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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(8)

秦テルヲの絶望と救済の絵
 秦テルヲ(明治20年1887~昭和20年1945)は、広島市に生まれ、幼少期に一家で京都市に移住したが、まもなく父が死去したため、一家は貧窮に陥った。貧困の中で明治37年(1904)京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業し、千總の輸出用ビロード工場に勤めた。工場勤務の傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励んだ。Photo_20231111234802
 明治42年(1909)前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目指して千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加した。また、日本画家(土田麦僊ら)と洋画家(津田青楓ら)による研究会「黒猫会」に参加したほか、榊原紫峰、野長瀬晩花、平井楳仙や京都大学の若い文学研究者らと「バトサヤ」を結成した。しかしそれらのサークルはまもなく解散・消滅したので、以後秦テルヲは、個展発表を中心に活動するようになった。
 この頃から漂泊生活を送り、女性問題を起こして京都から大阪に逃げ、神戸に住むこともあったが、やがて吉原研究のためとして東京へ向かった。秦テルヲは、奇抜な風貌や言動で知られるようになった。
 大正元年(1912)第2回個展で「アゝ酒、と女、と腐れた肉」などと記したパンフレットの通りの、センセーショナルな画題の作品を発表したため警察に呼び出され、また大正4年(1915)には京都の文展会場前に京都カフェータワーと称する天幕を張り、野名瀬晩花と「バンカ・テルヲ展」を開催して、反官展のデモンストレーションを実行した。
Photo_20231111234803  大正6年(1917)ころから、作品のモチーフに娼婦などの虐げられた女性たちを選ぶようになり、人生や社会の暗部を暴くとともに、弱者への共感と同情を表現主義的手法で描いた。代表作として「血の池」(大正6年ころ)がある。
 このころの作品のひとつが「淵に佇めば」(大正6年1917)である。一人のやつれ果てた女が、男女の別が判然としないもうひとりの背中に抱きかかり、ともに闇の淵を見つめている。モデルは、おそらく娼婦だろうとの説明がある。
 大正9年(1920)子供が生まれたことを機に、仏教研究を目的として奈良に近い京都府相楽郡に居を定め、ゴーギャンの影響を受けながら、次第に宗教的題材の作品へと転じていった。
 大正10年(1921)、京都府相楽郡加茂町、そしてその後近くの瓶原村(みかのはらむら、ともに現・木津川市)に移住し、その地の風景画を多く描いた。このころの作品が「瓶原母子像」(1923)である。強烈な抗議や問題提訴の要素は消えて、仏画のような静かな落ち着いた雰囲気となっている。
 昭和4年(1929)京都市北白川に移り、光明を求めてひたすら仏画を描くようになった。その後は闘病生活を続け、終戦間近には病床で戦中絵日記や鬼気迫る自画像の数々を描いた。

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