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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(5)

 澤部清五郎(明治17年1884)~昭和39年1964)は、京都市西陣に生まれた。少年時代から四条派の鈴木瑞彦に師事して日本画を学ぶ一方、装飾織物の川島甚兵衛に画才を見出されて織物関係の仕事にも携わった。Photo_20231103060201
 20歳から聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入り、浅井忠の門下となり、梅原龍三郎らと洋画の研鑽を積むとともに、宇治の平等院や金閣寺の壁画の模写に取り組み、古典美にも開眼していた。古画の模写で培った日本画の素養と琳派の流れをくむ神坂雪佳(かみさかせっか)に私淑したことで、消化酵素「ジアスターゼ」の発見者である高峰譲吉博士の邸宅の室内装飾をする画工として米国に呼ばれて、明治43年(1910)米国に滞在した。さらに西洋の装飾芸術や絵画をまなぶためにパリに移り滞在した。大正2年(1913)帰国後は皇居を飾る壁掛けの大作や国会議事堂の室内装飾を手がけるなど、主に装飾織物デザイナーとして活躍した。また、川島織物取締役を勤めた。
 澤部清五郎「バラの髪飾り」(1912)は、バリに滞在中に描いたものとされる。若い女性の美貌の描写もさることながら、女性がまきつけた布と髪飾り、そして背景の壁の模様の、いくつもの赤色の繊細な色合いの諧調とその組み合わせの表現が見事である。装飾織物デザイナーであったことが関与しているのかも知れない。

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