「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(12)
野田英雄の世界大戦直前の絵
野田英雄(明治41年1908~昭和14年1939)は、アメリカのカリフォルニア州サンタクララに、熊本県出身の日本人移民野田英太郎とセキの二男として生まれた。ベンジャミン・ノダの英語名を持つ。当時のこの地は、ベリーなどの農産物耕作に携わる日本人移民の中心地であった。
3歳のときに父の郷里熊本の叔父羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校に進んで卒業した。アメリカへ帰国の後、アラメダ郡のビードモント高校を卒業し、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学んだ。進学したカリフォルニア・ファイン・アーツを中退し、ニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加した。同校教授アーノルド・ブランチや在米日本人画家国吉康雄の支援を受け、壁画とテンペラ画を研究した。ここで知り合ったアメリカ人のルース・ケルツと結婚した。ニューヨーク市街のアパートで、貧しいながらもウォーカー・エバンスら若いアーティストらと交流しながら暮らした。
ここで野田英雄は、アメリカ共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」を発表して注目され、美術賞受賞や美術展出品、壁画制作などが続いた。当時アメリカでは、公共事業促進局の連邦美術計画により、壁画などのパブリックアートの発注が盛んであった。
1933年(昭和8年)には、アメリカ共産党と関係を持ちながら、ニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手を務めたが、翌年には再び来日し、二科展に出品した。アメリカ共産党員であった野田英雄は、この来日でスパイの嫌疑を受けることになった。
その後アメリカに戻って、新制作派協会会員として活動したが、制作中に目の不調を訴え、翌年脳腫瘍のため病院で30歳で早逝した。
野田英雄「籠を持てる少女」(1932)という最晩年の作品が展示されている。まるでシャガールの絵のような超現実主義的な雰囲気の絵だが、画面にコラージュで張り付けられた新聞記事には、中国で国民党と共産党とが戦っているという内容が書かれているという。第二次世界大戦の寸前の緊張感が漂う内容なのであった。
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