本納町─荻生徂徠の青少年期を訪ねて(3)
本納城跡
龍教寺から300メートル余り北に歩くと、蓮福寺の高台の墓地を経て、石段と坂道を登って本納城跡にいたる。
ここには城としての建物はまったく無く、本納山の頂上に「本納城跡」と刻み込んだ石碑が建つ。ここは、戦国時代の享禄2年(1529)黒熊大膳が築城した山城の跡である。黒熊大膳については、どのような人物か不詳であるが、武田氏の故地甲斐黒駒(山梨県御坂町)出身の武田氏系たる黒駒氏ではないか、との説もある。
このあたりは、ここから1キロメートルほど北西にある橘木神社(たちばなじんじゃ)が上総二宮であったことから、かつて二宮庄と呼ばれていて、北からは後北条氏と武田氏、そして南からは里見氏が入り乱れる抗争の地であった。 やがてこの山城は、地元の土気(とけ)を支配していた土気酒井(とけさかい)氏が奪い、戦いの拠点とした。
この山城は中世の「戦いの砦としての城fort」であり、近世の「居住と領知支配の城castle」とは異なる。標高は66メートルと、決して高くはないが、関東平野に立地することを考えると、かなり貴重な高地である。本納城は、やせ尾根城郭と呼ばれる。すなわち周囲から斜面の急峻な尾根(やせ尾根)が集まり、城のまわりは狭い尾根の道と急に深くなる谷間に放射状に囲まれる自然の要害となっている。しかも、山頂には砦を構築するに十分な平坦な土地があるのだ。山や丘の少ない関東平野で、よくもこのような好適な地を探し当てたものだと感心する。周囲がほとんど平野なので、さほど高くない頂上の城跡から、四方を見渡すことができるのである。
天正2年(1574)関宿合戦で後北条氏が梁田氏を撃破すると、土気酒井氏は後北条氏に従わざるを得なくなり、この本納城は後北条氏が北上を図る里見氏を食い止める前線基地となった。しかし天正18年(1590)小田原合戦で後北条氏が滅びると、以後本納城は廃墟に至り、われらの荻生徂徠がこの地に来たころには、すでに蓮福寺の裏山の頂になにもない城跡の土地のみとなっていたのである。
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