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2023年12月

本納町─荻生徂徠の青少年期を訪ねて(3)

本納城跡
 龍教寺から300メートル余り北に歩くと、蓮福寺の高台の墓地を経て、石段と坂道を登って本納城跡にいたる。Photo_20231231061801
 ここには城としての建物はまったく無く、本納山の頂上に「本納城跡」と刻み込んだ石碑が建つ。ここは、戦国時代の享禄2年(1529)黒熊大膳が築城した山城の跡である。黒熊大膳については、どのような人物か不詳であるが、武田氏の故地甲斐黒駒(山梨県御坂町)出身の武田氏系たる黒駒氏ではないか、との説もある。
 このあたりは、ここから1キロメートルほど北西にある橘木神社(たちばなじんじゃ)が上総二宮であったことから、かつて二宮庄と呼ばれていて、北からは後北条氏と武田氏、そして南からは里見氏が入り乱れる抗争の地であった。
Photo_20231231061802  やがてこの山城は、地元の土気(とけ)を支配していた土気酒井(とけさかい)氏が奪い、戦いの拠点とした。
 この山城は中世の「戦いの砦としての城fort」であり、近世の「居住と領知支配の城castle」とは異なる。標高は66メートルと、決して高くはないが、関東平野に立地することを考えると、かなり貴重な高地である。本納城は、やせ尾根城郭と呼ばれる。すなわち周囲から斜面の急峻な尾根(やせ尾根)が集まり、城のまわりは狭い尾根の道と急に深くなる谷間に放射状に囲まれる自然の要害となっている。しかも、山頂には砦を構築するに十分な平坦な土地があるのだ。山や丘の少ない関東平野で、よくもこのような好適な地を探し当てたものだと感心する。周囲がほとんど平野なので、さほど高くない頂上の城跡から、四方を見渡すことができるのである。Photo_20231231061803
 天正2年(1574)関宿合戦で後北条氏が梁田氏を撃破すると、土気酒井氏は後北条氏に従わざるを得なくなり、この本納城は後北条氏が北上を図る里見氏を食い止める前線基地となった。しかし天正18年(1590)小田原合戦で後北条氏が滅びると、以後本納城は廃墟に至り、われらの荻生徂徠がこの地に来たころには、すでに蓮福寺の裏山の頂になにもない城跡の土地のみとなっていたのである。

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本納町─荻生徂徠の青少年期を訪ねて(2)

龍教寺と荻生徂徠母の墓
 荻生徂徠勉学の地から100メートルほど西に、顕本法華宗龍教寺がある。Photo_20231230060301
 たまたま私の実家も顕本法華宗だが、関西ではそんなに多くないと思うが、千葉は日蓮宗の発祥地でもあるのか、この宗派の寺院が多いように思う。
 荻生徂徠は、この地に住んでいたころ、手に入る書物は当然限られ、林羅山の『大学諺解(だいがくげんかい)』と宇都宮遯庵(うつのみやとんあん)の『四書標註』の数冊のみであったらしい。13年間の青少年期に、だれの講説も聴けず手持ちの文献だけを数えきれないほどに反復熟読したらしい。徂徠は後に将軍吉宗の諮問に応えた著書『政談』のなかで、それがかえって良かったと述懐している。
Photo_20231230060601  それにより、徂徠は漢文原典を、返り点なしに「唐語」のまま読解するようになった。つまり実質的に中国語の読解を独学でマスターしてしまったのであった。自分がいささかの名声を得たのは、この流寓生活のお陰だという徂徠は、それを「天の寵霊」と感じていた。そして江戸に帰ってから、長崎通詞あるいは中国人僧から、こんどは「唐語」の発音を学んだ。それが彼の儒学塾の大きな「ウリ」となった。
将軍と接するようになっても、徂徠はあくまでイナカモノで押し通した。大声と訛りは一生抜けなかった。
 そのような徂徠少年一家がこの地に来たのは、母の実家があったからである。Photo_20231230060602
 徂徠の母は、本納村の住人鳥居水衛門の長女として生まれ、幼くして幕臣の児島助左衛門の養女となり、江戸神田御殿の大奥へ出仕した。そこで徳川綱吉の奥医師を勤めていた荻生方庵に嫁し、4人の子女を得た。
 夫の方庵が江戸から追放されてこの地に来た翌年の延宝8年(1680)2月に死去した。徂徠は少年期に母を亡くしたのだ。
母の遺骨はこの地に近い本納の箕沢に葬られたが、平成28年(2016)この場所に墓石が移された。なお子女のうち、長男の春竹は本納で地元の医師となり、次男の徂徠の弟たる三男の観(すぐる、号は玄覧)も吉宗に仕えた。

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本納町─荻生徂徠の青少年期を訪ねて(1)

 千葉県茂原市本納町を散策した。それは荻生徂徠が未成熟の多感な青少年期たる14歳から27歳まで13年間を過ごした地であった。
 野口武彦『荻生徂徠』中公新書という本を読んで、この稀有な儒学者の思想形成過程の重要なひとつの時期の景色を、ほんの少しでも覗いてみたい、というのがこの散策の動機であった。

荻生徂徠勉学の地
 朝いつもより早めにホテルを出て、地下鉄、JR総武線、JR外房線を乗り継いで本納駅で下車する。ここまでくると、さすがの首都圏もずいぶんひっそりしてくる。駅に観光案内所などはない。ネットからダウンロードしたマップをたよりに、先ず「荻生徂徠勉学の地」を目指す。マップでは「なかの橋」で右折するようになっているのだが、この川も橋もごく小さなもので、見過ごしてしまった。かなり南方向に行き過ぎてしまい、さすがに間違いに気づいて、この地のヒトに尋ねようとしたが、ほとんど人通りが無い。最寄りの材木業者の事務所で道を尋ねたが、荻生徂徠勉学の地も「なかの橋」も、よくは知られていない。別の薬局で聴くと、「なかの橋」がごく小さいので見落としやすいことを指摘され、ようやく戻る先が判明した。Photo_20231229060401
 「なかの橋」にもどってよく見ると「荻生徂徠勉学の地」の小さな道標があった。
 道標にしたがって小川沿いに進むと、やがて人家の横にもうひとつの道標がみつかった。
 その道標から近いところ、草むらの中に場所を確保して、石碑を建てた場所がみつかった。「荻生徂徠勉学の地」の解説板も建っている。駅から歩いて15分程度と見込んでいたが、迷ったので30分近くを費やした。
 2_20231229060501 荻生徂徠(寛文6年1666~享保13年1728)は、江戸二番町に生まれた。父方庵(ほうあん)は儒学好きの徳川綱吉に仕える医師であったが、綱吉が将軍に就任する前年の延宝7年(1679)何らかの咎を得て上総国に流され、そのとき14歳であった徂徠も江戸を去らざるを得なかったのである。その後、元禄5年(1692)赦免となるまで、13年間をこの房総半島中部の僻地で過ごした。江戸に帰ったとき、徂徠は27歳になっていた。Photo_20231229060501
 現在でも、この付近を散策していて、道を歩く人に出会うことがほとんどない。この場所付近にまばらに人家があるが、まだまだ空地も多い。徂徠がこの地に過ごしたころは、まさに人里離れた静かな環境であっただろうことが推測できる。
 徂徠がこの地に過ごした歳月は、折から元禄にさしかかろうとする時代であった。儒学では、朱子学の内と外からその思考の枠組みを考え直そうとする気運が高まっていた。しかし僻地に居た徂徠には、そんな情報も空気も伝わってこなかった。お江戸からはるかに隔てたこの寒村で友としたのは、農民と木樵と猟師だけだった、と後年の徂徠は回想している。

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武相荘(4)

武相荘を訪れて
 かねてより一度は白洲次郎の旧宅として知られる「武相荘」なるところを訪れてみたいと思っていた。12月も中旬に入った初冬の日、新横浜から電車を乗り継いで小田急鶴川駅から歩いたのであった。東京都とはいうものの、町田は西端で、地理的位置のみならず文化圏や環境は神奈川県にきわめて近いという印象である。現在でも都市化の喧騒からは離れて、白洲次郎が静かに私生活を過ごすには好適であったろうと感じる町並みであった。
Photo_20231228060701  駅からゆっくり20分弱歩いて、小さな高台を登ったところに武相荘の門があった。
 屋敷は茅葺で、隣接してシックな感じの喫茶軽食レストランがある。
 屋敷の公開は「ミュージアム」として、旧宅とは言え旧農家の4部屋ほどのごくささやかな規模の家屋の内部が公開されている。屋内の写真撮影は禁止されていて、入場料も1100円といささか高い。隣接するレストランも市街地平均の2倍近い価格である。しかし訪れて見学と喫食をしてみて、これは妥当な価格設定であると納得した。都心から距離もあり、交通の便もとくに便利ではない。ともかく現実にヒトが静かな私生活を営む目的で造った住宅と庭園である。白洲次郎がもし生きていて眺めていたら、「そのくらいのコストに不満なほどのたいして興味のない輩は、訪問せずともよい」と言いそうに思う。個人の住宅であり、本来多数の観衆を受け入れる場所ではない。もし多数の観衆が殺到したら、施設もかなり荒れてしまうだろう。現実にもごく少数の来場者なので、入場料や飲食代もある程度高くしないと維持できないだろうと思う。Photo_20231228060702
 訪れてみての率直な感想としては、白洲次郎が実際に住み、また思考を重ねた書斎がそのまま見られるというのは、とても刺激的で興味深いひとときを過ごすことができた。
 レストラン・喫茶室は、公開に向けて増設したものと思われるが、内装はしっとりと落ち着きがあり、白洲次郎夫妻のコレクションや夫妻と親しい人たちの美術工芸品がならび、快適なひとときを過ごした。
 庭園は、個人住宅でもあり、とくに大きなものではないが、ゆったりして高木もあり、折しも季節遅れとも思われる紅葉の見ごろであった。樹木の紅葉も美しいが、径に落ちて敷き詰められた紅葉の落ち葉もまた良い。日本の風土と季節の良さを、あらためて感じることができる。
 建物の佇まいも、庭園の景観も、いずれもが味わい深く、現代の生活には失われつつある静謐と品位が感じられた。

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武相荘(3)

白洲次郎の略伝(下)
 昭和18年(1943)疎開先の白洲のもとに召集令状が届いたが、英国時代に親しくなった東部軍参謀長辰巳栄一に嘆願して握り潰してもらったという。戦後白洲と一緒に吉田茂の側近となった辰巳栄一であったが、2009年の米公文書記録管理局の機密解除の結果、辰巳栄一はCIA協力者として日本の軍事機密をアメリカ側に漏洩していたことが判明している。
 昭和20年(1945)日本の敗戦直後、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(「終連」)の参与に就任した。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたという。Photo_20231227061401
 昭和21年(1946)2月、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあったときに、GHQ草案(マッカーサー案)が提示された。白洲は、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成にあたった。
 同年3月に終戦連絡中央事務局次長に、そして8月経済安定本部次長に就任した。昭和22年(1947)6月、終戦連絡中央事務局次長を退任している。
 昭和24年(1949)12月商工省の外局として設立されていた貿易庁の長官に就任した。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われている。
 昭和25年(1950)池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米し、連合国との講和問題をジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約締結の準備を開始した。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に、首席全権吉田茂とともに、全権団顧問として随行した。
 昭和27年(1952)11月から昭和29年(1954)12月まで、外務省顧問を務めた。吉田茂退陣後は政界入りを一部から望む声もあったが、政治から縁を切り実業界に戻った。
 民間の実業界復帰後は、公社民営化に注力し、昭和26年(1951)日本発送電の9分割によって誕生した電力会社のひとつ東北電力の会長に就任した。次郎49歳であった。松永安左衛門が創設したシンクタンク産業計画会議の委員にも就任した。
 その後も、大沢商会、大洋漁業、日本テレビなどの役員や顧問を歴任した。
 昭和60年(1985)11月、日ごろ妻正子と旅行をともにすることが少なかった次郎が、久方ぶりに夫人と同行して、伊賀・京都を旅行した。しかしその直後から胃潰瘍と内臓疾患で入院し、同11月末、急性肺炎で死去した。

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武相荘(2)

白洲次郎の略伝(上)
 白洲次郎は明治35年(1902)2月、兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)に、貿易商白洲文平の二男として生まれた。白洲家は九鬼家三田藩士を出自とする。後に兵庫県川辺郡伊丹町(現在の伊丹市)に転居した。
 白洲次郎は大正3年(1914)兵庫県立神戸中学校に入学した。アメリカ車ペイジ・オートモビルPaige Automobile のグレンブルックを父親から買い与えられ、級友を同乗させている写真が残る。このペイジ・グレンブルックは、同型車がこの旧居武相荘に展示されている。Photo_20231226060601
 祖父である白洲退蔵がキリスト教伝道系学校の神戸女学院の創立に関わったことから、白洲家には外国人女性教師が寄宿し、幼少期から彼女たちに直接英語を学ぶ機会があった。
 大正8年(1919)神戸一中を卒業してケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。西洋中世史、人類学などを学ぶ一方、莫大な仕送りを背景に、のちに7代目ストラトフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)と親交した。ロビンとは終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行(グランドツアー)を敢行した。これは17~19世紀初頭に流行した、ヨーロッパ貴族の子弟たちが青春期に見分を拡げ、教養を深めるために行う外国旅行の慣習の名残ともいえる。白洲次郎は、カメラはライカを愛用した。
 昭和3年(1928)神戸市で父が経営していた白洲商店が昭和金融恐慌のなか倒産したため、留学を中断して日本へ帰国し、昭和4年(1929)英字新聞社に就職して記者となった。やがてかねてより知己であった伯爵樺山愛輔の長男丑二の紹介で、その妹正子と知り合い、意気投合して結婚した。
 結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。英字新聞記者を経て昭和6年(1931)セール・フレイザー商会に勤務するようになり、やがて取締役となった。セール・フレイザー商会は明治初期から横浜で貿易商をしていたセールとフレイザーが、明治30年に合併し、機関車や兵器などの輸入と銀行業務を行なっていた会社で、社長のジョージ・セールは白洲のケンブリッジ留学時代の学友であった。この間、商談などで頻繁に海外出張し、駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得て、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになったという。またこのころから、牛場友彦や尾崎秀実等とともに近衛文麿のブレーンとしても行動した。昭和12年(1937)日本食糧工業(後の日本水産)の取締役となった。
第二次世界大戦が勃発したその翌年の昭和15年(1940)、この地に古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付け、以後ここで農業に励みつつ平穏に日々を送った。

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武相荘(1)

武相荘の主屋
 武相荘は、戦後の日本国憲法制定のプロセスに関わり、吉田茂首相のブレーンとして活躍した白洲次郎と、美術評論家・随筆家であった正子夫人が住んだ、東京都町田市鶴川にある旧住宅である。多摩地域の養蚕農家の旧宅を農地とあわせて昭和15年(1930)に買取り、修復を重ねて昭和17年(1932)から30年以上住処としたものである。
 名称の「武相荘」は、この地が武蔵国と相模国とのちょうど境界に位置することから、ユーモア好きの白洲次郎が、自分の性格「無愛想」とをかけて銘名したという。Photo_20231225064401
主屋は寄棟造り、東側妻面兜造り、茅葺屋根の落ち着いた重厚な佇まいで、広い庭には、柿、白樫などが植えられ、折しも晩秋の紅葉の美観を呈していた。
 建物は、農家に典型的な「田の字型」の四間取りに牛小屋が付いたもので、土間であった牛小屋は床を貼り内装を施して応接間・居間とし、床の間のある座敷は寝室に、隠居間は両側に本棚を追加して、いささか手狭な書斎とする、など大幅に修築・改装している。
 白洲次郎の言葉では、ヒトの住まう家というものは、つねに無駄があり、未完成であり、不十分であり、それが住む人間の気ままを受け入れ、自由を楽しませてくれる、としている。
とくに書斎は、実際に白洲次郎が使っていたときからほとんど手を加えずに公開されていて、「使用感」そのままに雑然としているのが良い。
 本棚には、多数の古くなって変色した本がぎっしり詰まっている。白洲次郎がどんな書籍を読んでいたのか、自然に興味が湧く。まずは、地元中心の「地方史」の本が多い。岩波文庫の冊子も多数ある。小林秀雄、ランボー、正宗白鳥、本居宣長、折口信夫、菅江真澄、正岡子規、松尾芭蕉、フロイトやユングの心理学などは、全集をそろえている。私自身にも懐かしい中公新書版の「日本の歴史」も全巻がある。ドストエフスキー、南方熊楠、洲之内徹などの書籍も多い。歌舞伎や雅楽の本もある。日本を中心に、日本に関わるあるいは影響を与えた外国の書籍を、多方面に広く読んでいたようだ。
Photo_20231225064501  横額に、正子夫人の祖父、明治時代の海軍大将および政府閣僚を勤めた樺山資紀の揮毫による「娯非事何」(なにごとか たのしみにあらざる、すなわち何ごとにせよ楽しみにならないものなどない)がある。
正子夫人の部屋の展示は、生活感はなく、座敷の上に彼女が愛したさまざまな陶磁器や衣類、飾り物が並べられている。
 白洲夫妻の娘牧山桂子は「次郎と正子の夫妻は、静かにこの家に住んでいた。父はガレージで大工仕事をし、母は書斎で読書というスタイルが多かった。父と母は、hobby(趣味)は異なるがtaste嗜好は共有していたようだ。」と書いている。

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秋の東北旅行(27)

会津鶴ケ城(下)
 本丸広場の東端に茶室「麟閣」がある。Photo_20231224055201
 天正19年(1591)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられた。このとき、千利休の茶道が絶えることを惜しんだ蒲生氏郷は、千利休の子の少庵を会津に匿い、秀吉に「千家再興」を願い出た。この結果、少庵は京都に帰り、千家茶道は少庵の子宗旦に引き継がれ、その孫により武者小路千家・表千家・裏千家の各家が興され現在に至っている。この「麟閣」は、少庵が会津に匿われていたとき、氏郷のためにつくったと伝える。戊辰戦争後は、茶人森川善兵衛宅で大切に保存されてきた。
Photo_20231224055301  会津若松市は、平成2年(1990)市制90周年を記念して、この麟閣をもとの場所に移築復元し後世に伝えようとするものである。Photo_20231224055302
 本丸広場の南東端、麟閣のすぐ南側に「荒城の月碑」がある。昭和21年(1946)土井晩翠を招いたある音楽祭で、名曲「荒城の月碑」作詞のモチーフが、会津鶴ヶ城と仙台青葉城にあったことがわかった、という。その翌年、有志により詩碑建設委員会が設立され、同年6月土井晩翠夫妻を招いて盛大な除幕式が行われた。詩碑には、土井晩翠直筆による「荒城の月」1番から4番までの歌詞が記されている。【完】

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秋の東北旅行(26)

会津鶴ケ城(中)
Photo_20231223055401  慶長3年(1598)氏郷の子 秀行は家中騒動のために下野国宇都宮に移封させられ、代わって越後春日山より上杉景勝が120万石で入封した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝は、徳川家康により出羽国米沢30万石に移封させられた。
 翌慶長6年(1601)蒲生秀行が再び入城したが、寛永4年(1627)嫡男に嗣子がないまま没したため、秀行の次男 忠知が後嗣となり伊予国松山に移封させられた。代わって伊予国松山から加藤嘉明が入封した。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、慶長16年(1611)の会津地震で倒壊した天守を、今日見られる層塔型天守に組みなおした。
Photo_20231223055501  寛永20年(1643)加藤明成は改易され、出羽国山形より3代将軍徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封した。以後、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
 慶応4年(1868)戊辰戦争最大の戦闘である会津戦争(会津城籠城戦)で、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され激しい砲撃を受けた。1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日開城した。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復はできず、しばらく放置された後、明治7年(1874)明治新政府により解体された。Photo_20231223055502
 現在の天守は昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造により、明治最初期の城取り壊し前の写真がイタリアなど外国に残っていたものを外観の参考にして、復興再建されたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されている。
 平成22年(2010)から、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ平成23年(2011)3月竣工した。

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秋の東北旅行(25)

会津鶴ケ城(上)
 鉄道で西若松駅に着くと、すでに先回りして待機していたバスに乗り、会津鶴ケ城に向かった。週末のためか道路が混雑していて、鶴ヶ城までのわずかな距離にかなりの時間を費やした。さいわいこのころには、わずかに降っていた雨もすっかりあがった。Photo_20231222062201
 鶴ヶ城は、会津若松市の市街中心の南側にある。鶴ヶ城会館の駐車場でバスを降りて、北出丸に向かう。そこから三峡濠を椿橋でわたって太鼓門を通り、城内に入る。
 天守閣は東側を向いていて、裏門を経て東側の本丸から入場することになる。この度は、見学時間も限られているので、天守閣と茶室のある麟閣のみを見てまわることにした。
 中世の至徳元年(1384)蘆名氏7代当主の蘆名直盛が東黒川館という館を建てたのが鶴ケ城のはじまりとされている。遅くとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)とその黒川を地名とする城下が成立していた。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖 盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
 天正17年(1589)蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を聞かずに蘆名義広を攻め滅ぼし、黒川城を手に入れて、米沢城から本拠を移した。しかし政宗は、翌天正18年(1590)に秀吉に会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。
Photo_20231222062301  代わって蒲生氏郷が文禄元年(1592)黒川城に入った。蒲生氏郷は、城を大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。町の名を黒川から「若松」に改めた。
 翌文禄2年(1593)望楼型7重(5重5階地下2階)の壮大な天守が竣工し、「鶴ヶ城」と名づけた。当時は城に名前を付けることは一般的ではなかったが、それまで伊達政宗が居城していたことを一掃したかったとも推測される。これが「鶴ヶ城」の名称のはじまりであった。以来今日に至るまで、地元ではもっぱら「鶴ヶ城」と呼ばれている。
 ただ、昭和9年(1934)国が城を史跡として指定するにあたり「城跡は地名を用いる」という規定にしたがって、国指定の史跡としては「若松城跡」となったので、行政としては「若松城」「会津若松城」と呼ぶことが多いという。

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秋の東北旅行(24)

湯之上温泉駅から西若松へ
Photo_20231221061801  大内宿から山を下ると、茅葺屋根の駅として最近テレビ番組などで紹介されている、有名な「湯野上温泉駅」に来る。会津鉄道会津線の駅である。茅葺き屋根の駅舎となっていて、駅名標には「江戸風情と湯けむりの里」とある。茅葺き屋根は、最寄りの観光スポットである大内宿の街並みになぞらえて第三セクター転換後に葺かれたものである。待合室には茅の虫除けのためにも必要な囲炉裏があり、有人時間帯には火が入れられている。また、駅舎のすぐ外には、足湯がある。
これらの特徴から平成14年(2002)東北の駅百選に選定された。Photo_20231221061802
 1時間に1本か2本程度の便数の駅だが、この駅から会津鉄道会津線で西若松駅まで30分程度の鉄道の旅となった。
 この路線は、しばらく阿賀川に沿って走る。
 はるかに栃木県と福島県の県境に位置する荒海山(太郎岳)に源を発する阿賀川は、福島県を西に流れ新潟県に入ると阿賀野川となる。奥羽山脈の尾根近く、わずかに西側に流れる阿賀川は、福島県の会津地方を日本海側に導く川ともいえる。福島県内では南会津から大川ダムを経て会津盆地に流れ込む「大川」として地域住民から愛され、人々の暮らしと密接につながる川とされる。
 Photo_20231221062001  盆地を抜け出ようとする会津西部で、猪苗代湖から流下した日橋川と、尾瀬沼から流れ出た只見川と合流し、流量を増しながら山間部の渓谷を縫うように西を目指す。かつて会津地方への塩や海産物は日本海から阿賀野川、そして阿賀川を船で運ばれたという。阿賀川は会津にとってなくてはならぬ命の道であった。
 この会津鉄道会津線から見下ろす阿賀野川渓谷がひとつの観光スポットであり、列車はそのハイライトの付近で徐行してくれる。しかしカメラのシャッターチャンスはそんなに長くなく、私は一枚だけしか撮影できなかった。

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秋の東北旅行(23)

大内宿
 裏磐梯から猪苗代湖の西側をまわって、野口英世記念館を遠く眺めて、猪苗代湖の南南西にある大内宿に来た。
 大内宿(おおうちじゅく)は、奥羽山脈山中の1000メートル級の山々に囲まれた標高660メートル前後の小規模な盆地の東端に立地する旧宿場町である。江戸時代の会津若松と日光・今市を結ぶ幹線道路たる下野街道(会津西街道)の「半農半宿」の宿場町であった。廻米をはじめさまざまな物資の輸送、また会津藩主の参勤交代など、会津藩の重要な道路として繁栄した。Photo_20231220061501
 明治11年(1878)女性単身で日本各地を探訪した探検家・紀行作家・写真家・ナチュラリストであったイギリス夫人イザベラ・バードも、ここを訪れたという。
 明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、大内宿は、江戸時代と変わらぬ茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ集落の通称、あるいは観光地名として、現在も受け継がれている。昭和56年(1981)重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
Photo_20231220061601  保存地区は旧街道に沿った旧宿場を中心とする南北約500メートル、東西約200メートルの地区である。
 町並みの特徴は、茅葺寄棟造りの建物が道路と直角に一定の間隔を空けて整然と並べられていることである。主屋は道路から空地を設けて敷地の北側に後退して建てられ、南側は余地を置いて奥の土間入口への通路となっている。蔵や納屋は、主屋の奥に建てられている。
 主屋の多くは江戸時代後期から明治時代にかけて建築されたもので、道路側に半間幅の縁側をつけ、その奥の二間を座敷としている。
 道路の中央には広い溝が設けられ、宿場の用水路として利用されていたが、明治19年に埋め立てられ道路の両側に側溝が掘られ洗い場を設けるなどの変遷があった。
 この町並みの様式は、会津およびその周辺の地域に見られたこの地方独特の宿場形態の典型的なもので、その多くが失われた現在、往時の姿を残す貴重なものである。
 大内宿に入るまでは、雲間から太陽がときどき覗いて晴れ間もあったが、山を登り大内宿に入ると、小雨が降り続いた。いささか天候に恵まれなかったものの、江戸時代そのままのようなゆったりした茅葺の宿場町の景観は、とても印象に残るものであった。

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秋の東北旅行(22)

五色沼と裏磐梯
 裏磐梯の檜原湖に面した景勝のホテルに泊まって、翌朝五色沼を訪れた。Photo_20231219055801
 五色沼は湖沼群で、檜原湖から東に延びる3.6キロメートルの自然探勝路のまわりに点在する大小30ほどの湖沼からなる。この湖沼群は、檜原湖などの湖と同じく、明治2年(1888)の磐梯山大噴火のときに発生した岩なだれによって川がせき止められてできたものである。
 これらの沼の多くは、磐梯山の火口付近にある銅沼に端を発する地下水を水源としている。そのため、火山活動による硫化水素を大量に含む水により、湧水の水質が強い酸性となる沼もいくつかある一方で、檜原湖や磐梯山の深層地下水などが混入している湖沼もあり、水質が多様に沼ごとに異なっている。
Photo_20231219055901  五色沼湖沼群は、その水質や生育植物のバラエティにより、青く透明度が高い沼、赤色の強い沼、など水の色が多彩であるので五色沼と呼ばれてきた。
 一番大きな沼である毘沙門沼の湖畔から、裏磐梯を望む展望台がある。残念ながら,この朝は天候が良くなくて、裏磐梯の有名な爆裂火口を展望することはできなかったが、景勝地であることはよくわかった。

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秋の東北旅行(21)

立石寺(下)Photo_20231218054801
 元禄2年(1689)松尾芭蕉が奥州への旅の途中に訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に記されている。この地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑がある。昭和47年(1972)には、松尾芭蕉と子弟の河合曽良の像が建てられた。
Photo_20231218054901  この日は、小雨の降る寒い日となり、時間の制約もあって奥の院などへの参拝・見学はできなかった。
 近くに建つ日枝神社は、立石寺の開山にあたり、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し守護神としたお社である。江戸時代までは山王権現といわれ、明治維新から村社となって、大山咋尊(おおやまくいのみこと)を祭神としている。

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秋の東北旅行(20)

立石寺(上)
 角館から一路東北自動車道で横手、湯沢、尾花沢を経て、立石寺に来た。
 立石寺(りっしゃくじ)は、山寺(やまでら)の通称で知られる天台宗の仏教寺院で、本尊は薬師如来である。詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。
 寺伝では貞観2年(860)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされているが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期はむしろ貞観2年よりもさらに遡るものと推定されている。
 根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所とされて寺は栄えた。本尊薬師如来坐像は元久2年(1205)に修理されており、この時に本堂の修造が完了して十二神将像を造立した。後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗している。しかし延文元年(1356)源氏の斯波兼頼が羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。Photo_20231217094101
 文明14年(1482)伝説的水墨画家 雪舟等楊が、この地を訪れ写生したとの記録がある。
 大永元年(1521)この寺は天童頼長の兵火を受けて全焼した。その前年の永正17年(1520)頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦ったが、このとき立石寺が伊達側に加勢したことが頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたのであった。
 現存する立石寺根本中堂は、後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちのときには、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消失してしまった。天文12年(1543)天台僧円海は延暦寺に登拝し、再度分燈を受けた。元亀2年(1571)延暦寺が焼き討ちされ法燈が消失すると、その再建時には立石寺から延暦寺へと逆に分燈している。
 山形城主であった最上家は斯波兼頼を祖とし、立石寺と関係が深く、立石寺は最上家から庇護を受けていた。最上義守の母 春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる戦国期奥州の雄 最上義光(よしあき)も立石寺を厚く保護した。義光時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられていた。最上氏歴代の立石寺への崇敬と保護は、最上氏が改易される元和2年(1622)まで続いていた。
 最上家改易後は大きな庇護者を失ったものの、この頃から広く信者を募り広域的な信仰の広がりを見せ、全盛期の江戸時代初期には2800石の朱印地・僧房100寺・僧侶300余人を擁したと伝える。

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秋の東北旅行(19)

明治維新以降の角館
 佐竹氏久保田藩は戊辰戦争で、東北の藩としては珍しく新政府側に立ったことから、奥羽越列藩同盟に参加した仙台藩をはじめとする周辺諸藩から攻撃を受けることとなった。明治元年(1868)8月末、列藩同盟側が角館の目前まで迫った。角館側は西国諸藩の応援を得て、町の南を流れる玉川を盾に防戦し、二日間にわたって猛攻撃を凌いだ。しかしその後も戦局は好転せず、周辺の久保田藩側の拠点も次々と奪われ角館は次第に孤立し、武器弾薬や生活物資の不足も甚だしくなった。角館の放棄さえも取りざたされるほどになったが、9月中旬から東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見た列藩同盟側が、久保田藩領からの撤退をはじめた。戊辰戦争では藩内各地が戦場となったが、こうして角館はかろうじて戦禍をまぬがれた。
Photo_20231216211801  角館は藩政時代を通じて仙北郡の政治経済の中心地であったが、明治4年(1871)の廃藩置県以降その地位を喪失した。新政府体制下の区役所や郡役所は少し南に位置する大曲に置かれ、郡の中心地は大曲へ移った。
 角館に転機が訪れたのは昭和51年(1976)であった。明治の近代化の影響を受けず残されてきた武家屋敷地区一帯6.9ヘクタールが「重要伝統的建造物群保存地区」として指定され、それを契機に多くの観光客が訪れるようになった。平成9年(1997)の秋田新幹線開業で観光客はさらに増加し、年間200万人を超えるようになった。

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秋の東北旅行(18)

岩橋家
 建物のなかには入れなかったが、町並みの少し南に岩橋家という武家屋敷がある。Photo_20231212053701
 岩橋家は、佐竹北家組下86石の中級武士の屋敷である。
 岩橋氏は元来蘆名氏の家臣で、主君蘆名盛重が天正17年(1589)奥州で伊達政宗に敗れたため、常陸国一国を支配していた実兄佐竹義宣を頼って常陸国江戸崎に入り45,000石を与えられたとき、岩橋氏も主君にしたがって江戸崎に移住した。
Photo_20231212053801  その後、関ヶ原の戦いで佐竹氏は出羽に移封となり、これにしたがった蘆名氏も出羽に移って、角館15,000石を与えられた。そのとき岩橋氏は、一時江戸崎を退き津軽氏に300石で仕えていたが、元主君の角館居住とともに再び蘆名氏に帰参し、角館に移住した。しかし、承応2年(1653)蘆名氏が断絶したので、代わって角館所領(あずかりどころ)となった佐竹北家の組下として86石で廃藩に至るまで仕えた。
 この建物は、もとは茅葺であったが、幕末ころに木羽葺(こばぶき)に代わったという。

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秋の東北旅行(17)

角館武家屋敷・石黒家(下)
 明治維新になり家禄を離れたが、八代目直信、九代目直幹、十代目直豊の三代にわたって次々に田畑・土地を買入れ、大地主の地位を確立し、町内屈指の財力を蓄えた。以後、昭和時代のさきの大戦後の農地解放まで、この地の大地主であった。Photo_20231211055601
 大地主には必需品であったという「唐箕(とうみ)」という農機具も展示されている。回転する羽根で風を送り、穀物の実と籾殻を拭き分ける木製の機械である。米を蓄える蔵もある。雪国では除雪しなくても物を出し入れできるよう、蔵を母屋に隣接させ、入口を母屋の壁面に接続して建てられている。
Photo_20231211055602  屋敷は茅葺であるが、山間部に立地するため茅材としては芒(すすき)を使用している。家屋の骨組みは、この地に積雪が多く、また丈夫な竹が自生しないため、雑木を用いている。現代では、材料も職人も不足がちで、家屋の維持が困難になってきているという。
 角館城主初代佐竹義隣は京の公家高倉家からの養子であった。また、二代佐竹義明も公家三条西家一門の娘を正室に迎えたことから角館には多くの京文化が移入された。高倉家は衣紋道の家元であり、三条西家は歌道と香道の家元であった。角館には小倉山などの京にちなんだ地名が見られるが、公家の出である義隣が京を懐かしんで付けたものだといわれている。

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秋の東北旅行(16)

角館武家屋敷・石黒家(上)
 町並みのいちばん北に近い石黒家の屋敷を見学した。Photo_20231210054901
 蘆名氏の支配は3代続いたが、承応2年(1653)蘆名千鶴丸の死により蘆名氏が断絶し、代わって明暦2年(1656)佐竹氏の分家である佐竹北家の佐竹義隣(さたけよしちか)が角館に入り、以降明治まで11代続いた。
 したがって角館の武士は藩主直臣ではなく陪臣(家臣に仕える武士)であったので、総じて家禄も低く、比較的質素な暮らしぶりであった。
Photo_20231210055001  石黒家は、もとは越中(富山)の武士であったが佐竹氏の家臣に召抱えられ、江戸時代前期の明暦2年(1655)この地に佐竹北家の義隣が角館所預(城代)3,600石を領することになったのに従ってこの地に移住してきた。職務としては、財用役あるいは勘定役を勤めた。Photo_20231210055002
 また石黒家は、学者や文人を輩出した家として知られ、儒学・漢学の他、医学・和算・暦学を治める者が相次いで出た。毅堂と号した石黒隼人祐は漢学者として明治期まで活動した。この町で初めて種痘を行った医師高橋痘庵も、この一族の出であった。
 幕末ころからは、絹、菅笠、樺細工(かばざいく、桜皮細工とも書く下級武士の手内職)などの殖産にも積極的に取り組んで、財力を蓄えた。

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秋の東北旅行(15)

角館
 角館は戦国時代には戸沢氏の本拠地であったが、関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)戸沢氏は転封し、佐竹氏が秋田に入部すると久保田藩(秋田藩)の支配下となった。翌慶長8年(1603)佐竹義宣の実弟である蘆名義勝が所預(ところあずかり)として角館を支配するようになった。Photo_20231209060101
 蘆名氏の入部当初は角館の城下町は、角館城があった小松山(現古城山)の北側にあったが、狭隘な上に水害や火災にしばしば見舞われたので、元和6年(1620)古城山南麓の現在の位置に町を移転した。現在地は、西の檜木内川(ひのきないがわ)が自然の堀、北が古城山の丘陵地、東には小残丘が点在して南にひらけ、南西側は檜木内川と玉川が合流し、天然の要害をなしている。
Photo_20231209060102  新しい城下町では、道路の幅員を当時としては珍しく25メートルにまで広げるとともに、交差点をずらして見通しを避け、下水を整備した。火事対策として、南北に細長い町を東西に貫く形で中央に土塁を築いた「火除け地」をつくり、その北側、すなわちお城に近い地域を武士の居住区たる内町、南側を町人の居住地たる外町として区分けした。
 この度の訪問では、私たちは観光時間が限られていたので、内町の武家屋敷の一部を中心に見学した。

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秋の東北旅行(14)

田沢湖畔のたつ子像と秋田駒ヶ岳
 国道46号線は、雫石、仙岩トンネルを経て田沢湖の東岸に向かう。湖畔に至ると、そこからは湖の南岸をまわって西岸に至る。Photo_20231208060101
 田沢湖(たざわこ)は、日本で最も深い湖であり、日本で19番目に広い湖沼でもある。180~140万年前の爆発的噴火によるカルデラによってできたと推測されている。その全域が田沢湖抱返り県立自然公園に指定されており、日本百景にも選ばれている景勝地である。
 西岸でいったんバスから降りて、「たつ子像」を観光する。
 「たつ子像」は、この湖にまつわるたつ子(辰子とも書く)の伝説による。田沢湖のほとり神成村にたつ子という名の娘がいた。たつ子は類いまれな美しい娘であったが、その美貌に自ら気付くと、いつの日か衰えていくのであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになった。たつ子はその願いのために、村の観音さまに百夜の願掛けをした。その必死の願いに観音さまが応え、山深い泉の在処をたつ子に教えた。たつ子はそのお告げにしたがって泉に行きその水を飲むと、激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。狂奔するたつ子の姿は、いつしか龍へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟ったたつ子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった、という。
すでに日没になっていてすっかり薄暗いけれども、さいわい絶好の好天で、湖水をはさんで対岸の遠くに秋田駒ヶ岳を望む景観はたしかに美しい。

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秋の東北旅行(13)

中尊寺から田沢湖へ
 中尊寺を出て、平泉前沢ICから東北自動車道に入り、一路盛岡ICへ北上する。引き続き北上山地と奥羽山脈の間のドライヴである。
 盛岡ICに近づく頃から、前方の北西方向にきれいな山が見えてくる。岩手山(いわてさん)である。二つの外輪山からなる標高2,038メートルの成層火山である。青森県から岩手県を経て福島県に連なる奥羽山脈の岩手県域北部に位置する岩手山は、岩手県の最高峰であり、本州でこれ以北にもっと高い山は存在しない。東の盛岡側から見る姿は富士山のように長い裾野を引く整った形で「表岩手」と呼ばれる。南の雫石町や北の八幡平市松尾方面から見ると、外輪山の連なりが凹凸をなし「裏岩手」と呼ばれている。Photo_20231207060601
 盛岡ICから高速道路を降りると、国道46号線で田沢湖に向かう。東北の他県も同様だが、このあたりはとくに最近、野生の熊が出現して、農地を食い荒らしたり、場合によっては住民に危害を与えるという。原因としては、熊など野生哺乳類のエサであるブナの実が、ブナの不作により不足してきたという。ブナの木は、人間にとっても古くから漆器の椀や皿の材料として、またキノコ栽培の原木として、近代からは鉄道の枕木の木材、合板の基材、家具の材料、さらに紙パルプなど、多方面に利用されている。母の木Mother Treeとまで呼ばれることがあるらしい。この不作の原因が、いまはやりの地球温暖化という輩もいるらしいが。

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秋の東北旅行(12)

中尊寺(下)
Photo_20231206055501  金色堂の脇にひっそりと芭蕉句碑が建っている。松尾芭蕉は元禄年間にこの金色堂に立ち寄り、「五月雨の降のこしてや光堂」という句を詠んだ。そして数十年後の延享3年(1746)この芭蕉句碑が建てられた。
 金色堂から境内を少し歩いたところに、本堂がある。
Photo_20231206055601  本堂は、中尊寺の法要儀式の多くが執り行われる根本道場である。堂内には天台宗改組たる伝教大師最澄が1200年前に灯した「不滅の法灯」が護持されている。本尊は平成24年(2012)新たに開眼した釈迦如来像で、東日本大震災の後、東北に生活する人々を慈悲の眼差しで見守っておられる。
 境内は、たしかに紅葉の季節を迎えていたが、今年はこの地でも残暑が厳しかったのか、鮮明な美しい紅葉というには、いささか物足りなかった。

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秋の東北旅行(11)

中尊寺(上)
 中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院である。本尊は釈迦如来である。寺伝ではこの中尊寺もやはり慈覚大師円仁の開山とされているが、実質的な開基は藤原清衡であった。奥州藤原氏三代ゆかりの寺として高名であり、平安時代の美術・工芸・建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財がある。Photo_20231205055201
 境内は「中尊寺境内」として国の特別史跡に指定され、平成23年(2011)「平泉(仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群)」の構成資産の一つとして世界遺産に登録された。
 私はこの中尊寺を13年前、会社勤務を引退した年の夏に訪れたことがあったが、大部分を忘れてしまっていた。
 平泉町営駐車場でバスを降り、ガイドさんの先導で緩やかな坂道を登る。途中で標示板にしたがって右折すると、中尊寺の細長く広大な境内に入る。
 先ず、経路の関係で一番近い讃衡蔵(さんこうぞう)に入る。中尊寺ほか山内寺院の文化財や宝物を収蔵・展示する施設で、奥州藤原氏三代の事績、建物の説明、宝物の展示などを見る。昭和30年(1955)開館したが、現在の建物は開山1150年の2000年に新築されたものである残念ながら撮影禁止である。
 次は、いよいよクライマックスの金色堂である。
 奥州藤原氏初代たる藤原清衡が天治元年(1124)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平 安時代の浄土教建築の代表例であり、当時の技術の粋を集めたものとして国宝に指定されている。金色堂は、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルのごく小型の仏堂であるが、まさに金色一色の豪華な見事なお堂である。
Photo_20231205055301 正面の柱間すべてと、側面の前端の間、背面の中央の間を板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁である。柱は円柱で、地長押、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)を用い、組物は三斗、中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)である。屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きである。建物周囲には縁をめぐらすが、高欄や階段はない。内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側を外陣とする。間面記法(けんめんきほう)で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築である。内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇を、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。
 須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には処刑された泰衡の首級も納められているという。遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていた。このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡とその子孫の遺体を安置する墓堂、廟堂としての性格を有している。Photo_20231205055501
 金色堂は、昭和40年(1965)改築完成した鉄筋コンクリート造の覆堂(ふくどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されている。覆堂の前身が金色堂旧覆堂であり、現在は100メートルほど北西の場所に移築されて残っている。これは正応元年(1288)の棟札により、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、この覆堂が建てられたとされてきた。しかし近年の調査で、金色堂建立後50年ほどのとき、すでに簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て、室町時代(16世紀)に現在の形になったとみなされている。昭和38年(1963)新覆堂の建設着工にともないこの場所に移されたのである。

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秋の東北旅行(10)

松島から中尊寺へ
Photo_20231204054501  松島を出て、国道を北西に進み東北自動車道に入る。その古川ICがある付近は大崎市で、大崎市付近の平野部は大崎平野とも呼ばれている。ここは懐かしいブランド米「ササニシキ」の故郷である。この平野には宮城県古川農業試験場があり、ササニシキやひとめぼれなどのブランド米を生み出したところである。ササニシキは昭和38年(1963)宮城県立農業試験場古川分場(現 古川農業試験場)で、「ハツニシキ」(「奥羽224号」)を母、「ササシグレ」を父として交配し誕生したものであった。ハツニシキもまた、昭和29年(1954)に同じ宮城県立農業試験場古川分場で開発した新品種であった。ハツニシキはコシヒカリと同じく「農林1号」と「農林22号」を交配した品種であり、ササニシキとコシヒカリとは親戚品種に当たる。私も未成年のころに、「ササニシキ」が有名なブランド米であったことを覚えている。
Photo_20231204054502  古川ICから入って東北自動車道を一路中尊寺まで北上するが、この間右手に遠く北上山地を、左手に遠く奥羽山脈を眺めながらのドライヴとなる。
 中尊寺に近づくと、栗駒山が左手遠くに見える。道路脇の樹木やフェンスでシャッターチャンスを逃してしまった。栗駒山は、山体が宮城県・秋田県・岩手県の三県にまたがる標高1,626メートルの休火山であり、山頂部は宮城県と岩手県の境界になっている。奥羽山脈に属し、焼石岳や神室山とともに栗駒国定公園や栗駒山・栃ヶ森周辺森林生態系保護地域として指定されている。私は、大学院修士課程を修了して会社勤務を始める寸前の学生時代最後の春休みに、東北旅行をして、その前の夏の北海道旅行で知り合った栗駒町在住の友人の自宅を訪れたことがあった。その家に1泊させていただき、翌日早朝から栗駒山に登山して、反対側の須川温泉から下山したのであった。懐かしい思い出である。

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秋の東北旅行(9)

洞窟遺跡群
Photo_20231203054501  参道の東側にある洞窟の壁面には多数の供養塔や五輪塔、戒名等が刻まれていて、供養場として使用されていたことが窺える。
 松島は古来より「奥州の高野」と呼ばれていて、亡き人の供養が営まれた場所でもあった。
 供養者には岩手、山形など県外の人物も認められ、霊場としての松島が広く認知されていたことがわかる。
 現在残る最も古い供養塔は、寛永13年(1636)伊達政宗に殉死した佐藤吉信(法得紹隆禅定門)のもので、他に残る供養塔もそれ以降のものであることから、現在のような形となったのは江戸後期のことと推測されている。

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秋の東北旅行(8)

法身窟
 法身窟(ほっしんくつ)は、受付所の左手にある岩窟で、鎌倉時代半ばに宋から帰国した真壁平四郎(後の法身性西禅師)と、諸国行脚中の鎌倉幕府執権北条時頼が出会ったところと伝えられている。Photo_20231202055001
 この出会いの後、北条時頼は伽藍を整備し、法身禅師を開山に迎えて臨済宗円福寺を開創した。現在まで続く臨済宗寺院としての始まりの地であり、瑞巌寺にとって大切な場所とされている。
 正安2年(1300)京都嵯峨天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れたとき、無人の洞窟内から天台止観(止は三昧、観は智慧であり、仏教瞑想はこの2つから成るとされる)を講ずる声が聞こえたと伝える。
 洞窟の手前右に「楊柳観音」、左に「鎮海観音」の石碑があり、いずれも塩竈出身の画家小池曲江(こいけ きょっこう、宝暦8年1758年~弘化4年1847)が両観音像の画を模写して制作した。

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秋の東北旅行(7)

中庭
Photo_20231201055201  上段の間、仏間から羅漢の間、墨絵の間を経て、視界の開けた廊下から見えるのが、中庭である。平成30年(2018)瑞巌寺修築の落慶法要に合わせて整備された。
 既存の庭に使用されていた材料を活かし「松島に息づく文化・瑞巌寺が歩んできた歴史・宗旨の根幹をなす禅」という、瑞巌寺にとっての大切な三要素が共鳴するように作庭されている。水源は命の源であり、発展の源でもある。滝から流れ出た水が松島の豊かな島々を育み、鎌倉から桃山へ連綿と受け継がれてきた歴史・文化・自然の中で、僧侶が坐禅をする姿を表しているという。

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