秋の東北旅行(4)
松島・瑞巌寺
2日目の朝は、かみのやま温泉の宿を出て、宮城県仙台市の傍を走り、松島湾岸の瑞巌寺に向かった。ここには13年前、東日本大震災の半年前に訪れたことがあった。そのときは、平成20年(2008)11月から平成30年(2018)までを予定していた「平成の大修理」が行われている最中で、拝観ができなかったので、円通院を主に見学したあと、小雨の中を周遊船で松島湾の島々を観たのであった。
瑞巌寺の概要
道路45号線からほぼ海岸線に直角に瑞巌寺に向かって歩くと、まもなく総門がある。切妻造、本瓦葺の薬医門である。ここから境内に入ると、長い参道がある。
参道両脇には「忠魂碑」、「鉄道殉職者弔魂碑」などが並ぶ。参道の杉並木も、真っすぐ高く聳えて、壮観である。
瑞巌寺の正式名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)という。
平安時代の天長5年(828)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の延福寺であったと伝えるが、事実だという確証はない。
鎌倉時代、禅に傾倒した鎌倉幕府執権北条時頼は、この寺に来て武力で天台派の僧徒を追払い、法身性西を住職に据え、臨済宗建長寺派円福寺と改め、禅宗寺院に変えたという。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、ついに死に至らしめたともいう。臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。
しかし戦国時代の終わりには、火災によって廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573)ころ、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
江戸時代に入り、仙台藩を支配した伊達政宗は、自領内の円福寺復興に着手し、慶長9年(1604)から全面改築を行った。慶長14年(1609)5年の歳月を投入した全面的修復工事が完成し、このときから寺の名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改められた。元和6年(1620)から2年を費やして障壁画の制作が行われた。今に伝わる本堂など桃山風の国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営による。
以後、伊達藩歴代の藩主は、瑞巌寺を厚く保護し、幕末まで隆盛を極めたという。
しかし、明治維新で、仙台藩(伊達藩)が盟主となった奥羽列藩同盟は戊辰戦争に敗れた。続く新政府の神仏稀釈方針により、瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多くが荒廃した。
その後の復興としては、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際の下賜金、大正12年(1923)地元民の寄付金、などの支援もあり徐々に修復が進み、さきの大戦後の昭和28年(1953)本堂が国宝に指定された。
平成20年(2008)11月から、東日本大震災をはさんで、平成30年(2018)まで「平成の大修理」が行われ、平成30年6月落慶法要が営まれた。
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