく、紅葉になりきる前に葉が枯れる樹木が多いという。
 このあと、山形県かみのやま温泉に移動して、1泊した。

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秋の東北旅行(2)

新発田付近の白鳥飛来
Photo_20231125060201  北陸自動車道を北上し、磐越自動車道と交わる新潟中央ICを過ぎると、高速道路の名が日本海東北自動車道と変わる。この高速道路は未完成で、現在は村上市の朝日地区までのごく短い間しか通じていないが、その入口付近は阿賀野市である。このあたりから、新発田市にかけて、田んぼに毎年冬になると、野生の白鳥の群れが飛来する。新潟県全体では毎年10月頃から3月頃にかけて15,000羽もの白鳥が中国北部やロシアなどの北方から飛来するのである。
 はじめて野生白鳥の飛来が観測されたのは、昭和25年(1950)であった。その後、昭和29年(1954)吉川重三郎(通称白鳥おじさん)が、日本で初めて野生のハクチョウの餌付けに成功した。この年「水原のハクチョウ渡来地」として国の天然記念物に指定された。平成20年(2008)には湿地の生態系を守る国際条約であるラムサール条約の登録湿地に指定されている。

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秋の東北旅行(1)

 残暑が厳しかったこの夏も、ようやく秋らしくなった11月の上旬、3泊4日で旅行会社のバス・パッケージ旅行で東北を訪れた。
 早朝から湖西線・北陸線を走るサンダーバードで金沢に行き、北陸新幹線に乗り換えて上越妙高駅まで鉄道で移動する。そのあとは大型バスによる旅程となる。
 さいわい2日ほどは少し天候が悪化したが、いずれも小雨に収まり、この地方のこの時期としては気温も高めでとても過ごしやすかった。
 下記の地図に、今回の旅程の概要を示す。
 大阪府の自宅を出て、京都府、福井県、石川県、富山県を鉄道で通過して新潟県に入り、ここらかバスで新潟県、宮城県、岩手県、秋田県、山形県を駆け抜ける強行スケジュールであった。それでも荷物はいつもバスに預け、移動に時間的ロスがなく、バスでは眠くなったらうたた寝できるという気楽さがあり、総合的にはとても快適な旅であった。
東北旅行旅程図
①新発田付近の白鳥飛来 ②荒川峡と鷹の巣吊り橋
②松島・瑞巌寺 ④松島から中尊寺へ
⑤中尊寺 ⑥中尊寺から田沢湖へ
⑦田沢湖畔のたつ子像と秋田駒ヶ岳 ⑧角館
⑨立石寺 ⑩五色沼と裏磐梯
⑪大内宿 ⑫湯之上温泉駅から西若松へ
⑬会津鶴ケ城

「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(4)

3.「現代国際陶芸展」以降の走泥社
 昭和39年(1964)東京オリンピック開催を機会に、国立近代美術館(東京)、石橋美術館(久留米)、国立近代美術館京都分館(京都)、愛知県文化会館美術館(名古屋)を巡回して「現代国際陶芸展」が開催された。日本で初めて世界各国の陶芸が一堂に集められ、国内の多くの場所で展示された。
 この展覧会での海外からの出展作品は、高名な陶磁器研究家であり自身も陶芸家であった小山冨士夫(1900-1975)がこの年、欧米各国を旅し、展示作品を選出して集めたものであり、したがって必ずしも世界全体から、偏りなく集めたものではなかった。
それでも、海外の陶磁器芸術に改めて触れたわが国の陶芸界は、「日本陶芸の敗北」と表現されるほどの衝撃を受けたのであった。
 山田光「塔」(1964)がある。1964
 ここでは、タイトルの内容が直接登場するような寸法ではなく、机上模型のようなサイズ感覚で、鮮明な色彩を施し、塔というより、壁の集合のような表現でより抽象性が増しているようだ。
 熊倉順吉「風人’67」(1967)がある。
 これは、表現そのものが高度に抽象化して、敢えて陶器の塊で孤立して閉じ込められた生命体のようなものを表現しているように思える。
67  1964年「現代国際陶芸展」を観た当時の走泥社メンバーたちが、「日本陶芸の敗北」とまで感じた理由や内容は、私にはよくわからないが、私なりの感想を書き留めておく。
 絵画や普通の彫刻という表現形式と比較するならば、陶芸は、これまでの日本の陶芸文化の緊縛という文化的拘束力以外にも、いくつかの特徴があるだろう。陶磁器は、粘土を造形した後に窯に入れて高温処理をするため、寸法も形状も多少は変化するし、色彩にも制限があるだろうから、表現の精度には限界がある。また、窯に入れるためには、あまり大きな造形物は造りにくいだろう。その反面、出来上がった造形物はきわめて安定で、継時変化はきわめて小さいことが期待できる。
 要するに、硬くて、脆くて、比較的小さな塊しか実現しにくいが、継時変化はごく小さく安定であり、色彩も劣化しないだろう。
 走泥社の人たちが、他の芸術分野の作品や海外のアーティストの作品に対して、コンプレックスを持つのは、ひとつには、あまりに対抗意識が強くて力み過ぎていたのではないか、と推測する。あわせて展示されているパプロ・ピカソやイサム・ノグチの陶芸作品を観ても、彼らのごく自然な脱力感は、単純に対照的に思えた。
 制作上の技術的制約から、比較的小さな塊で勝負せざるを得ないという側面もある。たとえば、カンバスなり紙なりの広がりに描く絵画では、画面全体の構成があり、その中で主役や脇役を勤める対象が描かれる。鑑賞する者には、絵画の主張が理解しやすい。それに比べると、陶芸の場合は、拡がりが小さく、全体の構想も単調になりがちで、表現の中心部分もわかりにくいことが多い。それなら複数・多数の陶芸作品を、集合・統合するような表現方法もあるだろう。今回の展示でも、そのようなアプロ―チが一部で見られた。
 陶芸に堅苦しいとの感覚・思いがあるとすれば、自分の表現方法のあくまで一部として、パプロ・ピカソやイサム・ノグチのように、気軽かつ積極的に取り組むのはいかがであろうか。
 私はこれまで、陶芸に特化した展覧会を鑑賞したことがなかった。今回も、私には難解で消化しきれない鑑賞であった。それでも、半世紀余り前からのアーティストたちの真摯な挑戦は、門外漢の素人にも感動を与えるものであった。

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「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(3)

2.オブジェ陶の誕生とその展開
1956  昭和27年(1952)東京でイサム・ノグチの作品展覧会が開催された。それは、走泥社のメンバーたちに大きな衝撃を与えた。すでに「自由」を求めて新しい陶芸作品に取り組んできたと思っていた彼らは、まだまだ自分たちが日本の陶芸の伝統に強く拘束されていることを自覚したという。すでに実用性の緊縛からは離脱したと思ったが、イサム・ノグチやパプロ・ピカソの作品は、色彩、表現がはるかに伸びやかで、もっと自由である、と感じたのだ。
1959  彼らは、陶芸の表現の枠をもっと拡張しようと懸命に努力を重ねた。
辻晉堂「時計」(1956)は、抽象絵画を立体造形の陶磁器に翻訳したかのような作品である。
 鈴木治「汗馬」(1959)がある。これは陶磁器で薄い板を形成し、紙のように少し曲げを加え、その上に少ない色彩で描いている。これもまさに抽象絵画を台の上に載せて提示したかのようである。Photo_20231122060901
 八木一夫「休息の眼」(1959)がある。造形の形態は、ますます抽象性と複雑さを増して、思索的な雰囲気を伴っている。
 伝統にとらわれない「オブジェ陶」は、歴史の長い日本の陶芸界において、また美術界においても一時代を築いて、多方面から注目され評価されるようになった。
 1950年代の終わりころから1963年までの間、走泥社の陶芸革新運動は、このような活動を通じてひとつのピークを迎えた。

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「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(2)

1.前衛陶芸のはじまり(続)
Photo_20231121072901  その後、ひろく陶磁器以外の美術にも関心を注いだ芸術家たちは、昭和27年(1952)ころから、イサム・ノグチ、パプロ・ピカソや辻晋堂らの陶による彫刻作品から影響を受けて、前衛的な作品を発表するようになった。
 昭和29年(1954)に発表された八木一夫の「ザムザ氏の散歩」は、実用器としての機能を持たない純粋な立体造形として作られ、現代陶芸史の記念碑的作品として位置づけられている。これはフランツ・カフカの実存主義小説「変身」の主人公のイメージから造形したものだが、小説の描写からも逸脱して、自由な想像を取り入れている。陶磁器の質感、硬さ、自由な造形機能が活かされている。
Photo_20231121072902  鈴木治「作品」(1954)も、紙箱の上にシールを張り付けたような立体物を、敢えて陶器で制作するという、実用性からまったく自由な造形である。ボール紙の変形などを、陶磁器という材料で固定して強調するという効果は、明白で効果的である。
 このように実用性を削ぎ落として純粋な鑑賞目的で作られた、走泥社の作家たちの陶芸作品は「オブジェ焼き」と呼ばれた。

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「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(1)

 走泥社(そうでいしゃ)は、昭和24年(1948)八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫の5人が発足人となって京都で結成された陶芸芸術革新を目指すグループであった。彼らはいずれも京焼の伝統的な窯業地である五条坂周辺で活動していた若手作家であった。
 「走泥社」の名は「蚯蚓走泥紋(きゅういんそうでいもん)」、すなわちミミズが泥を這ったような文様を特徴とする、中国宋代の陶芸様式の名から取られている。1950
平成10年(1998)「創立50周年記念走泥社」展覧会(京都市美術館)の開催を最後に解散するまで、50年間にわたってわが国陶芸界の革新を牽引してきたとされる。今回の展覧会は、とくに大きな貢献をしたとされる前半期の1973年ころまでの作品を展示している。


1.前衛陶芸のはじまり
Photo_20231120061201  走泥社発足当時は、伝統的な京焼の造形に、パウル・クレーやジョアン・ミロなどの影響が見られる絵付けを行った作品を発表していた。たとえば八木一夫「二口壺」(1950)がある。壺という機能を保持しながら、現代絵画風の形状や装飾が施されている。
 わが国古代の陶器からヒントを得て、造形した花器もあった。その一例として、宇野三吾「ハニワ形花器」(1950年ころ)がある。
 これらは、思い切った新しい意匠を導入するという意欲に満ちていたが、それでも伝統的陶磁器の文化として、実用器の範囲をまだ出てはいなかった。

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一水会 第84回展覧会

 会社勤務時代の友人が入選して、この展覧会で展示されているというので、秋晴れの快適な日、兵庫県立美術館の会場まで出かけた。
 会場はギャラリー棟3階のギャラリーで、かなり広いスペースを用いた展示であったが、思った以上に盛況でかなりの鑑賞者で賑わっていた。あとでわかったことだが、展示作品の作者も多数いたらしい。
 まず目的の作品を鑑賞した。「雲ノ平の夏」という油彩である。Photo_20231119060201
 富山県飛騨山脈の景観を静謐に描いた作品である。険しさとともにそこはかとなく柔らかみと優しさがあって、観る者を突き放すような山ではない。山の前景にうねりをもって拡がる緑の広がりが、この地の豊かさを表わしている。この緑が、樹木なのか、草地なのか、少し判然としないが、観る者を癒す安らぎがある。丁寧で上品で精緻な筆致である。
 会場の一角には「一水会について」という掲示がある。
 「創立の精神」として、西洋絵画の伝統である写実の本道を守り、安易な会場芸術を非とし、技術を重んじ、高雅なる芸術をめざす、とある。
 「命名の由来」として、清朝初期の技法書「芥子園画伝」のなかの「十日一水五日一石」という語句から採ったもので、石井柏亭の発案により入念な作画態度を示すという意を含み「一水会」と命名された、とある。
 たしかに展示作品はいずれもポップアートのような作品ではなく、丁寧な技術を駆使した写実中心の作品ばかりである。ただ、抽象的表現を全面的に排除するもりではないらしい。
 この日は展覧会の開幕日であったこともあり、一水会代表山本耕造氏と運営委員玉虫良次氏の二人の一水会幹部の画家によるギヤラリートークが、1時間半余りにわたって実施された。
 ギヤラリートークでは、2名の幹部が来場者を2つの班に分けて、会場を半分ずつ担当して、個別に展示作品を前にして論評していく。展示作品全部というわけにはいかないので、一点3~5分程度という原則で、居合わせた作者からのリクエスト優先で進めていくものである。
Photo_20231119060202  私は、山本耕造先生の班で聴講した。内容の概要は下記であった。
・まず自分がなにを描きたいのか、目的・方針・主要ポイントをはっきりしておくのが良い。描き上げた後で、それらの自分の意図がうまくいっているか否かを自分で評価して考えることは良い反省になる。主張したいポイントは唯一でなくてもよいが、複数のテーマが競合するのは望ましくない。なにが一番のポイントであるかの自覚と表現は大事である。
・訴えるためには、大きく描く、濃く描く、明るく描くなどではなく、絵の構図こそが重要で決定的である。
・写真を用いて描くことも多いと思うが、自分の眼で直接観たことを大切にする必要はある。実物に直接対峙したときの対象のニュアンス、奥行き感、印象の強弱などは、写真とは違うことが多い。光や色の濃淡、明暗などは、写真とは違うと思った方が良い。
・絵を引きしまったインパクトのある表現にしたいとき、思い切って省略することを考えることも大切である。そのためには強調すべきものと省略してよいものとを、よく考えて選別する。
・絵の背景は、安定感の獲得、訴求点への誘導、立体感の表現、などの重要な要素にとって影響が大きく、実はとても重要である。
・描く対象は、有名なもの、高級なものなどだけでなく、何でもない身近なものでも、立派に美の対象となり得る。
・絵を描くときには、ミクロな見方とマクロな見方の両方から自分の絵の出来栄えを観察することが大切である。一生懸命熱中してミクロな見方のみでしっかり描き込んでも、マクロに見直すと単調になったり、平面的になったりしていることもある。絵全体の色の偏りが、意図していないような傾向なら、改める必要がある。
・自分の感覚に自信をもって、ときには大胆に多少抽象的な表現を取り入れるのがよい場合もある。
・絵のサイン(記銘)は、実はとても大切であり、きっちりきれいに書くことが大切。
 コメントは、優しい口調であくまで強制的でなく、すでに入選した作品ばかりなのでその優れた点も必ず指摘があり、あたたかい批評である。
 以上のような注意ポイントは、私のような自分で絵を描かない者にとっても、とても参考になる。
 思いがけず長時間会場に滞在することになったが、充実した時間であった。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(15)

安藤義茂の「刀画」
Photo_20231118055801  安藤義茂(あんどうよししげ、明治21年1888~昭和42年1967)は、愛媛県松山市に生まれた。東京美術学校西洋学科(現、東京芸術大学)に明治41年入学した。昭和2年(1927)第8回帝国美術院展覧会に初入選した。昭和15年(1940)関西居住の文展系画家である太田喜二郎、赤松麟作、新井完、坪井一男、野平上らと華畝会を組織した。
 昭和18年(1943)ころ、水彩をもって油彩画の効果を得ることを目的として、「刀画」の技法を独自に創案した。戦争の激化により、油彩に必要な油絵具の入手が極度に困難となったためであった。
 安藤義茂「二人」(1950)が展示されている。この作品は、戦後の制作と思われるが、すでに安藤義茂の特徴・得意技となっていた「刀画」で描かれている。水彩で描いた画面の表面を、刀で意図的に荒らして、油彩のような質感と量感をもたらすというものである。
 また、この絵は、見てすぐにわかるように、ルオーの画風が強く影響していると思われる。日本の西洋画としては、かなりユニークな作品だと言えよう。

 今回の展覧会には、計121点の作品が展示されている。私の鑑賞能力のキャパシティからみてギリギリである。正直なところ、来場して鑑賞してみるまでは、この展覧会にあまり期待していなかった。しかし実際に鑑賞してみると、想定していたよりはるかに興味深く、いつもように草臥れるものの楽しいひとときとなった。以上に書いた作品の他にも、作者不詳ながら素晴らしい作品もいくつもあったし、書ききれないだけの秀作も多々あった。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(14)

島崎鶏二の繊細な詩的絵
Photo_20231117054201  島崎鶏二(しまざきけいじ、明治40年1907~昭和19年1944)は、藤村の次男として長野県に生まれた。早くから画家を志し、上京して川端画学校に進学した。昭和4年(1929)にフランスに留学、アンリ・マティス、パブロ・ピカソを研究した。昭和6年(1931)に帰国後は二科会を中心に出品し、昭和9年(1934)には特待待遇となり、昭和12年(1937)には正会員に推薦された。岡田謙三と共に当時の二科会の両輪とも言われたが、昭和18年(1943)召集され、翌昭和19年(1944)従軍先のボルネオ島にて飛行機事故により戦死した。享年37歳であった。現在においては、画家としてより、精神的に不安定だった父をよく補佐した「秘書」としての役割のほうが高く評価されている。
 画風は詩的で哀愁を帯び繊細、と評され、父・藤村の作風にも通じるものがあるとも言われる。
 「朝」(昭和9年1934)が展示されている。男女の区別が不分明だが、ひとりの人物が海岸の岩場のような場所に立っている。ただ立っているのではなく、なにか張り詰めた緊迫した気配がある。たしかに「詩的」であり、繊細な絵であると思う。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(13)

中西利雄の不透明水彩画
Photo_20231116055501  中西利雄(明治33年1900~昭和23年1948)は、東京都に生まれた。日本中学校を経て、昭和2年(1927)東京美術学校西洋画科を卒業した。1920年代、日本水彩展、光風会展、帝展などに参加し、昭和3年(1928)にはフランスへ渡った。翌年、大学同期の小磯良平とともにヨーロッパを巡回し、サロン・ドートンヌに多数の作品を出品して入選を果たした。昭和6年(1931)日本へ帰国し、昭和9年(1934)第15回帝展に「優駿出場」を出展して特選を受賞した。昭和11年(1936)小磯良平・猪熊弦一郎らとともに新制作協会を結成した。
 「赤いスカーフ」(昭和13年1938)が展示されている。
 この作品が大きな注目を集めたのは、不透明の水彩絵具(グワッシュ)の採用であった。それまで日本で使用されていた水彩絵具は、重ね塗りができない透明水彩絵具であった。この作品では、不透明水彩絵具を導入して、その明確な特徴を際立たせて、それまでにないコントラストを表現している。描かれた女性の眼力も強く、肌の白さも強い光を跳ね返している。なにより、衣服の原色がまぶしい。
 この作品は、日本で描かれたのだろうが、木の椅子に堂々と座る女性、その意志の強そうな表情、室内とは思えないような強い光の表現など、ヨーロッパ留学中のモチーフによるものと推測される。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(12)

野田英雄の世界大戦直前の絵
 野田英雄(明治41年1908~昭和14年1939)は、アメリカのカリフォルニア州サンタクララに、熊本県出身の日本人移民野田英太郎とセキの二男として生まれた。ベンジャミン・ノダの英語名を持つ。当時のこの地は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地であった。Photo_20231115055901
 3歳のときに父の郷里熊本の叔父羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校に進んで卒業した。アメリカへ帰国の後、アラメダ郡のビードモント高校を卒業し、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学んだ。進学したカリフォルニア・ファイン・アーツを中退し、ニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加した。同校教授アーノルド・ブランチや在米日本人画家国吉康雄の支援を受け、壁画とテンペラ画を研究した。ここで知り合ったアメリカ人のルース・ケルツと結婚した。ニューヨーク市街のアパートで、貧しいながらもウォーカー・エバンスら若いアーティストらと交流しながら暮らした。
 ここで野田英雄は、アメリカ共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」を発表して注目され、美術賞受賞や美術展出品、壁画制作などが続いた。当時アメリカでは、公共事業促進局の連邦美術計画により、壁画などのパブリックアートの発注が盛んであった。
 1933年(昭和8年)には、アメリカ共産党と関係を持ちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手を務めたが、翌年には再び来日し、二科展に出品した。アメリカ共産党員であった野田英雄は、この来日でスパイの嫌疑を受けることになった。
 その後アメリカに戻って、新制作派協会会員として活動したが、制作中に目の不調を訴え、翌年脳腫瘍のため病院で30歳で早逝した。
 野田英雄「籠を持てる少女」(1932)という最晩年の作品が展示されている。まるでシャガールの絵のような超現実主義的な雰囲気の絵だが、画面にコラージュで張り付けられた新聞記事には、中国で国民党と共産党とが戦っているという内容が書かれているという。第二次世界大戦の寸前の緊張感が漂う内容なのであった。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(11)

粥川伸二のモダンガール
Photo_20231114200301  粥川伸二(かゆかわしんじ、明治29年1896~昭和24年1949)は、大正・昭和時代の日本画家である。土田麦僊に師事した。国画創作協会展へ大正7年(1918)の第1回から出品し,「妖影」などシュルレアリスム的な作品を発表した。昭和3年(1928)新樹社結成に参加し、「蘭船入津」「長崎港」など、長崎をテーマにした日本画を多く出品した。のちには院展で活躍した。
 粥川伸二「娘」が展示されている。
 黒いパラソルをさした女性は、華やかな柄の着物の下にブラウスを着て、典型的なモダンガールの風情である。小脇に抱えている書物は聖書のようだ。絹本彩色の純然たる日本画だが、その斬新な画題と、色彩の鮮やかさと明るさ、線の鮮明さなどから、日本画のイメージを抜けているようにも思える。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(10)

中澤弘光の日本画のような油彩
Photo_20231113060001  中澤弘光(明治7年1874~昭和39年1964)は、東京芝に旧佐土原藩士の子として生まれた。少年期から曽山幸彦に入門、曽山の没後は堀江正章に、洋画を学んだ。東京美術学校西洋画選科で黒田清輝に師事、修了の後は白馬会創立に参加し、同展覧会に出展を続けた。大正元年(1912)光風会創立に参加、大正11年(1922)ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表した。大正13年(1924)には、白日会を創設した。帝国美術院会員、帝国芸術院会員、帝室技芸員を歴任した。さらに昭和14年(1939)陸軍美術協会が発足するに当たり発起人の一人として名を連ね、第2回大日本陸軍従軍画家協会展、第1回聖戦美術展などに、いわゆる戦争画を出品している。
 さきの大戦後は昭和32年(1957)文化功労者、昭和39年(1964)勲三等旭日中綬章を受章した。
 今回展示されている中澤弘光「京舞妓」(昭和元年1926)は、ほとんど日本画のような様式の舞妓を描いた油彩である。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(9)

甲斐荘楠音の特異な存在感
 甲斐荘楠音(かいのしょうただおと、明治27年1894~昭和53年1978)は、京都市に生まれた。甲斐庄家は楠木正成末裔を自称した名家で、江戸時代は徳川光圀の推挙で9500石の大身旗本を勤めた裕福な武士であった。父正秀は甲斐庄家に跡継ぎ養子で入った後に離縁となり、別家を建て、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。
 楠音は、幼少時から喘息を患い病弱で、過保護に育てられた。体格も華奢で、後には芝居の女形に扮することもあった。
Photo_20231112062701  京都府立第一中学時代から絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校して竹内栖鳳らに学んだが、授業にほとんど出席せず1年留年した。その後、専門学校・研究科と進む中でいくつかの展覧会に出品し、村上華岳に認められた。
 大正4年(1915)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業した。同窓生であった岡本神草、入江波光、玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」を結成した。
 大正7年(1918)国画創作協会に『横櫛』を出品したが、入選審査をめぐって審査員の村上華岳と土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳が仲裁に入るという騒ぎがあり、惜しくも入選は逸したが、この騒ぎで甲斐庄楠音は新進作家として有名になった。
 大正11年(1922)帝展に『青衣の女』が入選したことで、1924年(大正13年)に国画創作協会の会友となり、定期的に作品を発表できる場を得た楠音は、その後精力的に作品を発表し続けた。女性の官能美をリアルに描き、大正ロマンを代表する人気画家の一人であった。
 「畜生塚の女」(1919年頃)という作品が展示されている。畜生塚とは、京都市中京区石屋町の瑞泉寺境内にある塚のことであり、豊臣秀吉によって切腹に追い込まれた秀次の愛妾たちの処刑直前の悲惨な様子を描いている。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(8)

秦テルヲの絶望と救済の絵
 秦テルヲ(明治20年1887~昭和20年1945)は、広島市に生まれ、幼少期に一家で京都市に移住したが、まもなく父が死去したため、一家は貧窮に陥った。貧困の中で明治37年(1904)京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業し、千總の輸出用ビロード工場に勤めた。工場勤務の傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励んだ。Photo_20231111234802
 明治42年(1909)前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目指して千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加した。また、日本画家(土田麦僊ら)と洋画家(津田青楓ら)による研究会「黒猫会」に参加したほか、榊原紫峰、野長瀬晩花、平井楳仙や京都大学の若い文学研究者らと「バトサヤ」を結成した。しかしそれらのサークルはまもなく解散・消滅したので、以後秦テルヲは、個展発表を中心に活動するようになった。
 この頃から漂泊生活を送り、女性問題を起こして京都から大阪に逃げ、神戸に住むこともあったが、やがて吉原研究のためとして東京へ向かった。秦テルヲは、奇抜な風貌や言動で知られるようになった。
 大正元年(1912)第2回個展で「アゝ酒、と女、と腐れた肉」などと記したパンフレットの通りの、センセーショナルな画題の作品を発表したため警察に呼び出され、また大正4年(1915)には京都の文展会場前に京都カフェータワーと称する天幕を張り、野名瀬晩花と「バンカ・テルヲ展」を開催して、反官展のデモンストレーションを実行した。
Photo_20231111234803  大正6年(1917)ころから、作品のモチーフに娼婦などの虐げられた女性たちを選ぶようになり、人生や社会の暗部を暴くとともに、弱者への共感と同情を表現主義的手法で描いた。代表作として「血の池」(大正6年ころ)がある。
 このころの作品のひとつが「淵に佇めば」(大正6年1917)である。一人のやつれ果てた女が、男女の別が判然としないもうひとりの背中に抱きかかり、ともに闇の淵を見つめている。モデルは、おそらく娼婦だろうとの説明がある。
 大正9年(1920)子供が生まれたことを機に、仏教研究を目的として奈良に近い京都府相楽郡に居を定め、ゴーギャンの影響を受けながら、次第に宗教的題材の作品へと転じていった。
 大正10年(1921)、京都府相楽郡加茂町、そしてその後近くの瓶原村(みかのはらむら、ともに現・木津川市)に移住し、その地の風景画を多く描いた。このころの作品が「瓶原母子像」(1923)である。強烈な抗議や問題提訴の要素は消えて、仏画のような静かな落ち着いた雰囲気となっている。
 昭和4年(1929)京都市北白川に移り、光明を求めてひたすら仏画を描くようになった。その後は闘病生活を続け、終戦間近には病床で戦中絵日記や鬼気迫る自画像の数々を描いた。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(7)

桑重儀一の西欧古典的表現
 桑重儀一(くわしげぎいち、明治16年1883~昭和18年1943)は、岩国市に生まれ、東京美術学校を卒業後アメリカに渡り、カリフォルニア州立大学の美術科に特待生として学び、その後パリのジャン・ポール・ローランスに師事した。当時のパリには芸術を学ぶ留学生が多数いて、藤田嗣治などの画家のみならず、島崎藤村や与謝野鉄幹なども同時期にパリにいて、日本人留学生たちは集まって食事をしたり、芸術談義を交わしていたらしいと思われる写真が残っている。桑重儀一は、昭和6年(1931)帝国美術院会員となった。太平洋美術学校で後進の指導にも当たった。Photo_20231108052101
 「母子像」(1926)は、欧米への留学経験にもとづく伝統的西洋画の王道のような作品である。ベッドに横たわる子も、赤ん坊のように裸だが、そのわりには年長すぎるようにも思えるが、ともかく子供2人とそれらに慈しみの眼差しを注ぐ母とが、古典的な三角形の構図を形成し、暗い背景に浮かび上がっていて、全体として安定感が完璧である。基本的なコンセプトは、西洋画の聖母子像を容易に連想させるものである。
徳永仁臣の作品よりさらに後であるが、ここではむしろ古典的な様式が強調されているようだ。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(6)

徳永仁臣の落ち着いた西洋画
Photo_20231107060301  徳永仁臣(とくながひとおみ、明治4年1871~昭和11年1936)は、備前国和気郡藤野村(現和気町)に生まれた。幼少期から絵画に興味を示し、岡山で松原三五郎の天彩学舎で洋画を学んだ後、上京して二世五姓田芳柳の門下となった。また画塾審美学舎を開設して後進の指導にあたる一方で、朝報社で画報部主任として肖像や相撲の挿絵などを描いて活躍した。明治44年(1911)、40歳にしてようやく渡欧を果たし、パリではアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、明るい色彩による印象派風の作品を学び制作した。
 大正12年(1923)関東大震災に際しては、被災地の惨状を伝える25点の油彩による大作を制作して「移動震災実況油絵展覧会」を組織し、巡回展を行うことで被災者のための義援金を募った。晩年は富山に移住し、立山や黒部峡谷といった自然風景や日本画などを描いた。
 「赤いターバン」(1912ころ)は、パリ滞在時の作品とされる。40歳を過ぎてから渡欧したこともあってか、フォビスムやキュビスムなどのヨーロッパ絵画の最先端を追いかけるというより、当時としてはすでに定着していた印象派のような画風となっている。

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エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上巻

人類の歴史を動かす基層意識としての家族・宗教・教育
 歴史人口学者・家族人類学者エマニュエル・トッドの主著だという。
 まず、この書の梗概をごく大雑把にまとめる。
 人間(ホモ・サピエンス)の歴史を動かし規定する主要因は、経済ではない。
 人間を規定する3つの階層を持つ意識が人間を規定し、したがって歴史を規定している。
1.無意識層: 家族、5000年の歴史を持ち、もっとも深い層を形成する
2.下意識層: 識字と教育、500年の歴史を持ち、意識層の基を支える
3.意識層: 経済的グローバリゼーションの階層、発生して50年の新しい浅い階層。
(1)家族構造の類型
 直系家族型: 子供のうち一人は親元に残るか、あるいは相続し、兄弟の平等性は低く親の権威が重視される。(ドイツ、スウェーデン、オーストリア、スイス、ベルギー、フランス南部、日本、朝鮮半島、台湾、ユダヤ人社会、など)
 絶対核家族型: 子は結婚すると親元を離れて独立する。兄弟の平等性に親が無関心で自由を最重要視する。(イングランド、アメリカのイングランド系、オランダ、ノルウェー南部、デンマーク、フランスの周縁部、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど)
 平等主義的核家族型: 子は結婚すると親元を離れて独立するが、兄弟を平等視することが特徴である。(フランス中央・北部、ギリシア、イタリア南部、ポーランド、ルーマニア、ラテンアメリカなど)
 外婚制共同体家族型: 息子はすべて親元に残り大家族をつくり、兄弟は平等である。親族あるいは部族内の婚姻を禁止する。この家族制をもつ地域は、共産主義に親和性があって、実際に共産主義化が達成されたのは、ソ連の軍事的強制によるもの以外はすべてこの地域である。(ロシア、フィンランド、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ハンガリー、中国、モンゴル、ベトナム、キューバなど)
 内婚制共同体家族型: 息子はすべて親元に残り大家族をつくり、兄弟は平等である。血縁結婚、具体的にはいとこ婚が多い。イスラム教との親和性が高い。(トルコ、アラブなどの西アジア一帯、中央アジア、北アフリカなど)
Photo_20231106060101  これらが、現実の社会・経済・政治の深層で重要な規定要因となっている。
(2)宗教の位置づけ
 人間に大きな規定を与える「宗教」は、無意識層に関わり、「家族」の半分程度の時間で変化している。宗教は性や性行為を規定することにより、無意識層たる家族の生成に深く関与する。また、ホモ・サピエンスは、究極的には死よりも孤独を恐れるので、同じ宗教に帰属することで孤独から救われるのであり、来世ではなくその現世での救済効果こそが宗教の本質である。
(3)識字と教育と変革
 16世紀キリスト教宗教改革で、プロテスタンティズムが活版印刷を布教のツールとして、識字率の向上に大きな貢献をした。家族類型としては、父親の権威が強いドイツや日本の直系家族は、識字率向上に有利であった。
 読むことを覚えた人間は、頭脳の機能がいちじるしく拡張した。識字化は頭の構造が変わると言い得るほどに世界との関係が変わる。これにより前よりも複合的な内面生活が可能になり、人格が大きく変わった。
 イギリスでは、1688年(日本の元禄元年)のピューリタン革命で、1789年のフランス革命に1世紀先立って、近代的な国民意識、後の資本主義を支える自由主義的ナショナリズムを生んだ。絶対核家族 、プロテスタンティズム、識字化、そして親族類の崩壊が、1770~1780年のイギリス産業革命を導き、経済的離陸に寄与した。教育のグローバリゼーションは経済のグローバリゼーションに先立つのであり、経済が歴史を推進したのではない。制度的ダイナミズムも、教育の離陸と宗教由来のモラルなしには機能しない。
 イギリスは、絶対核家族というきわめてフレキシブルな社会構造に恵まれたことが、いち早く産業革命を達成するのに貢献した。
 識字化、世俗化、出生率の低下、イデオロギー的危機のシーケンスこそが歴史の進む本質であった。
(4)イギリスと絶対核家族
 イギリスは、古代にはローマに征服され、その後フランス系ノルマン人に支配されたが、そのなかで独自の絶対核家族が定着した。13世紀には、ローマ帝国のヴィッラに系譜をもつ荘園(マナーmanor)が、小規模で限定的ながら私有財産権・遺産相続権をもつ農奴を生成し、独自の貧民救済機能を維持し得る農村共同体を実現していた。国家権力も行政遂行能力も強くはなかったが、絶対核家族の権威重視傾向に支えられて、ある種の上位の権威(ノルマン人、貴族階級、ジェントリー、農民の寡頭支配層)により統治と行政は安定していた。
(5)アメリカの原初的(原始的)傾向
 アメリカは、イギリスからの独立以来、イギリス絶対核家族がもつ権威主義を否定した。独立後の農業経営の必要から、最小単位の核家族のみの生活・生産は困難であり、複数家族の同居あるいは近接居住が普及した。イギリスから受け継いだ双系性・核家族性・外婚制に原初的人間集団に存在していた水平性のある種の回帰を付け加えたのである。これは、歴史的にはイギリスの絶対核家族に対して原初的ホモ・サピエンスに戻る傾向を含み、現在のアメリカは、経済的には世界最高水準を誇りながら、暴力性や差別性など、原初的ホモ・サピエンスの基層的性格を併せ持つという傾向がみられる。
 著者エマニュエル・トッドは、(おそらくマルクス主義史学が大きな原因と思われるが)通常の歴史学が、歴史の推進力の中心に経済的要因を取りあげる傾向に対して、真っ向から反論する。人間が営み紡ぐ歴史は、人間の深層にある「家族」(そのデータ発現としての人口)と、識字、教育、宗教、家族システムなどの要因が社会的影響を導き、政治・経済を規定するというメカニズムに注目した検討が重要なのだ、と説く。
 最初の4章ほどは、その家族の類型がいかにして発生・変容してきたのかを人類学的・人口学的観点から説いているが、正直なところこのあたりは、私にはわかりにくい。
 それに続く、識字、教育、宗教などに関わる問題となって、ようやくトッドが主張したいことがわかってくる。
 エマニュエル・トッドの著書は、主に新書版だが何点か読んで、その斬新な着目点と発想に感銘を受けてきた。ただ本人も言う通り、あまりに基層・深層の問題で、並大抵の努力や時間ではどうしようもないような問題の立て方や解説をするので、まるで運命論であるかのような融通性のない主張に思えることもある。
 この書は、エマニュエル・トッドの主著であるというので、なかなかしんどいけれども、あと残り半分の下巻を読んでみようと思う。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(5)

 澤部清五郎(明治17年1884)~昭和39年1964)は、京都市西陣に生まれた。少年時代から四条派の鈴木瑞彦に師事して日本画を学ぶ一方、装飾織物の川島甚兵衛に画才を見出されて織物関係の仕事にも携わった。Photo_20231103060201
 20歳から聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入り、浅井忠の門下となり、梅原龍三郎らと洋画の研鑽を積むとともに、宇治の平等院や金閣寺の壁画の模写に取り組み、古典美にも開眼していた。古画の模写で培った日本画の素養と琳派の流れをくむ神坂雪佳(かみさかせっか)に私淑したことで、消化酵素「ジアスターゼ」の発見者である高峰譲吉博士の邸宅の室内装飾をする画工として米国に呼ばれて、明治43年(1910)米国に滞在した。さらに西洋の装飾芸術や絵画をまなぶためにパリに移り滞在した。大正2年(1913)帰国後は皇居を飾る壁掛けの大作や国会議事堂の室内装飾を手がけるなど、主に装飾織物デザイナーとして活躍した。また、川島織物取締役を勤めた。
 澤部清五郎「バラの髪飾り」(1912)は、バリに滞在中に描いたものとされる。若い女性の美貌の描写もさることながら、女性がまきつけた布と髪飾り、そして背景の壁の模様の、いくつもの赤色の繊細な色合いの諧調とその組み合わせの表現が見事である。装飾織物デザイナーであったことが関与しているのかも知れない。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(4)

太田喜二郎のルミニスム
 花摘みの様子を描いた絵には、ヨーロッパで制作された油彩もある。
 太田喜二郎(おおたきじろう、明治16年1883~昭和26年1951)は、京都の富裕な織物商の子として生まれ、恵まれた環境で絵画を学び、ベルギーに留学した洋画家である。Photo_20231102060201
 京都府尋常中学校時代に、同級生に美術評論家岩村透の弟がいた縁で岩村家と交流し、洋画家を目指すようになったという。東京外国語学校で英語を学びつつ「白馬会洋画研究所」に通って洋画を勉強した。その後東京美術学校で黒田清輝に学び、卒業すると黒田の推挙を得てベルギーのゲント市立美術学校に留学した。そこでベルギー印象派・ルミニスムの画家であったエミール・クラウスから指導を得た。ルミニスムは、フランス印象派スーラの新印象主義の影響のもと、光の表現を重視し、ときに象徴主義的な神秘性を帯びる様式であった。技法的には、点描表現を導入した。
 ここで展示されている「花摘図」(1911-1912年)は、まさにこのころのルミニスムの特徴をよく現わしている。描かれた少女は、太田喜二郎が滞在した屋敷の果樹園で働いていた17歳ほどの少女だったという。笠木治郎吉の作品と、描かれた時期は大きくは違わないが、国の違いもあって表現はずいぶん異なる。
 このようなルミニスムの衝撃的な刺激を受け、さらに光を描くことの延長に生命の神秘や人が生きることの意味まで描き出そうとするルミニスムの精神性を身につけ、太田喜二郎は大正2年(1913)帰国した。
 帰国後は、点描画法による作品をたくさん制作して日本画壇に問いかけつづけ、大正6年(1917)以降は京都市立美術学校・絵画専門学校で教壇に立ち、帝展審査員も勤めたが、国内でルミニスムの理解を得るには時間を要した。
 大正期後半ころからは、点描画法をやめて、写実的な印象主義的作品へと画風が変わった。

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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(3)

笠木治郎吉の独創的な水彩画
Photo_20231101060301  笠木治郎吉(文久2年1862~大正10年1921)は、明治から大正にかけて横浜で、日本人の風俗を描いた水彩画家であるが、その生涯については、詳しいことがわかっていないようだ。石川県に生まれたと言われる笠木治郎吉は、少年期に単身横浜に移り住み、ワーグマンや五姓田芳柳らの影響を受け画技を磨き、一時欧米に渡ったとも伝えられている。
 今あらためて観ると、その卓越した描写力と表現力に、時代を超越した優れたものをみるが、彼の活動していた時代の日本には、絵画の流通市場がまだ成熟していないため国内に買い手が見つからず、その作品の優れていることを認める外国人がよろこんで買取り、作品は国外に流出したらしい。さらに、残った作品や下絵の多くは、関東大震災で焼失した。笠木治郎吉の作品は、近年、コレクターや親族によって世界各地で発見され、徐々に里帰りしつつある。
 現在30点余りの作品が確認されているが、いずれも水彩画である。ただ水彩画といっても、油彩を思わせる濃厚な彩色と細部まで描きこまれた緻密な表現力が、明治の美術界屈指とされる。私もまえに、この画家の提灯屋の絵をみて、なかなか見事だと感心したことを覚えている。Photo_20231101060401
 「花を摘む少女」(明治末ころ)は、一面に咲き誇る花が立体的に表現され、そのなかに入って、花を切り取る少女のまぶしく光る白い腕と、実際に花を切り取るべく鋏を握った自然な手の形、ふと画家のほうを見つめる少女のしっかりした表情、作業のためにかたく帯をしめた活動的な姿勢、など、色彩表現も構図も、油彩の大作のような迫力と気品がある。
 「蓮池の少女」(明治末ころ)では、蓮の花がさきはじめる初夏に、沼に入って蓮を刈る少女と、船に乗って見守るもうひとりの少女が描かれている。梅雨時の湿った空気感、快活な少女の表情と動き、沼の濁った水が少女の脚にからむ微妙な様子まで、とても丁寧に表現されている。表現の細密さと緻密さは、まさに優れた油彩を思わせる。

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