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「少女たち-夢と希望・そのはざまで」展(9)

甲斐荘楠音の特異な存在感
 甲斐荘楠音(かいのしょうただおと、明治27年1894~昭和53年1978)は、京都市に生まれた。甲斐庄家は楠木正成末裔を自称した名家で、江戸時代は徳川光圀の推挙で9500石の大身旗本を勤めた裕福な武士であった。父正秀は甲斐庄家に跡継ぎ養子で入った後に離縁となり、別家を建て、その時の慰謝料で京都に広大な土地を購入した。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。
 楠音は、幼少時から喘息を患い病弱で、過保護に育てられた。体格も華奢で、後には芝居の女形に扮することもあった。
Photo_20231112062701  京都府立第一中学時代から絵画への関心が高まり、京都市立美術工芸学校に転校して竹内栖鳳らに学んだが、授業にほとんど出席せず1年留年した。その後、専門学校・研究科と進む中でいくつかの展覧会に出品し、村上華岳に認められた。
 大正4年(1915)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業した。同窓生であった岡本神草、入江波光、玉村方久斗らと前衛的日本画研究集団「密栗会」を結成した。
 大正7年(1918)国画創作協会に『横櫛』を出品したが、入選審査をめぐって審査員の村上華岳と土田麦僊とが互いに譲らず、結局、竹内栖鳳が仲裁に入るという騒ぎがあり、惜しくも入選は逸したが、この騒ぎで甲斐庄楠音は新進作家として有名になった。
 大正11年(1922)帝展に『青衣の女』が入選したことで、1924年(大正13年)に国画創作協会の会友となり、定期的に作品を発表できる場を得た楠音は、その後精力的に作品を発表し続けた。女性の官能美をリアルに描き、大正ロマンを代表する人気画家の一人であった。
 「畜生塚の女」(1919年頃)という作品が展示されている。畜生塚とは、京都市中京区石屋町の瑞泉寺境内にある塚のことであり、豊臣秀吉によって切腹に追い込まれた秀次の愛妾たちの処刑直前の悲惨な様子を描いている。

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